第二話 王家からの要請
お楽しみいただければ幸いです。
王宮からの書状が届いたのは、書庫の利用時間を増やしてもらってから、数日後のことだった。
ささやかな許可ひとつで、思っていた以上に気分は上向いていた。
気がつけば、前世の記憶にある鼻歌を口ずさんでいるのを指摘されるほどだった。
それだけ、この屋敷の中では無意識に気が緩んでいたのだと思う。
しかし、王宮の名を聞いた瞬間、その緩みがすっと消えた。
代わりに、胸の奥に薄い緊張の膜が戻ってくる。
その急激な変化に、自分でも少しだけ驚きを覚えた。
朝食を終えたユリアナは、応接室へ呼ばれていた。
テーブルの上には王家の紋章が入った封書が置かれている。
嫌な予感しかしなかった。
「開ける前からそんな顔をするものではないぞ」
エドワードが苦笑する。
応接室には、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
しかし、磨かれたテーブルの上に置かれた王家の封書だけが、そこだけ温度を持たないように暗く冷たく感じた。
「こういうものは、だいたい良くない話です」
ユリアナは封書を見たまま、淡々と言った。
「随分と現実的だな」
「経験則です――」
ユリアナは短く言葉を切り、それ以上は続けなかった。
エドワードが封を切る。蝋が割れる小さな音が、やけに室内に響いた。
紙面に視線を落としたまま、彼はしばらく沈黙する。ほんのわずかな間だったが、その間がやけに長く感じられた。
やがて、深いため息が落ちた。
「予想通りだ――」
「何でしたか?」
ユリアナの声は、すでに警戒へと戻っていた。
「王族お披露目の儀についてだ」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気がわずかに変わる。
ユリアナは一拍置いて、すぐに口を開いた。
「お断りしてください」
即答だった。
間髪を入れない拒絶に、クラリッサが思わず肩を揺らす。
「まだ最後まで聞いてないわよ」
「聞く必要がありますか?」
ユリアナは視線を上げることなく言った。
王宮からの要請という時点で、負担と混乱を伴うことは明らかだった。詳細を聞くことで判断材料が増える余地よりも、負荷が増す可能性の方が高いと感じていた。
「ある――」
エドワードが短く言い切った。
「断るにしても、中身を確認し検討してからだ」
ユリアナは瞬きをした。
断ること自体に感情が寄っており、その前に確認すべき手順を一段抜かしていたことを認識する。
「理由を知らずに突っぱねれば、向こうの出方が変わる」
「……強硬になる可能性がある…と」
「そういうことだ」
ユリアナは小さく息を吐いた。
「合理的ですね」
「監査官だからな」
エドワードは平然としていた。
そして書状を机へ置く。
「王家としては、お前を正式な王女としてお披露目したい意向らしい。この書状は、その打診だ」
「今さらですね」
「今さらだな」
「私もそう思います」
ユリアナは頷いた。何の迷いもない。
「すでに半年遅れです」
「そうだな」
「そもそも十年間放置していました」
「そうだな」
「今さら式だけやって何になるのでしょう」
クラリッサが呆れたように二人を見る。
会話の方向性がおかしい。
「少しはオブラートに包みなさい」
「事実です」
「事実だな」
まるで反省していない。
クラリッサは小さくため息をついた。
この二人は、妙なところで気が合う。
「とにかく――」
エドワードが話を戻す。
「王家としては正式なお披露目を行いたい」
「私は行きたくありません」
即答だった。
「理由は?」
「多すぎます――」
その一言に、エドワードとクラリッサは少しだけ首をひねり、顔を見合わせた。
ユリアナはそれを気にせず、指を折り始める。
「まず作法です」
「うむ――」
「半年間学びましたが、王族として求められる水準にはまだ届いていません。貴族としても不十分です」
「確かに――」
「短期間に詰め込んでも定着しません」
「そうだな」
「作法を優先すると、一般教養の時間が削られます」
わずかに眉をひそめる。
「最近ようやく閲覧時間が増えたおかげで、歴史書にも手を広げられるようになったのに……」
「そこか――」
「重要です」
迷いは一切ない。本気だった。
前世風に言えば、本気である。
「さらに言えば――」
ユリアナは続ける。目がより真剣になった。
「私は王家へ戻りたいとは……関わり合いたいとすら思っていません」
部屋が静かになる。
口調そのものは穏やかだった。
だが、その意思だけは揺らぎがなかった。
「王宮に、良い思い出はありませんから……」
エドワードもクラリッサも何も言わず、ただ静かにユリアナを見ていた。
それが作り話や誇張ではないことくらいは、二人にも分かっていた。
「今の生活に不満はありません」
ユリアナは二人を見た。いつもの淡々とした視線の奥に、そこが自分の居場所だという静かな認識があった。
「好きなだけ勉強もできます」
「食事もとてもおいしいです」
「本もたくさんあります」
「そして……家族もいます」
最後の一言だけ、少しだけ言葉が柔らかくなった。
クラリッサの表情が、わずかに和らぐ。
「だから――」
ユリアナは続けた。
「わざわざ戻る理由がありません」
応接室に、しばらく沈黙が落ちた。
クラリッサは何も言わずにユリアナを見つめている。
やがてエドワードが口を開いた。
「気持ちは分かった」
短く言うと、書状を指で軽く叩く。
「ただし――王家はそう簡単には引かんだろうな」
クラリッサが眉をひそめる。
「どういう意味なの?」
「体面だけの問題ではないのだ」
エドワードは淡々と続けた。
「王家にとって“存在している王女”を正式に示さない状態は、政治的な瑕疵になる。
ユリアナの表情がわずかに曇る。
「今回の件でお前の存在は表に出た」
「……」
「いまさら隠し通すことも、放置することも難しくなっている」
静かな事実の提示だった――
感情ではなく、ただの現実として。
「つまり――」
クラリッサが小さく息を吐く。
「向こうにも向こうの簡単には引けない事情がある…ということね」
「そうだ――」
エドワードは短く肯定した。
その言葉に、ユリアナはわずかに視線を落とした。
ユリアナも理解していた。
これは感情だけで決められる話ではない。
理不尽だとは思う。
だが王家にも王家の引けない事情があることは理解できた。
「完全拒否は難しいでしょう」
そう言ったのは、考え込むユリアナを見ていたクラリッサだった。
「でも条件を出すことはできるのではないですか?」
ユリアナが視線を向ける。
「条件?」
「ええ――」
クラリッサは微笑んだ。
「嫌なことを全部条件にしてしまえばいいの」
ユリアナは顎に手を当てた。
条件付きで受ける――
確かにその発想には検討の余地がある。
拒否感のみが先に立っていたが、その方が現実的かもしれない。
――数秒後。
「王宮には泊まりません。必ずその日のうちに帰宅します」
クラリッサが目を瞬かせた。
帰宅――
ユリアナは何の迷いもなくそう言った。
「あなたと過ごす時間が確保できて嬉しいわ」
「王族の作法などの勉強は最低限」
「最低限で済ませるつもりなの?」
「……必要以上は不要です」
「書庫の利用時間は維持……できればもっと増やしたいです」
「それは王家とは関係ないのでは?」
「儀式が終わったら王籍離脱――」
エドワードが首をひねる。
「それは、検討の必要があるな」
「そして――」
ユリアナはそこで言葉を切った。
「今後、私への関わりは必要最小限にすること」
その場が静かになる。
それは単なる子供の意地ではなかった。
長い時間心の中に沈殿して、一つの形として浮かび上がってきた結論だった。
王家へ恨みがないわけではない。
だが復讐したいわけでもない。
ただ関わりたくないのだ。
ようやく手に入れた日常を失いたくなかった。
エドワードはしばらく考え込んだ。
王家の立場も分かるし、ユリアナの気持ちも理解できる。
だからこそ厄介だった――
やがて静かに頷く。
「伝えてみよう」
ユリアナはわずかに肩の力を抜いた。
条件が通る保証などない。
それでも、自分の意思を最初から無視されるよりはずっとよかった。
「通るでしょうか」
期待半分、不安半分。
そんな気持ちが少しだけ声に滲む。
「すべて通すのは難しいだろうな」
エドワードは正直に答えた。
安易な希望を持たせるつもりはない。
王家の事情を考えれば、それくらいは分かる。
「ですよね……」
ユリアナは肩を落とした。
とはいえ、自分でも無茶な条件が混ざっている自覚はある。
王籍離脱など、その最たるものだ。
むしろ一つでも通れば上出来だろう。
それでも――
王宮へ近づきたくない気持ちだけは、本物だった。
数日後。
予想外の早さで王宮から返書が届けられた。
そして、届いた返書を要約すると、こう記されていた。
一つ、王女としての地位は認める。
一つ、後見・保護・教育はライゼン家が行い、居住もライゼン家とする。
一つ、王宮は必要時に限り召喚を求める権限を有する。
ユリアナは紙を見つめる。
そしてぽつりと言った。
「呼び出されるんだ……」
「まあ、その程度はしようがないだろうな」
エドワードは淡々とした表情で言葉をかけた。
こうして、第十三王女ユリアナ・ド・アンジファーの正式なお披露目の儀が行われることになった。
ユリアナにとっては、不本意ながらも現実的な落としどころであった。
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