19.手紙<2>(セロ視点)
兄から通信が入ったのは3日後の夕方だった。
時計塔の広場で待ち合わせると、父親はそこにおらず、兄1人だけだった。
「夕飯まだだろう。ついでに美味い酒も飲める店があるんだ。一緒に行こう」
兄はぎこちなく、それでも笑いかけてくれた。
兄に案内された店は、路地裏にある目立たない店だったけれど、照明は温かな色合いで明るすぎず、内装もシックで心地よい空間だった。日本で言うなら隠れ家的ダイニングバーといった雰囲気だろう。
隅のほうのテーブル席に案内してもらう。兄がいくつかのメニューを選び、それでいいか、と俺に問いかける。
「あと、酒も飲めるんだろう。もともとセロはおれより酒が強かったからな」
俺が頷くと、お互いにしらふじゃないほうがいいこともある、と兄は微笑んだ。
テーブルに届いた酒のグラスを2人で手に取って、互いに無言で低い位置で掲げる。これは乾杯ではない。献杯だ。セロの魂への。文化や風習は違うのかもしれないけれど、気持ちは通じ合っていたように思う。
酒を一口飲む。樽の香りがした。少し甘めのブランデーだった。
「……まずは、親父と話し合ったことを伝える。セロの遺したものについては、君がそのまま使っていい。小屋も道具も金銭もだ」
兄がそう切り出した。
「それは……正直助かるけど……それでいいのか?」
「いいんだ。君は……ああ、そうだ。名前を聞いていいかな。君の、本来の名前を」
テーブルには料理も並び始めた。何かのチーズ焼きのようなものや、魚の燻製、オレンジ色のソースがかかったパスタ料理もあった。
「キタニ・リョウコ。キタニが家名だ」
「そうか、じゃあリョウコ。君は山小屋と道具があれば助かると言っていたが、狩人を続ける……いや、狩人を始めるつもりなのか?」
兄がそう尋ねる。稀人は目覚める以前とは別の仕事を始める者も多いと、冒険者ギルドでも聞いている。兄もそこを疑問に思ったのかもしれない。
「ああ……そう、確かに、しらふじゃないほうがいいか。兄さんの判断は正しい。……兄さんと呼んでもかまわないかな。正直、セロの記憶がずいぶん混ざってるから、俺としてはそのほうが自然なんだ」
「……かまわないよ」
兄はそう言って微笑んだ。何かを懐かしむような笑みだった。
「ありがとう。……俺は日本で死んだ時、32歳だった。希望通りの会社に就職して10年働いた。馬鹿みたいに忙しい時期もあったが、それなりに充実していたんだ。好きな仕事をやっていた。もっとやりたいこともあった。――でもそれは、突然の事故で断ち切られた」
兄のほうを窺うと、兄は真剣なまなざしで俺の話を聞いてくれている。
「だから、思ったんだ。セロも突然の事故で命を失った。体と記憶はここにあるけれど、魂はもういない。……セロにもやりたいことがあったんじゃないかって。山小屋を見ると、部屋は散らかってるし、服だって流行遅れのものばかりだったのに、狩りの道具だけは丁寧に磨き上げられていた。弓にも矢にも、細かく調整した跡がたくさんあった。……俺が日本でやっていた仕事は、やろうと思えばここでも再現できないこともないと思う。でも……」
なんとなく迷う。セロの身内の前で言っていいことなのかどうか。
「でも? その先は?」
「俺が……“私”がこれを、兄さんの前で言うのはおこがましいかもしれないけれど……思ってしまったんだ。セロが可哀想だ、と」
兄は……ヴィクトルは意外なことを聞いたというように目を見開き、それをごまかすように手元の杯を干した。店員を呼んで、同じブランデーを今度は瓶で注文する。
届いた酒を俺の杯にも注ぎながら、ヴィクトルはささやくように言った。
「……そう、思ってくれたのか」
「日本での私の人生は途中で終わった。それは仕方のないことだ。……兄さん、命なんて脆いよ。人はほんの少しのことで死んでしまう。突然、何の予兆もなく、何に気づくこともなく、死という真っ暗で深い深い穴に突き落とされる。――私だってもちろん後悔もあるし未練もある。けれど、こうやって“世界”を渡ってまで成し遂げたい仕事があるかと言われれば、返答に困る程度のことだ。それよりは、私がセロの体と知識、技術を受け継いだなら、使ってやりたいと思った。私が……“俺”が狩人をやっていきたい理由として足りているかどうかはわからないけど」
「リョウコ、君は……そうか、おれより年上なんだな」
「体は弟だよ」
なんだか複雑だ、と小さく笑って、ヴィクトル――兄は言葉を続けた。
「セロと同じ顔、同じ声なのに、こうやって君と話すと、確かに君がセロではないことがわかる。おれは、セロがそんな風に理路整然と迷いなく話すのは聞いたことがなかったし、そうやっておれの目をしっかりと見て話すのも数えるほどしかなかった。おれと親父が、この3日間話していたのはそのことなんだ。君はセロだけどセロじゃない。姿形は間違いなく本人だ。それは家族であるおれたちにはわかる。でも、話し方、立ち居振る舞い……そういったものが何もかも違う」
兄はそこで一度言葉を切った。手元の酒を一口飲んで、少し迷うように続ける。
「――これこそ、酒が入ってなきゃ言いにくいことだが……君はまるで、おれたちが望んだ……本来ならそうあって欲しいと思っていたセロなんだ。3日前に食事をした時もそうだった。ちゃんとした店を選び、気後れすることなく店員と話をして、もちろん髪も身なりも整ってた。背中を丸めることなく食事をして、人に何かを問われればきちんと目を見て、しかも感情だけで話さない」
ひとつひとつ数え上げるようにして、兄はそう言った。
「……でも、同時にこう思ったはずだ。背中を丸めてぼそぼそ喋るセロこそが、本当のセロなんだと」
俺はそう言わずにはいられなかった。
自分で言うのもなんだが、おそらく今の俺は元のセロの上位互換なのだろう。それは少し引っ込み思案だった21歳のセロの体に、リョウコという日本での30年分の経験が上乗せされているからだ。くわえて、日本での仕事柄というのもある。情報誌の編集なんかをやっていると、飲食店を見極める目は鍛えられるし、初めて入った店で雰囲気を読み取りつつ、おすすめを聞き出すのは必須技能だ。それに、日本で社会人として生活していれば、身なりを整えることも、感情を抑えて話すことも身につけざるを得ない。
けれど、上位互換であるかどうかなど、家族という関係には意味がない。
そして多分、俺がセロになったことで失われたものもあるだろう。遠慮がちな性格は優しいからだったろうし、身なりもかまわずにいたのは、それだけ狩人という仕事に熱中していたからだ。
俺の言葉に、兄は一度目を閉じて、小さく頷いた。
「ああ。……ああ、そうだ。だからおれと親父は思い知ったんだよ、セロはもうセロではないことをね。同じ顔、同じ声で、同じ記憶を持っていたとしても、君はセロではない。だが、君がセロの体を生かしてくれるなら……誤解しないで欲しいんだが、君は自分がセロであるということにとらわれなくていい。おれたちもそういう姿を望んでるわけじゃない。でも、狩人としてオスロンで生きてくれるというのなら……セロだったらそうあったはずだと、おれたちは、それだけで……」
救われる、と言いたかったのだろう。兄の言葉の後半は、涙の気配に震えていて、最後は声にならなかった。けれど、俺には伝わった。
俺は手元の杯を飲み干して、新たに酒を注いだ。料理にも手を伸ばす。
オレンジ色のソースがかかったパスタは、ウニのクリームソースだった。パスタは小指くらいの長さの細長いショートパスタで、ゆるくねじれが入っている。手打ちの生パスタなのだろう。もっちりとした食感と、港町らしく新鮮なウニがたっぷりと入ったクリームがよく合った。
「兄さん。俺は……別に義務とかじゃなく、セロの続きを生きてやりたいと思ったんだ。セロの技術が消えるのはもったいない。それに、この体は驚くほど目と耳がいい。狩人に向いているんだな。多分、俺はセロとしての生活を楽しめると思う。……たとえばこの先、何十年か後、今の俺も死んでしまった後に、俺はこの体で精一杯楽しんだ記憶をセロの魂に返してやりたい」
おまえの、途中で終わってしまった物語にはこんな続きがあったぜ、と。
「そんな説は……聞いたことがない」
言いながら、兄は寂しさと嬉しさがない交ぜになったような顔で、四角い顔をくしゃりとゆがめて笑った。
「あるかもしれないじゃん」
俺がそう言うと、兄は少し考えたあと、頷いた。
「……あるといいな」
「ああ。あるといい。……ところで兄さん、この酒も美味しいけど、頼んだ料理にはもっとすっきりした酒のほうが合うと思う」
「え? あ、ああ、そうか? 適当に頼んだだけだったから……どうする、頼み直すか」
浮かんでいた涙を手の甲で拭って、兄はそう言った。俺は頷いて提案する。
「瓶で頼んだこの酒は持ち帰ることにして……そうだな、辛口の白ワインか、甘くない蒸留酒にしよう」
俺は店員を呼んで、酒の相談をした。辛口の白ワインでいいのが入っていると聞いたので、それを頼む。
その様子を見ていた兄が、ぼそりと呟いた。
「……新しいセロだな。君がセロとして生きてくれるなら……おれたちはやっぱり兄弟でいよう。いや、いてくれ。その顔と声で兄さんと呼ばれるのは、やっぱり嬉しくて懐かしいんだ」
「じゃあ、“君”じゃなくて、“おまえ”でいいよ、兄さん」
「そうか。そうだな。……おまえはおれの弟だからな」
しばらく新しい酒と料理を楽しんだ頃、少し酔いがまわってきたらしい兄が言った。
「なぁ、セロ。おまえ、こないだ言ってたろう。女みたいな顔をからかわれて、それを気にしていたって」
「ああ。それで顔がよく見えないように前髪を伸ばしてたようだ」
俺がそう言うと、兄は頬杖をついて少し拗ねたように口を開いた。
「そういうのをさぁ……その時にちゃんと聞きたかったな。もったいなかったよ、せっかく整った顔立ちをしてるのに。――おれはさ、歳の離れた弟が可愛かったんだ。ただ、それと同時に少しうらやんでいたというか、嫉妬していたかもしれないんだよな。おまえの顔は死んだお袋によく似ててさ。妖精魔法を使うのもお袋の血を濃く受け継いでいるようで……それに、街よりも山のほうが好きで、子どもの頃から親父の狩りについてまわっていた。お袋に似てて、親父の仕事を継ぎたがってるなんて……おれは、おまえに勝てるものは勉強しかないんじゃないかと思ってさ……」
兄はぶつぶつとそう言っているが、セロの記憶の中の兄は、新しい本が手に入れば食い入るように読んでいたし、セロが学校をサボったと聞けば、もったいないと嘆いていた。多分、根っから勉強が好きなのだ。
「セロはセロで、勉強ができる兄さんを尊敬してたぜ? 大人と話しても如才なく立ち回れるのにも憧れた。自分の顔が好きじゃなかったから、兄さんの顔立ちは男らしくて格好いいと思っていたし、兄さんの明るい茶色の髪は親父と似ていて、それもうらやましかった。セロは気が弱くて、人見知りな自分が嫌で、だから親父と一緒に山に行くのを好んでいたのは、人間と関わらなくていいからだった」
「なんだよぉぅ、両思いだったんじゃないかよぅ……」
本格的に酔いがまわってきたらしい。テーブルに突っ伏しそうだったので、近くにあった皿やグラスをよける。
店の中は、ゆるやかに賑わっていた。騒がしくはないが、絶え間なく人の気配がする。
いつの間にか白ワインの瓶も飲み干してしまっていたので、俺は兄が最初に頼んであったブランデーの瓶をもう一度開けて、それを自分の杯に注ぐ。
テーブルに突っ伏しそうで突っ伏さない、ぎりぎりのところでゆらゆら揺れている兄の頭を見るともなしに見つめる。
――こうやって元の体の家族に会うと、この世界で自分の命が稀人として続くことに、何らかの意味を見いだしそうになる。けれど多分、それには意味などなくて、自然現象のようなものなんだろう。魂が世界を渡ったというのは、不思議なことではあるが、それはそれだけのことだ。
「セロ……親父が言ってたよ。雷には……絶対に気をつけろって……」
ゆらゆら揺れたまま、兄がそう呟く。
「そうだな、気をつけるよ。……ありがとう」
「確かめてこいって、言われてたんだ……。死んだセロへの義務感とか、そんなつまらないもののために、本来は違う魂が、セロのために犠牲になっちゃいけないって……親父はそう言ってたから……でも、本当に狩人をやりたいと思ってくれたなら、応援したいって……酔っ払う前にそれだけは言っておかなきゃいけないって、今思い出した」
「言っちゃなんだが、兄さんはもう酔っ払ってるよ」
俺は兄のために、冷たい水を頼んだ。
「あと、もうひとつ!」
がばりと身を起こして、兄は赤い顔で口を開いた。
「セロを……1人で死なせないでくれてありがとう」
「――俺が看取ったわけじゃない」
「それでもだ。リョウコの魂が入らなければ、山の中でひとり、雨に打たれたまま息絶えていたんだろう。セロはあまり街に下りなかった。発見がいつになったかと思うとぞっとする。稀人になってくれたから……おれも親父も、セロの最期を知ることができた。本当に……本当にありがとう」
酔っているはずなのに、そこだけははっきりとした発音で言って、兄は深く頭を下げた。
店員が水を届けてくれる。グラスには氷も入っていて、中でからりと音を立てた。
「なぁ……おれも、親父も、セロの魂を悼んでいるんだ。体は死んでないから墓も建てられない。葬式もできない。でも君が……おまえがいてくれるから、おれたちはまだ弔わなくていいのかもしれないって思える」
氷の入った冷たい水を一息に飲み干して、お代わりを頼みながら兄がそう言った。
「俺もだよ、兄さん。セロの体に入って、多分誰よりもセロを知る者として、俺もセロの魂を悼んでいる」
「そうか……ありがとう。じゃあやっぱり、おれたちは家族だ。……よし、セロ、今晩はおれたちの宿に来い。さっき話していたようなことを、親父にも話してやってくれ」
兄の言葉はまだ少し呂律があやしい。
「どっちにしろ、兄さんはその酔っ払い方じゃ、1人で宿まで帰れないだろ。連れていくよ。俺は弟だからな」
「でもここの勘定はおれが払うぞ。おれは兄貴だからな」
俺たちは互いに兄弟であることを確認するように、そう言って笑い合った。
――そうやって、兄の休暇が終わるまでの残り5日間を、俺たちは家族で過ごした。首都とオスロンとで離れて暮らしているから、そう頻繁に会えるわけでもないが、折に触れ、手紙は届く。俺のほうからも時折手紙を出している。
「あ、セロ! ちょうどいいところに!」
聞き覚えのある声に顔を上げると、狩人仲間のヘンリエッタが歩いてくるところだった。
「なにがちょうどいいって?」
「さっき、郵便配達人に行き会って、狩人組合宛てのをいくつか預かってきたんだ。その中にセロ宛てのがあったからさ」
ヘンリエッタは手に持っていた紙束から、封筒をひとつ取り出して、はい、と差し出してくる。
礼を言って受け取り、差出人を見ると兄貴からだった。
近況報告かなと思っていると、ヘンリエッタがそこに立ったまま、もじもじとしている。確か俺とほぼ同い年だ。昨年、結婚したが、子どもができるまでは狩人を続けると言っている。長く伸ばした焦げ茶色の髪は三つ編みでまとめていて、その髪型のせいかあまり人妻には見えない。
「あのさ、セロ。怒らないで聞いて欲しいんだけどさ」
「……内容による」
「半月前にセロが怪我したじゃない? ほら、モンテきっかけのアレ」
ヘンリエッタは意味もなく、持っていた紙束を数えたり、上下を入れ替えたりしている。
「ああ。組合行きつけの診療所で、こんなにいっぺんに怪我人出すなって怒られたな」
「そう。それなりに重傷者も出たじゃない? だから、組合としてはいつも通りに怪我人の身内に連絡したわけよ」
着替えを頼んだり、迎えを頼んだり、入院するならその手続きも必要になるから、それ自体は不思議なことじゃない。
「……まさか、ヘンリエッタ?」
「そう、セロのお兄さんにも手紙出しちゃったんだよね!」
「身内に連絡する場合はオスロン市内とその近郊だけだろ? そうじゃなきゃよほど重傷で死にかけてる場合だ。俺は一晩で退院したのに?」
じゃあさっき受け取ったこの手紙は……。
「しかもそれを、昨日、経費の計算するまで気づかなかったんだよね! なんで郵便代に高いのがひとつ混ざってるんだろ、って……。いや、ごめんね! ほんと、ごめん! ――あ、セロ! 乗り合い馬車来たよ! 待ってたんでしょ? じゃあね、また!」
ヘンリエッタが逃げるように走り去る。
俺は乗り合い馬車に乗り込んだ後、おそるおそる手紙を開いてみた。
思ったとおり、怪我はどうした、大丈夫か、何があったという心配の言葉がずらずらと並んでいる。
曰く、怪我をして診療所に運び込まれた、おそらくしばらく入院になると思うという簡潔な知らせが来たきり、続報がない、と。5日ごとに来る汽車を待って、そのたびに手紙がないかとやきもきしたが、今に至るまで続報がないと、心配半分、いらだち半分だ。
とりあえず無事でいるならこの手紙に折り返し返事をくれ、と書いてある。その下にはこれで返事がないようであれば、親父がオスロンに行くと言っている、と。
手紙を出さなければならないだろう。確かにしばらく入院の予定だったが、傷自体は塞いでもらったので、俺は一晩で出てきた。あとはアロイに会ったほうが早いと思ったからだ。
……次に首都に向かう汽車が出るのはいつだったか。あとで調べて、それまでに返事を書かなければいけない。
ヘンリエッタめ……余計な仕事を増やしやがって。




