43.紫電の魚
「エリノア! エリー!! 大丈夫よ、お母さんが助けるから!」
騒ぎが起きている現場に走っていくと、悲痛な声が耳に届いた。その声に血の気が引く。姉の声が、姪の名前を呼んでいる。
「ティモ、あっちだ。ベルの姉さんだ!」
「ウッス!」
足が速かったのはセロとティモだ。当然、私よりも先に現場について、姉の声を聞き、2人でそちらへ向かってくれた。私もすぐに後を追う。アロイは私と一緒に走りながら周囲に怪我人がいないか見回していた。
古い石造りの倉庫の解体工事だった。周囲に足場を組んで、その足場を厚手の布で覆って、安全に配慮して作業していたはずだった。ただ、それでも事故というのはゼロに出来ないのだ。街の外では魔獣に襲われる危険が多いけれど、街の中では荷馬車の事故と工事中の事故が一番多い。
今回は、足場の内側に倒すはずだった壁材が、古い石材が脆くなっていたせいで外側に崩れた。石材の1つがそうやってバランスを崩すと、脆くなった外壁は次々に崩れて足場を巻き込むようにして歩道へとなだれ落ちていったらしい。それに作業員や通行人が巻き込まれた。ちょうど通りかかった姉と姪もだ。
――とはいえ、それは後から聞いた事情だ。
その時の私はただ、姉と姪のもとに駆けつけることしか考えていなかった。
「姉さん!!」
「ベルナール! お願い、助けて! エリノアがこの下に……っ!!」
崩れた石材と砕けた足場の木材が入り乱れる中に、姉は手を突っ込んでいる。涙と土埃で顔が汚れているし、姉自身も、左腰から太ももにかけて、スカートが血に染まっている。
「【手のひらの上に月】!」
セロが小さな光の妖精を呼ぶのが聞こえた。
「アンネリース、この中か!?」
姉が手を突っ込んでいた先に、セロが光の妖精を飛ばして中を覗き込んだ。
「わたしの……わたしの指の先に……っ! 生きてるわ! 動いてるもの!」
セロはベルトのポーチから薄青色の魔結晶を1つ取り出すと、姉の手と交代するようにして瓦礫の中に左手を突っ込む。
「大丈夫だ。俺がつかんだ。今、回復の魔結晶も使った。あんたは下がってアロイに怪我を……いや、ちょっと待ってくれ」
セロはあいている右手でベルトからポーチを外し、私に投げてよこす。
「ベル、姉さんに魔結晶を使ってやれ。アロイの魔力はこの後に温存しといたほうがいい」
「あ、そ、そうだね。姉さん、こっちに!」
私は嫌がる姉を引っ張ろうとするが、今の体では姉の体を引きずれない。仕方なく、その場で回復の魔結晶を使った。骨や神経にまで達するような傷だったら、これだけでは足りないだろうけれど……。
そう思っていた矢先、私の脇からすっと伸びてくる腕があった。
「ちょっと失礼」
アロイの声だ。アロイは姉の体に手をかざして、数秒目を閉じる。
「大丈夫。木材の破片で削られただけだろう。傷が深いから念のため、魔結晶をもうひとつ使ってあげて。――セロ、そっちは!?」
「この先、光の妖精がいるところだ。回復の魔結晶をひとつ使った。手を握ってるがまだ温かい! ――ティモ、そっちの瓦礫持ち上げられるか!?」
「やってみるっス!」
今度はセロとアロイが交代し、アロイが瓦礫に肩まで手を突っ込んだ状態で、早口で詠唱を始める。
「【湧き出ずる泉、癒やしの白虹】――大丈夫、君は助かる。僕が助ける。聞こえるかい? 気をしっかり持つんだ」
アロイが瓦礫の奥にそう声をかける。外見だけならアロイはまだ若い。エリノアにとっては同級生と同じような声だろう。けれど、アロイの「助ける」という言葉には、自信に裏打ちされた説得力がある。
こんな時、私は何もできない。店から魔結晶を持ち出すことすら気が回らなかった。こんな体格ではティモの力仕事を手伝うこともできないし、回復術だって使えない。せめて安全な場所まで姉を引っ張って行きたいけれど、それすらできない。
たとえば魔法で瓦礫を吹き飛ばすのは……だめだ。こんな混乱の中で瓦礫を吹き飛ばしたって、被害を拡大させるだけだ。
周囲には人が集まりつつあったし、解体工事の現場にいた人々も救助に動き始めた。他にも怪我人はいるようだが、まだ全貌は見えない。
「ベルナール! お姉さんをこちらへ!」
フェデリカの声に、我に返る。リナに留守番を言い聞かせて、我々を追ってきてくれたらしい。
「エリー……! だめよ、エリーがあの下にいるの! わたしはここで待っていないと……!!」
座り込んだまま混乱している姉を、フェデリカが後ろから羽交い締めにして立たせる。
「アンネさん、大丈夫よ。優秀な回復術師がいます。ここはまだ危ないわ、せめてもう少し後ろに下がりましょう」
「いや……いやよ、エリーがあそこにいるんだから……っ!」
フェデリカは有無を言わさず、羽交い締めにした姉をそのまま引きずった。姉はふくよかな体型をしているが、フェデリカのほうが背が高い。姉はまだ左足に力が入らないようで、なすすべも無くフェデリカに引きずられた。
「セロさん! オレがこれを持ち上げるっスから、その隙間になんか支えを入れて欲しいっス! そうしたら下にいる子を引っ張り出せるっスよ!!」
ティモの声がする。……持ち上げる?
そちらのほうを見ると、ティモが持ち上げようとしていたのは、私の体よりも大きな石材だ。
「うおぉぉぉぉっっ!!」
ティモが雄叫びを上げる。石材が持ち上がった。セロはすぐ近くに落ちていた、折れた足場材を手にしている。ティモが作った隙間をこじ開けるようにしてそこに突っ込んだ。同時にアロイが上半身を隙間に潜り込ませる。
「ベル! 手伝って!」
アロイの声に慌てて私も走り寄る。瓦礫の隙間に、土埃で汚れた白い手が見えた。
「ベルはこっちの手を握って。僕は反対側の手を握ってるから、せーので一緒に引っ張り出すよ。ティモとセロが支えてるうちに早く! いくよ、せーの!」
アロイの合図に合わせて、私は握った腕を引いた。アロイも同時に奥の腕を引く。ずるり、とエリノアの体が引っ張り出された。
エリノアの全身が出たところで、セロがエリノアの体を抱きかかえる。
「向こうまで運ぶぞ。ティモ、もう手を離していい」
セロが運んでいる間、アロイはエリノアの体に手をかざしていた。
歩道に寝かせられたエリノアは頭から出血していたし、服もずいぶん汚れていたがそれ以外は大丈夫そうに見えた。よかった、これなら……。
「……っ! 呼吸が止まった!」
アロイがエリノアの胸に手を当てる。
……え。呼吸、って……。
「脈も乱れてる。ベル、セロのポーチから造血の魔結晶を使って!」
アロイの声に私は慌てる。
「え、だって……出血なんて、いや、頭は出血してるけど……」
呼吸が止まったなんて、そんなはずない。さっき手を握った時、エリノアの手はまだ動いていた。
「骨盤を骨折してる! 目に見えないところで大きな出血があるんだ! 早く!!」
私はセロのポーチをさぐった。深紅の魔結晶はすぐに見つかる。そういえば、アロイから魔結晶をたくさんもらって補充したばかりだと言ってたっけ。
大きな出血と聞いたので、足りないよりはいいはずだと思って、深紅の魔結晶を2ついっぺんに使う。エリノアの体に押し当てて魔力を込めると、魔結晶はすぐにほろりと崩れていった。これが……これがエリノアを救ってくれるのか?
アロイはエリノアの全身を探るように手をかざしながら、セロに声をかける。
「セロ! 雷撃蘇生……AED講習は受けてる!?」
「年に2回。実践経験は過去に3回」
セロの答えにアロイが頷いて、エリノアの服の襟元と、脇の下あたりを破いた。もともと瓦礫にあちこちが引っかかっていたようで、服はあちこち破れかけていた。
「充分だ。残念ながら耐雷手袋がないけど……やってくれる?」
「チャージする。心マでしのいでくれ」
セロの返事にアロイは頷いて、エリノアの胸の上に自分の両手を重ねると、心臓マッサージを始めた。ぐ、ぐ、と規則正しく胸が押されて……あんなに沈み込んで大丈夫なのか。肋骨が折れてしまうんじゃないかと思うくらいに胸が沈み込む。
それを見ながらセロは両手で小さな玉を包むような形を作った。両手の指先が触れるか触れないかというくらいのサイズだ。
「【暖かな夏の空気、吹き込む冷たい冬の風、深く眠る泥のような黒雲……雲を泳ぐ紫電の魚、硝子の鱗に宿る氷の粒、きらめく極光の鰭……雷の妖精よ、我が両手に宿りその力を貸せ】」
セロが雷の妖精を呼ぶのは初めて見た。以前、一度見てみたいと言ったことがあるが、めんどくさいし痛いから嫌だと断られたのだ。
普段の大雑把な詠唱とはかけ離れた、長く丁寧な詠唱。
セロの手と手の間に黒い雲のようなものが湧き上がり、ぱちり、と小さな稲光のようなものが光る。そして雲の中から、濃い紫色の魚が浮かび上がった。セロの手の中でぐるりと身を翻した魚は、細長い流線型の体にそぐわないほど大きなひれを持っていた。背びれも胸びれもひらひらとしているけれど、尾びれにいたってはまるでドレスのように華やかだ。それらのひれは半透明な虹色に光っていて、雲の中を泳ぐごとに小さな稲光を生み出していた。
小さな稲光がパチパチと連続して音を出し始めた頃、セロが口を開いた。
「準備できたぞ、離れろ」
アロイが頷いて、駆け寄ろうとしている姉や、手を伸ばそうとしていた私を制する。
「離れて! この子に触らないで!」
アロイが我々を押しとどめたのを確認して、セロはエリノアの胸の真ん中あたりと脇のあたり、アロイが服を破いたところに手を当てた。
バン!と大きな音がして、エリノアの体が一瞬びくりと跳ね上がる。
「ひっ! エリーっ!?」
姉が悲鳴を上げる。私も声を上げそうになったが思いとどまった。話に聞いただけだけれど、あれは正式な蘇生の手順だ。
「大丈夫。あれで止まりかけた心臓を動かすんです」
フェデリカが姉の肩に手を置いてそう言ってくれた。
「え……あ……フェデリカさん……?」
「お久しぶりです。アンネリースさん」
「……っ!」
セロはエリノアの体から手を離していたが、両手のひらを開いたまま、何かをこらえるように声を押し殺している。眉間にも深く皺が寄っている。
私には使えない雷の魔法だけれど、雷撃による蘇生は、威力が強すぎても弱すぎても駄目だと聞いたことがある。それを学ぶための講習もあるという。さっきセロが、年に2回受けていると言ったのがそれだろう。そして、威力を調整するために余った雷の威力を、セロは素手で受けたのか。
「【湧き出ずる泉、癒やしの白虹】」
アロイは左手をエリノアの胸の上に置きながら、右手でセロの両手に回復魔法をかけた。
「耐雷手袋がねえと、どうしても反動があるな……」
「わかってる。あとでしっかり治療するから今はこれで我慢して。……そしてセロ、悪いがもう1回だ」
アロイは、エリノアの胸に置いたままの左手に右手を重ね、再び心臓マッサージを始めた。規則正しく両手を動かしながら、アロイは小さな声で回復魔法も詠唱している。
「……骨盤近くの大きな動脈の傷は塞いだ。もうすぐ造血の魔結晶の効果も出る。内臓や脳へのダメージは少ない。セロ、頼む!」
アロイが顔を上げる。
セロはもう2度目の詠唱を終えていて、手の中には既に先ほどと同じような黒い雲が湧き、紫色の魚がパチパチと光を放っている。
ゆらゆらと大きなひれを動かしながら舞う魚は、こんな時なのにひどく美しく見えた。
「いけるぞ、離れろ」
セロの声にアロイが両手を上げ、周囲を視線で押しとどめる。
それを確認してセロがエリノアに再び触れる。ドンッ!とさっきよりも少しだけ大きな音がして、エリノアの体がびくんと跳ねる。
「いっ……っ!」
上げかけた声を押し殺すようにして、セロがエリノアから離れる。震える両手を上げたまま、脱力したように尻餅をつく。
「【癒やしの白虹】!」
アロイが、エリノアとセロへ同時に回復の呪文を投げる。
「……あと1回くらいならいけるぜ?」
「いや……きた! 大丈夫、心臓は正常に動き出したよ。呼吸も弱いけど戻った! あとは……」
アロイがエリノアの胸や首元に手を当てて、状態を確認する。
心臓が……動いた?
「エリノア! 聞こえる!? ねぇ、お母さんよ! ここにいるわ!」
姉が這うようにエリノアの近くへ行って、彼女の手を握る。
「アロイ……大丈夫? エリノアは……助かった……?」
聞くのは恐いけれど、でもさっきアロイは心臓が動き出したと言った。呼吸も戻ったと言った。
「ああ、あとは頭の傷をもう少し……」
「だめ、待って!」
アロイに制止の声をかけたのは、私の後ろに立っていたフェデリカだった。
「……フェデリカ? どうかした?」
そう問いかけたアロイの隣にフェデリカが走り寄る。そして小さな声で言った。
「魂が……離れかけてるわ」
「そんな……! 蘇生は間に合った! 怪我は大きいけれど、今すぐにどうにかなるような状態じゃない!」
アロイの反論にフェデリカは首を振る。
「わかってる。……わかってるわ、見てたもの。でも、理屈じゃないのよ。大丈夫、ここからはわたしの仕事だわ。少し下がってくださる?」
フェデリカの声にアロイは一瞬悩んだが、それでも頷いてフェデリカに場所を譲った。
「フェ、フェデリカ……何を……魂って……」
魂が離れてしまえばそれは……それは……。
私のもごもごとした問いかけに、フェデリカは笑みを返した。
「あなたは取るものも取りあえず駆けだしていったけれど、わたしは念のために魔法陣や魔道具を持ってきてたのよ」
フェデリカが握っていたのは、少し前……昼過ぎにリナに使っていた魔道具だ。薄緑色の卵形の魔石を細い銀線で絡め取ったような形をしている。
――あれは、結界の魔道具だ。魂の出入りを制限するための結界を張る……。
それをエリノアの胸の上に置いて、フェデリカは魔力を込めた。
「【濁りなき清冽な光、魂を包む温かな羊水、生を受けし者への恩寵、いかなる魂も通さぬ界となれ】」
普段ならフェデリカが詠唱する声はよく通る。けれど今は、まるでささやくような詠唱だった。
「……さっき、アロイさんのエリクサーの試作を飲んでいてよかったかもしれない。離れようとする魂を引き留めるのはなかなか魔力を使うわね」
フェデリカがそう苦笑する。でも、と彼女は続けた。
「成功したわよ。今のうちにベルナールのお店に運びましょう。そこのほうがちゃんと治療できるでしょう?」
「わかった。――担架……は無いか、ティモ! 戸板のようなものか、なければベルの店からベンチを持ってきれくれないか!」
アロイがそう叫ぶと、ティモはそれまでセロの背後で何か作業をしていたが、さっと立ち上がって手に持っていたものを差し出す。
「担架、作ってたっス! 村で、馬鹿みたいにでかいマグロが釣れた時なんかは、布と木材とロープでこういうの作って運んだっスよ!」
差し出されたものは即席の担架だったが、強度は充分そうだった。
周囲の状況を読んで、蘇生に関して自分が手伝えることがないと悟ったティモは、すぐにその後のことを考えたのだろう。「オレ、パカれないっスから」と言っていたティモは、今、ちゃんと周囲を“パカって”、私よりも格段に役に立っている。
「ティモ……最高だ!」
満足そうに微笑んでそう言ったアロイは、落ちていた足場の布を手に取ると、エリノアの腰回りと膝をぐるりと巻いて固定した。
「ティモ、そこにある土嚢の中身を3分の1くらいに減らして」
「ウッス!」
アロイの指示にティモはすぐ、工事現場に置かれていた土嚢を手に取った。その中身を躊躇無くぶちまけ、少しだけ残してアロイに手渡す。
「担架に乗せたらこれで頭と首まわりを固定しよう。僕とティモで運ぶよ。ティモは頭側にまわって」
「高さが合わないわ。わたしが足のほうを受け持つわよ。大丈夫、わたしはそんなにか弱くないわ。――アロイさんは多分、セロさんに手を貸したほうがいいと思うのよ。ベルナール、あなたはアンネさんに付き添って!」
フェデリカが言う。確かにティモとアロイでは担架が傾き過ぎる。それにセロも道路に座り込んだままだった。
ティモとフェデリカが声を合わせて担架を持ち上げ、私の店へと向かう。アロイもセロに肩を貸している。私は姉を促して立ち上がらせながら、周囲を見回した。怪我人が何人か瓦礫の下から救出されたようだが、近くの診療所から回復術師も何人か来ているようだ。混乱はおさまりつつある。
アロイは、蘇生は間に合ったと言った。フェデリカは魂を繋ぎ止めるのに成功したと言った。
それなら大丈夫だ。エリノアは助かる。
「姉さん、大丈夫。私の仲間たちはすごいんだ。エリノアはあっという間に元気になるよ!」
私はそう言って、姉を励ました。
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