幻覚の果て ヴァンパイアハンター
「ライアン、ライアン」
ライアンはオリバーに肩を揺すぶられて、いつの間にか眠りに落ちていたことに気がついた。
「大丈夫か? うなされていたぞ」
彼女は曖昧にうなずくと助手席で身体を起こし、こめかみに手をあてながら運転席のオリバーを見つめた。
「ここはどこですか? 私はどれくらい寝てましたか?」
窓の外はすっかり暗くなっていて通り沿いに人家はなく、道路の幅がやけに広かったが、すれ違う車はほとんどなかった。夜空には星も月も出ていない。
「もうすぐコロラド州のグランドジャンクションだ。お前が寝ていたのはせいぜい2時間くらいだ。それより夢の中で何か手がかりはつかめたか?」
「いいえ」と言ってライアンは目を伏せた。「すみません」
オリバーは首を振った。
「いや、構わない。今夜はこの街に泊まるぞ」
いくつかの森を抜けるとようやく街の明かりがぽつぽつと見えてきた。夜も8時近くになり、長時間同じ態勢で運転を続けていたオリバーの疲労はピークに達していた。彼はとりあえず今夜泊まる場所を確保しようと国道を降りると、一番最初に目についたモーテルに車を停めた。古くてパッとしないモーテルだったが、オリバーもライアンもそんなことは気にも留めなかった。ベッドで横になれさえすればどこだってかまわない。
オリバーは部屋を二つ取ろうとしたがライアンがそれを拒否した。老眼鏡をかけたカウンターの男は半分目を閉じたまま、いかにも面倒臭そうにツインの鍵をオリバーに手渡すと、再び背中を丸めて古いテレビ画面に目をやった。きっと年の離れた兄弟だと思ったのだろう。
部屋に入るとオリバーはすぐにジャケットを脱いでベルトから銃を取り出し、それを枕の下に押し込むと倒れこむようにベッドにうつ伏せになった。
「腰と肩がパンパンだ」とオリバーは枕に顔を埋めながら独り言のように言った。
セントジョージから一睡もせず、ほとんど休憩も取らずに走り続けた結果、リンカーンまであと1000キロちょっと手前にまでたどり着いた。
ライアンはうつ伏せで横になっているオリバーにそっと近寄ると、立ったまま彼の肩に両手を置き、その手をゆっくりと腰まで下ろしていった。板のように硬く凝っていたオリバーの肩や腰の筋肉はすぐに柔らかくなり、身体から痛みが消えていくのが指先から感じ取れた。それは普段から鍛えられている成人男性のしなやかな筋肉だった。
「天使ってやつは便利だな。スポーツ選手専用のマッサージ師になったら一躍金持ちになれるぞ」
ライアンはうっすらと微笑んだ。 「本来誰にでもできるんですよ。それに私はもう天使じゃありません」
「誰にでもって俺にもか?」
彼女は短くうなずいた。「少しは運転代わるって言ったのに」
「お前に運転させるのはさすがにまずいだろ」
「案外気づかれないものです。ポートオーフォードからロサンゼルスまで一度も怪しまれませんでしたから」、彼女はそう言うとオリバーの身体から静かに指を離した。「明日は少し交代しますよ」
オリバーはそのままの姿勢でペットボトルの水を飲むと、さきほどコンビニで買った新聞とタブロイド紙をライアンに手渡した。
「俺は鍛えているから平気だ。明日は早くここを出るぞ。深夜にはリンカーンに着く」
ライアンは新聞を受け取って机の上に置くと、椅子に座って目を通した。
新聞には近くの森で釣りをしていた40代の男性二人が何者かに襲われて死亡と簡潔に書かれていた。タブロイド紙には新聞には書かれていない生き残った目撃者の証言が掲載されていた。二人は目に見えない何かに忽然と捕まり、ものすごい力で森の奥へ引っ張られていったという。貴重品が荒らされた様子はなかったことから、警察の見解は動物に襲われたとなっている。
ライアンは目に見えない何かという一文が引っかかった。その他にもここグランドジャンクションでは数カ月以内に牛の大量死と激しい気温の変化が頻発していた
彼女は新聞に視線を落としながら言った。「オリバーさえ迷惑でなければ、そんなに先を急がなくてもいいんです」
「いや、お前を安全な場所に連れて行くことが何よりも優先だ」
ライアンは昨日オリバーがしたように、集中して紙面の文字を指でなぞってみたが、何も感じ取ることはできなかった。
「この記事からは死者の声は聞こえてこなかったんですか?」
彼はテレビのチャンネルを変えながらプロテインバーを取り出すと、おもしろくなそさうにそれを食べはじめた。
「毎回は出来ない。そもそも出来ることの方が難しい」
ライアンは目を細めて文字を追いながら軽く首を傾げた。
「確かにいろいろ引っかかりますね。天候がおかしいのも悪魔の兆候かもしれません」
「どうだろうな。明日とりあえず警察に行って被害者について聞き込みをしてくる」
彼女は新聞から顔を上げるとうなずいた。「そうしましょう」
オリバーはプロテインバーを持っていた手を止めると僅かに眉をひそめた。「いや、違う違う。お前をリンカーンまで無事に送り届けるのが先だった」
「ねえ、もう時間がないんです。少しでもおかしいと思ったらためらわずに行動するべきです。だってその孤児院は逃げませんよね」
「リチャードは帰る家のない子供達をいつでも受け入れる」
彼女はしばらく目を細めていた。それから言った。「私は集中して相手の身体に触れれば表層意識の一部を読むことができます。ほんの短い時間ですが記憶を消すことだってできます。軽い怪我ならその場で治せます。この指輪があるので武器の出し入れも自由にできます」
オリバーは包み紙を丸めてゴミ箱に捨てた。「空港の手荷物検査は意味がないな」
「私はあなたの役に立てると思います。だから……」
「ライアン、その指輪を少し貸してくれるか?」
話の途中で言葉を遮られたライアンは、一瞬困った表情を浮かべてから指輪を外すと静かに立ち上がり、ベッドで寝転がっているオリバーに手渡した。オリバーはライアンの手から指輪を受け取ると身体を起こし、神妙な顔つきでいろんな角度から指輪を眺めはじめた。
「この指輪も誰にでも扱えるのか?」
「ある程度訓練をすれば小さな子供ににだって使えます。天使達はその指輪を全員持っています」
「誰にもらったんだ?」
「それは覚えていません。気がついたらありました」
「まあそう言うとは思ったよ。どっちにしろ名前を聞いたところでわからんがな」
オリバーは姿勢を正し、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。彼女は軽くうつむいて黙っている。
「役に立つとか立たないとかいう問題じゃないんだ。過去がどこの誰であれ実年齢は違うにせよ、現実世界のお前はまだ14歳の子供だ。背負わせたくない」
「もう背負っています」とライアンはいくぶん冷ややかな声で返答した。「一生つきまとうものです」
彼はしばらくそれについて考える。
「たしかにそうだ。お前は普通のガキじゃない。すでに背負っている。だが俺と違って引き返せる余地がある。リンカーンから学校に通って友達や恋人を作れ。それから一生かけて出来る範囲で人助けをしていけばいい。それが人間に生まれ変わったお前に出来る償いだ。時間がたてば昔の家族のことも思い出すだろう」
「でもオリバー、やったことは帳消しになんて出来ません。それに必ず天使か悪魔に見つかって連れ戻されるか殺されます。だったらせめて最後まで抵抗したいんです」
「リチャードは地上で一番力のある魔術師だ。なんとかお前を匿ってくれる」
「でも私はその人を知らない。それに今更学校なんて――」
オリバーは一度咳ばらいをすると、ポケットから財布を取り出して指輪と一緒にライアンに渡した。
「これで話は終わりだ。俺はもう疲れたから寝るぞ」
彼はそう言って枕に深く顔を埋めると、頭から毛布をかぶって身体を丸めた。
「ここまで来て逃げるなよ」
彼女は財布を受け取るとしばらくそこに立ち尽くしていた。オリバーはあっという間に安らかな寝息を立てて眠りに落ちてしまった。
ライアンは窓辺に立ってカーテンを開くと、遠くにそびえる岩山と鈍い光を放っている複雑な形の指輪を交互に眺めた。それから油性マジックで手の甲に描かれた紋章を見つめる。
「そんなに簡単にはいかない」と彼女は小さく呟いてみる。
翌日、ライアンはダウンタウン中心地にある大きな公園の噴水の前でベンチに座り、操作方法が細かく色分けされて書かれたメモ帳を片手にパソコンを操作していた。そのメモはオリバーが彼女のために作成したものだった。ところどころしるしをつけられている綺麗な文字は大雑把なイメージのオリバーとはいくぶんそぐわない気がした。
ライアンは近づいてくる人影に気がつくとパソコンの画面から顔を上げた。
「おかえりなさい」
今日のオリバーは髭を綺麗に剃って高価なスーツに身を包み、ネクタイをきちんとしめていた。こうやって見るといくらかアウトローなやり手の刑事に見えた。彼は片手にファーストフードの入った紙袋を持ち、もう片手に飲み物が二つ載っているカップホルダーを持っていた。
「ずいぶん待っただろ。だから部屋で待ってれば良かったんだ」
「大丈夫です」
彼はカップホルダーをライアンに突き出すとライアンの隣に腰を下ろした。彼女はお礼を言って温かいカフェオレを受け取ると、パソコンの蓋を閉じて傍らに置いた。
「警察はどうでしたか?」
「ケイトって警官からいろいろ聞いた。首にタトゥーの入れてあるセクシーな美人だった」
ライアンは瞬きをすると、わずかに眉をひそめた。「そんな情報いりません」
「ああそうだな」、オリバーは小さく肩をすくめると袋の中からチーズバーガーを取り出して食べはじめた。「ネットやテレビにも出ていない情報をケイトから仕入れた。発見されたとき被害者の二人は身体にほとんど血が残っていなかった」
ライアンは手の中にあるカップを見つめたまま沈黙した。
「連携のとれた恐ろしく素早い動きに血のない死体。吸血鬼だ」
「間違いないんですか? まだ残っていたんですか?」
「魔女と一緒で人間とは見分けがつかない。しかもたちの悪い事にやつらは仲間を増やせる。根絶やしにするのはこれから先も難しいだろうな」
「でもこの街では悪魔の兆候が起きています。これは吸血鬼と関係ありませんよね?」
「悪魔が取引する相手が人間だけとは限らない」
ライアンは両手の指を組みしばらく考え込んだ。
「悪魔が吸血鬼の魂を欲しがるとは思えません。結界の原動力は人間の魂です」
「吸血鬼に魂の回収を手伝わせているのかもしれんぞ」
ライアンはひと呼吸置いてから言った。「オリバーは魔女や吸血鬼を知っているんですか?」
「魔女とは腐れ縁だ。吸血鬼はこれまでルーマニアとシカゴで2回退治している」
「ひとりで退治したんですか?」
「吸血鬼は基本的に単独では行動しない。家族かごく近い血縁で集まって街から街へと移動している。当然こちらもチームを組む」
オリバーが紙袋を親指で差しながら言った。「まあいいから食え」
ライアンは紙袋の中からチーズバーガーを取り出し、ゆっくりと時間をかけて食べはじめた。吸血鬼に魔女、とオリバーは言った。吸血鬼。呪われた不死者。
二人は長いあいだひとことも口をきかなかった。噴水の水飛沫がまぶしく輝いている太陽の光を反射している。足元に雀の群れがやってくると、雀たちはそれぞれ散らばってからくちばしで地面をつついた。オリバーがパンを小さくちぎって地面に投げた。雀たちは急いでパンのかけらをつつくと、またひとつになってどこかに飛び去っていった。
ライアンは自分の背中にも翼があればいいのにと思う。思い出せないほど遠い昔、確かに自分の背中にも一対の翼があった。もしできることなら今すぐポートオーフォードまで飛んで行き、海岸沿いに立つ赤い屋根の家に戻って心からあの親子、とくにライアン少年に謝りたい。もちろん謝って済む問題ではない。復讐されても仕方ないと思う。
彼女はやりきれない気持ちで空を見上げた。チャーリーは今ごろどうしてるだろう? ありがとう天使さんと指でなぞられたとき彼女は茫漠とした胸騒ぎを感じた。けれど彼女にはどうすることもできなかった。
ライアンは隣に座っているオリバーのことをそっと見つめた。彼はふたつの目できらきら光る水の流れを凝視していた。そのうっすら青みがかった鉄灰色の目は冷たく、ガラスのように澄んでいた。 オリバーはセントジョージを出てからひと言もチャーリーについて語らなかった。しかし彼の瞳は彼の舌が発音出来ない言葉を雄弁に物語っていた。それは初めてオリバーにあった時から終始一貫して彼女が感じていたことだった。
彼女はオリバーに地獄から生きたまま戻ったということについて尋ねようかと考えたが、思い直してやめた。オリバーはきっと何も話さない。仮に話したとしてもそれが今何かの役に立つとは思えなかった。
オリバーは流れ続ける水をしばらく眺めていた。それから口を開いた。
「天国はどんなところなんだ?」
ライアンはオリバーの横顔に向かって言った。「完全に覚えているわけではありませんが、広くてとても美しいところです」
「俺の母親がそこにいるかどうか確かめることは可能か?」
ライアンは彼の目をしばらくじっと見つめた。
「私には出来ません。お母さんはいつ頃亡くなったんですか?」
「ずいぶん昔のことだ」
オリバーは腕時計に目をやった。そして立ち上がった。夕暮れまでにはまだ時間があった。
「お前は引き続きこの街で起きている前兆について調べてくれ」
彼は思い出したようにポケットから小さなビニール袋を取り出してそれをライアンに見せた。袋の中には白くて小さい石ようなものが入っている。
「これが吸血鬼の証拠だ。警察から拝借してきた」
それは鋭利な牙だった。彼女は袋に顔を寄せ、その牙を間近で観察した。
そのとき何の前触れもなく光がぐらりと揺れると、ライアンの瞳は薄暗くて深い森の中を映し出した。気がつくと彼女は非現実的なほどに美しい月に照らされた、木に覆われている獣道の真ん中で見たことのない古い椅子に座っていた。
「なにこれ……?」、ライアンは知らないうちに声に出してしまう。
月明かりの下ではかさかさという葉の揺れる小さな物音が不思議な響き方をした。夜の森の冷たさと湿気を含んだ緑の香りをライアンは鮮やかに感じ取ることができた。
少し先に知らない男の大きな後ろ姿が見える。心臓が小刻みに音を立てる。彼女は息を整えてから立ち上がると椅子の上にカフェオレのカップと食べかけのチーズバーガーを置いた。
――ライアン? どうした?――
隣に居たはずのオリバーの声がずっと遠くのほうから聞こえてくる。
獣道を抜けた小高い場所には、葉の多い木と背の高い雑草に覆われている丸太で組んだ山小屋が見える。しっかりとした足取りで前を歩いている長身で体格のいい男は、ところどころが破れている革のコートを羽織り、革のブーツを履いている。肩には猟銃が下げられている。緩やかな銀色の長い髪は後ろでひとつにまとめられている。
男は足場の悪い場所で一旦足を止めると、背後にいるライアンに振り返り、こちらに向かってたくましい腕をそっと伸ばした。
男の顔立ちは霧がかかっているようにぼんやりしていて細かくはわからなかったが、顎には銀色の長い髭を生やしているのが見える。
彼女は差し伸べられた大きな手を掴もうと思いきって男に手を伸ばした。その懐かしい大きな手に触れてみたいと彼女は思う。掴んだら決して離してはいけない。さもないと二度と触れることはできない。遠くからオリバーの声が聞こえる。
――ライアン聞こえるか? 何が見えている?――
ライアンは手を伸ばしかけたまま短く首を振る。彼女は自分がいま古い記憶の中にいることに気がつく。
「大丈夫です。聞こえています」
父さん、と彼女は声に出さずに小さく唇を動かしてみた。
差し伸べられた懐かしい手の持ち主は100年前に海に沈んだ父親だ。彼女ははっきりと理解する。100年前の私は家族と一緒に吸血鬼を狩っていた。吸血鬼の群れを追って船に乗り込み新大陸を目指したのだ。それが生業だった。
父親はライアンの手を力強く握ると彼女をそっと自分の方へ引き寄せて肩を優しく叩いた。彼の薄い唇が意味のある言葉を形作ってゆっくりと動いた。その低くて穏やかな声はひどく小さく、耳を近づけないと聞き取れない。
やがて煙が宙に吸い込まれていくように父親の気配が薄らぎ、あたりの情景も蜃気楼のように消えていった。
すぐに場面が切り替わると、今度はがらんとした場所に建つ廃墟と大きな十字架が見えてきた。廃墟のそばを流れている川の水が月光の下で青く渦巻いている。水が水を削る音がする。建物の前には数台のバイクとピックアップトラックが停まっている。消えかかっている焚火の炎と煙が見える。
「大きな十字架と車が見えます」
――まわりの景色と車のナンバーをよく覚えておくんだ――
ライアンはうなずいた。
廃墟から何人かの笑い声がして、建物の中から一人の男が飲みかけのビールを片手におぼつかない足取りで出てきた。男はライアンに気がつくと何事かを大声で喚いてから銃を構えた。彼女はほとんど反射的にしゃがみこんできつく目を閉じた。
オリバーは膝をつき、ライアンの薄くて小さな肩を二度強く叩いた。
「ライアン! 何が見えたんだ?」
ライアンは先ほどまで座っていたベンチから3メートルほど離れた場所で地面に両手をついて座り込んでいた。
「十字架と廃墟です。廃墟のそばには川が流れていました」
「車のナンバーは覚えているか?」
彼女は閉じていた目を開くと大きく息をつき、オリバーに向かってうなずいてみせた。
オリバーはすぐに立ち上がってベンチに戻ると、パソコンを操作し始めた。
「今すぐ交通カメラをハッキングする」
ライアンは首を捻って頭上に広がる雲の多い青空を見上げた。いったいどこまでが現実なのだろう、と彼女は思った。高い空ではジェット機がものすごいスピードで雲と雲のあいだを横切っていった。
いつの間にか目からは涙がこぼれていて、頬を濡らすのが感じられた。涙は唇の端にも流れてきた。彼女は泣いているのをオリバーに悟られぬよう、彼に背を向けたまま高い空を見続けた。
100年だ。あれからもう100年も過ぎてしまった。きっと自分はあの深い森の中で今も両親を探し続けて迷子になっているのだ。彼女はそう確信する。
冷たい海からひとり助け出され、あの荒涼とした岩だらけの星に置き去りにされたのはせいぜい5年か6年だったはずなのに、地上では100年もの時間が経過していた。せめて両親の名前だけでも思い出せればいいのにとライアンは思う。
現代のアメリカは彼女の想像できないことで溢れかえっていた。カメラのついた薄い電話。信じられないほど大きなクルーズ船。世界中に繋がっているコンピューター。たとえ完全に記憶を取り戻しても知っている人間はもう誰一人として地上に生きていない。
彼女は指で両方の瞼を押さえると考えるのをやめる。確かめようのないことをどれだけ考えても息苦しさがひどくなるだけだ。
父さん、とライアンは答えを求めるように空に向かって小さく口にした。
父親の薄い唇は、彼女に向かって祈りの言葉を紡いでいた。
――今からでも遅くはない――
父さん、と彼女はもう一度空に呼びかけた。
――君が闇を照らす光となりなさい。君が彼らを導くんだ。私の意思を継いでくれるね――
ライアンはうなずいた。
「わかりました」と彼女は声に出して言ってみた。




