第63話 マリーとセレスティーネ
礼拝堂に、雨の匂いがまだ残っている。
開いたばかりの扉から流れ込んだ冷たい空気が、燭台の火を細く揺らした。長椅子に残っていた巡礼者たちは、誰も彼も口を閉ざしている。柱際に集められた子どもたちも、祈祷書を胸に抱えたまま、白い聖職衣の女性を見つめている。
暁光の巫女、セレスティーネ・ルミエール。
地方新聞の紙面で見た時よりも、実物はずっと柔らかい印象だった。淡金の長髪、薄桜色の瞳、白い聖職衣に結ばれた青いリボン。彼女がマリーに頬ずりしている姿だけ見れば、久しぶりに再会した友人にしか見えない。
だが、その両脇に立つ女性聖騎士ふたりと、半歩後ろで場を測るカイウス・オルフェンの存在が、場の空気を重くする。
俺は外套の影で通信の魔力光を消す。
アリスと商会人員に前提条件が変わったことは伝えた。
ルールルーに目配せする。うなずいたのち、彼女は静かに外へ移動を始めた。
俺は腕を組む。じっとセレスティーネたちの動向を見守った。
「セレス、この街にもう来てたのね? 巡礼は来週でしょう? ……どうして、こちらへ?」
マリーの声は硬かった。
セレスティーネはマリーの胸元から顔を離し、嬉しそうにマリーを見上げる。
「つれないのね、マリー。大事な友だちに会いに来てはダメ?」
「まだ私のことを、友人と?」
「あたりまえじゃない。何年競ったと思ってるの? 私にとって、あなたはかけがえのない競争相手だった。からかいがいもあるし、優秀で、きれいで、あなたの雰囲気が私すっごい好きだった。あれからずっと、私、あなたのことを心配してたのよ? ……だから」
セレスティーネの笑みが、ほんの少しだけ陰った。
「カイウスから、あなたに関わる大切な確認があると言われて……それで、友人として、立会人として、私は来たの」
友人として。
立会人として。
その二語が、礼拝堂内に別々の重さで響いた。
マリーの喉が小さく上下する。
その背後にいたカーラが一歩だけ近づいた。守るというより、離れないための一歩だ。灰色の布ケープの下で、彼女の肩が固くなっているのが見える。
カイウスがゆっくりと前へ出た。
濡れた外套を腰の袋にしまい込む。彼は再度礼拝堂の女神像へ一礼する。それからフィリアへ顔を向けた。
「シスター・フィリア。昨日お願いしていた確認の場は、使えますかな」
「……はい。地下堂は、整えてあります」
フィリアの声には、かすかな緊張があった。
俺と地下堂を確認したばかりだ。カイウスの言う確認が、ただの言葉で終わらないかもしれないと、彼女ももう分かっている。
「感謝します。礼拝堂で済ませる話ではありません。マリー・バッドガール殿。あなたには、地下堂でいくつか確認させていただきたい」
「一緒に、立ち会わせてもらっても?」
俺は口を挟んだ。
カイウスの灰色の目が、こちらへ向く。
礼拝堂の空気が、また一段冷えた。
「あなたは?」
セレスティーネが、不思議そうに首を傾げる。
「失礼。マリーの友人で、モブ・アイカータと言います」
「まあ! 友人!」
俺が短く答えると、セレスティーネが俺とマリーの顔を交互に見比べ始めた。
カイウスの目尻のしわが少し深くなったのを、俺は視界の端で認める。
「セレスティーネ様。俺ともうひとり、同行させてもらってもいいですか? マリーひとりだと彼女も不安に思うと思いまして」
「モブ様」
マリーの水色の瞳に、恐れと、申し訳なさと、ほんの小さな安堵が混ざっていた。
俺は小さくうなずく。
「昨日決めただろ。ひとりで行かせない」
「私も行く」
カーラが続ける。
声は震えていた。だが、引いてはいない。
カイウスがカーラを一瞥している。胸元のゴールドバッジ、水鉄鉱革の胴当て。その全部を測った後、彼はセレスティーネへ視線を移す。
「セレスティーネ様。同席はお控えいただくべきかと」
「いえ、構いません。マリーが望むなら、同席を認めます」
「……わかりました」
カイウスはそれ以上食い下がらなかった。セレスティーネは完全にカイウスの味方というわけでもないらしい。
セレスティーネがマリーを見る。
マリーは胸元の〈才能封じの首輪〉へ指を添え、小さく息を吸った。
「……お願いします。ふたりにも、同席していただきたいです」
「わかったわ。それでは行きましょう」
セレスティーネの笑みが、ほんの少しだけ寂しそうに揺れた。
「その前に、セレスティーネ様」
カイウスが低く告げる。
セレスティーネは足を止めた。マリーを見ていた薄桜色の瞳が、カイウスへ向く。
「地下堂は、女神の御前で証しを立てる場になります。刃、携帯袋、薬品、魔道具の類を持ち込ませるわけには参りません。念のため、所持品改めをお許しください」
セレスティーネはすぐには答えなかった。
マリーの胸元にある〈才能封じの首輪〉を見て、それから俺とカーラを見る。
友人を疑うための手続きに見えることを、彼女自身も分かっているのだろう。けれど、地下へ向かう以上、彼女の立場からすれば万が一に目をつむるわけにもいかない。
「……そうね。私も必要だと思います」
セレスティーネは胸元に右手を添え、俺たちへ向き直った。
柔らかな微笑を俺たちに見せる。
「モブさん、カーラさん。ごめんなさい。協力してもらえる?」
「もちろんです」
俺は内心で息を吐き、両手を軽く広げた。
すでに〈魔法の携帯袋〉は地下に配置してある。武器もない。ここで引っかかるものは、最初から持ち込んでいなかった。
カイウスはまず俺の腰回りと袖口、外套の内側を目で確かめる。
続いて、女性聖騎士のひとりがマリーとカーラの手元、袖口、腰回りを確認した。カーラの水鉄鉱革の胴当てには一度視線が止まったが、刃も携帯袋もないと分かると、それ以上は問われなかった。
「問題ありません」
女性聖騎士が短く告げる。
カイウスは俺を見た。疑いが消えた顔ではない。だが、手続き上は通すしかないという顔だった。
「そちらは、持ち込むんですね」
俺はカイウスのベルトに固定された騎士剣を見て言う。
カイウスは口の端を上げ、気にした素振りもなく答えた。
「ええ。聖騎士は、神前における帯剣と職務具の携行を許されています。もちろん、私物の刃ではありません。女神と教会に預けられた職務の証です」
俺は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
奥歯を噛む。地下の場まで熱は取っておくことにする。
地下へ向かう前に、カイウスが剣帯とは逆側に吊った小さな革ケースへ指を伸ばす。
そこから、聖印を刻んだ銀蓋の風晶懐中時計を取り出した。
蓋を開け、針を一瞥する。それから彼は、女性の聖騎士ふたりに話しかけた。
女性の聖騎士ふたりは、カイウスの短い指示で礼拝堂側に残ることになった。
フィリアが子どもたちと巡礼者を奥の礼拝席から離し、ディアナが青ざめた顔で受付側へ戻っていく。
子どもたちの何人かが心配そうに、マリーを呼び掛ける。
「マリーお姉ちゃん」
「まーちゃんっ」
短い呼びかけに、マリーは笑みを浮かべては、手を小さく振り返す。
心配かけまいとしているように、俺には見えた。
「相変わらず子どもに好かれているのね、マリー」
マリーの横で、セレスティーネが楽しげに笑う。
反面、セレスティーネの前に立つカイウスの表情は硬かった。
子どもたちの声が途切れたあと、彼の喉仏が一度だけ上下する。剣帯に添えかけた指が、革の上で止まっていた。
目を細める彼の隣に、俺は寄る。
「では、案内をお願いします」
「ええ。案内しましょう」
カイウスを先頭に、俺たちは地下への移動を始めた。
地下にはカナメがいる。
緊急施療寝台の脇には、俺たちの〈魔法の携帯袋〉もある。
準備は整っている。
それでも、足を踏み出すたび、腹の奥が冷えていった。
□
地下堂へ降りる階段は、先ほど確認した時よりも長く感じた。
石壁に埋め込まれた聖素結晶が、乳白色の光をにじませている。雨音は地上に置き去りになり、代わりに、革靴と石段の音だけが狭い空間に響いた。
先頭はカイウス。
その後ろにセレスティーネ。マリー、カーラ、俺の順で続く。
カイウスは剣の柄に触れていない。だが、彼の背中には、いつでも振り向ける余地を残した凄みがあった。
地下礼拝堂へ入ると、空気がさらに冷えた。
壁寄せの長椅子。中央の祈祷陣。小祭壇の女神像。聖水瓶。緊急施療寝台。
さっき見たものと変わらない。
カイウスとセレスティーネは小祭壇側。俺たちは祈祷陣を挟んで、緊急施療寝台側に立つ。
緊急施療寝台の脇に、見慣れた〈魔法の携帯袋〉が置かれている。
ひとつではなく、三つ。
カイウスの視線が、一つ目で止まり、二つ目、三つ目へ順に動いた。
「……誰かの忘れ物でしょうか。であれば、こちらで預かりましょう」
「あ、取りますよ」
そう言いながら、俺は三つの携帯袋を拾い上げた。
開かない。身につけない。
ただ、自分の足元へ置き直す。
「……っ!」
カイウスの目が、わずかに見開かれる。
隣のセレスティーネも片眉を上げる。疑わしげに、俺の足元を見ている。
「……その忘れ物、こちらにいただけますかな?」
「いえ。おふたりの手をわずらわせるわけにもいきません。このままこちらに置いておきますよ。ええ、誰のものかはわかりませんが」
俺は肩をすくめた。
所持品改めは終わっている。
「──ただの話し合い、確認の場なら、袋があるだけでは何も起きません。違いますか?」
「……言葉の扱いがお上手だ」
一本取った、とは思わない。
ただ、こちらの手札を戻すことはできた。
対等に話すなら、相手の好き勝手にさせてはならない。
俺とカイウスの静かなにらみ合いが、続く。
誰かが、ごくりと唾を飲み込む音がする。地下礼拝堂に、緊張が満ちる。
そんな中、セレスティーネが、一歩だけ前へ出た。




