第六話 救う理由
6月15日12時10分に、ドアマットの【旧作&小話 置き場】にて、小話をアップいたします。
第六話以降とリンクしていますので、そちらもお楽しみ下さい。
茶会が終わってしばらくした頃だった。
晩餐会が始まるまでの間、王族たちは広間で思い思いに雑談や休憩を取って過ごしていた。
王族専用離宮の一角に設けられた広間には、窓から柔らかな午後の光が差し込み、壁際には季節の花が飾られている。
室内では侍女たちが静かに茶器を運び、王族たちは小声で会話を交わしていた。
穏やかな時間だった。
壁際の席で紅茶を口に運びながら、ユリアナは小さく息を吐く。
ようやく半分終わった。
お披露目の儀では、立つ位置も歩く速さも礼をする角度まで細かく決められていた。
急拵えで教え込まれた作法を思い出しながら、その通りに動けばよかった。
だが茶会や晩餐会は違う。
何を話し、どこで相槌を打ち、どういった距離感で接するべきか。
正解が見えないまま周囲へ気を配り続けなければならない。
その方がよほど疲れた。
隣ではクラリッサが静かに紅茶を口へ運んでいる。
その穏やかな横顔を見ると、少しだけ肩の力が抜けた。
「あと少しよ」
励ますような声に、ユリアナはカップを置いた。
「その言葉、今日だけで何回言いました?」
「さあ、三回くらいかしら?」
「いいえ、四回目です」
クラリッサは小さく笑った。
その笑顔につられて、ユリアナの口元もわずかに緩む。
その時だった。
乾いた音が広間に響いた。
陶器が床へ落ちたような音だった。
ユリアナは反射的に振り向く。
エレノアが椅子から崩れ落ちようとしていた。
近くにいた侍女が慌てて身体を支える。
「第六王女殿下!」
室内が慌ただしくなる。
王族たちが立ち上がり、侍女たちが駆け寄った。
ユリアナも席を離れる。
近付くにつれて状況がはっきりしてきた。
エレノアは胸を押さえ、小さく肩で息をしている。
顔色が悪い――
額には細かな汗が浮かび、呼吸をするたび喉の奥から苦しそうな音が漏れていた。
ユリアナは思わず足を止めた。
以前にも似た症状を見た記憶がある。
さらに近付くと、エレノアの首筋には赤い発疹が浮かび、浅く苦しそうな呼吸に合わせて胸が小さく上下していた。唇の色も良くない。
その光景を見た瞬間、前世の知識が一つの病態を結び付ける。
アナフィラキシーショック。
重度のアレルギー反応。
処置が遅れれば呼吸ができなくなる。
ユリアナは迷わず侍女へ向き直った。
「すぐに医務室へ運んでください!」
普段より強い声だった。
侍女たちは一瞬だけ動きを止める。
十歳の少女から飛び出すにはあまりにも切迫した口調だったからだ。
「で、ですが……」
「急いでください!」
その一言で、侍女たちはようやく我に返った。
担架の準備を指示する声が飛び交う。
ユリアナは第六王女の傍らへ膝をついた。
少しでも呼吸が楽になるよう身体を支えながら、その苦しそうな表情を見つめる。
まだ間に合う――そう信じたかった。
エレノアが医務室へ運び込まれる頃には、王宮内も慌ただしくなっていた。
侍女たちが廊下を行き交い、近衛騎士が人払いを行う。
それでも医務室の中だけは、不思議なほど静かだった。
窓から差し込む午後の光が寝台を淡く照らしている。
エレノアは苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた。
胸が上下するたびに喉の奥から細い音が漏れる。
呼吸は速く、額には汗が滲んでいる。
ユリアナは寝台の脇に立ち、その様子をじっと見つめていた。
少しでも呼吸が楽になるよう足の水平を保ったまま、上体を少し起こし、首元を締め付けていた襟を侍女に緩めてもらう。
根本的な治療ではない。
ここには注射薬も点鼻薬もない――
それでも呼吸を助けることはできる。
前世で何度も行った処置だった。
やがて医務室の扉が開く。
年配の医師が落ち着いた足取りで入室した。
慌てた様子はない。
侍女から状況を聞くと、エレノアの脈を取り、瞳孔を確認し、首筋の発疹にも一度だけ目を向けた。
そして静かに頷く。
「食あたりでしょう」
穏やかな声だった。
「殿下は数年に一度、このような症状を起こされることがあります」
「原因は分かっておりませんが、安静にしていれば落ち着いておりますので、今回も様子を見れば問題ありません」
侍女たちは安堵したように息をついた。
王宮付きの医師がそう言うのだから間違いない。
誰もがそう思った。
ただ一人、ユリアナだけを除いて。
食あたり――?
その言葉に、ユリアナは小さく眉を寄せた。
エレノアの呼吸は浅く、息を吸うたびに喉が苦しそうな音を立てている。
首筋には赤い発疹が広がり、その症状は短い時間のうちにも目に見えて悪化していた。
前世で診てきた患者の姿と重ね合わせれば、食あたりという診断にはどとても納得できない。
医師は侍女へ簡単な指示を伝え、そのまま退出しようとする。
ユリアナは思わず口を開いた。
「安静で済む状態ではありません」
室内の視線が一斉に集まる。
医師は足を止め、ゆっくり振り返った。
「どういう意味ですかな」
「呼吸が悪化しています。このままでは危険です」
医師は小さく眉を寄せた。
「お嬢さん――」
その声音は穏やかだった。
だからこそ、自分の診断を疑われるとは思っていないことが伝わってくる。
「私は長年王宮で診療しております」
「殿下も同じ症状を何度も繰り返しておられますが、その都度回復なさっています」
「心配する必要はありません」
そう言い残し、今度こそ医師は部屋を出ていった。
扉が閉まる音だけが静かに響く。
ユリアナは寝台へ視線を戻した。
第六王女の呼吸は少しも楽になっていない。
むしろ胸の上下は先ほどより大きくなり、息を吸うたび苦しそうに喉が鳴っている。
侍女たちは不安そうに主人を見つめていたが、誰も動こうとはしない。
医師が「安静に」と判断した以上、それに従うしかないと思っているのだろう。
前世の知識が冷静に状況を分析していた。
気道が狭くなっている――
このまま進行すれば呼吸はさらに苦しくなる。
早く処置をしなければならない。
その結論だけは迷いようがなかった。
そして同時に、医師の診断にも納得がいった。
この世界には、まだアレルギーという概念そのものが存在していないのだ。
原因不明の発作。
あるいは体質による急病。
おそらく、その程度の認識なのだろう。
第六王女がこれまで何度も同じ症状を起こしながら生き延びてきたのも、単に運が良かっただけかもしれない。
もし前世の記憶がなければ、自分だって同じような判断をしていたはずだ。
だから問題は医師ではない。
問題は――
けれど、その先でユリアナの思考は止まる。
自分には治癒魔法がある――
使えば助けられるかもしれない。
しかし、その力は誰にも明かしていない。
物置で倒れたあの日から、ずっと隠し続けてきた。
もし王宮へ知られたらどうなるだろう。
希少な力を持つ王女――
そんな存在を王家が放っておくだろうか。
ライゼン家へ帰れなくなるかもしれない。
静かな書庫。
クラリッサと囲む朝食。
新聞を読みながら時折こちらへ視線を向けるエドワード。
穏やかな日々が脳裏へ浮かぶ。
ようやく手に入れた居場所だった。
失いたくない――
その思いは、自分でも驚くほど強くなっていた。
ユリアナは寝台で苦しそうに息をする第六王女を見つめ続ける。
気付けば、胸元へ手が伸びていた。
指先に触れたのは、誕生日にもらった首飾りだった。
ほんの少し前まで、自分には誕生日というものがなかった。
祝われた記憶もない。
生まれてきたことを喜ばれた記憶もない。
それなのにライゼン家では違った。
花が飾られた。
食卓にご馳走が並んだ。
贈り物をもらった。
そしてクラリッサは、自分を抱きしめながら言ってくれた。
――あなたが生まれてきてくれてありがとう。
あの時は、なぜそんな言葉を掛けられるのか、本当の意味では分かっていなかった。
けれど今なら少しだけ分かる。
命が大切だからだ。
そこにいるだけで価値があるからだ。
だから――
目の前の命が失われるかもしれないのを、見ていることはできなかった。
そして、助けられる可能性があることも知っている。
それなのに、自分が失うものばかり考えていた。
その考えに気付いた瞬間、前世で働いていた医療現場の記憶が静かによみがえる。
薬が十分に届かない地域もあった。
検査機器がなく、限られた道具だけで診療を続けることも珍しくなかった。
それでも目の前に患者がいる限り、「助からないかもしれない」という理由で何もしない選択だけは取らなかった。
助けられる可能性が残っているなら、できることを考え、最後まで手を尽くす。
その積み重ねが、自分を医師にしていた。
患者を救うために医師になった。
その気持ちだけは、名前を忘れても、顔を忘れても、自分の中から消えていない。
ユリアナは静かにクラリッサを見上げた。
「クラリッサ様」
その呼び掛けに、クラリッサはすぐに隣へ来てくれた。
ユリアナは囁くような声で話しかける。
「説明は後ほどいたします」
真っ直ぐな声だった。
クラリッサは一瞬だけ目を見開き、すぐに柔らかく頷いた。
「ですが、このままでは第六王女殿下が危険です」
クラリッサは第六王女の顔を見つめ、それからユリアナへ視線を戻した。
問い詰めることはしなかった。
何か事情があることだけを理解したのだろう。
「助けられるの?」
「分かりません」
ユリアナは正直に答えた。
「ですが、何もしなければ助かりません」
短い沈黙が流れる。
やがてクラリッサは小さく頷いた。
「分かったわ」
ユリアナが何をしようとしているのかは分からない。
けれど、自分に何を求めているのかだけは理解できた。
クラリッサは侍女たちへ向き直った。
「第六王女殿下の容態が落ち着くまで長引くかもしれません」
侍女たちは不安そうな顔で振り返る。
「私たちはここについています。皆さんは看護できる態勢を整えてください」
「看護態勢、ですか?」
「ええ。夜になる可能性もあります」
クラリッサは落ち着いた口調で続けた。
「交代要員の確保、寝具や温湯の準備、必要な物品の確認。医師にも再度連絡を入れてください」
侍女たちは顔を見合わせる。
どれも不自然な指示ではなかった。
「承知いたしました」
代表の侍女が一礼する。
やがて全員が慌ただしく部屋を出ていった。
扉が閉まり、室内にはユリアナとクラリッサ、そして第六王女だけが残る。
「……ありがとうございます」
思わず口をついて出た。
クラリッサは優しく微笑む。
「後で聞かせてくれるのでしょう?」
「はい――」
「なら今は目の前のことをなさい」
その言葉に背中を押される。
ユリアナは寝台の脇へ歩み寄り、第六王女の手をそっと包んだ。
熱がある。
細い指先は汗ばんでいた。
この手を離せば、もう間に合わないかもしれない。
ユリアナはゆっくり息を吸った。
胸の奥で静かに魔力が動き始める。
体内へ入り込んだ原因を取り除く。
腫れた気道を正常な状態へ戻す。
呼吸を妨げている異常を鎮める。
前世の知識を手掛かりに、そう強くイメージしながら魔力を送り込んだ。
掌から淡い光が生まれ、第六王女の身体へ穏やかに溶け込んでいった。
光は激しく輝くこともなく、春先の窓辺へ差し込む陽射しのように静かだった。
治癒魔法の負担は軽くない――
額に汗が滲み、足元が少しだけ頼りなくなる。
それでもユリアナは手を離さなかった。
少しずつ、第六王女の呼吸が落ち着いていく。
肩の上下が穏やかになり、苦しそうだった喉の音も聞こえなくなった。
首筋を覆っていた赤い発疹も、ゆっくりと薄れていく。
ユリアナは慎重に脈を確かめた。
呼吸も、顔色も、先ほどより確実に良い。
そこで初めて魔法を止める。
全身から力が抜けそうになり、身体がわずかによろめいた。
すぐにクラリッサが肩を支える。
「大丈夫?」
心配そうな声だった。
ユリアナは小さく頷く。
「少し疲れただけです」
クラリッサはそれ以上何も聞かなかった。
その時、扉が静かに開いた。
戻ってきた侍女たちは寝台を見るなり足を止める。
先ほどまで苦しそうに呼吸していた第六王女は、穏やかな寝息を立てて眠っていた。
苦痛に歪んでいた表情は消え、まるで静かな昼寝をしているようだった。
侍女たちは互いに顔を見合わせる。
何が起きたのか理解できない様子だった。
その横で、クラリッサだけは静かにユリアナを見つめていた。
何かを尋ねることはなかった。
今すぐ答えを求めるつもりもないのだろう。
ただ、その視線には以前より少しだけ深い意味が宿っているように見えた。
ユリアナは気付いていた。
もう隠し通せないだろう、と。
それでも後悔はなかった。
目の前の命を救えたという事実だけは、何にも代えられないと思えたからだった。
新作です。
チェンジ!〜婚約者の代役は双子の弟。半年たっても婚約者だけが気づきません〜
https://ncode.syosetu.com/n2093mi/
こちらも、合わせてお楽しみ下さい。
お読みいただきありがとうございました。
面白いと思われたら、ブックマーク、評価、リアクション等よろしくお願いします。
作者の励みになります。




