第一章 交番と手取り14万の異世界ライフ
過労死の果てに。芋ジャージの駄女神と、顔面に突き刺さる健康サンダル
「お客様は神様だろ! この不良品どうにかしろ!」
休日の家電量販店。フロアに響き渡る怒声に対し、俺——高杉隼斗は、本日で推定五十回目となる、角度四十五度の完璧な謝罪のお辞儀を繰り出していた。
「誠に申し訳ございません。ただいま交換の品を……」
「今すぐ出せ! 交通費も払え! 責任者を呼べ!」
相手が突きつけてきたのは、使い古されて液漏れを起こした百円の乾電池だった。
どう見ても経年劣化だ。保証期間などとうの昔に切れているし、そもそも百円の電池に交通費を要求する悪質クレーマーである。
しかし、俺が勤めるのは業界でも悪名高い超絶ブラック企業。
『クレームは営業の恥! 全て笑顔で自己処理しろ!』という昭和の根性論がまかり通る地獄の職場だった。上司に報告すれば「お前の対応が悪いからだ」と三時間の説教が確定する。
(ああ……すいません、お客様。管轄外なんでお引き取り願えますか……)
心の中でそう呟くが、現実は無情だ。
連日のサービス残業、終わらないノルマ、そして理不尽な客からの暴言。
睡眠時間は削られ、食事はコンビニのゼリー飲料のみ。俺のHP(体力)とMP(精神力)は、とっくの昔にマイナスを振り切っていた。
「おい、聞いてんのか! ふざけんなよ!」
「申し訳ござ……い、ま、せ……」
ズキリ、と。
胸の奥で、心臓が握り潰されるような激痛が走った。
視界が急激に暗転し、床のPタイルがものすごいスピードで顔に迫ってくる。
最後に聞こえたのは、クレーマーの「え? おい、ちょっと待て、俺は何もしてねえぞ!」という焦った声だった。
(あ、やった……。これで明日、会社に行かなくて済む……)
そんな安堵にも似た思考を最後に、俺、高杉隼斗(二十五歳・社畜)の人生は幕を閉じた。
次に目を覚ました時、俺は奇妙な空間にいた。
上下左右、どこまでも続く真っ白な空間。天国か、はたまた地獄か。
しかし、そんな荘厳な雰囲気など微塵も感じさせない物体が、空間の中央に鎮座していた。
『コタツ』である。
真っ白な神聖空間のど真ん中に、なぜか生活感溢れるコタツが置かれていた。
その上には、飲みかけの缶ビール(発泡酒)、食べかけのポテトチップス、そして灰皿。
さらにコタツの中には、だらしない姿勢で寝転がる一人の女性がいた。
くすんだピンク色の『芋ジャージ』を着込み、足元には健康サンダル。
背中には申し訳程度に白い羽が生えているが、その姿はどう見ても休日の引きこもりオバサン……いや、永遠の十七歳を自称していそうな、ちょっと綺麗なだけの干物女だった。
彼女は手元のキラキラした装飾が施されたスマートフォン——『エンジェルすまーとふぉん』を食い入るように見つめ、奇声を上げていた。
「キャアアアアッ! 月人くぅぅん! 今のウインク最高ぉぉ! ああっ、スパチャ! スパチャしなきゃ! あ、ヤバ、今月の限度額もう無いじゃん! どうしよオリンハゲに前借りするか!?」
(……なんだこの空間。そして、なんだこの残念な生き物は)
俺は恐る恐るコタツに近づき、声をかけた。
「あの……すいません。俺、もしかして死んでます?」
「あぁん?」
芋ジャージの女は、動画の邪魔をされたことに露骨に舌打ちをし、面倒くさそうにこちらを振り返った。
「見て分かんない? あんた死んだのよ。過労死。で、ここは天界。私は世界神ルチアナ。永遠の十七歳よ、よろしく」
「はあ……世界神、ルチアナ様」
「そう。で、あんたの魂は『アナスタシア』っていう剣と魔法のファンタジー世界に転生することになってるから。はい、これテンプレね」
ルチアナと名乗る駄神は、鼻をほじりながら面倒くさそうに説明した。
剣と魔法の世界。転生。
オタク知識のある俺ならすぐに理解できる。つまり、これはブラック企業からの解放、そしてチート能力をもらっての無双ライフの始まりではないか!
「マジですか! ありがとうございます! ちなみに、チート能力的なものは……」
「あー、うるさい! 今、月人くんの生配信で一番いいとこなの! 早く向こうに行きなさいよ!」
「いや、でも! 丸腰で異世界とか無理ゲーすぎません!? せめてエクスカリバーとか、無限の魔力とか!」
「しつこいわね! ええい、あんたのステータスいじって、適当なスキルを一個ランダムで付与してあげるから! それでいいでしょ!」
ルチアナはスマホの画面をテキトーにスワイプし、ポンとタップした。
「よし、なんか付与したわ! じゃあね! 達者で暮らして、ゴッドチューブのPV率に貢献しなさいよ!」
「いやいや、なんか付与したって、何を!? せめてスキルの説明を——」
俺が食い下がろうと一歩踏み出した、その瞬間だった。
「推しの配信の邪魔すんなっつってんでしょォォオオオ!!」
ルチアナがコタツを蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。
芋ジャージの裾が翻り、彼女の足元——強烈な凹凸が敷き詰められた『健康サンダル』が、俺の視界いっぱいに迫ってきた。
「え?」
ドゴォォォォォンッ!!
顔面に直撃する、神の怒り(理不尽)を乗せた健康サンダルキック。
鼻っ柱にイボイボの感触がめり込み、俺の意識は神聖なる一撃——通称『ホーリー・スマッシュ(物理)』によって、宇宙の彼方へと吹き飛ばされた。
(ちくしょう……どいつもこいつも、理不尽だあああああ!)
「……ぎゃあ! オギャアアアアッ!」
顔面の痛みを訴えようと叫んだ俺の声は、なぜか甲高い赤ん坊の泣き声に変換されていた。
重かったまぶたをこじ開けると、視界はぼやけているが、どうやら豪奢な天蓋付きのベッドに寝かされていることがわかった。
「おお、マリア。よくぞ元気な赤子を産んでくれた」
厳格だが、どこか嬉しそうな低い男の声が聞こえる。
「はい、あなた……。ふふ、元気な男の子ですわ。タローマンで買ってきたおくるみが、よく似合ってます」
優しく温かい手で俺を抱き上げる、穏やかな女性の声。マリアと呼ばれた彼女からは、土と太陽の匂い——どこか懐かしいホームセンターの園芸コーナーのような安心する香りがした。
(あ、えっと……俺、赤ん坊になってる?)
健康サンダルの激痛は消え去っている。どうやら無事に『アナスタシア』の世界に転生できたらしい。
「この子の名前は決めてある。我がアルディス伯爵家の三男、『リオン・フォン・アルディス』だ」
「リオン……強い子に育ってね」
(アルディス伯爵家……貴族! しかも三男坊!)
俺の脳細胞がフル回転する。
長男でも次男でもない、三男坊。
つまり、面倒な跡継ぎ争いからも、領地の経営からも、実家のしがらみからも最も遠い『最も気楽なポジション』である!
前世、家電量販店で文字通り命を削って働き、最後は理不尽なクレーマーの目の前で過労死した俺。
今世の目標はたった一つだ。
『絶対に働かない。事勿れ主義を貫き、実家の金で平穏無事なニート生活を送る!』
権力闘争? 管轄外だ。
魔王討伐? 残業代が出ないならやらない。
俺は心の中でガッツポーズを決めながら、新しい両親に向かって元気よく「バブー!」と笑いかけた。
この時はまだ、あの芋ジャージの駄女神が寄越した『ランダムスキル』が、俺の平穏なニート計画を根底からぶち壊すことになろうとは、夢にも思っていなかったのである。
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