イチョウ並木と春のキノコ
その日、透陽は坂を駆けていた。大学へ続く丘の道。通学路を敷くため多少の開発されてはいるものの、まだまだ緑は溢れている。道の脇に立ち並ぶ木々は、ようやく新芽を吹き始めたところだ。
急いでいても木の根元やらしけった地面やらに目を向けてしまうのは、キノコ好きの性だろうか。透陽の目は、何気ない風景の中から違和感を見抜こうとするハンターの目のように光っていた。
「っ!? オレンジ!」
明らかに不自然な色合い。狩人の目はそれを見逃さない。足が止まった。
ちなみにキノコの娘の姿の方がうん百倍目立つのだが、彼女たちはどうやら常にキノコの近くに居るとは限らないらしい。その姿のみを探すのは愚策であった。
草場の影にちらりとみえたそれに焦点を合わせた。さて、一体何が出る。オレンジ系統のキノコもいろいろあるぞ。
透陽は胸をときめかせながら対象物に歩み寄る。
「……みかんの皮」
膨らんだ期待は一気にしぼんだ。どこかの悪戯者の鳥がやったか、不届き者がポイ捨てしたか。定かではないが、透陽にしてみれば割とどうでもいい。
すっかり肩を落としたその学生は、うなだれて回れ右した。仕方ない、大人しく大学へ行こう。
だが、振り返って顔を上げた瞬間、目と鼻の先に浮いている別の人物の顔が飛び込んできた。
気配すら感じなかった存在の登場。驚きのあまり心臓が止まりかける。
「ひ、わあっ!?」
情けない悲鳴と共に後ずさり。勢い余って尻餅をついた。
相手の女性はむっとした表情で透陽のことを見下ろしていた。黄緑色の目の玉に、不思議な赤い光が宿っている。
彼女は細い腰に両手を当てて、不満げに口を開いた。
「他人の顔を見て驚く、失礼ね」
「す、すいません」
「別に怒ってないワ」
外国人のようなクセのある日本語だ。少し早口で、油断していると聞き取りづらいか。
異国情緒を纏ったその相手の頭から足先まで見回す。
暗い褐色の髪は天をつく様に編み上げられていた。なかなか複雑な編み方をしているが、尖らせたかったのだろう先端が少々ひしゃげている。
首回りにはファーをあしらっているものの、他に身に纏っているのは、濃いベージュ色のワンピース一枚きり。春らしく薄手のそれは、彼女のスタイルのよい体にフィットする形状で、主に胸の二つの丘を際立たせていた。
いや、胸よりももっと男をどぎまぎさせるのは、長いスカートに入ったスリットだ。こともあろうに太ももの付け根まで。しかも、両サイドに、だ。
少し風が吹けばめくれてしまいそうな際どいライン。見ているこちらがはらはらする。
そして足元。生足どころか、裸足ではないか。
(あ、やっぱり人間じゃないや)
大学周りに出没したにしては破廉恥すぎる格好に薄々感づいてはいたものの、これで透陽は確信する。裸足で落ち葉つもる地面を歩く非常識な人間がいるわけない。
と言うことは、キノコだ。透陽にしか見えない、キノコの精霊のような存在。
それを確認するように問えば、彼女はにこやかに微笑んで、胸に手を当てた。
「ワタシはモリーユ・コニカ。ワタシが見えるステキなあなたのお名前は?」
「俺は奥羽透陽っていいます」
「オーウトーヒ。覚えたわ、トーヒね」
やはりイントネーションが日本語のそれとやや異なる。そう言えばキノコの国境は一体どうなっているのだろうか、と透陽は遠い目をした。
(それにモリーユ……聞いたことあるぞ)
脳内にインプットされたキノコ図鑑をめくる透陽。モリーユ、そんな異名のキノコがあったような。どんなのだったか。
確か、春になれば暖かくなって菌類も活動するんじゃないかと考えて、色々調べた時だ。そう、春のキノコで……。
鍵はコニカ嬢の外見。透陽が出会うキノコの娘たちは、当然ながら、実物のキノコに近しい姿をしている。だから彼女の姿と重なるキノコを思い出せば、その正体に近づけるはずだ。
目についたのは、コニカの編み上げた髪型。網状の頭――。知識の海に該当するものがある。それを掬い上げた。
「アミガサタケ! 君はアミガサタケのコニカさんだ!」
「ウィ、トーヒ。ジャポンの人間、そう言うネ」
コニカは瞼で弧を描いた。
ジャポン――日本ではアミガサタケと呼ぶキノコ、海外ではモリーユだとか、モレルだとか呼ばれている。
モリーユと呼んでいるのはフランスだったはずだ、と透陽は思い出した。そう、このアミガサタケというキノコ、フランス料理の高級食材だ。それゆえか、調べればどんどん情報が集まってくる。
とはいえこのフランス風吹かせたキノコと会話できるのは、世界広しと言えど何人いるのだろうか。彼女たちの姿を見抜く不思議な目を持つ人間が他に居るとは聞いたことあるが、実際に出会ったことは無かった。
食用キノコだろうが毒キノコだろうが、透陽にとってはあまり変わらない。食べるよりも、彼女たちとの交流を楽しむからだ。
「コニカさんはこんな道端で何してたのさ?」
「オウ。ワタシはジャンコ好きネ。だから、ここに居る」
「じゃ、ジャン?」
「ジャンコ。この樹の名前ヨ。トーヒは植物知らない?」
「あんまり」
そう言って透陽は頭上に広がる木々の枝を見上げた。ようやく芽吹きを始めたばかりの木、ほぼ裸だ。花でも咲いていればまだわかるのだが。
諦めて目線を下に落とす。すると、地上に落ちている枯れ葉の中に、特徴的な形状のものを見つけた。
「もしかして、イチョウ?」
「ジャポネ、そう呼ぶの聞いたことあるヨ。イチョーのギンナンって。ギンナン、ワタシ好きヨ。美味しいワ」
胸の前で両手を組みながら、楽しそうにコニカは語る。
だが、日本人・透陽にしてみれば、春にイチョウはピンと来ない。黄葉を楽しむにも、和の味覚銀杏を楽しむにも、季節がずれているではないか。
「イチョウは秋でしょ、やっぱり」
「ノンノン。樹は日夜生きているのでーす。その隣に居るのは、ス・テ・キ」
人差し指を立てて振ってそう言った。続けて、コニカはくつくつと笑った。
どうやら樹に寄り添うように暮らすキノコたちには、人間にはわからない、個々の木の魅力があるようだ。もしかしたら、彼女たちには樹が別の姿に見えるのだろうか。例えば、世界が羨む美男子だとか。
ところで、と、コニカが透陽に問いかけて来る。
「トーヒは何の樹がスキ?」
「そりゃやっぱり今は……サクラだね。俺も日本人だもの」
「マニフィック! サクラもステキです! モリーユもサクラが好きなのですよ」
目を見張った飛び切りの笑顔で喜ぶコニカ。
だが、その一方で透陽の頭には無限のクエスチョンマークが浮かぶ。
「モリーユ? えっと君もモリーユだから……? え、誰のこと?」
「オゥ、モリーユはワタシの妹分でーす! モリーユ・エスクレンタ、言うのです」
なるほど、と透陽は手を叩いた。
彼のこれまでの出会いの中で、親類たちは同じファミリーネームを名乗るのは理解していた。例えば先の春堀木蓮と椿もそうだ。もっと以前、秋には、アマニタ・ファミリーの面々にも出会っている。
だが、再び疑問符が浮かんだ。これまでのパターンからすると、彼女たちはお互いの名前で呼び合っていたからだ。ファミリーネームで呼ぶには、混乱するのでは。
「あれ? エスクレンタさんって名前なんだよね? そっちで呼ばないの?」
「ウィ、トーヒ。エスクレンタはもう一人……」
その言葉は最後まで言い切らない内にしぼんでいく。終始、大人びた笑顔を保っていたコニカの顔に、雲がかかってきた。
どうしたんだ。透陽は何か地雷を踏んでしまったのかと思った。緊張が走る。
だが楽しい会話が途絶えたことで、重大な問題を透陽は思い出した。
そう、通学途中であったのだ、彼は。慌ててスマートフォンを取り出して、時間を確認する。
さっと透陽の顔色が青くなる。尻を叩かれたかのように、跳ねあがった。
「やば……遅刻する……! ごめん、コニカさん。また!」
「アタンデ!」
全力で駆けだした透陽の足が、たたらを踏んで止まる。おそらくフランス語だろうその言葉。勘だが、「待って」と言われた気がした。
落ち葉を踏みしめながら振り返る。
視線の先ではコニカが立っていた。すらりとした体躯。しなやかな腕が動く。
彼女は口元に右手をやると、それをぱっと透陽の方に翻す。いわゆる、投げキッスという奴だ。
「オルヴォワール、トーヒ。ワタシ、好きよアナタ」
「あ、う、うん」
よくわからないが、何だか照れくさい。うぶな青年の顔は赤くなる。
もう行っていいのだろうか。わからないままそわそわしていると、コニカが小さく手を振った。
彼女流の別れの挨拶なのだろうか。透陽は様子を伺いながら後ずさりすると、それ以上何もないことを察して、回れ右して駆け出した。
キノコ目録
トガリアミガサタケ/モリーユ・コニカ
春に発生するアミガサタケ類の一種。黒褐色で網目状の尖った傘が特徴。
大変美味な食用菌として知られているが有毒成分も含む。生食では中毒するため、調理には要注意。湯でこぼすなどして十分な加熱を。
発生環境が特定されていない。サクラやイチョウの樹下に多いとされる。
近頃、分類的な見直しが浮上している。今後の動向に注目。