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22/46

交差する2つの大義

六月三十日未明、夜空を突き破るような銃声と怒号が、御所の森を震わせた。

長州勢、来島又兵衛を先頭にした突撃は凄烈で、幕府方は防ぎきれず蛤御門を突破された。

槍の穂先が光り、鉄砲の火花が闇を裂き、血の臭いが立ちこめる。

御所の甍を背に、会津藩・薩摩藩の兵が必死に応戦するも、押し寄せる波は止まらない。

戦場は瞬く間に炎と叫びに飲み込まれていった。

そのただ中、浅葱色の羽織を纏った男たちが駆けた。

壬生狼と恐れられた新選組――。

古賀隼斗は采配を振るう。

鋭い眼光、静かに燃える刃。

「……」

声を張り上げることはなかった。

ただ、的確な指揮と冷徹な視線で、隊士たちを導く。

「町火消しと共に動け!」

「藩邸周辺を押さえろ!」

怒号の中でも、その指示は明確で揺るがない。

彼の部隊は、主力を御所防衛に残しつつ、三十名を抜き市中へと走らせた。

町火消しと連携し、長州藩邸の周囲を押さえさせる。

史実で京を焼き尽くした火の手――。

それを未然に防ぐための布陣だった。

「新選組が……!」

避難する町人の群れの中から声が漏れる。

狼と恐れられたその姿は、今や盾となっていた。

泣き叫ぶ童を背に庇い、倒れる老女を抱き上げ、炎の中を駆け抜ける浅葱の背。

隊士たちの顔は煤にまみれ、汗で光り、それでも迷いはない。

その中心に立つ古賀の姿に、民もまた震える手で合掌する。

「ありがてぇ……ありがてぇ……!」

一方、御所では――。

来島勢が突入し、火花散る死闘が繰り広げられていた。

「押し返せ!」

会津の兵が絶叫する。

長州兵の怒涛の突撃に地面は血で濡れ、刀は骨を裂き、戦場の空気は狂気に染まる。

その激戦のただ中、新選組の遊撃が突入する。

「うおおおおッ!」

斎藤一、永倉新八らが先陣を切り、鋭い刃が敵陣を裂いた。

その背後に、隻腕の古賀が歩を進める。

彼の目に迷いはなかった。

言葉を交わさずとも、その剣筋は雄弁に語っていた。

斬って、止める。

守って、進む。

その一振り一振りが、未来への誓いそのものだった。

御所を揺らす銃声と、町を震わす火消しの纏の掛け声。

二つの戦場が同時に動いていた。

燃え上がろうとする歴史の炎の中で、古賀隼斗の刃はただ黙して振るわれた。

勝利を得るためではなく――。

けれども誰も、それを口にすることはできなかった。

ただ確かに、歴史は動き始めていた。


御所をめぐる攻防は、もはや常軌を逸していた。

長州軍の猛攻は薩摩・会津の連合に押し返され、押しては退き、退いてはまた押す――泥濘の戦であった。

剣戟が火花を散らし、銃声が空気を裂く。負傷者の呻きと血の匂いが風に乗り、京の町は修羅と化していた。

やがて長州の兵は後退し、裏道を伝って藩邸へ戻り始める。

敗走のざわめきが響き渡るその時――。


長州藩邸。

炎に舐められ、黒煙に覆われ、屋根は崩れ、壁は軋む。

縁側に、一人の女が影を落とした。

久坂玄瑞。

縄を解かれたのではない。己の意志と力で、束縛を断ち切り、なお立ち上がった。

しかしその瞳に映ったものは――。

京の町を覆う、紅蓮の炎の海。

「……これが……現実……か」

唇が震え、声にならない声が漏れる。

胸を貫いたのは炎の熱ではなかった。

夢に掲げた理想が、自らの手をすり抜け、血と炎の中で瓦解してゆく絶望。

――守りたかった都が、燃えている。

――救いたかった民が、泣き叫んでいる。

玄瑞の脚から力が抜け、縁側の板がわずかに鳴った。

この惨禍を止められなかった己を呪うように、彼女は一瞬だけ目を閉じた。

だが。

その耳に、鮮烈な音が飛び込んできた。

泣き声。

それは、ひとりの童の泣き声だった。

炎と怒号と剣戟に掻き消されそうな、それでも必死に生きようと叫ぶ小さな声。

玄瑞の心臓が大きく脈打った。

己が掲げてきた理想よりも、尊王攘夷の大義よりも、何よりも先に――その泣き声が彼女を突き動かした。

瞳が開かれる。

そこにはもはや迷いはなかった。

「……そこにいるのか」

玄瑞の呟きは、炎を孕んだ風に溶けて消えた。

縁側から大地へと飛び降り、焦げ付いた門を駆け抜ける。

その視線の先――轟音と共に崩れかける屋敷。

梁が悲鳴を上げ、柱は赤々と燃え、瓦が火花を散らしながら落下していた。

炎の牢獄の中に、小さな影が震えていた。

童だ。

目を見開き、涙で濡れた頬を晒し、喉を裂くように泣き叫んでいる。

誰かを呼んでいる。助けを乞うている。

その周囲では、幕府兵と長州兵が剣を交え、血潮が地を濡らしていた。

だが――玄瑞の眼には、もはや刃も炎も映っていなかった。

そこに映っていたのは、ただ一つ。

救うべき命。

決断は一瞬だった。

「待っていろ……必ず、行く」

声は澄み切り、震えなかった。

己が燃え尽きようとも構わぬ。

剣に斃れようとも惜しくはない。

次の瞬間、久坂玄瑞は烈火を裂いて駆け出した。

火の粉が滝のように降り注ぐ。

燃え盛る梁の破片が肩を叩き、鮮血が滲む。

髪は焦げ、炎が頬を撫で、肌を裂いた。

兵の刃が振り下ろされる。だが振り返らない。

剣も炎も彼女を止めることはできなかった。

全身を突き動かしていたのは、大義でも名声でもなかった。

――ただ、一人の人間としての正義。

「この命を救う」

その衝動が、彼女の心臓を焼き尽くすように鼓動させていた。

誰かの英雄である必要はない。

倒幕の旗手である必要もない。

この一瞬、この炎の中で、ただ一人の子を抱き締められれば――それが、久坂玄瑞にとっての真実であった。

彼女の背は、もはや志士のものではなかった。

ただひたむきに、人を救おうとする人間の背。

炎を裂き、瓦礫を蹴り飛ばし、命へと手を伸ばす。

その姿は、混乱の中にいた全ての者に刻まれた。

修羅の戦場に咲いた、ひとつのまっすぐな正義。

久坂玄瑞は――誰よりも人間らしく、命を掴みに走っていた。

轟々と燃え盛る屋敷の炎が、夜空を真紅に染めていた。

泣き叫ぶ童を抱きかかえ、久坂玄瑞は必死に走り抜け、ついに外へと飛び出した。

「大丈夫……大丈夫じゃ……」

荒い息を吐きながらも、玄瑞は童の頬を撫で、微笑みかける。

その笑顔は、炎をも退ける光を帯びていた。

だが、その安堵は一瞬に過ぎなかった。


続々と長州軍の兵が敗走しながら藩邸へ戻ってくる。

その先頭に、来島又兵衛と福原越後の姿があった。

二人は玄瑞に気づき、険しい目で近づいてくる。

「幕府方が迫っておる!」

来島の怒声が飛ぶ。

「久坂! その童を寄越せ!」

玄瑞は眉を吊り上げる。

「……何をするつもりだ?」

来島の目には狂気が宿っていた。

「人質よ。新選組は民を救わんと血眼になっておる。民を楯にすれば、奴らの追撃を躱せるやもしれぬ!」

玄瑞の瞳が怒りに燃える。

「貴様……どこまで堕ちれば気が済むのだ! 民を犠牲にして大義を語るなど、恥を知れ!」

来島も負けじと吠える。

「戯言を抜かすな! 戦に勝たねば、すべては無に帰す! 民も国も、命も未来もな!」

激論が火花を散らす中、福原が冷徹に割って入った。

「来島――斬れ」

「……なに?」

「斬れと言ったのだ。子どもごと久坂を斬り捨てよ!!!」

福原の絶叫が夜を震わせた。

玄瑞の背筋に戦慄が走る。

周囲を長州兵がぐるりと取り囲み、逃げ場はなかった。

「やめろ!!」

玄瑞は叫び、童を胸に抱きしめる。

「頼む……この子だけでも……!」

だが、誰一人答えなかった。

兵らは目を逸らし、刃を構えるのみ。

来島が鋒を玄瑞に突きつける。

「死ね、久坂」

刃が振り上げられる。

童が恐怖に泣き叫ぶ。

玄瑞はその小さな身体を抱きしめ、目を固く閉じた。



――次の瞬間。



火花が宙を裂き、鋼が鋼を噛む甲高い音が響いた。

振り下ろされた刃は、燃え盛る炎を背に現れた浅葱の影に受け止められていた。

隻腕の身体、左手に巻き付けた刀。

汗と血と火粉にまみれながらも、決して揺らがぬ眼差し。

「……古賀、隼斗?」

玄瑞の声が震えた。

来島の怪力の一撃を受け止めながら、古賀は動かない。

その背は大きく、炎よりも熱く、久坂と童の前に立ちはだかっていた。

隻腕であろうとも――否、隻腕だからこそ、その姿は揺るぎなき壁だった。

「どけぇ!」来島が吠える。

古賀は無言で鍔を押し返し、火花が夜に散った。

玄瑞は胸の童を抱き締めながら、目を見開く。

――この男は敵のはずだ。

だが今、誰よりも強く自分を、民を守っている。

その背中が、あまりに眩しかった。

炎に浮かぶその姿は、まるで修羅であり、同時に慈悲を纏った守護神だった。

玄瑞の唇が震え、ただ一言を漏らした。

「……なぜ、そこまで……」

しかし古賀は答えない。

答えなど不要だった。

彼が立つ理由は、刃が語っていた。

燃え盛る京の夜、敵味方を超えて交差する二つの大義。

――それは、いつしか“恋にも似た運命”へと形を変え、久坂玄瑞の胸を激しく揺さぶっていた。

「……新選組、か!」

来島又兵衛の怒号が、炎と血煙の渦中に轟いた。

その眼が射抜いたのは、浅葱色の羽織を纏い、片腕ながら堂々と刃を構える男。

古賀隼斗――新選組一番隊組長。

「名乗ろう。俺は新選組一番隊組長、古賀隼斗だ」

燃え盛る炎に背を照らされ、古賀の声は揺るぎなかった。

「……久坂玄瑞殿を、ここで死なすわけにはいかん」

その一言は、剣戟よりも重く鋭く、場にいた全ての者の胸を撃った。

来島の顔は怒気に染まり、血走った眼が古賀を睨みつける。

「貴様ぁ! 幕府の犬風情が――」

絶叫と共に来島は刃を振り下ろした。

だが――。

火花が散り、鋼が唸った次の瞬間、来島の身体は大きく揺らいだ。

古賀の剣は隻腕にもかかわらず、稲妻のごとき速度で相手の刃を弾き、逆に来島の懐を穿っていた。

「ぐっ……!」

来島は呻き、腕ごと刃を押さえ込まれ、膝を折る。

古賀の瞳は冷徹に光り、しかし殺気はなかった。

「ここで血を増やす気はない。来島又兵衛」

その姿はまさに「修羅の中の慈悲」であった。

怒りに燃えた来島の剛力も、古賀の決意の前では刃こぼれする鉄のように空しく響くだけ。

その様子を目にした福原越後は顔色を変えた。

「……馬鹿な、あの来島が……!」

怯えと焦燥が入り混じった声を漏らすと、即座に踵を返した。

「俺は生き延びねばならん……!」

炎と煙を裂き、福原は闇の路地へと逃げおおせた。

「縄を!」

古賀の一喝に応じ、数名の隊士が来島を取り押さえた。

必死に暴れようとするも、既に意識は朦朧、抵抗は空しく響くだけだった。

やがて来島又兵衛は浅葱色の袖によって縛り上げられ、無念の呻きを漏らした。


静寂――。

長州藩邸を覆っていた怒号は次第に鎮まり、代わりに新選組の規律ある足音が響いた。

修羅場は、ようやく制圧されつつあった。

古賀は深く息を吐き、振り返る。

そこにいたのは、子を抱きしめたまま呆然と座り込む久坂玄瑞。

炎に照らされるその頬には煤が走り、涙に似た汗が光っていた。

古賀は、わずかに微笑んだ。

「……大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」

古賀の声は、戦場の荒んだ空気を和らげるように柔らかく響いた。

その一言に、玄瑞の胸の奥に張り詰めていた糸がぷつりと切れた。

唇を噛んで堪えていたものが、頬を伝って零れ落ちる。

「……っ、古賀……」

気づけば玄瑞は衝動のまま、古賀の胸に飛び込んでいた。

褐色の肌に熱い涙が伝い、浅葱色の隊服を濡らす。

「な……!」

突然の抱擁に古賀は思わず体を強張らせた。

だが、胸に感じる小さな震え――それが決して“志士”のものではなく、心細さを隠せないひとりの乙女のものであると悟った瞬間、古賀の表情が変わった。

彼女は敵であるはずだった。

倒幕の旗手であり、新選組が刃を向けるべき存在。

しかし今、涙に濡れ、必死に誰かを求めるこの抱擁には、剣も大義もなかった。

古賀は静かに息を整え、隻腕をそっと玄瑞の背に回した。

それは守るための力強さではなく、ただ寄り添うような、慎ましい抱擁。

「……大丈夫ですよ。傍にいますから」

囁いた言葉は、戦乱の夜にひときわ優しく染み込んだ。

玄瑞は顔を上げた。

涙で濡れた睫毛の奥から、潤んだ瞳が古賀をまっすぐに見つめている。

その眼差しは、敵でも志士でもなく、ひとりの女性としての真心を映していた。

「貴方に...また...会えてよかった」

その微笑みは、炎に照らされて儚くも眩しい――古賀の胸を強く揺さぶる笑顔だった。

思わず息を呑む。

この一瞬、彼女の涙と笑みのあまりの清らかさに、剣豪としての古賀隼斗は圧倒され、言葉を失っていた。

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