奥羽透陽とキノコの娘
ハクモクレンの並木を目指して、一人の青年が足を進める。男の身長はひょろ長く、見るからに生真面目そうな、どこにでもいる風の学生だ。彼は奥羽透陽、十九歳。今年度、めでたく大学一年生となったばかりの若者であった。
大学生時代というものは、往々にして人生に大きな影響を与える、大事な時間である。人生の岐路、とでも言うべきだろうか。透陽の場合、それを一年浪人後の某私大農林学部という道へ進むことに使った。理由は単純、キノコの勉強がしたい。それだけだ。
昨日はちょうど入学式の会場であったこの市民ホール。人の山だった過去が嘘のように、今日は閑散としていた。これ幸いだ、と透陽は心中で呟く。
彼の目線の先には、静けさに包まれて白色の花が咲き乱れる光景があった。
美しい。とは思う。しかし透陽には、あいにく独りぼっちで花見を嗜む趣味は無かった。目的は別のもの。
「居た居た」
その姿を見つけると、自然と顔がほころんだ。白い花弁が青空に煌めく樹木のたもとに、二人の少女の人影がある。
彼女たちがここに居るのは分かっていた。花見が好きで好きで、春を告げるようにモクレン類の花が咲けば、日夜花を見ているのだとは、本人から聞いたから。
それを証明するかのように、ここ数日間、幾度もその娘の赤紫色の着物姿を目にしていた。そう、つい昨日、入学式の列を待つ間にもその姿を見かけたところだ。
ただ、連れが居るのを目撃したのはその時が初めてだった。ぜひ、彼女とも話してみたい。そんな透陽の純粋な思いに追い風が吹く様に、今日も和風装束のコンビは、仲睦まじく花を観賞しているではないか。
透陽がにこやかに歩み寄ると、彼女たちもこちらに気づいた。
モクレンの樹にもたれかかり眠そうな顔をしていた春堀木蓮。彼女は元より透陽と顔を合わせていた娘だ。透陽の顔を認めると、ふにゃりと笑顔を作りながら、のびやかな口調で歓待の意を示した。
「おー。これはこれは透陽君ではありませんかぁ。今日はゆっくりしていってくださいねぇ」
「やあ、木蓮さん。それと、はじめまして椿さん。木蓮さんからお話はきいてます。お会いしたいと思ってました」
「はじめまして。わたくしも、貴方様の事は木蓮から聞き及んでおりますわ」
木蓮と向かい合うように座っていた黒いツバキ柄の着物の少女、春堀椿は、両の手を地に着くと、深々と頭を垂れた。よろしくお願いします、と語る静かな声は、聴いているこちらを畏まらせるような粛々としたオーラを孕む。
透陽は木蓮の隣あたりにゆっくりと腰を降ろした。ああ、まるで両手に花の色男ではないか。
ただし、傍から見れば、人間の男が一人でにやつきながら木陰に座り込んでいるようにしか見えないが。
さて、この奥羽透陽という男。どこからどう見ても普通の学生だ。
ところが、普通の人間には無いような、妙な能力を持っていた。
地面から生えるキノコが、人間の女の子の姿に見える。
ここは紛れも無く現代日本社会。夢幻は排他され、実を尊重する世界である。とてもそんな戯言、信じて貰えやしないだろう。透陽自身、その現象については硬く口をつぐんでいた。
それでも、キノコに宿る精神が美少女の姿となり彼に語りかけて来るということは、疑いようも無い事実なのである。
さかのぼること数か月、奥羽透陽という人間が絶望の淵に立ったその時、彼を救ったのはキノコであった。キノコに勇気をもらい、キノコと友誼を結び、そしてキノコに淡い恋心を抱いた。すべて、彼の人生に起こった奇跡的な現実だ。
よって透陽はキノコの娘たちを愛すのだ。彼女たち共に自然を愛で、語らい、心を共有する。それは、なんら人間同士の交流と変わらない。
現在透陽の目の前で春に現を抜かす艶やかな着物姿の彼女たちも、れっきとしたキノコの娘なのだ。
青年の靴の傍らにはモクレンの白い花びらが落ちている。その合間に、言われねば気づかぬような、極小の茶碗状の物体が点々と存在していた。
赤みがかった褐色の椀。まるで昆虫たちが飯を盛る器かと思わせるそれこそが、透陽の隣で船をこぎかけている、春堀木蓮の本体である。ただ悲しいかな、このキノコを呼ぶ名前が無い。
(ここにあるのに名前が無いなんて、変な気分だな)
透陽は木蓮と呼べば済むが、彼女が見えない人間は何と呼ぶのか。名前はそのものを表す大事なものだというのに。例えばシイタケなら椎の木に生えるのだし、ヒラタケは平らだからヒラタケだ。
ではこれは? 透陽が不慣れなインターネットを駆使して調べたところ、愛好家たちは「モクレンのキンカクキン」だとか、学名をそのままだとかで扱っているようだった。だが標準的な和名は無い。こんなに身近にいる存在なのに。ああ、どうして――。
透陽は軽く頭を横に振った。また小難しいことを考えて、自分の暗い世界に入り込みかけていた。かつて出会ったキノコの娘たちにも、ちょくちょく指摘された、己の悪い癖だ。
一呼吸して、二人の娘の真似をして花を見る。頭上にはハクモクレンの花。そして、前方には斑の入ったツバキの植え込みが見える。
「綺麗だね。モクレンも、ツバキも。春の花だ」
「でも、わたくしが触れると腐り落ちてしまいますもの……」
椿が悩ましげに眼を細めた。
彼女の言う通り、植え込みのツバキの樹下には、茶色に変色した花が降り積もっていた。ここからでは見えないが、あの花の下にも、茶碗状のキノコが生えているはずだ。
そのキノコには名前が付いている。ツバキキンカクチャワンタケ。花を悪くする病害菌として、園芸家からは敵視される存在だ。
ところが、その犯人が、同じように花を傷ませることを嘆いているのは、なかなか不思議なものだと透陽は思う。
悲しげな顔をする親類を慰めるべく、木蓮が仕方ない仕方ないと繰り返す。
「私たちも生き残るためですからぁ、仕方ないですよぉ。自然の理の環の一部でございましょー……ふわあ」
「もう、木蓮。お客様の前で欠伸は失礼ですわよ」
椿が窘めると、木蓮は目をこすりながら頭を下げた。
「ええ、本当に失礼を。しかし『春眠暁を覚えず』という言葉がある通り、どうにもこの暖かさは心地よくてですねぇ」
「それ、わかりますよ。俺もお布団が恋しくて仕方ないし」
透陽の場合、季節的なものと言うよりは、実家を離れて悠々自適になり、怠惰になっているだけともいえる。が、ある意味それも新sネイ勝が始まる春の風物詩だ。
春の柔らかい日差しが心地よいことには変わりない。草原に寝ころびたくなる気持ちも湧き起る。温かい、命の芽吹きを誘う光なのだから。
生きとし生けるもの皆が喜ぶ季節の到来だ。これから次々花が開き、生き物たちが活発になり、世界が明るく暖かくなっていくはずだ。それなのに、透陽の目の前の二人は、どこかしんみりとした表情をしていた。
はらりと白い花弁が一つ、天空から降ってくる。それは、ちょうど木蓮と椿の間に落ちた。
間延びした口調で、木蓮が苦笑する。
「今年の花もぉ、そろそろ終わりだねぇ」
「そうですわね。また来年……」
そう、彼女たちは花に寄り添い生きるものたち。ゆえに、花の終わりは活動の終わりを示している。二種のキンカクキンも、春の花同様、儚きものであるのだ。
透陽にしてみれば、せっかく知り合った友人との長い別れを告げられたことと同義だ。残念で残念で仕方がない。
そしてこの気持ちは過去にも重々味わって来た。冬の訪れと共に姿を消したキノコたちが透陽の心にあけた穴は小さくない。特に、「彼女」の存在は。
透陽の中に愛しき「彼女」の声が木霊する。
『私、信じているわ。長い冬の先、あなたがまた私の所に来てくれることを』
そうだ。また会おうと約束したのだ。そして、また会えると言うことは、姿を消したキノコの娘たちは、死んでしまうわけではないと同義だ。
透陽は、これぞ良い機会だとばかりに、募る疑問を呈した。
「ねえ。花の季節以外は、君たちはどこに居るの?」
「土の下で眠っておりますわ」
「寂しくないの?」
「ずっと寝てるだけですからねぇ。ずーっとずーっと長い夢を見て、はっと目が覚めたら春になって花が咲いているんですよぉ。私が起きる頃にはぁ、だいたい椿も起きて来るのですよぉ。ですからぁ、全然寂しくないですねぇ」
木蓮ははにかんだような笑顔を見せた。椿も首を大きく縦に振っている。彼女の黒い三つ編みが嬉しそうに跳ねた。
椿は暗赤色の双眸で透陽の目を真っ直ぐに見る。胸に手を当てて、静かに口を開いた。
「わたくしたちは『心』そのものですわ。夢であろうと、リアルの世界であろうと、感じ方はさほど変わりませんわ。わたくしたちが『生きている』ことには変わりませんもの」
「うーん、そんなもんなのかな。夢は夢だし、現実は現実な気がするけど」
「透陽君は人間だからそれでいいんですよぉ。人間とキノコの物差しが一緒じゃあ駄目ですからねぇ」
木蓮が自分で自分を肯定するように、うんうんと頷いた。
不意に椿が寂しげな顔を見せた。艶っぽいその瞳は、前方にあるツバキの花を捉えているようだ。透陽もつられてそちらを見る。
現実世界のツバキの花。樹上で美しく咲き誇る姿と、菌糸にやられて地に堕ちている姿を同時に捉えながら、憂悶の娘はうっすら微笑んだ。
「それでもわたくしが恋しく思うのは現実世界に咲く花ですの。夢の世界でいつでも遭えても、それはわたくしの愛するツバキの花ではありませんわ。わたくしが触れることが許されぬ、儚き現の世の花」
「椿に同じーぃ。というかですねぇ、私たちの仲間って、みんなそんなもんだと思いますよぉ。そうじゃなければ、わざわざ『キノコ』という形を取って地上に出て来る理由がないじゃないですかぁ」
「例えば私の近しい親族にはそれぞれ愛しく思う相手が居りますの。クワでしたり、ヤシャブシでしたり、バラエティーに富みますけれども」
「へぇ」
彼女たち――キンカクキンの仲間たちは、特定の植物を宿主として生活環を広げる。それ即ち、植物体と寄り添ってしか生きられないということだ。
目には見えなくとも、キノコたちは生きている。そして、時折、現実世界にキノコという形で現れては、自分の世代を繋ぐのだ。そしてそれを依代に、キノコの娘たちは姿を見せるのであった。
花が散り落ち幾日か経てば、彼女たちは再びキノコの精神世界に帰るのであろう。長い長い眠りの季節だ。
だからこそ、木蓮も椿も、短き春を謳歌する。花を愛で、語らい、そして、奇妙な人間との出会いを歓喜していた。
木蓮が悪戯っぽい表情で、透陽に顔を近づけた。
「透陽君にも、恋しく思う相手の一つや二つあるのではありませんかぁ?」
「……まあ」
「ラブ・アンド・ピースという言葉がありますのよ。恋人がいるって、素敵なことなのですわ。ラブレターを交わしたり、キスとかハグで愛を囁いたりするのでしょう?」
「いやいや! そんなこと! 片思い、というか……夢の中で会えるくらいの相手だよ」
「おやおや。そんなの、夢の中だけで満足しますかぁ?」
「そりゃ……そんなわけないじゃないか」
むず痒さを感じながら、少女二人より目を逸らす。和装美女たちがくつくつと笑っているのが、赤く染まった耳に響いた。
透陽があの「彼女」に触れたのは一度だけだ。真っ白なワンピースを纏う細い体は、芯の据わった強さの中に、がむしゃらに抱けば壊れてしまいそうな儚さも含蓄していた。
その温もりは、今でもこの胸に残っている。透陽は無意識に、自分の心臓のあたりに手をやった。彼女は、この胸に灯る光だ。
「夢に現れるということは、お相手の方もあなたのことを思っている。昔はよくそう言ったものですよぉ。大事に想ってあげて下さい」
「わたくしみたいに、触れたらダメにしてしまうなど、いけませんよ?」
「もちろんだよ」
透陽が思いを馳せる相手。それがキノコの娘であるとは、木蓮も椿も思っていないだろう。
触れることを躊躇うほどに美しいあのキノコ。純白の白い天使。もし欲に負けてうかつに手を出せば、死という代償が待っている。その名前はドクツルタケ。
だが「彼女」の心は優しいものだ。それを透陽はよく知っていた。彼女がいなければ、今の自分は居なかった。
奥羽透陽の人生に多大な影響を与えた彼女の名は、アマニタ・ヴィロサ。白妙の幻影が、美しい言葉を響かせる。
『私、信じているわ。長い冬の先、あなたがまた私の所に来てくれることを』
今頃、彼女も夢を見ているのだろうか。一体どんな世界に揺蕩っているのだろうか。
想いを馳せれども、自然の流れは覆せない。彼女に再び会いまみえられるのは、夏。もう少し先だ。
それまでは、新たな出会いを謳歌しよう。春の花の下、透陽はそう決意を改め、待ち受けるキャンパスライフに心をときめかせたのだった。




