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ただのモブ(大嘘)がTSした原作主人公の代わりに逆転世界で頑張る話 ―女性特効ラスボスは俺が倒す―  作者: つくもいつき
1年目春 過去からの刃編

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第68話 マリーの尊き信仰(マリーSide)




-マリー Side-



 モブ・アイカータ様。

 呪われた血が流れる私を突き放さず、あまつさえ手を引いてくれる人。



『前も言ったろ? 俺はマリーとレベルが同じで、ほかの男と違って、耐性があるってさ。もしも襲ってきたら、返り討ちにしてやるよ』



『心配するな、マリー。俺はそんじょそこらのやわな連中とは鍛え方が違う。君にも負けない』



 そう言って、あるがままの私を受け入れて、側においてくれる人。



『俺が淫魔王を殺す』



『俺が、そうしたいからだ。俺は祝福持ちじゃない。けれど、俺は男だ。淫魔王を殺せる可能性を秘めている』



『俺の手で百年の不幸を防ぐことができるかもしれない。なら、俺は戦うよ。俺を愛してくれる人たちには、笑顔でいてほしいんだ。──俺が苦労するのは構わない。それ以上の多くの幸せを、俺はすでに受け取った』



 女神の祝福を持たない男性なのに、モブ様は英雄の代わりを果たそうとしている。どんな苦難に満ちた道とわかっていても、モブ様は進んでいく。

 それがまぶしくて、それがなによりも美しく見えて──。



 モブ様の力になりたい。

 モブ様を、ずうっと支えたい。



 そう思っていたはずなのに──。



「モブ様ぁっ!?」



 (のど)から悲鳴がこぼれる。

 カーラやセレスとともに、冷暗薬草庫の扉を出てすぐのこと。

 祈祷陣の上で、首の付け根から血を噴き出すモブ様の姿を、私は目の当たりにした。



 カイウスの右腕を抱え込んだまま、モブ様は膝から崩れ落ちるように倒れる。

 まぶたの下で、焦点を失った黒い瞳が揺れる。



 血が。

 血が祈祷陣を染めていく。

 剣が少し離れた石床に転がっている。

 モブ様の左の肩口から鎖骨をかすめ、首の付け根にかけて、深い傷が開いていた。



 血の臭い。

 焼けた鉄の臭い。

 焦げた肉の臭い。

 全部が、一度に肺に流れ込んでくる。



「モブッ!?」



 礼拝堂の入り口側へ目を向ける。

 ルーに肩を貸したカナメが、敷居のところで足を止めていた。

 隣のルーは無表情のまま、魔導杖を握る指だけを強ばらせる。



「あ、あ……!」



 私の肩を支えるカーラが、身を震わせている。

 かすれた声が、カーラの喉から漏れていた。

 信じられないものを見たかのように、顔色を失っている。



 私は、走り出す。

 肩を貸してくれていたカーラの手が、腕から滑り落ちた。

 足が、うまく前へ出ない。石床が遠い。

 礼拝堂の冷気が膝の内側をなぞり、指先から力が抜けていく。



 それでも止まれなかった。

 止まった瞬間、モブ様が本当に遠くへ行ってしまう気がした。

 足元の血にブーツが取られかける。どうにか、モブ様の側へ寄った。

 さっきまで体を押さえつけていた聖素の残り香が、胸の奥にまだ重く残っている。

 息を吸うたび、肺の内側が冷たく痺れる。

 けれど、それどころではない。



 私はモブ様の側に膝をつく。

 血が青の僧衣に染み込んだ。



「マリー! 私も手伝うわ!」



 セレスが後ろから声をかけてくる。

 私から見て右手側──モブ様とカイウスの頭の近くに彼女は座った。

 続いて彼女はカイウスに視線を落とす。



「……セレスティーネ、様。あなた、は──」



「──カイウス」



 カイウスが、モブ様に抱え込まれていた右腕を抜こうとした。

 床に擦れた鎧が、低く鳴る。

 焼けた腕をかばうように、カイウスはゆっくりと仰向けになった。

 その動きに引かれて、モブ様の体がずるりと横へ流れる。



 私はそっと両手でモブ様の肩を支えようとして、すぐに指を引っ込めた。

 不用意に触れれば、魅了しかねない。

 こんな時でさえ、自分の血を疑わなければならない。



 なんて、なんて憎たらしい血か。

 愛しい人を助けることの邪魔にすらなるなんて……。



「ここまで、か」



 カイウスのつぶやきが聞こえてくる。

 誰に聞かせるでもない声が、血の臭いに混じって、宙に溶けていく。

 それは、計画そのものに向けた言葉のように、私には聞こえた。



「マリー!」



 その間に、カナメが私の近くに膝をつく。すぐにモブ様の頭側へ回った。

 和国装束の袖が、血の上に触れる。



「我が支える。頭と肩は任せろ。マリー、そなたは魔法に専念せよ」



「……はいっ」



「せ、施療布の余り! 使ってくれ!」



 後ろから、カーラがカナメに声をかける。

 袋から取り出したであろう白い清潔な布を、カナメはうなずきながらカーラから受け取った。

 カナメは、すぐにそれをモブ様の首の付け根にあてる。

 あっという間に白地が赤に染まった。



 血が多い。多すぎる。

 息はある。

 喉の奥で、わずかに空気が鳴っている。



「回復ポーションはっ……!?」



 カーラが袋へ手を伸ばしかける。

 私は反射的に首を振った。

 ダメだ。

 意識のない人に、まして首の付け根を裂かれ、呼吸まで細っている人に、飲み薬を流し込んではいけない。



 むせれば血と薬液が気道へ落ちる。飲み込ませようとあごを動かせば、傷口も首も動いてしまう。

 仮に喉を通ったとしても、開いた血管から命が流れ出ているうちは、薬の力が体に留まらない。



「そうだ! 簡易再生ジェルとかは……!?」



「あれは軽傷用だから……」



 薬草庫の棚にある外傷薬や簡易再生ジェルでは、この血を止めきれない。

 高級な血管封止用の再生パッチでもあれば別かもしれない。けれど、そんな救命棟の備品は、いま私の手元にはなかった。

 薬を選んで塗る時間もない。

 いま必要なのは傷口を押さえ、首を動かさず、出血源を塞ぐことだった。



「いまはこれで!」



 私はモブ様に触れずに、手をかざす。

 指先に熱を通す。

 蒼い魔力光が、またたいた。



『〈小回復(マイナー・ヒール)〉』



 基本にして王道。ひとり分の治療と軽度の状態異常回復を担う、レベル1の光属性魔法。

 青い光でモブ様を包み込む。

 じわりと、汗がひと筋、頬を伝う。

 構わず、私は回復を続ける。



「カナメ、布を傷口に押しあてたままにして……。首は動かさないで」



「わかった! ……モブ、死ぬなよ。死んだら、許さぬぞ……!!」



 私は、施療布越しに光を送り込む。

 魔力を送り込むたび、指の骨が内側から軋む。

 傷口は閉じない。

 カナメの手の下で、布の赤みだけがまた濃くなっていく。

 青い光はたしかに届いているはずなのに、血だけが当たり前のようにあふれ続ける。



 ダメだ。回復が、追いついていない。

 私の喉奥は冷える。

 息を吸っているのに、胸に空気は入らない。



「……セレスティーネ様に、任せなさい」



 かすれた声が、私の耳に届いた。

 カイウスだった。

 焼けた右腕を押さえ、血の気の失せた顔で床に伏している。

 灰色の瞳が私を見据え、なお言葉を突き立てようとしていた。



「あなたが、闇に通じながらも、光の癒しを使えるとしても……。その傷は、あなたが、癒せる傷では、ない……。女神はあなたに、力を貸さない……。(げん)に、癒えていない……」



 手が、止まりかけた。

 指先の青い光が揺らぐ。

 胸の奥で、さっき消えたはずの〈光輝地帯〉の圧がぶり返した。



「カイウスっ。喋ってはなりません」



 セレスが、カイウスに手をかざし、白い魔力光でカイウスを包み込んでいる。

 白い法衣の裾が、血と煤で汚れる。



「あなたの治療は、私が引き受けます。マリーは、そのままモブさんを……」



「いいえ、セレスティーネ様。私よりも、彼を。……未来ある若者を、優先してください」



「カイウス、あなた……」



「お願い、です」



 カイウスの声は震えていた。

 セレスの治療を受け、途切れ途切れながら言葉を繋げるだけの息を取り戻している。



 一方で、モブ様の傷は癒えない。

 青い光の下で、施療布だけが赤く染まり続けている。

 やはり、私ではダメなのだろうか。ついに、女神に見放されてしまったのだろうか。

 そんな焦りが、生まれる──。



「私は……」



 言葉が喉で潰れる。

 闇に通じるもの。

 カイウスの言葉が、指先から力を奪おうとする。

 青い光が細り、施療布の赤だけが濃く見えた。



 モブ様の力になれない私に、何の価値があろうか?

 唇を噛む。

 私では足りない。

 ならば、セレスに代わろう。女神に愛された彼女の手なら、モブ様を救えるかもしれない。

 そう思った瞬間、胸の奥が裂けるように痛んだ。



「──マリー。〈治癒の水ヒーリング・ウォーター〉のほうがいい」



「ルー!?」



 ルーがいつの間にか、膝を引きずるようにして私の左隣まで来ていた。

 魔導杖に体重を預け、片手で帽子を直している。

 私は光をあてながら、無表情のルーを見上げる。

 彼女はいつものように、たんたんと言葉を続けた。



「マリーなら、光属性の低位魔法より、そっちのほうが回復効果が高い」



「それって……?」



「他の女神教の人と違って、マリーは最初から、純粋に自分の力だけで癒していた。モブも知ってる。マリー。……ルーとモブが、保証する。マリーの癒しの力は、本物だって」



「……どうして、それを、いままで」



 責めたいわけではない。

 けれど、声は勝手にこぼれていた。

 ルーはまばたきを一度だけした。



「聞かれなかった。あと、言っても、マリーは信じなかったと思う」



「……」



「いままでなら、〈小回復〉でも、マリーの力なら回復効果は十分だった。マリーが女神に祈ることを、ルーが勝手に壊す理由もなかった。でも、いまは必要。モブを治すために」



 言葉が、胸の奥に落ちる。

 否定したかった。

 女神に見放されたのではないと言われても、すぐには信じられなかった。

 けれども……。



 私はルーの紫水の瞳を見つめ返す。

 応じるように、ルーが帽子のつばを持ち上げた。

 彼女は、ほんの少しだけ目を細める。



「我も、信じるぞ」



「わ、私も」



 カナメが、モブ様の肩を固定したまま、短く告げる。

 カーラが替えの布を用意しながらも言い放つ。



 私はかぶりを振る。

 女神の助力があるかどうかを、いまここで疑っている暇はない。

 ルーの言葉を、私は信じる。

 仲間が信じる私を、信じる。



「……水を司る精霊(もの)、ウンディーネよ──」



 私は胸の前で指を組む。

 祈りの言葉は、自然に口からこぼれた。



「傷深きものをどうか、現世(うつしよ)にお(とど)めください……」



 組んだ指のうちで、水の魔力を集める。

 光の魔力を混ぜる。

 冷たさと温かさが、祈りの形をした手の中で溶け合っていく。

 私は震える唇で、力ある言葉を紡ぐ──。



『〈治癒の水ヒーリング・ウォーター〉』



 レベル3水属性魔法、〈治癒の水ヒーリング・ウォーター〉。

 淡い水光が、私の手のひらからにじみ出る。

 モブ様を中心に、鏡のような水面が生まれ、祈祷陣の上へ静かに広がる。

 石床を染めていた血が、水の膜にほどけて薄まっていく。

 赤く濁った水面から、透明な水玉がひとつ、またひとつと昇った。

 それらは淡い光を宿し、モブ様とカイウスの傷へ吸い込まれていく。



「大丈夫です。大丈夫ですから……」



 誰に言っているのか、自分でもわからなかった。

 モブ様へか。

 それとも、私自身へか。



 水玉がカイウスの右肘を覆う。

 右肘の火傷跡を水玉が覆い、瞬く間に新しい皮膚に塗り替わったのが見えた。

 カイウスが目を見開く。

 セレスも自身の治療の手を止めている。

 私が作り出した光景を、彼女は瞳を潤ませ、唇を強く結びながら見つめ続ける。



「そう、か……」



 カイウスがぼそりと口にする。

 灰色の瞳は、私の手元から離れない。

 どこか憑き物が落ちたような顔で、私を見ていた。



 同じようにして。

 カナメが抑える施療布の上から、魔法の水玉がかぶさる。

 カナメの手ごと、水はモブ様の喉を覆った。

 徐々にモブ様の息が、落ち着いていく。

 閉じたまぶたが、ほんのわずかに震えた。



「おおっ……!!」



 カナメが声を上げる。

 血に染まった布をカナメがゆっくりめくる。

 首の付け根にあった傷は、塞がっていた。

 肩口の肉も、少しずつ閉じていく。



 ルーの言う通りだった。

 けれど、気を抜くことはできない。

 指を組んだまま祈りを続け、私は全身の魔力を水面へ注ぎ込む。



 私はいま、モブ様の力になれているだろうか?

 そうであってほしいと、願う。

 背を丸めて息を吐く。

 その途端、涙が一粒、モブ様の厚みのある手に落ちた。



「モブ様……。お目覚め、ください……」



 返事はない。

 上下する胸に、私は視線を落とす。



「マリー、呼吸は少し戻った。だが、まだ顔色が悪い」



 カナメが、すぐ横から低く告げる。

 その声には、隠しきれない焦りがあった。



「スタミナ再生薬推奨。衰弱気味」



「す、スタミナ再生薬なら、余りがあるはず……! ちょっと待ってて!」



 ルーの言葉を受け、カーラが後ろで袋を漁り始める。

 私はもう一度、魔力を練る。

 水面が震え、傷口へ淡い光が吸い込まれていく。

 裂けていた肉は、すっかり元に戻っている。

 喉の奥で絡んでいた呼吸音も、かすかに整いはじめる。



「心拍、安定方向」



「モブ様。戻ってきてください。お願いです。あなたがいなくなったら、私はきっと……」



 その先を、言葉にすることができなかった。

 口にした瞬間、本当になってしまいそうで、喉が震える。

 そのとき、モブ様の指がぴくりと動いた。



「っ」



 カーラが息を呑む音が聞こえてくる。

 カナメの肩から力が抜ける気配がした。



 モブ様の胸が、深く上下する。

 ひと呼吸。

 ふた呼吸。

 今度は、両目が開いた。



「モブッ!!」



「も、モブくん……!?」



「っ、げほっ」



 焦点の合った黒い目が、誰かを探している。

 空咳をひとつこぼし、彼はかすれた声を上げた。



「……ま、マリー、は?」



「モブゥ!!」



「ぐえっ!」



 いつも通りの声色。

 まっさきに、私を探してくれた。

 カナメが歓喜の声を上げる。両手を彼の背に回し、力強く引き付けた。



 よかった。

 本当に、よかった。

 膝から力が抜けそうになる。

 私の頬を、大粒の雫が伝い続ける。

 強く組みすぎた指には、いつの間にか血がにじんでいた。



「無茶しよってからに……!! みながみな、お前を心配していたぞ!!」



「モブぐん、よがっだ……!! ほんどうに、よがっだよぉ……!!」



 カナメが頬をモブ様の頬にこすりつけ、涙をこぼす。

 その後ろで、カーラが自分の鼻頭に両手をかぶせ、感極まった声を上げる。



 モブ様と頬を合わせるカナメを見て、胸の奥がちくりと痛んだ。

 あんなふうに、迷わず触れられることが。

 うらやましい。

 そう思ってしまう自分が、情けなかった。



 私は、半淫魔だから。

 触れれば、モブ様を苦しめるかもしれない。

 だから、仕方がない。

 モブ様が助かった。

 それだけで、私は十分すぎるほど救われている。



「でえい!! マリー、マリーはいるか!?」



「は、はいっ」



 モブ様がカナメの頭を撫でつけてから、引きはがす。

 唇を尖らせるカナメを横に置き、私を探した。

 まだ支えが必要な体を起こし、左斜め前へ視線を向ける。

 視線が合う。

 私を、見つけてくれた。



 私は身を乗り出す。

 前髪に隠れた、深淵を覗く黒い瞳に、目を奪われる。

 組んだ指に、あご先から伝う雫が、落ち続ける。

 モブ様の言葉をひとつもこぼさないように、私は息を詰めて耳を傾ける。



「……回復ありがとう、助かった。マリーが治してくれるって信じてたから、なんとかじいさんを止めることができたよ」



 そう言ってモブ様は、隣で横たわるカイウスと視線を交わす。

 勝ち誇るでも、責めるでもない。

 互いに生き残ったことを確かめるような目だった。



 すぐに私へ顔を戻す。

 声は(かす)れていた。

 それでも黒い瞳には、私の知るいつもの強情な光が戻っていた。



「なんという、無茶を……」



「悪い。これ(・・)しか、思いつかなかった。……けど、狙いどおりにいって、よかったよ」



「よくありません!!」



 親指で自身の首の付け根を示すモブ様を見て、気づけば、私は声を荒げていた。

 モブ様が、わずかに目を細める。

 叱られた子どものような顔を、ほんの一瞬だけした。

 気まずそうに視線を外す。けれどすぐに視線を戻し、もう一度私を見た。



 私は唇を強く結ぶ。

 胸の前で組んだ指が、ほどけない。

 爪が手の甲に食い込んでいるのに、痛みが遠かった。

 モブ様がこちらを見ている。

 逃げずに、私の言葉を待ってくれている。

 ただそれだけで、押し込めていたものが喉元までせり上がった。



「あなたがいなくなったら、私は……」



 血まみれになったあなたを見て……。

 ようやく起き上がったあなたを見て……。

 私はやっと、自分の本心を理解した。

 ──かつて、あなたにかけてもらった言葉が、私の胸中を温めていく。



『君は、俺たちの側にいていい』



『……マリー。アリスの言い方はきついけど、言ってること自体はもっともだと思う。俺はいい。君の事情ごと背負うって、もう決めてる』



『……夏になったら、予定通りこのメンバーで中級ダンジョンに行こう。絶対に、乗り切ろうな、マリー』



 モブ・アイカータ様。

 本当は、恥ずべきことなのに。女の身で男を頼ってはいけないと、何度も自分を(いまし)めてきたのに。

 差し伸べられた手の温度を、私はもう忘れられない。

 あなたに手を引かれることこそが、本来あるべき姿なのだと、錯覚してさえいる。



 口から、想いがあふれ出す。



「あなたがいなくなったら、私はきっと、もう、生きていけません……。だから……」



 ああ、わたくしの神(モブ様)よ。

 私は、あなたにすべてを捧げたい。

 なぜ私は、いままでこの気持ちをないがしろにしてしまっていたのだろうか。

 もはやあなたを失うことが、一番恐ろしいのに──。



「だから、どうか、ご自愛ください……」



 比類なき新たな光(・・・・・・・)に向かって、私は祈りを捧げる。

 涙は止まらない。視界はぼやける。

 どうか、長く生きてください。

 長く、支えさせてください。

 そう、私は強く願った。



「……マリー」



 モブ様の左手が、私へ伸びる。

 私は反射的に身を引こうとするも、袖口をつかまれる。

 弱い力だった。

 袖をつかまれた瞬間、心臓が跳ねる。



「モブ様、触れては……」



「平気だ。構うもんか」



 短く言って、モブ様は私を抱き寄せた。

 血の臭いが鼻をかすめる。

 弱った腕の熱が、僧衣越しに伝わってくる。

 モブ様の手が、ゆっくりと私の背を撫でた。



 触れてはいけないはずなのに。

 その温もりにすがるように、私は息を吸っていた。



 ああ、わたくしの神(モブ様)よ……。

 私はもう、声を出せなかった。



「今後は、気を付ける。俺も、長生きしたいからな。……ありがとう、マリー」



「~~ッ」



 嗚咽(おえつ)が喉につかえて、声にならない。

 返事をしなければと思うのに、私は小さくうなずくことしかできなかった。

 背に置かれた手の温かさだけで、頭の奥が白くなる。



 モブ様が、今度はセレスに顔を向けた。

 私の体を抱き止めたまま……。



「セレスティーネ様」



「は、はいっ」



「ひとまず、マリーの話、聞いてくれる気になったんですかね?」



「……ええ。そのつもりです」



「感謝します。……じいさん」



 モブ様がカイウスに目を向ける。

 そこに勝者の(おご)りはなかった。

 その黒い瞳を見て、私は不思議なことに父性を覚えてしまう。

 母性と言い換えるのも違う。

 罰するためではなく、(ゆる)すためでもない。

 相手が立ち上がるまで見届けるような、厳しくも温かな目だった。



「マリーの話、今度こそ聞く気になれたか?」



 体を起こさず、カイウスは血と水に濡れた石床から天井を仰いだ。

 眉間の皺はほどけている。

 灰色の瞳には、まだ悔いと痛みが残っていた。燃えていた断罪の熱は、もう薄れている。

 いまのカイウスの横顔には、私がかつて女神教国で見た、厳しくも人を見捨てない教導者の面影があった。



「──ええ。ようやく」



「そいつはよかった」



 そう、モブ様が言い終えた瞬間。

 胸の奥で、何かが静かに鳴った。

 鐘の音にも似ていた。けれど、それは耳ではなく、魂の底に響いている。

 温かな黄金の光が、聖素と涙で冷えた体の内側からあふれ出す。



 私だけではない。

 目の前のモブ様もまた、同じ光に包まれていた。



「これは……!?」



「観測値、レベルアップ」



 肩越しに振り返ると、カーラとルーもまた黄金の光を帯びていた。

 カーラは涙で濡れた顔のまま目を丸くし、ルーは帽子のつばの下で静かにまばたきをしている。



 私は、すぐにモブ様へ視線を戻した。

 血の気の戻りきらない横顔が、淡い金に縁取られている。

 私の視線に気づいたモブ様は、私を抱き止めたまま、かすかに微笑んだ。



 その笑みだけで、天にも昇る気持ちになる。

 黄金の光も相まって、私には、モブ様の背に後光が差しているように見えた。



「俺たちの行動が、偉業の大精霊(グラン・トゥール)に認められたみたいだな。よかった、よかった。試練を乗り越えた(クエストクリア)ってとこか」



「うむ! なぜいまかはわからなんだが、とにかくよし!!」



 隣で、カナメが腕を組んだまま笑い立てた。

 すでにレベル4の彼女だけは黄金の光を帯びていない。

 なのに、その顔は誰より晴れやかだった。



 ひょっとして、偉業を司る大精霊は、カイウス・オルフェンの心の移り変わりを察したのだろうか? それをなしたことを、偉業と認めた?

 あれこれ考えているうちに、黄金の光が止む。



「レベル4に、なられたのですね、モブさん。ふふ、やはりあなたは、大した男だ」



「4!? え、え? 男性で、そのお歳で!? そ、そもそも、レベル3なのに、あなたはカイウスと……!? そ、それはそうかもしれないですが……!? え、ええぇっ!?」



 カイウスの言葉に、セレスが目を見開く。

 淡い金髪を揺らしながら、カイウスとモブ様を何度も見比べる。

 その慌てぶりに、モブ様の口元がわずかにゆるんだ。

 顔色も戻り、肌は赤みが差している。そこにはいつもの悪戯っぽさが戻っていた。



 そんなモブ様の横顔を私は息が触れ合う距離で見上げる。

 私は胸の前で指を組み直す。

 祈りの形を取った指先が、小さく震えていた。

 激しく鳴る心音に、私は身を委ねる。



 ──私は、この方を愛している。

 この想いは、決して薄れない。

 この方が()された次の日に、私が生きていることはないだろう。



 地下礼拝堂の冷ややかな空気が、私の火照る頬をさらう。

 奥に立つ女神像の白い頬には、祈祷陣の水光が揺れていた。

 けれど、その石の瞳は何も語らない。私を見放しているかのように。

 私を抱き止める腕だけが、温かかった。






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