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石清水八幡宮 ― 炎と涙の激論

石清水八幡宮の広間に、緊張と怒気が渦巻いていた。

外は夏の湿気に包まれ、蝉の声が遠くに響く。だが広間の空気は、それ以上に熱く、重苦しい。

来島又兵衛が低い声で切り出した。

「我らはここに兵を率いて集った。藩主の冤罪を訴え、それが退けられるならば――血でその無実を証すのみよ!」

その声は獅子の咆哮のように響き渡り、周囲の志士たちは一斉に拳を握り、同調の声を上げた。

「その通りだ! 戦こそ我らの道!」

「幕府の圧政を打ち砕け!」

一気に熱気が広間を包み、誰もが「武」を選ぶ方向へと傾いていった。

だが、その奔流の中で、ただ一人、久坂玄瑞が声を張り上げた。

褐色の肌に玉の汗を浮かべ、その目には涙にも似た光が宿る。

「待て! 皆、耳を貸せ!

 今ここで武を振るえば、京はどうなる!? 御所の周囲に住む民はどうなる!?

 火の手は瞬く間に広がり、町は地獄と化す! 無辜の民が泣き叫ぶのを――お主らは見たいのか!!!」

その声は悲鳴にも近く、全身を震わせていた。

だが、志士たちの目に映ったのは「情に流された弱さ」だった。

福原越後が冷ややかに一歩進み出る。

「久坂殿……貴殿の心根が優しいことは重々承知だ。

 だがのう、情に囚われて大義を見失ってはならん。

 我らはただの浪士ではない。長州の名を背負い、藩主の冤罪を晴らす使命を帯びている。退けば末代までの恥よ。歴史に名を刻む時が、いま来ているのだ」

その声は氷の刃のように冷たく、玄瑞の胸を刺した。

「歴史に名を刻むだと……?」

玄瑞の声が震える。

「その名が“無辜の民の血”にまみれても構わぬと申すか!?」

「構わん!」と来島が吠えた。

その瞳は血走り、声は雷鳴のようだった。

「民の血も、この身の血も、大義のための礎に過ぎぬ!

 戦なくして冤罪を晴らせるものか! 恐れて腰を抜かすならば、長州へ帰れ!!!」

「違う!」

玄瑞の叫びは裂帛の気合のようだった。

「私は恐れてなどおらぬ! ただ、私は……京都を戦場にしたくないのだ!

 民が泣き叫ぶ町を見たくない! そして何より――仲間が無駄死にするのを、もう見たくはないのだ!!!」

激情が激しくぶつかり合い、広間の空気が揺らぐ。

志士たちも一瞬たじろいだが、すぐに来島がさらに怒声を放つ。

「戯言を申すな、小娘が!

 武を捨て、情けに縋るその姿勢こそ愚かよ! そのような弱腰が長州を滅ぼすのだ!!!」

広間に重く垂れ込める空気は、もはや剣戟の前触れに等しかった。

来島又兵衛の怒声、福原越後の冷徹な眼光――その余韻が壁に反響し、志士たちの血を沸かせる。

そのただ中で、久坂玄瑞は両の拳を震わせ、必死に声を張り上げていた。

「聞け! 戦をすれば、京は血の海となる!

 火は御所を焼き、民は泣き叫び、罪なき者が斃れる!

 それが……それが、お主らの言う“大義”か!」

声は嗄れ、涙すら混じっていた。

だが玄瑞の瞳にはなお、燃えるような光があった。

「私を臆病者と罵れ! 腰抜けと笑え!

 だが――京の町を戦場にしてはならんのだ!

 仲間を無駄死にさせることも、民を苦しめることも……私には耐えられん!」

その言葉に一瞬、広間が静まった。

だが次の瞬間、来島又兵衛が怒りに任せて踏み出す。

「戯言を! 小娘風情が、何を知る!」

乾いた音とともに、その掌が玄瑞の頬を打った。

衝撃で細い身体が畳に叩きつけられる。

「女子だと思って良い気になりおって!」

又兵衛の叫びが広間に轟き、志士たちの怒号と混ざり合う。

玄瑞は倒れたまま、口元から血を滲ませながらも、必死に声を絞り出した。

「……私は、長州のために……この国のために……戦を避けたいのだ……!」

震える声。

だがその震えは、恐怖ではなく、必死の想いに突き動かされた証だった。

「民が泣く……母が子を抱いて焼け死ぬ……そんな未来を見過ごせるか!

 戦をして得るものなど、何もないのだ!

 頼む……頼むから退却を……!」

その懇願は、畳を叩き、床に額を擦りつけるほどの必死さだった。

玄瑞は倒れ込んだまま必死に顔を上げ、涙を浮かべながら福原を見据えた。

「福原殿……どうか、退却を……!

 今戦っても、多勢に無勢! 京は焼け落ち、民は泣く!

 仲間は皆、犬死にするのだ!!!」

その声は嗚咽に似ていたが、魂からの叫びだった。

しかし福原の瞳には、揺らぎの影すらなかった。

「久坂殿……お主の優しさは、時に長州の鎖となる」

無情の言葉が、玄瑞の胸に突き刺さった。


次の瞬間、数人の志士が玄瑞の両腕を掴んだ。

「やめろ! 放せ!」

必死に振り払おうとする。

爪が畳を掻き、割れ、赤く染まる。

だがその抵抗は虚しく、縄が手首に食い込んでいく。

「私は……戦わせはせぬ! 京を地獄には――」

叫びは、乱暴に口を塞がれ、掻き消された。

志士たちは冷ややかな目で玄瑞を引きずり上げる。

「これ以上騒げば、斬り伏せるぞ」

縛られた身体は無情に引きずられ、畳に長い跡を残す。

それでも玄瑞は、振り返り、涙に濡れた瞳で仲間たちを見据えた。

「……頼む……! 退けぬならば、せめて……民を……守ってくれ……!」

その必死の願いは、誰にも応えられず、広間の喧噪に飲み込まれていった。

志士たちの足音が響くたびに、玄瑞の細い身体は無情に揺さぶられ、奥の闇へと遠ざかっていく。

その背には――敗北と絶望、そしてそれでも消えぬ“希望の火”が揺れていた。


薄曇りの空の下、屯所の道場には緊張の気配が張り詰めていた。

古賀隼斗は静かに正座し、左手に日本刀を巻きつけていた。

鴇田弥三郎の太い指が器用に布を締めていく。

刀が戦場で決して滑り落ちぬように――それは隻腕の剣士が選び取った、苦肉の策だった。

「……これでいいだろう」

布を結び終えた鴇田が顔を上げると、わずかに眉をひそめ、ため息をもらした。

「相変わらずだな、あんたは。

 左手に刀を縛り付けてまで戦うなんざ……おめでたい奴だよ」

言葉には呆れが混じっていたが、その奥底には仲間を案じる色が滲んでいた。

古賀は薄く笑みを浮かべた。

「俺は指示は出すが、考えまで押しつけるつもりはない。

 ……弥三郎、お前は命令通りに動け。他の隊と協力して、民の犠牲を最小限に抑えろ。

 だが――民を殺めんとする不届き者がいれば、容赦なく斬れ」

その声音は決して大きくなかった。

だが冷徹な決意が一字一句に宿り、胸に響いた。

弥三郎はしばし沈黙したのち、目を細めて問う。

「……あんたはどうするんだ?」

古賀は静かに立ち上がり、巻き付けた刀を確かめるように左腕を軽く振った。

その瞳は迷いなく、御所の方角を射抜いている。

「俺は――二番隊、三番隊と共に遊撃に回る。

 御所を守り抜く。誰よりも、徹底的にだ」

その声は、道場の板の間に重く響き渡った。

それは自らの命を削り、なお市中と仲間を守ろうとする侍の誓いだった。

弥三郎は息を呑み、やがて口の端をわずかに歪めた。


「――やっぱり、俺はあんたのそういうところが大嫌いだ!」

道場の隅々まで響く叫び。隊士たちの視線が一斉に弥三郎へと集まる。

額には汗が滲み、拳は白くなるほどに握り締められている。

「理想に溺れ、現実が見えていない! なんで一人で何でも背負おうとする!?

 一人で激戦地に赴くだと? ふざけるなよ!」

烈火の如き言葉は、抑えきれぬ激情そのものだった。

古賀は眉一つ動かさず、ただ静かにその怒りを受け止める。

だが弥三郎は止まらない。

「俺達は沖田組長が率いた一番隊だ!

 組長を守るのは俺達の責務でもある!

 俺は――民よりも、まず組長の命を守る!」

場がざわめく。弥三郎の胸の内は真っ赤に燃え盛る炎のようであり、誰もその勢いを止めることは出来なかった。

古賀は静かに口を開いた。

「……お前は、俺を組長と認めていなかったのではないのか?」

挑発でも嘲笑でもない。むしろ真剣な問いだった。

一瞬、空気が凍りつく。

弥三郎は歯を食いしばり、声を張り上げる。

「ああ、そうだ! 俺は今でもあんたを組長だと認めちゃいねえ!

 だがな――沖田さんが、あんたにこの新選組一番隊の看板を預けた以上……俺達は、あんたを死なすわけにはいかないんだよ!」

声は嗄れ、怒鳴りながらも涙をこらえているようにすら見えた。

古賀は、その激しさを受け止めながら、深く息を吸った。

「弥三郎……新選組は、人斬り集団であり続けるならば、必ず滅びる」

その声は冷徹であり、しかし切実でもあった。

「俺達はただの狼ではない。俺達は――民のために血を流し、民のために戦う。

 民の刃であり、盾ともならねばならない。それこそが、俺達の責務だ」

一拍。

道場の中に漂う空気が、ぐらりと揺れる。

「民のため、だと……?」

弥三郎は震える声で繰り返した。

「俺は……あんたの理想が、眩しすぎて目に痛えんだよ。

 だが、それでも――俺はあんたを死なせねえ」

声は震え、だが確かな決意に満ちていた。

互いの視線が真っ向からぶつかり合う。

そこには和解はなかった。だが、理想と現実という二つの極が交わり、摩擦し、火花を散らして――確かな絆が生まれていた。

その場に居合わせた隊士たちは、息を呑んでいた。

理想を掲げる者と、現実に足を踏みしめる者。

両者がぶつかり合う姿に、心を震わせていた。

やがて弥三郎は肩で荒い息をしながら、吐き出すように言った。

「……いいか、古賀隼斗。あんたがどれほど理想を口にしようと、俺は民よりも、まず“組長”の命を守る。それが俺の現実だ」

古賀は微笑むでもなく、ただ真剣に頷いた。

「……ならば、互いに全うしよう。

 お前は俺を守れ。俺は――民を守る。

 その先に、俺達一番隊の勝利がある」

板の間に、言葉よりも重い沈黙が落ちた。

やがて隊士たちの胸に、言葉なき決意が広がっていくのだった。


道場にいた隊士たちは、誰もが息を呑んだ。

二人の言葉は相容れぬようでいて、どこかで重なり合い、一つの大きな意思へと収束していくのを感じていた。

弥三郎はしばし黙し、荒い呼吸を整えた。

その瞳は、怒りの炎を宿しながらも、奥底に確かな光を宿していた。

「……いいだろう、古賀隼斗。

 俺は――命に代えても、あんたを守る。

 俺の現実は変わらねえ。だが、その現実を背負ったままでも……あんたの理想に肩を貸してやる!」

叫びは烈風のように響き、板の間に反響する。

一瞬、静寂。

だが次の瞬間、他の隊士たちが次々に声を上げ始めた。

「弥三郎だけじゃねえ! 俺もだ!」

「古賀組長、あんたが民を守るというなら、俺達は組長を守る!」

「俺達の刀は、新選組の誇りであり――あんたの盾だ!」

怒声とも歓声ともつかぬ叫びが次々に重なり、道場の空気は熱に包まれていった。

それは従属でも盲従でもない。

各々が己の意思を抱えたまま、理想と現実を結び合わせる、新たな誓いだった。

古賀は拳を強く握りしめた。

胸の奥が熱くなり、目頭がじわりと滲む。

(……これが、一番隊か)

沖田総司から預かった看板。

その重さは、自分ひとりで背負うものではなかった。

弥三郎をはじめとする仲間たちが、自らの誇りを賭けて共に背負ってくれる。

その事実が、古賀に計り知れない力を与えた。

「……皆」

古賀は声を張り上げた。

「俺は決して、嘘の理想を口にしているわけじゃない。

 民を守り、仲間を守り抜く――それが俺の一番隊だ!

 だがその理想は、俺ひとりでは届かぬ。

 だからこそ……お前達の力を貸してほしい!」

瞬間、道場を埋め尽くすような「おおおおッ!」という雄叫びが轟いた。

隊士たちの拳が高く掲げられ、浅葱色の袖が揺れる。

それは、これまでにない一体感だった。

怒号に似た声は、やがて誓いの響きへと変わり、古賀隼斗の胸に深く刻まれた。

弥三郎は大きく息を吐き、古賀に歩み寄る。

そして、無骨な手で古賀の左肩をどんと叩いた。

「……あんたが理想を掲げ続けるなら、俺達が現実で支える。

 それでいいだろう、組長?」

古賀は静かに頷き、応えた。

「――ああ。それが、一番隊だ」

道場の板の間に立つ六人の影は、まるでひとつの巨人のように揺らめいていた。

理想と現実。光と影。剣と盾。

そのすべてを併せ持った、新たなる「一番隊の誓い」がここに生まれたのである。

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