和解の鍵は湯船にあり
窮地に立った人間が、己の身を守るべく思い立った最終手段。
透陽は意を決して後ろに飛びのく。
そして、膝を折りながら、大きく振りかぶって、叫んだ。
「すいませんでしたあっ!」
その音がぐわんと捻じ曲がるかと思うほどの勢いで、上体を地面に投げ出した。いわゆる、「土下座」のポーズだ。
「ほんっと、失礼しました! なので、命だけは! 命だけはお助けをっ……!」
プライドも、羞恥心も、何もかも投げ出して、命乞いをする人間の男。
そんなものを見せられては、怒り狂っていたシャグマもフリーズする。もちろん、呆れ顔で、だ。
振り上げたままの爪は、目標を見失っていた。許したというわけではないが、情けない姿をさらす透陽には、もはやそれを突き立てる気にすらなれない。
ばつの悪さと、憐れみが混じった表情を見せながら、シャグマは八つ当たり気味に地面をえぐった。土埃と共に、青々しい草が舞い上がる。
「はん! 人間の男ってのは、情けないもんだな! これに懲りたら、二度とあたしに手を出すなよ!」
捨て台詞を残し、シャグマは身を翻した。
透陽は恐る恐る顔を上げる。
彼女は背中を丸めて、のしのしと歩いて去っていく。その独り言が、透陽の耳に届いた。
「……ったく。熱い風呂ならともかくよお。あんなちょびっとの湯かけられたところでよお」
透陽は目を見開いた。――それだ!
彼はそっと、丁重にシャグマの名前を呼んだ。
すると、不機嫌な面持ながらも、彼女は振り向いてくれた。
案外素直だな。そんな感想を抱きながら、透陽は下手に声をかける。
「あの、もしかして、シャグマさん。お風呂がお好きなんですか?」
「……まあな。どうせ浸かるなら飛び切り熱いのだ」
「でも、こんな山の中じゃあまりお風呂も無いでしょう」
「だな。ま、たまに人も来ないような温泉に浸かりに行くくらいだよ。ああ、いいねえ、話してたらのんびりやりたくなってきた」
口角を上げるシャグマの表情。しめた、と透陽は思った。
「あの……。俺の家で良ければ、湯船貸しますよ?」
「マジか! って……何か企んでんじゃねえのか?」
腕を組んで怪訝な表情を見せるシャグマに、内心ひやりとする。
が、どうにか笑顔を取り繕った。乾いた笑い声を上げながら、必死で弁明する透陽。目は泳ぎっぱなしだ。
「まさかあ! 俺はただ、悪いことしちゃったから、その謝罪の意味で、何かできたらなーって」
「ほんとかあ?」
「ホント、ホント! 俺、嘘つかない! ただキノコの皆さんと仲良くやれたらいいと思ってるだけですって!」
確かに嘘は言っていない。仲良くやりたいのは本心だから。
引きつった笑顔だが、どうにかごまかしは上手く行ったらしい。
シャグマは毒気の抜けた顔で、にっと笑う。
「ふーん。なんだよ、てめぇ意外と良い奴じゃん! えーと、トウジだったか?」
「トウヒ!」
もはやわざとやっているのではないか。そう思ったが、細かいことはどうでもいいと笑っているシャグマの機嫌を損ねないよう、余分な口は慎む。
何はともあれ、ミッションがうまく行く希望が見えて来たのだから。
シャグマをいかに家へ連れ帰るか。それには深く悩まなかった。
昨夜、モリーユとコニカは、透陽が持ち帰ったトガリアミガサタケが落とした胞子を辿って、彼の家までやってきたのだ。それをそのまま実行すればいい。
風を浴びながら透陽は自転車を一生懸命漕ぐ。そのハンドルには、草の蔓でシャグマアミガサタケの子実体が括り付けられていた。
こうすれば、見えない胞子の路を辿ってシャグマは自分の家にやってこられるだろう。
という算段だったのだが。
「いやー! すげえなあ、人間の乗り物って! 早いし、風が気持ちいいし!」
シャグマの大声が、透陽の耳元で響く。背中に密着する彼女は、ずっとこんな調子ではしゃぎっぱなしだ。
透陽は鼓膜を打つ響きに辟易しながら思った。人生初の異性との自転車二人乗りは、もっとのんびり優雅で、ロマンがあるべきものじゃないか、と。
鋭い爪でしがみつかれて、時々腹のあたりがちくちくするのもテンションを下げる要因だ。
とにかく早く家に辿り着きたい。透陽はむすっとした顔で、黙々と疾走を続けた。
汗だくになりながら家に辿り着く。自分も先にシャワーの一つでも浴びたいところだったが、ここは客人に譲るべきだ。
初めて訪れるだろう人間の部屋を興味深げに眺めるシャグマ。その依代であるキノコが大地と切り離されて力が弱まったせいか、少々大人しい。
彼女を待たせて、透陽は湯船の準備をする。と言っても、湯加減など考えず、熱湯をためるだけだったが。
「おまたせしました。どうぞ、ごゆっくり」
「おっ、やったね!」
シャグマは口笛と共に、跳ねるように浴室に向かう。
扉を閉めかけて、しかしもう一度顔を覗かせた。
「……覗かないでよ?」
「そんなことしないよ」
怖いし、と内心で言葉を続けながら、不敵な笑みを浮かべて引っ込むシャグマの顔を見送った。
しばらくガサゴソとしていたが、すぐにシャワーの音が響いてきた。ついでに、鼻歌も。
平時の透陽ならば、どうやって精神的存在であるキノコの娘が現実世界の物体に干渉しているのか考えているタイミングだ。
だが、山での惨状を経験した以上、そんなことはどうでもよかった。きっと気合いさえあればどうにかなるんだ。その程度で軽く流す。
そう、小さなことであれこれ思案している暇はないのだ。透陽にはやるべきことがある。
モリーユとコニカから頼まれた、三人の仲の修復。
透陽は声を張り上げた。
「シャグマさん! ちょっと俺、急用で出かけて来るから。鍵はかけてくから心配ないし、ドライヤーとか部屋のものも使っていいから、ゆっくりしていってくれよ」
「おー! ありがとーう」
湯気で満たされた閉鎖空間から、上機嫌な声がした。
動くなら、今しかない。
透陽は一目散で玄関から飛び出した。
再び自転車で爆走する。次に目指したのは、大学のキャンパスだった。
坂の途中の駐輪場に自転車を止め、今度は自分の足で疾走する。
辿り着いたのは、サークル棟の横の空き地だ。そう、モリーユとの出会いの場所。
だが、今日は二人の姿は見えなかった。調子外れな歌声も無い。
草地をきょろきょろと見渡す。
コニカこと、トガリアミガサタケはすぐに見つかった。桜の花びらを頭につけて、めかしこんだように立っている。
相変わらず普通のアミガサタケは見つからないが、ここに居ることは間違いない。
透陽はしゃがみこんで、小声で言葉を紡いだ。
「コニカ、モリーユ、聞こえるか? シャグマが俺の家に居るから、また昨日みたいに胞子を辿ってきてくれないか? なるべく早く、二人一緒に。その……『毒抜き』はしてみたから。多分、大丈夫だと思う」
大丈夫だ。そう復唱した。
そして、そっと手を伸ばして子実体を摘み取る。はらりと舞う花びら。
ふう、と息を吐き、透陽はまた駆けだした。
まるで逆再生をするかのように、来たときと同じように、疾走と疾走を重ね、家に帰ったのだった。
左手にはキノコ。そして、右手でそっと自分の家の玄関を開く。果たしてシャグマはまだ居るだろうか。緊張が走る。
シャワーの音、水の音は聞こえない。むわっとする熱気が覗いた顔を打った。
だが、誰かがいる気配はある。ようやく透陽は胸を撫で下ろした。どうにか間に合ったらしい。
安堵の息と共に、声が漏れた。
「……ただいま」
「おっ、おかえり!」
軽やかな声と共に、扉を挟んだ奥の部屋から人影が現れた。
が、その姿を見て、透陽は愕然としたのだった。