1.魔力ゼロの少年と、ちょっと変わった幼なじみ
「ふっ!」
踏み込みと同時に、右拳を突き出す。
拳の先で空気が鳴った。
続けて左の正拳突き。半歩下がり、腰を回して前蹴りを放つ。
「……よし」
朝露で濡れた地面を踏みしめ、俺は構えを解いた。
「カイル! また朝っぱらから妙なことやってんのか!」
畑の向こうから父さんの声が飛んできた。
「空手だって。何度も言ってるだろ!」
「はいはい。畑を手伝う体力も残しとけよ!」
父さんは笑いながら仕事に戻っていった。
現在、朝の五時過ぎ。
俺の名前はカイル。十四歳。ベルク村で農業を営む家の次男だ。
そして、前世の記憶を持っている。
前世では日本に暮らし、人生の大半を空手に費やした。
試合で勝ったこともあれば、負けたこともある。後輩を指導した経験もあった。
世界最強だったわけじゃない。
ただ、空手が好きだった。
赤ん坊としてこの世界に生まれ変わり、物心がつく頃に前世の記憶を取り戻した俺は、再び空手を始めた。
ところが、この世界では事情が違う。
人々は魔力を使って火を起こし、水を操り、身体能力まで高める。
鍛えられた騎士なら、魔力による身体強化で大木を斬り倒すことさえあるという。
そして俺には、その魔力が一切なかった。
五歳のとき、村に来た神官に調べてもらって判明した。
魔力量、ゼロ。
神官は気の毒そうな顔をし、父さんと母さんはひどく落ち込んだ。
兄さんは幼い俺を慰めようと、お菓子を半分くれた。
いい家族である。
当の俺は、それほど気にしていなかった。
魔法が使えれば便利だとは思う。
でも、ないものは仕方ない。
前世だって、才能に恵まれた人間はいくらでもいた。それでも稽古をやめようとは思わなかった。
だから今も、こうして拳を突き出している。
「カイルー!」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、淡く金色を帯びた銀髪の少女が小走りで近づいてくる。
リリアだ。
俺と同じ十四歳で、家も近い幼なじみ。
腰まで伸びた綺麗な髪と、大きな青い瞳を持つ、村でも評判の美少女である。
ただし、少し人見知りが激しい。
「おはよう、リリア」
「……お、おはよう、カイル」
リリアは小さく微笑むと、持っていた包みを差し出した。
「……これ、お母さんと焼いたの。よかったら」
「パンか?」
「……うん。蜂蜜入り」
「ありがとう。ちょうど腹が減ってた」
受け取って一口かじる。
ほどよい甘さで、なかなか美味い。
「うん、美味い!」
「……本当?」
「ああ。前より上手くなったんじゃないか?」
「……えへへ」
リリアが嬉しそうに目を細めた。
昔から、俺に何かを作ってくるのが好きな子だ。
料理だけでなく、服のほつれを直してくれたり、稽古で使う布を用意してくれたりする。
ありがたいことだが、少し世話を焼きすぎる気もする。
「じゃあ、村に戻るか」
「……うん!」
リリアが隣に並んだ。
そして、当然のように俺の袖を掴む。
昔からこうなので、特に気にしていない。
◇
ベルク村は、王国の北西部にある人口三百人ほどの農村だ。
近くには森が広がり、さらに北へ進めば魔族の領土との境界地帯がある。
もっとも、国境まではかなり距離がある。
村人たちが戦争を身近に感じる機会は少ない。
「おっ、カイル!」
中央広場に入ると、大柄な少年が声をかけてきた。
エドだ。
俺より一歳年上で、村の自警団に所属している。
「ちょうどいい。手合わせしようぜ!」
「朝から元気だな」
「昨日、新しい身体強化のやり方を教わったんだ。試したいんだよ」
エドは拳を握り、にやりと笑った。
こいつとは何度も手合わせをしている。
身体強化を使うエドと、魔力を使えない俺。
力も速さもエドが上だが、今のところ負け越したことはない。
「いいぞ。ただし、怪我するなよ」
「それはこっちの台詞だ!」
広場の端で向かい合う。
エドの両腕に淡い青い光が走った。
身体強化だ。
「行くぞ!」
エドが一気に踏み込んできた。
速い。
だが、踏み込みが大きい。
俺は右拳を半歩横へ動いてかわした。
続く左拳を受け流し、エドの重心が前へ移った瞬間、軸足を払う。
「うおっ!?」
体勢を崩したエドの肩を軽く押す。
どさり。
エドが尻餅をついた。
「……また負けた」
「速くなった分、止まりにくくなってるぞ」
「くそっ! 身体強化を強くしたのに!」
「力を増やせばいいってものじゃないさ」
俺は手を差し出した。
エドは悔しそうにしながらも、その手を取った。
「次は絶対勝つ!」
「楽しみにしてるよ」
「……カイル!」
木陰で見ていたリリアが駆け寄ってきた。
「今のすごかった! エドの右拳を避けたとき、ほんの少ししか動いてなかったでしょ? それに二発目を受け流す前から足の位置を変えてたし、最後もエドが怪我しないように押す力を調整してたよね! 普通はあんなに自然にできないんだよ! 特にカイルの間合いの取り方は去年よりずっと上手くなっていて……」
「リ、リリア?」
「……あっ」
彼女が口を閉じた。
数秒後、顔が真っ赤になる。
「……ご、ごめんなさい」
「いや、いいけど。よく見てたな」
「……毎日見てるから」
即答だった。
そういえば、六歳くらいの頃からずっと稽古を見に来ている気がする。
エドが何か言いたげに俺を見た。
「……お前、気づいてないのか?」
「何が?」
「いや、いい」
なぜか呆れられた。
「カイルー!」
今度は赤毛の少女が手を振りながらやってきた。
ミナだ。
俺たちと同い年で、村のパン屋の娘である。
「さっきの見てたよ! やっぱり強いね!」
「ありがとな」
「ねえ、今度あたしにも教えてよ!」
「構わないぞ。最初は足運びからだけど」
「本当!? じゃあ明日の朝とかどう?」
「明日なら……」
きゅっ。
袖が引っ張られた。
「……カイル」
「ん?」
リリアが笑っていた。
「……明日の朝は、私と約束してたよね?」
「え?」
そんな約束をしただろうか。
「……してたよね?」
にこっ。
「……ああ、そうだったかな」
「……うん。そうだよ」
何だろう。
逆らってはいけない気がする。
「悪い、ミナ。また今度でいいか?」
「うん! 楽しみにしてるね!」
ミナは元気よく手を振り、去っていった。
その背中をリリアがじっと見つめている。
「……ミナちゃん、最近カイルとよくお話しするね」
「そうか?」
「……うん。昨日も一昨日も」
「よく覚えてるな」
「……覚えてるよ」
リリアは微笑んだ。
「……全部」
……全部?
まあ、いいか。
◇
昼過ぎ。
俺とリリアは、村外れの丘に座っていた。
大きな樫の木が一本立つ、子供の頃からよく遊んだ場所だ。
「ねえ、カイル」
「なんだ?」
「……将来、何になりたい?」
「そうだな。騎士も面白そうだし、冒険者にも興味があるかな」
「……騎士?」
「ああ。もっといろんな場所を見てみたいし、強い奴とも戦ってみたい」
リリアは少し考え込んだ。
「……魔力がなくても?」
「難しいだろうな。でも、挑戦してみないとわからないだろ」
「……うん」
彼女は俺の右手に目を落とした。
手首の少し上には、小さな傷跡が残っている。
七年前、リリアを魔物から助けたときのものだ。
俺たちが七歳だった頃、森から迷い出てきた狼型の魔物がリリアを襲った。
俺は近くの枝で魔物の注意を引き、彼女が逃げる時間を稼いだ。
最後は村の大人たちが駆けつけてくれたが、一歩間違えば二人とも死んでいたと思う。
「……あのとき、怖かったよね」
「まあな」
「……でも、カイルは逃げなかった」
「お前を置いて逃げられないだろ」
「…………」
リリアが俺を見つめた。
「……そういうところが、好き」
「ありがとう。俺もリリアのことは好きだぞ」
「……えっ」
「大切な幼なじみだからな」
「…………」
リリアの笑顔が止まった。
「……幼なじみ、かぁ」
「ん?」
「……ううん。まだ時間はあるし……」
何やら小声で呟いている。
相変わらず、よくわからない奴だ。
◇
夕方、村へ戻ると中央広場が騒がしかった。
村長が村人たちを集め、何かを説明している。
「カイル、ちょうどよかった!」
兄さんが声をかけてきた。
「何かあったの?」
「明日、王都から騎士団が来るらしい」
「騎士団?」
「ああ。若い連中の魔力を測って、才能のある奴を王都へ推薦するんだと」
どうやら、北方で魔族との小競り合いが増えているらしい。
王国は将来に備え、各地から人材を集めているという。
魔力に恵まれた若者にとっては、大きな機会だ。
「……騎士団か」
本物の騎士が、どれほど強いのか。
少し興味が湧いた。
「カイルは……行きたい?」
リリアが尋ねた。
「王都か? 機会があれば行ってみたいな」
「……そっか」
「お前なら推薦されるかもしれないぞ」
リリアの魔力量は、昔から村でも有名だった。
生活魔法の練習で、井戸の水を全部吹き上げたことさえある。
本人はひどく落ち込んでいたが、普通の魔法使いには到底できない芸当らしい。
「……でも、カイルは?」
「俺は無理だろうな。魔力ゼロだし」
「…………」
「お前は気にせず行けばいいさ」
リリアは俯いた。
しばらくして、顔を上げる。
「……カイルは、私と離れても平気?」
「寂しいけどな。でも、せっかくの機会だろ」
「……寂しい?」
「ああ。毎日一緒だったからな」
リリアの表情がぱっと明るくなった。
「……そっか」
そして、何かを決めたように頷く。
「……大丈夫。ちゃんと考えてるから」
「何を?」
「……なんでもない!」
その夜。
リリアは自分の部屋で、花模様の手帳を開いていた。
中には、カイルについての記録がびっしりと書かれている。
好きな食べ物。
稽古の時間。
褒めてくれた言葉。
そして、カイルの素敵なところ。
すでに百三十七個。
「……カイルと一緒なら、どこでもいいんだけどな」
リリアは手帳の最後のページに目を落とした。
そこには、幼い文字で一つの願いが書かれていた。
『いつかカイルのお嫁さんになる』
「……騎士様にも、ちゃんと説明しなきゃ」
手帳を胸に抱き、リリアは微笑んだ。
「……カイルのすごいところ、全部」




