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「きたねえ笑い声だ。いい加減静かにしろ」
純は口の中の血を吐き出し、ディープワンズに怒りの目を向ける。ディープワンズは、目玉をぎょろぎょろ動かし、純をけなした。
「ひひひ! 無様なフォマルハウト! まるで、お前の大好きなフォマルハウト荒井のようだ」
「あ……?」
「あんなボクサーの面汚しから名前を取るなんて、よっぽどの物好きだ。八百長なんて卑怯なマネしやがって。そうまでしてちやほやされたかったのかねぇ。あんなやつは、今頃どっかでゴミの山に埋もれて暮らしているのがお似合いだ」
その声を、カメラマンのカメラマイクはしっかりと拾っていた。
全国のテレビに映像と音声をカメラが届ける。そう、かつてのフォマルハウト荒井本人にまで。
「……」
荒井正道は死んだ目でテレビを観ていた。
暗い部屋。ディープワンズの言う通り、ゴミの山に囲まれて。
テレビに映る怪物は、正道の心を抉る言葉を発し続ける。
「俺だってガキの頃はさあ! あいつはヒーローで、憧れだったよ! 階級の違う外人選手だって、ぶっ飛ばしてKO勝ちさ! 体格なんて関係ねえって調子で勝ち続けてた! 俺たちに夢をくれた! でも、そんなもん全部八百長の嘘っぱちだった訳だ! “裏切られた”ってショックだったよ、ほんとにさあ!」
正道は胸を貫かれるような悲しみに、唇を噛んだ。自分の過ちを思い出し、生気を失った両目からは、当の昔に流しきったと思っていた涙が流れ出す。
――――負けるのが怖かった。世界中のファンの期待を裏切りたくなかった。妻が、息子が見ている試合で醜態を晒したくなかった。
歓声が大きくなるに連れ、その恐怖は高まっていく。いついかなる時でも、プレッシャーから逃れることはできない。試合の直前はいつだって、敗北する自分のイメージに身を震わせていた。
一度だけ。たった一度だけなら。
恐怖とプレッシャーから逃れたいがために、正道は八百長の提案に乗ってしまった。
試合は予定通り、圧勝。だが、その後に提案者が別件で捕まった際に八百長取引の存在が発覚、フォマルハウト荒井の英雄譚を見る目は、疑惑と失望の目に変わってしまった。
結果、彼はボクシングに捧げてきた人生を、築き上げてきた信用を失った。自暴自棄になり、酒を飲んで暴力を振るうようになり、友人や妻までも失って。
「フォマルハウト荒井なんてのは、下らない幻想だったんだよ! あいつが子供だった俺たちに教えてくれたのは、努力が報われる希望なんかじゃなく、悪人になって人を騙す現実だった! だからさあ……、ムカつくんだよなぁ……。お前みたいな、フォマルハウト荒井をカッコいいやつみたいに思ってる、にわか知識のクソガキはさぁ!!」
ディープワンズが純を殴ろうとする。純はその拳をかわすが、続けて繰り出された蹴りを避けられず、蹴り飛ばされて地面に転がった。
「迷惑なんだよ! フォマルハウト荒井はろくでもないクソ野郎だ! それが真実だ!! なのに、カッコつけてあのゴミボクサーの印象良くしてんじゃねえよ!! やつの腐るほどある悪い噂の一つも知らねえんだろ!? お前みたいな、最近やつを知ったばっかのミーハーなガキは!」
テレビの前で、一人の男が崩れ落ちた。
正道の顔は涙にまみれ、嗚咽を鳴らして泣いていた。そこには、拳で世界を取った昔の彼の姿からは想像もできない、落ちぶれた情けない一人の人間の姿があった。
涙は止まらない。テレビに映る怪物が言う言葉全てが、正道の胸に突き刺さる。
「お前の人生も終わらせてやるよ、フォマルハウト。あの八百長野郎みたいにな」
「――――黙れ」
正道は、はっと顔を上げた。
息子の声が聞こえた気がした。
幼いながらも努力を重ね、遂には自分を殴り倒し、自分の全てを否定して見せた息子の声。
正道に、自分が下らない存在になってしまったことを気づかせた、息子の声だ。
「てめえにあの人の何が分かる!! テレビでばら撒かれた噂でしかあの人を知らないくせに、あの人を馬鹿にするんじゃねえ!!」
フォマルハウトと名乗る、怪しげな炎の仮面を着けた少年が、カエル男に怒っている。
フォマルハウトが誰なのか、正道はこの時確信した。
まさか。もしかして。
ずっと怪しんではいたが、あり得ないと思っていた。
けど――――
「確かにあの人はろくでもないクソ野郎になっちまった! それは本当のことだ! けど、それで終わりじゃない! 今はまだ腐ったままかもしれねえ! でも、あの人は絶対にまたカッコよかったあの頃に戻ってくれる! あの人がどんな想いで八百長に手を出したか、その後どれだけ後悔したか、考えたこともねえてめえには、絶対にあの人を馬鹿にはさせねえ!!」
正道にははっきりと分かった。
フォマルハウト。彼の正体は、間違いなく自分の息子。荒井純であると。
「てめえみたいに適当なことを言うやつは、この俺がぶっ潰す!!」
「純……? 純なのか……?」
テレビに映る純は、ブリンクでディープワンズに接近し、拳を顔面に叩き込んだ。
正道は拳をぐっと握り、純を応援した。
「頑張れ……ッ! 純! 頑張れ!!」
単純な筋力で劣ろうとも、純はディープワンズに炎を投げつけ、ブリンクで攪乱し、互角の戦いに持ち込んでいく。
怒れば怒るほど、純の脳は冷静に冴えていった。日々戦う中で彼が身に着けた、戦いのためのノウハウとでも言うべきか。
怒りで湧き上がる力をそのままに、冷静さだけは失わず。ただ、敵を打ち倒さんがために。
戦うために最も理想的な精神状態を保ち、純はディープワンズを追い詰めていく。
「速い……! なんだこいつ!! さっきまでと動きが全然違うじゃねえか! “あの方”から力を頂いたこの俺が、こんなやつに……! こんなやつに、負けるはずが――――!!」
困惑するディープワンズの隙だらけの背中に、純の拳がめり込んだ。
ディープワンズの体がぶっ飛び、ぶっ飛んでいる最中のディープワンズの上にブリンクで移動した純の拳が、さらにディープワンズを地面へ殴り飛ばす。
巨大なへこみを作る程の強さで、ディープワンズは地面に衝突した。
「が……、ぁ……! げふ……っ!」
倒れ、痛みに呻くディープワンズにファイアスターターをかざし、純は言った。
「これまでだな。カエル野郎」
ディープワンズは、それでも嘲笑うことをやめなかった。
「ひ……っ! ひひひ! 無知で無力なフォマルハウト! 哀れだなぁ……、お前は。世のため人のため、戦い続ける意味は、もうないんだよ」
「前に同じようなことを言ってるやつがいた。クトゥフルだかなんだか知らねえが、そいつは俺がぶっ潰す」
「ぶっ潰す? お前が?」
ディープワンズが大笑いし始めた。まるで滑稽なものを見る目で、純を見ながら。
「一度でも、かの偉大なるクトゥルフを目にしたことがあるのか? 会話をしたことは? ないんだろうな。ないからそんなことが言える。偉大なるクトゥルフは、人間よりも遥かに発達した頭脳を持つ生命体だ。クトゥルフ様は全てを見据え、目的までの運命を完全に予測している。もはやあの知能は、未来予知と言ってもいい。その点、お前はどうだ?」
「俺がなんだってんだ?」
「お前はなんのために戦ってる? 人助け? ボランティア感覚か?」
純は迷わず、答えた。
「世界平和だ」
ディープワンズはきょとんとし、すぐに再び笑いだした。
そして、今度は純を驚かせることを言ってのけたのである。
「――――クトゥルフ様と同じじゃないか」
「なに……!?」
「クトゥルフも……、世界平和を……!?」
純とエインセルは「どういうことだ」と、混乱を隠すことができない。
「俺の夢に現れたクトゥルフ様は、世界平和を実現する方法を分かりやすく語って見せたぞ。クトゥルフ
様は、自分を信奉するディープワンズたちの平和な世界を作るのだ。目の前の問題に気が付くことすらできない人間が作るまがい物の平和ではなく、全てを見通すことのできるクトゥルフ様が治め、彼を信じる者たちによる、本当の永遠と平和が続く、正しい世界を」
純は言葉を失っていた。
クトゥルフは世界を滅亡させる邪神。純の目指す世界平和とは真逆の存在であったはずなのに。
「世界平和……。クトゥルフが……、実現する……?」
「純! しっかりしてください! 来ますよ!」
突如起き上がったディープワンズに、純はみぞおちを殴られ、後方に倒れた。
「大いなる神々が何億年という時をかけた計画で実現させようとしてるのに、百年も生きられないたかが人間が世界平和なんて、ちゃんちゃらおかしいんだよなぁ!!」
ディープワンズのテレキネシスが無数の拳の形となって、純の全体を殴りつける。
地面に倒れた純の体が殴られるにつれ、道路のアスファルトを砕き、埋まっていく。
「だったら……、どうしたぁ!!」
ファイアスターターから炎が噴き出し、渦巻いた。
ディープワンズはテレキネシスを消し、急いで襲い来る炎を避けて、後ろに下がった。
あざだらけになった体でなんとか立ち上がった純は、まだ戦う意思を失ってはいない。
「結局、クトゥルフは人間の敵ってことだろうが! そんなやつの作る平和な世界なんざ、胡散臭くて鼻がもげるわ!!」
「そーだそーだ!」
純がディープワンズを指さし、啖呵を切る。
「ふざけた野郎は、誰が相手でも! この俺がぶっ潰す!!」
純がブリンクでディープワンズの背後に周る。純の拳には、ファイアスターターから出てくる炎がまとわっている。
「純! テレキネシスに気を付けて!」
「分かってる!」
ディープワンズの背中から、端末義眼の機能で可視化されたテレキネシスの波が湧き上がって来た。
純はテレキネシスに捕らわれないよう、ブリンクでディープワンズの側面や正面に移動し、炎の拳を叩きつける。
拳が筋肉を破壊する痛みと、肌が焼ける痛みに、ディープワンズが悲鳴を上げた。炎で焼けた肌に突き刺さる拳は、敵に絶大な痛みを与える。
ディープワンズは痛みにのたうちまわり、純の拳をひたすらに受け続け、とどめの一撃をくらうと、虫の息で倒れた。
「今度こそ、終わりだ」
「ひ、ひひ、ひひひひひひ! イア! イア! クトゥルフ! イア! イア! クトゥルフ!!」
純の左手のファイアスターターから、炎が噴き出す。炎はディープワンズを焼いていき、やがて白い灰へと変えた。
「やりましたね! 純! お疲れさまです!」
「ああ……。さっさと力を吸収して、お暇するか。……、ん?」
純が旧き印に力を吸わせる前に、白い灰から湧き出していた黒いもやが、何処かへと吸い寄せられていっていた。
「なんだ……? 一体、どこに――――」
純とエインセルがもやの行く先へ目を向けると、そこにいたのは――――
「――――そんなものか。お前の実力は。荒井純」
「……っ!?」
瓦礫だらけになった渋谷に響いたのは、懐かしい声。
そこにいたのは、エインセルを純に託した、ラバン・シュリュズベリィだった。
「ラバン教授!? 生きていらしたのですか!? でも、なら……、どうして今まで連絡をくださらなかったのです!? 私たちは、これからどうしたら……!」
エインセルが必死にラバンを呼ぶ。けれど、ラバンは一向に呼びかけに応えようとしない。
ラバンの体が霧のように薄れ、消えていく。
「教授!!」
エインセルの呼びかけに終ぞ答えず、ラバンの姿は完全に消え去った。
(ラバン・シュリュズベリィ……。死んだはずの爺さん……。味方じゃないのか? 味方じゃないなら、エインセルの話と食い違うぞ。どういうことだ……?)
純は疑問で一杯になった頭が、激しく痛むのを感じた。
日を追うごとに、謎だけが増えていく。
例え、何も分からなくとも。何もできなくとも。
クトゥルフの復活の日は、確実に近づいてきていた。




