幕間4:カナメたちの休日 ~男子班特命視察~
-カナメSide-
春季第一週の七日目、午前。
我──カナメ・ビゼンと同班のふたりは、梢を渡る冷えた風を頬に浴びていた。
アリスより授かった特命は、次回実習で競うモブ班の勝ち筋を探ること。
枝の上より、我らはモブたちの活動を観察する。敵情視察なれば、友であろうと手は貸せぬ。
真下の土は昨夜の霧を吸い込み、まだ薄く湿っている。
樹脂の香と遠い土埃が鼻を掠め、耳には鳥のさえずりと、かすかな水音──沢の流れが重層して響いた。
「いーちにー、いちに、えいやっ、いちに、えいやっ」
「ぜぇっ……ぜぇ……」
「はぁっ……はぁ……」
交易都市ミカの郊外──次回実習地付近のアルディナ山脈にモブたちは足を延ばしていた。
山肌に朝陽が差し込み、白銀の霜が葉先でかすかに光る。
実戦を意識しているのだろう、湿った土を蹴り上げながら、各々が迷宮に赴く際の装いで走っている。
「が、がんばれー」
鉄の鎧をまとったカーラが、前方を行く緑髪のふたりを応援していた。
彼女は剣を右手に、そして鉄盾を三枚背負い、息切れなく走っている。
彼女が通った後の林道には、甲冑靴の痕跡が深く刻まれていた。
「まあ……。とても体力がおありですのね、カーラ様は。人を背負っているようなものでしょう」
「観察値、驚き」
我の班員も驚きを隠せなかったようだ。
我の隣で、マリーが諸手で白き頬を包んでいる。青い頭巾からこぼれた水色髪は風に揺れ、甘い花の香が我の鼻先をかすめた。
向かい側の枝では、とんがり帽子の下から紫髪をのぞかせたルールルーが、女子用の学生服の裾から伸びる象牙色の足を気怠げに揺らしていた。
見目こそ違えど、ふたりとも戦支度。……まあ、我も同じではあったが。
モブたちが林道の曲がりへ差しかかり、茂る枝葉の陰へ姿が消えかける。
ルールルーの揺らしていた足が、ぴたりと止まった。紫水の瞳もわずかに見開かれる。
その仕草には、もう見覚えがある。
つ、使う前にひと声かけいとあれほど言ったであろう!!
我は慌てて小さい声を上げた。
「ま、待──」
我の制止も空しく。
またも視界が一気に裏返る。
色彩が泡立ち、耳奥で風がうなった──内臓が一歩遅れてついてくる。
気がついたときには、別の木の枝の上──苔むした樹皮が足裏に冷たく貼りつく場所へ、我らは降り立っていた。
着地の勢いに、ルールルーの黒マントが近くの枝葉をさっと撫でた。
視界内の近場へ、術者を含め最大三人で移る、ルールルーの無属性魔法──中転移。
今朝だけでも、我らは何度かこの術でモブたちの先回りをしていた。
ぐええ。両足はすでに枝を踏んでいるというのに、視界だけが遅れてぐるりと回る。腹の中がひっくり返った心地になり、またしても吐き気が喉元まで込み上げてきた。
我は口元を押さえ、今度は同じ枝に立つ、ルールルーをにらみつける。
「い、いいかげんにせいっ。使うなら、ひと声かけよと言ったはずだ!」
「ルー、反省」
無表情に、ルールルーが返した。
顔合わせの折から、眠たげな面差しも抑揚のない声も変わらぬ。ど、どこが反省しているのか。我には相変わらず推し量れぬ。
「ルー、あなたねえ……」
マリーが向き直る。青基調の修道服の胸元で、黒革の首輪から垂れた紫色の宝石が揺れた。その声から、先ほどまでの甘さが消える。
ルールルーは言葉の続きを知っているかのように、とんがり帽子のつばを指先でつまんだ。
叱る方も叱られる方も、妙に手慣れておる。どうやらこのふたり、昨日今日の付き合いではないらしい。
「面倒だからと声掛けを省いてはいけないわ。カナメ様は、転移のたびにこれほど具合を悪くしていらっしゃるのですよ」
「次は言う」
「約束よ。──それから、〈中転移〉もなるべく使わないように。低レベルの魔法使いは、ふつうは転移魔法を使えないって、あなたが言ってたじゃない。何度も人前で使えば目立つわ。それは本意じゃないでしょう?」
「本意じゃない。でも、疲れるし、楽したい。こっちのほうが効率的。カナメにはもう見せた。……ダメ?」
「ダメ。一度うっかり見せたからと、何度使ってもよいことにはならないわ。──私たちも当日は走ることになるんだから、いまのうち慣れておきましょう?」
「……感情値、げんなり」
「──順序が逆になってしまいましたが、カナメ様。ルーが自分から話すまでは、この魔法のことは、どうかご内密に頼みます」
「しょ、承知した。我は他言せぬ」
「ん」
「ありがとうございます、カナメ様」
ルールルーが帽子のつばを持ち上げる。感謝のつもりか、それは。守秘の約束を交わす間も、喉元の酸味は少しも引かぬ。
「うえぇ。やはり慣れぬ……」
「まあ、カナメ様。膝をお貸ししましょうか?」
「む、無用」
マリーが、修道服の切れ込みから出た、白き太ももを撫でる。柔らかさを残しながらも、鍛えられた脚であった。
薄日が頬を飾り、水色の瞳がこちらを覗き込む。
小首を傾け、妖艶な微笑みを浮かべるかの者に、我はつい見とれてしまう。
(……ええい! なんと艶めかしい女子よ──!)
「そ、それより、なにか変化はあったか?」
我らは新しく移った枝の上から、遠目にモブたちを眺める。
観察を続けているものの……。
「いえ、特に。──モブ様のお顔を長く眺めることができて喜ばしいのですが、そろそろ戻ってもよいのでは? 早朝から走る、休憩、食事の繰り返しで、変わり映えしませんし……」
「同感。モブが隠していた魔力紙、図柄まで確認済」
実戦を見据え、山道や森の獣道を走り込む一行。その合間、モブは人目を忍んで魔力紙を開いていた。
あの紙の図柄までルールルーが捉えたのなら、アリスへ持ち帰る材料としては十分であろう。
「──うむ。戻ってアリスに報告するとしよう」
最後にモブたちを見る。
気を失っている男子ふたりに水を浴びせながら、モブが介抱している。
遠目にもわかる冷えた水滴が朝陽を弾き、一瞬だけ彩虹を作った。
(……頑張れ、モブ。このままでは、我らが勝ってしまうぞ──?)
手を伸ばしかけるも、我は引っ込める。
指先が掴むのは冷えた空気のみ。
──楽しみでありながらも、力になれずどこかもどかしい。
モブの、女傑のごときたくましき背を、我は数秒の間、食い入るように見つめた。
◆□◆
春季第一週の七日目、昼下がり。
交易都市ミカの城壁外北門通りにある蜂蜜菓子館〈ハニーホルン〉に我らは集まっていた。
北門通りの道路中央の水路を、二階のテラス席なる場所から見下ろす。
客を乗せた渡しの舟が出るたび、艪が水を切る鈍い音が橋桁の下で反響し、甘い菓子の匂いとともに春の湿り気を運んだ。
和国の文化が馴染んでいるのを見て、我は微笑ましくなった。
店内から運ばれてきた蜂蜜のパイと色鮮やかなプリンの甘い香りが、腹の底をくすぐるように食欲をかき立てる。
昼食はすでに済ませていたものの、異国の見慣れぬ菓子を前に我の腹は自制しなかった。仕方があるまい。
我とルールルーは白磁の皿に並べられた焼き菓子へ指を伸ばし、すぐに頬張り始めた。
「それで、彼らの目的は、速攻での登頂ってことね?」
「ええ、おそらくは」
隣に腰掛けるアリスが問い、対面のマリーがうなずいた。
アリスは、緋を差した短いジャケットなる羽織を身に着けている。
蜜色の髪が陽を受けて瞬き、両眼下の泣きぼくろがより艶やかに映えた。
「地図も、持っていた」
「地図を?」
「うむ。ルールルーが遠目から確認したらしい」
「うふふっ。ルーは観察と分析が得意なんです。──ほら、ルー。見せてあげたら?」
アリスが片眉を上げる。我も焼き菓子へ伸ばしかけた手を止めた。
ルールルーは腰の袋から、折り畳んだ大判の紙を取り出す。一辺が手の先から肘ほどはあろうか。
「魔力紙──魔導板帳に使われるものね? 魔力をインク替わりにする」
ルールルーが卓上へ紙を広げる。
折り目の間から現れた精緻な一枚絵に、我は目を見開いた。
「おお! これは、地図か!」
「──遠目から見たものを、ここまで再現したの?」
「うん」
ルールルーがうなずく。
アリスが地図へ顔を寄せ、細密な線を目で追い始めた。
一瞬、アリスが瞳に黄金の光をたたえたのを、我は見逃さない。
「これだけのもの、作るのにずいぶん時間がかかったんじゃない?」
ルールルーはひと呼吸おいて答えた。
「……時間、かかった。いろいろと。観察とか」
作るのに、とはルールルーは答えなかった。
我は今朝、モブたちから十分に離れた後、紫色の光が白紙の魔力紙をひと撫でし、この地図を浮かび上がらせるのを見ている。かかったのは、瞬きひとつほどであった。
〈中転移〉と同じく、これも伏せたいらしい。異質さのほどはわからぬが、我は黙って焼き菓子を頬張る。
アリスは一度だけルールルーを見たものの、それ以上は問わず、地図へ視線を戻す。
「とにかくありがとう。四隅に転送点、かしら? 今回のダンジョンも異界内にあるとは聞いていたけども……。大きな森林帯が広がり、中央に火山がある。かなり広そうね」
「モブ様がどこからこの地図を仕入れたかは存じませんが、これで私たちも同じようにすぐに山頂を目指せるのではないですか?」
「……この地図の信憑性を確かめるかどうかね。『視た』ところ、価値は高い。上級生が売り手だったのなら、探ったらモブの耳にも届くかもしれない。──実習まではダンジョン入場禁止だから、真偽は当日の楽しみにしときましょうか」
「あと、カーラが重いもの持って走ってた」
「……誰かを背負って走る気かもね。なら、私たちも当日やることは決まりね。みんなは走るのどう?」
「我は得意だ」
「普通です」
「苦手」
「あら。私たちも運搬訓練したほうがいいかしら?」
マリーから含み笑いがこぼれる。その隣のルールルーは、帽子のつばを指先で上げ、小さく反応する。
我も軽妙さに思わず口角を上げた。
アリス主催の女子会はまだ賑わいを見せ始めたばかりであった。
□
諸々の話を済ませて、我らはひと息ついていた。
各々が茶飲みに興じ、他愛のない話に移り出している。
「カナメ様はもう、その姿に慣れられたのですか?」
そして、いまの話題の中心は我であった。
「慣れん! ……と言いたいところだが、動く分には大きな問題はないな」
我は腕を組んで、天を仰いだ。
何ゆえこのようなことが起きたのか、いまだ解明の糸口すら掴めていない。
直近で困ったことを、我は愚痴る。
「夜に厠で用を足した時、寝ぼけてたせいで酷い目にあったぞ? 前を向いたまましたから、小便器を外れ、厠の床が水浸しになった」
「あらあらあら、た、大変でしたわね……。ふふふっ……」
「感情値、大笑い」
「うふふっ、かわいいじゃない」
「わ、笑いごとでないぞ! まったく! ──女になってよかったことなど、女子の視線が気にならなくなったことぐらいだぞ? 胸はさらしをつけねば擦れるし……!」
憤るたび、胸布の下で小さく揺れる重みが主張し、言葉に熱がこもった。
「や、やはり、気づくものですか?」
「うむ。特にカーラは隠れながらもよく我のことを見ておった」
マリーの両頬が朱を差した。
もしやモブに視線が知られていると考えているのだろうか。
「けれど、レベルが下がらないのは大きいのじゃないかしら? 為政者を目指すにせよ、冒険者でいるにせよ、高レベルでないと話にならないし」
「む……」
アリスが口を挟む。
我が片眉をあげて反応する矢先、マリーも会話に乗ってきた。
「そうです、モブ様も男子ゆえに先日レベルを下げておりましたし……おいたわしい」
「そう、だな」
我はふたりに同意を示しておく。
ふたりは、我が女に変じてから位が下がらなくなったと思っている。
だが、この身となる以前から、我の位は一度たりとも下がっていない。
その天与の性質について、我は語らなかった。
母上の声がふいに脳裏へ蘇った。
『──カナメよ。決して位が下がらぬことを公言するな。諸国はお前を放っておかぬだろう。それを、ゆめゆめ忘るるな』
なぜ母上がかようなことを言ったかわからぬまま、我は女となった。
ひょっとしたらそこに男に戻る術が眠ってるやもしれない。
「カナメは、男子に戻りたい?」
ルールルーが紫水の瞳を眠たげに我に傾ける。
「……それ、は──っ!?」
なんと答えるか逡巡したところ、アリスが音もなく我に身を寄せてきた。
椅子の脚が床板を撫で、薔薇の香りが蜂蜜の甘気に重なり合う。
艶やかな金の髪が肩越しに流れ、耳元でささやく呼気が、我の皮膚をくすぐった。
「私は戻ってほしくないなー。こんな強いのに、もったいない」
「ええいっ、よるな痴れ者! 前も言ったが近いぞお前!」
我は身を引き、背もたれをきしませる。
アリスは追うでもなく、我の狼狽を楽しむように目を細めた。向かいで一部始終を眺めていたマリーが、嬉しそうに両手を合わせる。
「アリス様はカナメ様のことがお好きなんですね♡」
「そうよ、大好き。価値が高い子は、どうしても手に入れたくなっちゃうの」
「男の人、駄目?」
「遊びで付き合ったことあるけど、冷めちゃうのよね。価値が見いだせない子、レベルの低い子は、私、好きになれないみたい」
「だ、だからと言って、我にちょっかい出すな! 我の好みは……」
そこまで言って、我ははっとした。
目の前の者たちはこの街でも指折り数えるほどの美貌の持ち主である。美しいとは思う。朝方、マリーの仕草に見とれたのも嘘ではない。
女体化する前であれば、その美しさの先を求めて鼻の下を伸ばしていたはず──なのに、いまは見とれるだけで、胸の奥の欲は静湖のように凪いでいる。
──美しいと感じても、以前と同じようには惹かれていない自分に、我は気づいてしまった。
◆□◆
春季第一週の七日目、深夜。
我は夜気に誘われ、寮区の散策へ出る。
夜風にさらされた石畳は、冬の名残を足裏へ返す。両脇の灯火が青水晶めいて瞬いた。
〈貴族寮〉と呼ばれる三層建ての棟──精霊樹材を葺いた緩い勾配の屋根へ、雨樋を頼りに我は身軽くよじ登った。
しなやかな木板と草履が擦れ合い、夜の静寂へ細い音を落とす。
腰を下ろす。
足を放り投げ、天を仰いだ。
雲間を払って淡銀の月が湧き、雫のような光をこぼして袖の影を伸ばす。
耳もとを渡る風は水面を撫でた後の涼やかさを帯びていた。
昼間、我が好みを答えあぐねた後も、話はしばらく続いた。
やがてモブへ話が及んだ折のやり取りが、いまになって胸裏へ蘇る。
『あなたから見て、モブ様は価値が低いのですか? その割には……』
『うーん……。あの子は特別ね。あの子は、私の目で測れなかった。だから、逆に興味が出た』
上級冒険者学校を巡る水路のせせらぎが、遠い笛音のごとく我の下へ届く。
(モブ……)
モブ・アイカータ。
我を先導する奇特な男。
この国で出会った数少ない、いや唯一と言ってよい同性の学友──だった。
面差しを思い浮かべれば、胸奥の鼓動がひとつ跳ね、昼間には感じ得なかった律動で脈を打つ。
『その、かっこよかったぞ、カナメ』
「──ッ」
不意に兎を破りし時を思い起こし、首を左右に振る。
跳ねた心臓を抑え込むように、我は膝を抱えた。
膝頭に頬を擦り付ける。
(モブよ……我が友よ……)
この胸に去来する想いはなんであろう。
あの声、鍛え上げた手のひらを思うたび、胸郭がきしむほど締め付けられる。
我は、友であり続けたいのか──それとも。
(我は、早く戻りたいぞ……)
膝を抱く腕に、知らず力がこもる。
月光は、袴をつかむ指先のかすかな震えまで照らし出した。




