人無き森に名を呼ばわり
「あー……疲れる」
奥羽透陽は林内を彷徨っていた。ほぼ獣道に近い林道を登り行く。もちろん、全方位に神経を尖らせながら。
樹木立ち並ぶ里の山。春の木漏れ日は心地よい。
地面には愛らしい白や青の花が咲く。太陽の光を浴びて、土そのものから活力が発せられている気すらしてくる。そして天上には鳥の声。多少羽虫が多いことさえ目を瞑れば、森林浴としては最高のロケーションだ。
が、昼前にして既に二か所目の行軍。足腰には疲労が蓄積している。額にはじんわりと汗も浮いていた。林内は涼しいのだが、ずっと歩き回っていれば話は別だ。
何か良いキノコでも出れば話は別なのだが、やはりベストシーズンは秋なのか。なかなか出会いがない。
ざくざくと足を進めると、前方にマツの樹らしき朽木があった。透陽は樹木にはからっきしだが、辺りに松ぼっくりが散乱していれば、そうと疑う余地はない。
その朽木に異物感を見てとった。透陽のキノコ目が焦点をそこに合わせていく。
(キノコだ!)
心の中で雄叫びを上げながら、努めて平静に朽ち木に歩み寄った。
しゃがみこみ、近くでよく観察する。
ひょろりとした細長い柄に釣鐘のような傘。指先ほどの大きさしかない、比較的小型のキノコだ。
茶色の濃い色目だが、透明感があってひ弱そうな印象を受ける。それが束になるようにわさっと発生していた。
こんなの、図鑑で見たなあ。そんな漠然とした記憶を頼りにしながら、持ち歩いていたポケット図鑑をめくり始める。
「えーっと……クヌギタケだったっけ。……あ、載ってないや」
ぱらぱらとページを流しながら、早々に諦めた。はあ、と溜息をつく。携行できるような小さい図鑑では、掲載数が心もとない。おまけに有名どころや食用キノコ、間違えやすい猛毒キノコなどに偏っているのがいかんともしがたい。
こんなアンノウンなキノコは、ここまでにもちらほら見かけて来た。
とりあえず透陽はスマートフォンを取り出し、写真を撮っておく派だ。家に帰って調べられるように、と。
撮ったは良いものの情報が不足していて調べられずに途方に暮れることになるとは、この時はまだ微塵も考えていなかったが。
そう言えば。透陽はあることに気づいた。
朽木の傍にしゃがんでから、どうも空気の臭いが違う気がする。遠い昔の記憶に感じるものはあるが、どうにもその映像はぼやけている。
もしかして、このキノコのニオイだろうか。そんな発想に至って、おもむろに一本もぎとる。
そして躊躇いなく鼻に近づけた。
「ぐぇ! くっさ!」
顔のパーツを中央に寄せたようなひどい表情を見せながら、手のひらに合ったキノコを思わず放り投げる。
吐き気がしそうな嫌な臭い。薬、とりわけ塩素系の臭気がする。
ただ対価として、記憶の中に合ったこの香りの正体を透陽はつかんだ。これは保健室の臭いだ。
それがどうなるというわけではない。臭いものは臭いのだ。すっかり嗅覚は馬鹿になってしまった。
肺の中に残る悪臭を追い出そうと、透陽は鼻の穴をおっぴろげて荒い呼吸を繰り返していた。
それにしてもこのキノコの娘が近くに居なくて良かった。絶対に嫌われたぞ。そう、心の中で思いながら。
さて。雑多なキノコはちらほらみつかるが、肝心のシャグマはどこにもない。
「でも山に居るって言ってたもんな。居るんだよな、どこかに。滅茶苦茶広いんだけど」
尾根筋に築かれた林道にて、透陽は後ろを振り返る。歩いてきた道のりも、これから向かうその先も緑色の海だ。
無理難題を押し付けられてしまった気がする。透陽は頭を掻いた。
「もしかしたら……呼んだら出て来るとか?」
キノコが返事をするわけがないだろうに。と一笑にふすことができないのが透陽の能力だ。
もし声が聞こえたら、出てきてくれるかもしれない。
透陽は息を大きく吸い込むと、手でメガホンを作って力の限り叫んだ。
「シャグマさーん! おーい! いたら返事してくれー!」
静かな山林に青年の声が反響する。
透陽は耳をそばだてていた。何か反応は無いかと。
だが返事どころか物音すらろくにしない。樹上で一羽の鳥がはばたき去って行った程度だ。
「ダメか」
やれやれと肩を落とした。どうやらこの辺りには居ないらしい。
場所を変えようと、透陽は歩みを再開した。だが声による探索は有効。その念が捨てきれず、ソナーのようにシャグマの名前を呼び続けながらだった。
そして今、彼は林道を下っていた。どうにも空振りらしい、場所を変えよう、と。
日当りよく下草も生え始めている明るい斜面を、あいも変わらず声を張り上げて歩く。さすがに喉が疲れてきて、回数は減ってきたが。
「シャグマさーん! 居たら出てきてくださーい!」
そして返答が無いのも変わらずだ。時たまどこの誰とも知らぬ娘のクスクス笑いなんかが聞こえるが、透陽が振り向くと、決まって彼女たちはばつが悪そうな顔で消えて行ってしまうのだ。会話すらできない。
ところが、今回は違った。
彼の前方にぬっと生き物の影が出現したのだ。ちょうど行く手を遮る大岩のように。
「うわっ!? びっくりした!」
「それはこちらの言うことよ、そこな人間。先刻よりやかましいのじゃ。このわたしの耳にもよく響く」
ひょうひょうとした声音で静かに語るその者は、閉じたままの目を透陽に向けて苦言を呈した。
頭の上には降り積もったホコリのような物体が。それに半ばうずもれるように、人ならぬ者の耳が生えていた。三角形で、内側はピンク色だ。
「……犬?」
「ホホ、それはまた面白い答えじゃ。だが、どちらかと言えば狐よのう」
指でキツネ型を作って見せながら、彼女は笑った。
するとキツネ耳が楽しげにぴこぴこと跳ねる。それにつられて、頭の上の塊が崩れて、塵となって辺りに舞った。透陽は溜まらずに咳き込んだ。
それにしても一体何者なのだ。人間でないことは明らかで、透陽の呼び声に応じて現れたのも確かなのだが。
「もしかして、シャグマさん……ではない気がする」
透陽は考える。これまで出会ったキノコ娘たちは、例外なく、本来のキノコの形状に似た姿をしていた。
目の前に居るキツネ娘は、図鑑で見たシャグマアミガサタケの画像とは全く結びつかない。
じっと耳を澄ませて静かに目を伏せていた謎の娘は、少しあやふやさを孕みながら、静かに口を開いた。
「わたしは埃原茶狐と申す者よ。アミガサ娘たちとは縁もゆかりも無い者。……お主の求める答えはこれでよいかの?」
「あっ、はい」
「済まぬがわたしゃ耳が遠くて。もう少しばかり大きな声で話してくれるとありがたい」
茶狐は湯呑を持ったまま肩をすくめると同時に頭を軽く下げる。どさりと頭にかぶった帽子の先端がホコリとなって煙を上げる。
耳が聞こえないのは、そのホコリが詰まっているせいじゃないのか。と、透陽は思った。
「ときに青年よ。シャグマの姐さんなら向こうだぞえ。この斜面沿いにずっと進むがよろし」
そう言って茶狐はオーバーな程に左腕を広げ、林道に交差する道なき方角を示した。
透陽は顔を綻ばせた。思わぬ出会いと思わぬ助言、僥倖だ。
ところが、茶狐は目を閉じたまま、何やら神妙な顔をしている。居場所を告げたことを後悔しているような、そんな面持ちだ。
「ただのう……」
「ただ?」
「このところはあの姐さんもなかなか気が立っておる。知っておろうが、冬眠から覚めた熊は恐ろしいからのう。命が惜しくば、下手に刺激せんことよ」
「熊? 俺が探してるのシャグマさんはキノコなんだけど」
「わからぬなら良い。まあ、通りすがりの狐の戯言じゃ。ホホホ……」
茶狐は悪戯者が見せるような笑みを浮かべて、湯呑を口に近づけた。
ずーっ、と言う緑茶をすする音が響いた。そして一拍おいて、気持ちのいい吐息が。
「ああ、やはりお茶は煎茶に限る」
その一言と満面の笑みを残して、茶狐は姿を消していく。徐々に透明に、まるで立体映像をフェードアウトさせたかのようにだ。
残り香のように漂っていたホコリも、あっという間に霧散して、済んだ山の空気が帰って来た。
透陽は大口を開けたまま、立ち尽くしていた。
「何だったんだ、今の」
思わず本音を漏らした。脳内に霞がかかったかのように、ぼんやりとしている。
だが、まとわりつく塵を振り払うかのように、彼は頭をぶんぶんと振った。居なくなったものを考えていても仕方がない、とにかく、今は先へ進むことがベストだ。
そして透陽は、茶狐に示された方向へと真っ直ぐ足を進めていた。
目標のシャグマアミガサタケ。その姿に執着するがあまり、狭くなってしまった彼の視野は見逃してしまった。足元にキノコが群生していることを。
力強く踏みつけた彼の足元で、次々とキノコの胞子の煙が上がった。
透陽が去った後に残されたのは、半分潰された形の、頭に穴をあけた丸いキノコ、ホコリタケたちだった。
キノコ目録
アクニオイタケ/キノコの娘未発見
春の訪れと共に、針葉樹の材上に発生する小型のキノコ。
クヌギタケ属には似た形態のものが多いが、このキノコの最大の特徴はニオイ。
あまり気持ちのいい香りではない。ヨードホルム様の臭い、消毒薬の臭いなどと表現される。
「悪臭茸」ではなく「灰汁臭茸」だ。
ホコリタケ/埃原茶狐
別名キツネノチャブクロ。球形でひだはなく、代わりに内部に胞子を作る。
成熟した個体では頭頂部に穴が空き、そこから胞子を吹き上げる。指で押したりするとはっきりホコリ状の胞子が目に見える程。
芝生に発生した場合、草を枯らす「フェアリーリング病」の原因となるため、忌避される。




