神の帰還1
人の世は未だ曙の時代にあった。
人の最も古い種族として記憶は『隷属』である。かってこの世界は、細長い瞳と青い肌を持つ人とは異なる種族“神人”と呼ばれる存在のものだった。神人は「混沌の神」をあがめ、様々な「魔法」を使った。神人の使役する精霊達はこの世界の自然に干渉し世界を楽園に変え、神人達が召喚した異世界の生命体はその強大な力で豊かさをもたらした。神人達の魔法はあらゆる奇跡を可能とする力だった。人類は神人達のお気に入りの奴隷として、魔法の恩恵を受け生活していた。
しかし、神人達はある時を境に姿を消す。
人類の歴史書は、
「主がここから去った」という一文から始められている。
人間達は突然神人の庇護を失った。魔法によって管理されていた楽園は、無秩序な自然の前にあっという間に崩壊した。コントロールを失った異世界の生き物が、人に牙をむいた。
人は自らの手で自分を守らなくてはならなくなった。
人という種がこの地上からなくならなかったのは、神人達の遺した恩恵のおかげだとある者は言う。人は自らを守る方法を求めて、主人の遺した城に入っていったのだ。人間は神人達の遺跡を盗み、そして大きな犠牲を払ってわずかな魔法や技術を学び、人の世界を作っていった。
異界の怪物はこの世界に順応し、野生化し、結果、超常の力を弱めていった。多くの魔法、技術が失われ、わずかに残った魔法と技術、富を独占した者達が国を作り、王を名乗り始めた。森を切り開き、土地を耕し、獣を駆逐し、じりじりと人間の領域は広がっていった。
こうして人の世界は始まったのであった。
第一章
1
「準備はいい? クレイ」
アルミスの何度目かの言葉。そんなに何度も言わないでよ、と思いつつ、それでもやはり不安になってクレイは背負い袋の中をのぞいてしまう。最低限のものだけを持って行く、そう二人で決めたはずなのに、必要だと思うものが多すぎてどうしても鞄に入りきれない。クレイとアルミスはこれから長い旅に出るのだ。
「クレイ」
背負い袋の中身を確認していたクレイの視界に影が落ちる。先ほどとはうってかわった、消え入りそうな声だ。クレイは目の前に立ちこちらを見るアルミスを見上げる。アルミスの緑の瞳の中に不安がある。いつも自信いっぱいに、こちらをからかうような光をたたえてクレイを見ていたアルミスとは全く雰囲気が違う。その不安は自分も同じだ。自分の心も重くなっていくのを感じ、クレイはその不安を押し出すように顔に力を入れて笑顔を作った。
クレイの笑顔に、アルミスは小さく瞬きをし、それから笑顔を返した。いつもの大きく声を上げる明るい笑いではなく、唇の両端に小さなしわを作る、少し大人っぽい笑み。アルミスの肩まで伸びたまっすぐな銀髪が戸口からの光に輝いている。クレイは思わず見とれてしまう。きれいだ、とクレイは思う。2歳上の、姉弟そのままに育ったこの少女を自分はいつから異性として意識していたのだろう。
「クレイ……」
もう一度アルミスはクレイの名を呼びながら、手を伸ばしてくる。クレイは立ち上がり、アルミスの手を握る。アルミスの白くてきゃしゃな手は、クレイの手の中を滑り、指を絡ませる。冷たいアルミスの手がクレイの手の温度で温まっていく。クレイは力を入れすぎないように注意しながらも、手のひら全体でアルミスを感じようと包み込む。アルミスを守りたい。いつも姉ぶり、クレイを子分のように従えていたアルミス。彼女を、これからはクレイが守るのだ。クレイの背に小さなふるえが走る。緊張と、誇りのふるえだ。クレイは背筋をぴんと伸ばす。クレイは15歳の誕生日にようやくアルミスの背に追いついた。それからまだ2ヶ月しかたっていない。
クレイを見つめていたアルミスの目がそらされ、小さくしかめられる。アルミスの視線を追い、クレイは開け放たれ外の景色がそのまま見える戸口を見る。扉は昨晩のまま、壊れて立てかけられている。
「お父様……」
アルミスがつぶやく。クレイの師であり、アルミスの父であるボドルフ。入口の扉は昨晩、ボドルフのが使う風の精が壊したのだった。
ボドルフ・ヴァラール、かつて「根の国」に仕え、“神人の使い”という名を王から送られた大魔法使いである彼は、13年前突然すべての役職から退き、「背の国」の辺境であるこの地方に娘のアルミスと、孤児として引き取ったクレイと共に移り住んだ。ボドルフはアルミスと共に実の子供のようにクレイを育てた。ボドルフはクレイとアルミスに魔法を教え、近くの開拓村とのみ接触して、ひっそりと暮らしていた。
しかし、ここ数年、ボドルフは数日家から出て帰ってこないことがあった。何があるのかアルミスもクレイも聞いてみたが、「そのうちに話す」というのみで、ボドルフは二人に事情を明らかにしなかった。
しかし、今回は10日たってもボドルフが帰ってこなかった。いつもは必ずしてきた連絡もない。二人は相談しながらも、ボドルフを待ち続けた。
そして、かつて無い「報せ」が届いたのだ。
夜、食事の支度をしているとき、ドアを吹き飛ばして入ってきた風の精。こんな乱暴な方法は、ボドルフの風の精は決してしないはずだった。そしていつものように手紙を渡すのではなく、空気がボドルフの顔を形作った。
「アルミス、クレイ、すぐそこを出ろ。私は根の国にいる、連絡はおってする。この場所も危ない、すぐに根の国を目指せ」
そのまま風の精は消え去った。ボドルフの声を届けた精霊は、緊急の、目的のみを果たすために呼び出されたものだった。
一方通行のメッセージのみを伝えるこんな方法は、素人の魔術師ならばともかく、ボドルフのような大魔法使いが使う魔法とは思えないものだった。それほどに切迫した何かが、ボドルフに起きた。アルミスとクレイはそう確信した。
細かいことは全くわからないままで、アルミスとクレイは荷物をまとめ、根の国までの旅に出ることを決意したのだった。
根の国までは背の国を横断し、さらに海を越えなくてはならない。1ヶ月以上の旅になるだろう。クレイもアルミスも背の国の国境地帯であるこの山奥の小屋から、開拓村までしか出たことはない。ボドルフが使っていた旅の道具と、ボドルフが書いた覚え書きだけが彼等の旅の指針だった。覚え書きの細かい内容や旅の道具の使用法は旅を続けながら学んでいくことになるだろう。
不安に押しつぶされそうになる一方で、クレイの中には胸が高鳴るものがあった。「外の世界」、幼い頃からクレイは旅立つことを夢見てきた。そしてもう一つ、クレイには夢があった。
クレイとアルミスは身体に合わない大きめの外套を着込み、大きなバッグを背負う。荷物を詰め込んだバッグは重い。アルミスはもちろん、クレイ自身も身体は細く、同世代の子どもと比べて華奢だ。それでも、何とか動けるように荷物は調整した。
クレイとアルミスは戸口に立つ。昨晩壊れた扉から、今まで暮らしていた家の中が見える。広いと感じていた家が、急に小さく感じる。急いで旅支度を調えた家の中は雑然としたままだった。掃除をしていきたい、というアルミスを、家にいる時間が長くなれば旅立つ機会を失ってしまうと、クレイは何度も説得していた。
クレイは懐から翡翠の玉を取り出す。その玉を地面に置くと、
『土の精よっ!』
甲高い精霊語で呼びかける。精霊界と契約を結び、才能と、何年もの修行をすることで習得する精霊と人間の間で交わされる言葉だ。翡翠の球は、まるで水面に投げ込まれたかのように土の中に沈む。次の瞬間、土の柱がつきだし人の形を模した1メートルほどの土人形になった。クレイは土人形に命令する。
『入口を塞げ、そして僕らが帰ってくるまで、この家を守るんだ』
土人形は戸口まで移動すると上に伸び、ぴったりと扉のあった部分を塞ぐ。もし侵入しようとする者があった場合、地の精は人の形となってそいつに立ち向かうだろう。
クレイとアルミスは、生まれたときから共にボドルフから教えを受けた魔法使いなのだ。戸口を塞ぐ地の精を見ながら、アルミスがクレイに手を伸ばしてくる。クレイはその手を強く握る。アルミスを、守る。それがもう一つのクレイの夢だ。この旅でいつも姉ぶっているアルミスを自分の魔法の力で守る。それができれば、自分の中の想いをアルミスに告げることができる。大きな不安と共に、希望を持って、もう一度クレイはアルミスの手を握った。
2
「アルっ、早くっ!」
クレイはフードを跳ね上げ、アルミスに叫ぶ。二人は手を取り合い、足を速める。
クレイは走りながら後ろを振り返る。森の闇の中に二つの小さな緑の光が見える。獣の目だ。クレイはパニックに陥りそうになる自分の心を必死になだめる。訳が分からなかった。家を出るのを待ちかねたように、森の闇から何かが現れ、明確な敵意を持って自分たちを追いかけてきたのだ。せわしない呼吸と、下生えを踏む音が聞こえる。クレイはもう一度振り返り、追跡者を確認する。黒く短い毛並みを持つ、大型の猟犬だ。
クレイは猟犬の緑の目に残忍な知性を見つける。『全力で走ればすぐ追いつけるのに、こいつは僕たちが疲れるのを待っているんだ』。クレイは追跡者の意図を悟ると、足を止めて追跡者と対峙する。
「クレイ?」
クレイは手を伸ばして、アルミスを後ろにかばう。
獣が足を止める。追跡者の全身が二人にもはっきりと見えた。猟犬の姿をしているのは獣の上半身のみで、下半身は羽毛の生えた黒い鶏の足を持っている。獣は地面に伏せ、威嚇の叫びを上げる。
「グゥエーッ」
猟犬の口から、鶏が絞められるときの声が上がる。それと共に獣の背中に生えたコウモリの翼が大きく広げられた。
「キマイラ・・・・・・」
アルミスのつぶやきに、クレイは彼女を見ずに頷く。猟犬の上半身と、鶏の下半身、コウモリの翼を持った生物。こんな生き物は自然には絶対生まれない。魔法使いが“混沌の次元”より呼び出し、使役する生き物。キマイラはその総称だ。混沌生物は呼び出されると、その特性に近い生き物の姿を借りる。それは部位ごとに異なるため、様々な生物のパッチワークのような外見となる。
「グエェェッッ!」
もう一度怪物は絶息寸前の鶏の声を上げる。クレイはその声が嫌いだった。祝いのために殺されなくてはいけない恨みの声だ。猟犬の形をした怪物の眼が、むき出しの悪意を持ってクレイを睨む。クレイは恐怖で全身がこわばる。いや、クレイの右手だけが震えている。クレイはアルミスが彼の右手を強くつかんでいることに気付く。アルミスの身体は激しく震えている。右手からアルミスの怯えが伝わってくる。クレイはアルミスを見る。アルミスの緑の瞳は恐怖に大きく見開かれている。
クレイの心は決まる。クレイは手を伸ばし、アルミスの手をしっかりと握る。
「大丈夫だよ、アル」
両足に力を込め、懐から翡翠の球を取り出し、握りしめた。クレイの背に、興奮のふるえが走る。アルミスを守るのだ。
クレイは手のひらにのった翡翠の球を怪物に見せつけるように突き出す。怪物はクレイの動きに警戒し、足を止める。クレイは地面に向かって球を投げつけ、
『土の精よっ!』
笛のように甲高い精霊語で呼びかける。次の瞬間、枯れ葉を吹き上げて土の柱がつきだした。柱の先端に五本の指が現れ、さらに土の柱が大きくなると共に肩、頭と形作られ、地の精が出現する。クレイは、手を伸ばして土人形に命令する。
『行けっ!』
目も鼻もない土人形の頭がまっすぐ怪物に向けられる。拳を振り上げ、地面を滑るように移動し、怪物につかみかかろうとする。怪物は背中の翼を羽ばたかせ、身をかわす。地の精の腕の当たった木が大きくえぐれる。
「グェッッ」
叫びを上げて怪物が地の精の腕にかみつく。猟犬の牙が地の精の肩に深々と食い込む。地の精は身体を振り回し怪物を引きはがそうとする。
ボトリ、怪物によってかみちぎられた地の精の腕が落ちる。怪物は地の精から離れる。クレイは怪物の口が獲物に苦痛を与えた笑みに歪むのを見る。
しかし地の精を見た怪物の目は驚愕に見開かれる。切断された地の精の腕に新しい土が盛り上がり、瞬く間に再生している。地の精は再生した腕を怪物に突き出す。手の先が槍のように鋭く変化し、細く、長く伸びる。針と化した地の精の腕が、怪物の足を貫いた。怪物は高く悲鳴を上げ、倒れる。
「やった!」
クレイの身体に興奮が駆けめぐっている。地の精をこのように攻撃に使ったことは初めてだった。力への実感がこみ上げてくる。クレイは地面にはいつくばった怪物を指さし、地の精に命じた。
『とどめを刺すんだ!』
左の後ろ足から緑の血が流しながら怪物が立ち上がる。眼には激しい憎悪の光がある。勢いよく迫る地の精に向けて、怪物はかっと口を開けた。怪物の真っ赤な口腔の中に、クレイは緑の光を見た。
怪物の口から、緑の炎がほとばしり、地の精を包みこんだ。
「ああっ!」
クレイは叫び声を上げる。全身を緑の炎に覆われた地の精は、顔を天に向け、のたうち回りながら徐々に地面に沈み込み、消えた。地の精の身体のあった場所には煙を上げている翡翠の球だけが残った。クレイは全身の力が失われていくのを感じる。地の精は彼が使える最も強い魔法だった。他の方法を考える余裕もなく、頭が真っ白になった。
怪物がクレイに目を向ける。怪物と眼があった瞬間、クレイの視点が下がった。目の前に自分の足が見える。クレイは腰を抜かしてしまったのだ。
「うわあっ」
クレイは悲鳴を上げる。怪物から離れようと動く足が、むなしく地面を滑る。力が込められず、立ち上がることができない。怪物は一度身をかがめ、翼を広げてクレイに向かって跳躍した。
「クレイっ!」
アルミスの声。
クレイの目の前が不意にふさがれる。アルミスがクレイをかばい、怪物の前に立ちふさがったのだ。クレイの目の前で二つの影がもつれ合う。クレイは怪物がアルミスを組み敷くのを見る。麻の外套から、アルミスの白い腕が出ている。その腕に、怪物は牙を打ち込んだ。アルミスの白い腕から飛び散った血がクレイの顔にかかった。
認識と叫びは遅れてやってきた。
「アルっ、アルっっ!」
クレイは叫び、手を伸ばす。しかし、足が動かなかった。怪物はアルミスの腕を放し、クレイを見る。怪物と眼が合い、クレイは自分の伸ばした手が力を失って下に落ちていくのを認識する。
絶望がクレイの心を覆う。怪物に組み敷かれるアルミスの前でクレイは何もできなかった。怪物は舌で口の周りのアルミスの血を舐める。クレイは自分に向かって怪物が嘲笑を浮かべるのをはっきりと見た。
突然、怪物がびくりと身を震わせる。アルミスの身体の上から跳びのき、あらぬ方向に向かってうなる。クレイは怪物の眼の先を追うが、闇が広がっているだけで、何も見えない。
眼の隅に捕らえていた怪物が突然かき消え、背後で木に何かを叩きつけた大きな音が響く。後ろを向いたクレイは思わず自分の目を疑った。
怪物が一本の剣で、樹木に昆虫の標本のように縫い止められている!
怪物を貫く剣は刃の部分が30センチほどの比較的小さめな剣だが、それを投げナイフのように投げて怪物を木に縫い止めるなどという力と技量は、クレイの理解を超えていた。
首を剣に貫かれても、怪物は生きていた。怪物は四肢をバタバタと動かし、翼を振って剣ごと自分の身体を木から引きはがした。剣が刺さったままの首から大量の緑の血が落ちる。
「ほう」
闇の中から野太い男の声が上がった。再び正面を向いたクレイは目の前に巨大な男が立っているのを見た。その男は、今までクレイが見たどの男よりも大きく、鍛え上げられた身体を持っていた。短い黒髪と意志の強そうな眉、がっしりした顎をしている。クレイが自分を見ていることに気がつくと、男は歯をむき出しにしたどう猛な笑みを浮かべた。男の笑顔は一見恐ろしいが、目の光に見る者を安心させる優しさがあった。
「大丈夫か?」
男の質問に、クレイは頷くことしかできない。男はクレイから目を離し、怪物を見据え、肩にかけていた袋と上に羽織っていたマントを地におろす。金属で補強された革鎧に包まれた身体が現われる。鎧から出た腕、首の筋肉の盛り上がりがすさまじい。マントを脱ぎ、逆に一回り身体が大きくなったように見える。男は、緩やかに弧を描く、長い刀を背負っていた。クレイが見たこともない異国の剣だ。
男は無造作に怪物に近付く。怪物は憎悪に燃え上がる目で男を見て、かっと口を開ける。クレイは男に警告しようとした。
緑の炎が男に伸びる。男は背の刀を引き抜きざま炎を斬った。
クレイは目を見張る。刀身に触れた炎が一瞬で消滅したのだ。
必殺の炎を一瞬で消された怪物もまた動けなかった。刀を下段に構えたまま男は一瞬で距離をつめ、地から跳ね上げた刀で怪物を両断した。
二つに分かれた怪物の身体が緑の炎に包まれ、やがて消滅した。
そのときようやく
「アルっ!」
クレイはアルミスに駆け寄ったのだった。
3
男は、自らの名前をバーノルと名乗った。傭兵であり、東の国での仕事を終えて故郷に帰る途中だという。バーノルに手伝ってもらい気絶しているアルミスの身体を運び、木々の間隔がまばらな開けた場所で火をおこした。クレイは地の精を使って薬草を集め、アルミスの傷口に薬草を塗り込み、包帯を巻いた。
バーノルはクレイに声をかける。
「交代で寝るぞ。すまんが、先に寝させてもらう」
クレイは小さく頷く。クレイは、唇をかんで、アルミスの左手に巻かれた包帯を見つめる。包帯には血止めの薬草と、血が混じった茶色い色がにじんでいる。
バーノルは木の幹に背中を預けて座わり、クレイを見る。
「お前ら、何があった。あいつは『ゲスナーの凶猟鶏』だ。ここら辺の山でうろうろしているやつじゃない」
クレイは驚く。あの怪物の名を普通の人間が知っているはずがない。魔法使いであるクレイですら、本で学んだだけだ。この人は何者なのだろう? クレイはバーノルに質問しようとして、それを飲み込んだ。
バーノルはクレイを見つめている。クレイは目をそらす。
「……すみません、今はお話しできません」
バーノルはゆっくりとうなずく。小さく息を吐き、
「まあ、いい」
身体をずらして、横を向き、目を閉じた。
静寂が訪れる。
クレイは、再びアルミスを見る。苦しそうなアルミスの顔。額には汗が浮かび、髪が張り付いている。目は覚まさないが、さっきから何度もうめき声を上げている。クレイは布でアルミスの額の汗をぬぐう。
こんなはずではなかった。
アルミスと家を出るとき、自分は確かに“喜んで”いた。アルミスを助ける、その夢が叶ったと彼は精霊の王達に感謝を捧げたはずだった。アルを守り、先生に会わせる。それを確かに誓ったはずだった。二つ年上の、いつも姉ぶっているアルミスに、自分の力を認めてもらえる。自分の想いをこの旅で伝えると、決心したはずだった。
しかし、実際はどうだった?
クレイは拳を握りしめる。あの怪物の、自分をあざ笑う眼。自分はあの時、思ったのだ。このまま起きあがらなければ、自分だけは助かるかもしれないと。怪物に腕を噛み裂かれるアルミスの血を感じながら、確かに心で思った。
叫び声がこみ上げてきて、クレイは口を押さえる。拳を地面に叩きつける。
自分が許せない。自分が許せない。アルミスに許しを乞うこともできない。どうすればいいのだろう。どうすればいいのか。クレイは胸をかきむしる。いくら願っても時間は戻らない。クレイは涙が溢れてくるのを自覚した。拳を口に当て嗚咽を押し殺す。
バーノルはクレイの嗚咽を背中で聞きながら、森の闇を見つめていた。
朝。
クレイはバーノルに揺り起こされる。眠れるはずがないと思っていたのに、いつの間にか寝入ってしまった。肩に毛布の感触がある。
クレイははじかれたように起き上がる。アルミスは上半身を起こし、左腕を押さえていた。クレイが駆け寄ると顔を上げて小さく笑いかけてきた。その顔は青白く、薄く汗をかいている。
「この先に泉があった。お前達なら水の精を使えるだろう。傷口を洗ってくるといい」
クレイの後ろから、バーノルが声をかけてくる。アルミスは立ち上がろうとする。クレイはあわててアルミスを支える。アルミスの身体が、熱い。傷口が熱を持っているのだろう。アルミスは傷の痛みに小さなうめき声を上げながら、立ち上がる。
クレイはアルミスの両肩を抱くように後ろを押す。
「クレイ」
バーノルが昨日採った薬草の束を手渡してくれる。
「ありがとうございます」
クレイは受け取り、アルミスを支えて歩く。
すぐに泉は見つかった。クレイは腰に付けた袋からターコイズを取り出す。研磨されておらず、不純物も多いが、水色が鮮やかな石だ。アルミスを水辺に座らせると、クレイはターコイズを水に落とす。
クレイが精霊語で呼びかけると、石を落とした水面が沸き立つように激しく動き、30センチほどのガラス細工の少女のような姿を持つ水の精霊が現われる。
クレイはアルミスの左腕に巻かれた包帯をほどく。何重にも巻いたはずなのに、表面まで血と薬草の汁がしみ出していて、まだらの模様が浮き出している。乾いた血と薬液ははがすときにぱりぱりと音がする。昨晩すりつぶし塗り込めた薬草と血の混じった赤黒いものが、アルミスの傷口をべったりと覆っている。周りのなめらかなアルミスの皮膚のコントラストがクレイには一層痛々しく感じた。
『傷を洗うんだ』
クレイは水の精に命じる。水の精は手を伸ばしアルミスの腕を両手で抱く。水の精の人型が崩れ、巨大な水の玉になる。水の玉はアルミスの腕をすっぽりと飲み込み、ゆっくりと脈動する。その動きに合わせ固まっていた血が洗い流され、傷口が露わになる。黒い血がこびりつき、肉がえぐれている傷跡。傷口周辺の黄色い膿も洗い流されていく。その無惨さにクレイは思わず目をそらしてしまう。しかし、すぐに気を取り直し傷口を正面に見る。この傷はクレイをかばってできたのだ。
アルミスは右拳を口に当て、ぎゅっと目をつぶって水の精が傷口を洗っているのを耐える。古い血が溶け出し、透明な水の精を黄色く変えていく。
傷口が清められる。クレイは新しい薬草をすりつぶし、アルミスの腕に塗る。その痛みにアルミスの身体が動く。アルミスは声を上げそうになるのをこらえている。
「アル……ごめん」
傷口に包帯を巻いたとき、クレイの目からは耐えきれず涙がこぼれた。傷口に触れないように、そっとアルミスの手を取る。
アルミスは無言のままクレイの髪に指をすべらせてきた。クレイの茶色い髪は縮れていて、細い。アルミスは子供の頃からクレイの髪を触るのが好きだった。いつもはいやがるクレイだったが、今は顔を上げることもできなかった。
しばらくしてから、アルミスは手を止める。
「クレイ……あの人…」
アルミスの声にクレイは涙をぬぐって顔を上げる。
「バーノルさんの事?」
「うん…どう思う?」
アルミスはクレイの背後、バーノルがいる森の奥を見ている。
「アル?」
「あの人、私達のこと助けてくれたのね……」
「そうだよ」
「普通の人があんな、『混沌の怪物』に会うなんて事はない。それなのに、あの人は落ち着いていて、こちらに事情を聞くこともしない。水の魔法で傷口を洗えとあの人は言った。そんなことを知っている人がいるなんて。それにあの刀……。この国の近くで使われている物じゃない。あの人は何者なのかな、クレイ、私達は、安全に、出来るだけ早く『根の国』につかなくてはいけない。彼に気を許すのはいけないと思う。彼がお父様の敵に雇われていたとしたら……」
「まさか、そんな」
アルミスはクレイの目をのぞき込む。その眼の中にクレイは疑惑の光を見る。
「偶然と考える方が不自然だと思わない?」
「アル…」
アルミスはこんなに人を疑う性格だっただろうか。いや、それほどに今の状況が不自然なのだ。すべての支えであった人が突然いなくなり、生まれ育った家からたった二人で、外の世界へ行かねばならない。そう決心して、すぐに彼らは混沌の怪物に襲われた。疑心暗鬼になるのが当然だ。心配のしすぎだとアルミスをなだめることはクレイには出来ない。
クレイは1つの結論を昨晩、眠りに落ちる前に出していた。今こそアルミスにそれを言わなくてはならなかった。
「アル……バーノルさんに頼んでみようよ。彼が傭兵だというのなら、雇って、守ってもらおう」
「クレイ?」
クレイはアルミスの背に周りながら、アルミスの手を釣る布を縛る。クレイはアルミスの背から声をかける。アルミスに自分の顔を見られたくなかった。
「僕たちは根の国に行かなくてはいけないんだ。でも、昨日の事で分かったよ。僕たちの力だけでは、少し無理だ。バーノルさんに会えたのは偶然かもしれないけど、僕たちにとってはいい偶然だったと思う。彼に頼もう。僕たちを守ってもらおう」
クレイの言葉の語尾がふるえる。自分の無力を認める言葉に、出てこようとする嗚咽を必死に押さえる。
「クレイ……」
アルミスは振り返らずに、肩にかけられたクレイの手に自分の手のひらを重ねる。
「わかったわ。そうしましょう。私達が頼れる人は、今は誰もいないのだから」
二人がバーノルの元に戻ったとき、バーノルは火を踏み消しているところだった。
「食っておけ」
バーノルは湯で柔らかくしたパンに、乾燥肉を挟んだ朝食を二人に渡す。バーノル自身もパンを手にし、二口で平らげ、革袋に入った水で流し込む。
パンを受け取ったまま、クレイの目はバーノルの顔を見つめて止まってしまう。バーノルの右の耳の下から喉にかけて、大きな傷が付いている。ずいぶん古い傷だ。昨日の夜に気がつかなかったのは、首に布を巻き付けていたからだろう。首の半ばまでのびるその傷は、命に関わるほどの物だったことを想像させる。
「どうした?」
「あ……いえ」
バーノルの問いに、クレイは視線を無理矢理引き剥がす。傷のことを問いかけることは出来なかった。このような大きな傷を負って、さらにそこから生き抜いた戦士の物語は、簡単に聞いてはいけないような気をクレイに起こさせたのだった。
バーノルは口をぬぐう。アルミスがじっとバーノルを見ている。アルミスはクレイに一度目を向けてからバーノルに向き直り、はっきりと告げた。
「貴方を雇いたいのです。バーノルさん」
「雇う?」
バーノルは声に面白そうな響きを混ぜながら聞き直す。アルミスは真剣な表情でバーノルを見つめている。クレイは背嚢から小さな袋を取り出し、無言でバーノルに手渡す。
バーノルは袋を空ける。袋の中から黄金の光が漏れた。バーノルの目は、光に吸い寄せられる。表情が真剣なものに変わる。
「それは、金です。今はこれくらいしかお渡しできませんが、もし私達を守っていただけるなら、これの五倍…いや十倍の金を差し上げます」
バーノルはアルミスを見る。その目が一瞬だけ鋭い光を帯びた。バーノルは短い時間、自分の考えに沈む。
袋一つ分の黄金、それがどれだけの価値か、アルミスが分かっていないのは明らかだった。まだ成人したばかりの様に見える小娘が、これだけの金を出す。この袋1つで街ならばしばらく豪遊できるだろう。魔法使いの子供達が必死の表情で差し出す本物の金。大きなトラブルのにおいがする。
彼らがこのまま人里に出れば、どんな災難に巻き込まれるか、バーノルには簡単に想像できた。関わってしまった以上、彼らをそれから守ってやりたいという気持ちもある。そして、この子どもたちの正体に強く興味を引かれる自分がいる。無関係を貫けばいいものの、バーノルの心はすでに決まっていた。お節介焼きの自分に、自嘲の笑みが浮かぶ。
バーノルの表情を見つめながら、アルミスは更に言葉を続ける。
「私達は、ボドルフ・バラールの命で根の国に行かなくてはならないのです」
「アル!」
クレイが慌ててアルミスの肩に手をかける。クレイを振り返り、アルミスはほほえみを浮かべた。
「クレイ、私達の正体はすぐに分かってしまうと思う。お父様の名こそが、報償への最大の保証になる。そうでしょう、バーノルさん?」
バーノルは自分の顔色が変わっていることを自覚する。声も自然に潜めたものになる。
「お父様、だと? 根の国の〝神人の使い〟と呼ばれたあの魔導師の、娘?」
バーノルの声に、アルミスがゆっくりと頷く。
十年以上前に、根の国に仕えていたという、大魔導師ボドルフ。かって神人が使っていた〝魔法〟を人の時代が始まって以来、最も多く発見、体系化したとして根の国の王より〝神人の使い〟という名をもって呼ばれるようになった人物だ。ある理由により彼は根の国から放逐された。しかし、彼の魔法の数々は吟遊詩人の歌となって今でも語り継がれている。
「……追放されたあの大魔導師が、こんな山の中にいたとはね」
バーノルは周りを見回す。魔法国と呼ばれ、恐怖と、秘密と、繁栄でもって周辺国家に君臨する根の国の王都と、開拓民の村さえも遠い、山と森の国といわれる背の国の国境沿いのこの場所はあまりに違いすぎる。
根の国までは背の国を横断し海を越えなくてはならない。1カ月以上かかる旅になるだろう。
バーノルはクレイと、アルミスの手を見る。彼らの手には常人とははっきりと違う、「青い」爪が生えている。魔法使いは、子供の時から精霊との交感を行うために少量であるが毒物を採取し続ける。
魔法とはかつて人類を支配していた「神人」と呼ばれる存在が使っていた力だ。神人は青い肌と、縦長の瞳を持つ生き物だった。彼らはある日を堺に人類の前から姿を消した。人類は神人の庇護された環境から突然放り出された。人々は神人の遺跡に入り込み、わずかながら彼らが使った魔法を発掘したのだ。魔法使いの青い爪は、人間の身体を神人に近い体質に変えるため生み出された方法の副作用だ。そして、権力者達が魔法使いを管理するための印でもあった。
バーノルにはかつて魔法使いの友人がいた。友人はその爪を隠すための化粧を常に欠かさなかったが、この二人はそういうことも知らないだろう。それだけではない。関所、道、天候の読み方、地方の風習……旅のためには覚えなくてはならない事がたくさんある。そういったことを何も知らないままクレイとアルミスは長い旅に出ようとしている。彼らの状況はよほど切迫しているのだろう。
そしてあの怪物。あれはこの世界をうろつく野生化した魔法生物ではない、久しぶりに見た“純粋な”召喚によって異界から呼び出された魔物だった。そしてボドルフだ。何か大きな事件が起こりつつあるのを感じる。
バーノルの唇に笑みが浮かぶ。面白い。目的を失い、ただ故郷へ帰るための西への旅。こんな寄り道するのも、悪くない。
バーノルは、クレイを見る。クレイは、ただ、アルミスを見つめている。バーノルの耳には、昨日のクレイの魂をきしらせるような嗚咽が残っている。男ならば、声を殺して泣く夜もある。バーノル自身たくさんのものを失い、自分の無力を呪ってきた。“先輩”としても、彼を助けてやりたい。確かにあの時、バーノルはそう思ったのだ。
「いいだろう、お前らと“契約”してやろう」
こうして、三人の旅がはじまったのだった。
第二章
1
道が徐々にしっかりしたものになる。木々がまばらになり、視界が開けた。
「ほう」
バーノルが小さな感嘆の声を上げる。
「どうしたんですか?」
「ずいぶんちゃんとした畑だな。ここらへんの村で、小麦が出来るとはね。前に通ったところは、大きな岩がごろごろしているばかりで、こんな立派な畑はなかったし、荒れ地に育つ雑穀しかなかったよ」
アルミスとクレイはそれに答えず顔を見合わせて、微笑む。クレイは得意げに解説をする。
「ここは蓑村というところです。先生の魔法のおかげで、この村の植物はとても元気が良いんです。僕たちは三ヶ月に一度村に来て、様々な魔法で村を助けているんですよ」
バーノルは畑で作業をしていた農夫が、帽子を取ってこっちを見ているのに気がつく。農夫はしばらくぼんやり眺めていたかと思うと、ばたばたと走ってくる。
「ア、アルミス様? クレイ様!」
帽子を胸に押し当て、腰をかがめて、三人から少し距離をとったところで立ち止まる。わずかに後ろに下がった後に、
「どうなさったのですか、来ていただくにはまだ日があるのでは?」
クレイ達が答えようとしたとき、農夫は初めてバーノルの大きさに気がつき、ぎょっとする。しかし再び真剣な顔でクレイとアルミスを見る。バーノルは農夫の挙動を見ている。こんな開拓村に剣をぶら下げた傭兵が来れば必ず警戒されるはずなのに、農夫はアルミスとクレイのみに注意を払っている。
クレイは農夫に声をかける。
「お願いがあって来たのです。すみませんが、村長に知らせておいて下さい」
「は、はい」
中年にさしかかろうとしている農夫が、自分の子供のような少年の命令で、村に駆け戻っていく。
クレイが振り返る。
「ここの村長さんに、少し旅の助けをしてもらいます。どんな用意をすればいいのか、助言をしていただけますか?」
「あ…ああ」
バーノルは考え込みながら答えた。村人達はクレイとアルミスを明らかに恐れている。三人は井戸のある、村の広場へと歩みをすすめていた。家が二十に満たない、ありふれた開拓民の村。村のほとんどの人間が集まっているのだろう。人混みができている。
初老の男とよく似た特徴を持つ青年が村人達の列から進み出て、アルミス達を出迎えた。好奇心に満ちた子供も人混みから前に出ようとして、親に止められる。
「アルミス様、クレイ様、ようこそいらっしゃいました」
バーノルは初老の男を見る。どことなく品がある。村長なのだろう。後ろの青年はたぶん息子だ。恭しく出迎える村長の態度を自然にアルミスとクレイは受け止めている。老人のかしこまった様子に居心地の悪さを感じているのは、バーノル一人だけだ。人は村長の家に招き入れられ、テーブルの周りに座らされる。テーブルの周りは村の女達がばたばたと動き回り、騒がしい。
「もう少しお待ち下さい。宴の準備をしていますので、少し騒がしいのは、ご容赦下さい」
「いきなり私達が訪問したのです。あまり気を使わないで下さい」
「はい、アルミス様」
老人が頭を下げる姿に目を向ける息子の表情にバーノルは気づく。息子の表情にはアルミスとクレイへの疑惑の色が顔をのぞかせている。村人の何人かも浮かべていた表情だ。
何故この少年と少女が今、ここに来たのか? 村人達は表情でそう語っている。誰もけっして、それを口に出して、二人に問わない。それがこの二人と、村人の関係らしいことバーノルは察知する。
話をしようとしたアルミスを止めて、まず食事を、と村長は言った。
宴が始まった。バーノルはその歓待ぶりのすごさに目を丸くする。数匹の鳥をつぶしたたっぷりのシチュー、卵とジャガイモのオムレツ、色とりどりのピクルス、大皿に盛りつけられた白身魚のフライ……酒、料理、そして明かり。子供二人をもてなすために用意したとは思えない。開拓民らしい、素朴な料理だが、量も、そして種類もこの村で出来る限りの贅を尽くした物だというのが分かる。
村の若者が、古ぼけた琴をひいて、若い娘が、都の昔のはやり歌を歌う。給仕は忙しく動いている。しかし、宴は盛り上がることはなかった。人が少ないのだ。広く作られた宴会場には村長と、その息子、アルミスと、クレイと、バーノルしかいない。会話もないまま、五人は食事を続けていく。バーノルをのぞいては誰一人気まずい思いをしていないようだった。
「あー村長さん、ちょっと聞いていいですか」
重い空気を破ったバーノルの声に、村長と、息子の体が小さく震えた。
「な、何でしょうか、バーノル様」
村長の顔は緊張している。バーノルが笑いかけると、村長は引きつった笑みを返した。
「ご家族はいるんですか?」
「え? …ええ。妻と二人の娘がおりますが」
村長の答えに、逆にバーノルがとまどう。
「……あ、ああ。そうですか」
口の中で小さく答えて、バーノルはお愛想に笑う。村人は、必要以上にはこの二人の前に姿を現せないように、関わりにならないようにしているのだ。クレイとアルミスは村人の警戒心に全く気付いていないように見える。たぶん、彼らがボドルフと訪れるときはいつもこうなのだろう。
バーノルは改めて考える。通常、魔法使い達は、混沌の神をまつる神殿の神官として国や教団組織に管理されている。本物の魔法はそういった組織でしか学ぶことができないからだ。そうでない魔法使いと自称する人々は、ペテン師か、力の弱い精霊と繋がりを持つあやふやなまじない師がほとんどだ。
この時代、町や村に住む人々が本物の魔法に触れる機会はほとんどない。人々がいかに魔法を恐れているか、それはアルミス達に対するこの村の人々の反応で分かる。アルミス達は子供の頃から村に訪れていると言っていた。それでもこうなのだ。アルミスとクレイが外の世界に出ることの難しさを、改めて重く考える。
クレイは、左腕が使えないアルミスの食事を手伝うのに一生懸命だった。アルミスのシチューから鳥の骨を取り除き、パンを一口大に千切る、何度も声をかけ大皿の料理を取り分ける……。その気遣いはいささか過剰で滑稽さすらあったが、クレイの表情は真剣そのものだった。
「ありがとう、クレイ」
アルミスの声に、バーノルは、村長の方へ目を向ける。
「村長さん」
「何ですか、アルミス様」
「後で用意して頂きたい物があるのです。お願いできますか?」
今まで無言だった村長の息子が、突然口を開いた。
「アルミス様…お二人はどうして…こちらに来られたので…?」
「ルボノ!」
緊張した声で息子が質問をすると、はっきりと顔色を変えて村長は息子の名を叫び、言葉を遮った。
「し、失礼をしました」
「いいのです。しかし、答えは、少し待っていただきたいのです」
「ええ、それはもちろん」
愛想笑いをしながらも、不安と恐れの影が村長の顔に濃くなる。バーノルはクレイを見る。クレイはいつの間にかアルミスの食事を手伝うことをやめて、下を向いていた。クレイの顔が急に跳ね上がり、村長に話しかける。
「村長さん、僕もお願いがあるのですが」
クレイは顔を上げ、真っ直ぐ村長を見る。クレイの握りしめられた拳が震えて、皿と食器が小さな音を立てている。
「納屋か倉庫でいいんですが、ちょっと今夜使わせていただけないでしょうか?」
クレイの声に、村長が立ち上がる。
「ま、魔法をお使いになるので?」
「クレイ!」
アルミスの大きな声に、琴の音が止まる。村長親子は、青ざめた表情でクレイを見ている。クレイは、アルミスの包帯を巻かれた手に、そっと手を置く。
「明日までにやらなきゃいけないんだ」
二人のやりとりを見ながら、村長はあわてて言う。
「すぐに準備をさせましょう。」
村長の答えは、隠しきれない恐怖に震えていた。
「用意が出来たら言って下さい。」
アルミスの手を放し、軽く一礼して、クレイは部屋を出る。バーノルはクレイの表情にただならぬ決意を感じる。村長は給仕を呼ぶ。焦りを含んだ声で命令する。
「すぐにご用意するんだ。東のはずれにギドの家の倉庫だった空き家があるだろう、あそこを使えばいい、ただし…出来るだけ他の村人には、知られるなよ」
「は、はい」
給仕があわてて出ていく。バーノルは声を潜めてアルミスに話しかける。
「アルミス、クレイは何をするんだ。すごい気合いを入れていたが」
アルミスはクレイの去った出口を見続けている。そのまま小さく声を絞り出した。
「精霊を喚ぶんです」
バーノルは思わず大きな声を出してしまう。
「こんな村の真ん中で?」
バーノルの言葉に、村長達が息をのむ。クレイの言葉によって引き起こされた村長達の小さな恐慌をようやく納得する。村人達にとって魔法は未知のものだ。アドミスとクレイへの消えることのない村人の警戒心が村人の魔法への恐れを物語っている。
「ちょっとまて、その魔法は安全な物なんだろうな? やつはこれから長い旅に出るんだぞ」
「…魔法に『安全』なんてありえないわ」
つぶやくように言うアルミスに、バーノルは身を乗り出す。
「それなのに黙ってやらせるのか?」
アルミスはバーノルに向き直る。息を吸い込み、感情をぶつけようとして、急に勢いを失い、下を向いて、手に巻いた包帯を触る。
「クレイはより強い力を望んでいる。…私には止めることが出来ない。クレイなら、きっと…召喚は…うまくいく」
その表情に、バーノルは椅子に座り直す。
「そうか」
宴は唐突に終わった。村長が合図をすると歌をやめ、こちらを不安そうに見ていた娘達は部屋から出る。
「アルミス様…」
村長の息子が声をかけた。
「何でしょうか」
「バーノルさんが、『旅』とおっしゃってましたが?」
村長の息子ルボノの声には探るような響きがある。アルミスは息子の方ではなく、村長を見て答えた。
「…後でお話をします」
村長は立ち上がり、息子とアルミスの間に入って、へつらうような卑屈な笑みを浮かべる。
「は、はい。それはもう。クレイ様のご用意もすぐにさせていただきますので」
「お願いします。歓待、ありがとうございました」
アルミスとバーノルは部屋を出る。
2
広い納屋であった。あわてて荷物を外に出したのだろう、地面には物を引きずった跡が残っている。クレイは丹念に地面をならしてから、行者ニンニクの灰と炭を混ぜた粉で、大きく二重の円を描く。
円と円の間に儀式用の短剣でルーンを刻み込む。同じように円の中心に四角を二つ重ねて混沌の象徴である八芒星形を描き、そこから南の位置に、結界となる三角形を描く。
二つの形の間に、小さな木で出来たテーブルをおく。テーブルの上の鉢に豚の脂を混ぜた油を注いで、火をつける。納屋の隅に置いておいた袋を手に取る。袋の中の物が身動きをして、一瞬クレイの伸ばした手が止まる。
アルミス達が部屋から去ってから、こっそりと村長に頼んでいた物だ。生きた鶏。乾燥させたジギタリスの葉を餌に混ぜて与えてあるため、今はその毒が回り、声を出すことも歩くこともできない。鶏の目ばかりが不安そうに動いている。できるだけ鶏の方は見ないようにして、袋の中から取り上げて、テーブルの上に横たえる。
クレイはもう一つの袋を取り出す。さっき掘ったばかりの、畑の土だ。少し時間をかけて50センチほど掘り下げたところからとった土を、八芒星形の中心に盛り上げる。腰の袋からアーモンドよりふた回りほど大きな青いオパールを取り出し、盛り土の頂点におく。
これからの魔法の儀式で、クレイは力の強い精霊を精霊界より探し出し、“繋がり”を持てるように交渉する。儀式と契約が成功し、強力な存在と“繋がり”を持つことができれば、クレイが持つ地の精や水の精のようにいつでも精霊を呼びだすことができるようになる。オパールは契約の証に使う。
クレイは魔法陣を描くのに使った短剣の刃を香油と酢のしみこませた布で清め、わずかに身動きをする鶏の横に置く。
クレイは息を小さく吐き出す。準備は整った。
本来なら、ここまで手のこんだ、生け贄を用意するような陰惨な儀式は必要ない。本来、精霊を呼びだすだけなら自然に囲まれた環境で精神を集中して精霊語で歌えば、それでいい。クレイはあえてそれを選ばずに、手の込んだ、邪悪の臭いのする召還の方法を選んだ。
クレイはつばを飲み込む。喚びだした者と、対面し、ねじ伏せ、従わせるのだ。自分にそれが出来るだろうか? やらなければならない。自分には〝力〟が必要なのだ。昨日のバーノルの姿。あれこそが、これから必要となる。旅のために、生きるために。そして何より、アルミスを守るために。
クレイは服のポケットから小さな瓶と貝の容器を取り出す。瓶の中には水仙を蒸留した液体が入っている。鶏の口を開け、注意深く、一滴だけ喉にたらす。
「グゥエー」
鶏が叫び声を上げる。水仙が全身が麻痺した鶏の喉だけを開放する。身体が動かないまま鶏は悲鳴を上げ続ける。クレイは貝殻の容器を開ける。中には白い軟膏がある。カヤツリグサと麻の実の他にも、様々な物を混ぜてある薬だ。この薬は意識をとぎすまし、異次元への呼びかけを助ける。クレイは薬を指にすくい取って、口に含む。強烈な苦み。気分が高揚し、体が軽くなる。意識と肉体がずれる感覚。麻薬による酩酊と、意識の収束と拡散が同時に襲ってくる。
この世界における魔法とは、主に我々の“次元”とは異なった世界にいる者を呼び寄せ、使役する法を指す。人間と親和性を持つ精霊、そしてさらに高次な“混沌”の次元。魔法使いは毒物を常用し、神人の言葉「精霊語」を使いこなすといった訓練によって、神人達に近い存在へとなる。薬の力を使うことで精神を活性化し、次元の壁を越え、異界の存在と交渉をする。彼らを現世に呼び出し、かりそめの実体を与え、使役する。それが「魔法使い」と呼ばれる者達だった。
クレイは足に力を込めて、精霊を喚ぶ精霊の歌を歌う。意識を地面に、地下に向ける。
クレイの意識は呼びかけに反応する〝存在〟を捉える。今はまだ海の底にある石のように、ただごろごろとそれらがあるのを感じられるだけで、細部は分からない。土の精霊と総称される力の小さなものがほとんどだ。地の精霊の最もありふれている存在。クレイは意識の手で存在達をなでていく。
呼びかけに応え、存在を誇示したものの中にはまだ「地震の主」とまで呼ばれる大きな精霊はいない。それらは数が少ないが、強大な力を持っている。クレイは彼らほどの存在を呼び出さなくてはならない。代償を払えば、力の存在は応えてくれるはずだ。クレイは再び自分の肉体に意識を戻す。少ししびれを感じる手に力を込めて、短剣を握る。
短剣の刃が、炎の照り返しを受けて輝く。切っ先を鶏に向ける。
「ゲェェーッ!」
鶏の悲鳴。地の底の存在達が動揺する。己の運命を呪う叫びは、健やかな精霊には無縁のものだ。喚び出しに応じた存在のいくつかは逃げ去っていく。反対に、地の底から、さらに浮かび上がってくるもの達もいる。彼らは、この叫びが好きなのだ。力をふるい、物を壊すのを望むものが選別されていく。クレイは鶏の羽を広げ、付け根のあたりに、刃を食い込ませていく。鶏の悲鳴が一オクターブ上がる。甲高い叫びがクレイの脳を揺さぶった。次の瞬間、クレイの心の中に一つの映像が浮かび上がる。
クレイは、つい最近、この叫びを聞いたのだった。「あの怪物」の声だ。鶏を使ったのは、失敗だったのかもしれない。心のどこかでそんな思考のひらめきがあった。しかし、思考のほとんどは、憎しみと、後悔と、恐怖と、恨みに急速に染め上げられていく。
緑の炎に燃える地の精。走ってくる怪物。アルミスの傷。アルミスの血。怪物の笑み。そして…力を失って垂れ下がる自分の手。
「うわぁぁっ!」
麻薬の働きで制御を失ったクレイの心が暴走する。上げ続けられる鶏の叫びが彼の狂騒を後押しする。憎しみを、怨嗟を込めて、精霊の歌は絶叫へと変わる。精霊達が激しく動いている。クレイの呼びかけと接触は、今や暴虐の刃と化して、精霊達に突き刺さる。協力を求めて差し出された精霊達の接触の手はすべて消え去った。
暗い、空虚な、応答のない世界がクレイの意識とつながっている。それなのに憎しみに駆られた心の叫びは止まることはなかった。暴走する心が、確信している。こここそ望んだ世界だ。
クレイの心のどこかで、恐怖とおびえの心が動いた。それは正常な心の動きだったのかもしれない。しかし、今のクレイは、その自覚こそ最も忌むべき物だと思った。
心の中のためらいを切り捨てるイメージに重ねて、クレイは刃を鶏に振り下ろした。
この瞬間、クレイの心は憎悪の結晶体になった。
意識の深い、深い底で何かが動いた。
『私の力が欲しいか』
その存在はクレイにそう、語りかけた。この世の中すべてに対する怒りと、憎しみ。泥のような密度を持った邪悪な意識の触手がクレイにふれる。恐怖と拒否の悲鳴を上げる心はすでに切り離されていた。強烈な力に身を任せる快感がクレイの背を走る。味わったことのない開放感の中で、クレイは鶏に、刃を振り下ろしながら叫ぶ。
『僕に力を! そのためならどんな代償も払いましょう!』
急速に、闇の底から存在がかけ上ってくる。耳に聞こえるのは自分の歓喜の叫びなのか、鶏の断末魔なのか、もう分からない。地の底のものが、クレイの意識の端を掴む。
違う!
これは地の精霊の眷属ではない。この地にある存在が、ここまで世界に邪悪な反抗心を持つはずがない、すべての生きている物をここまで呪うはずがない。
『お前が私を呼んだのだ。お前の憎しみこそが、私のよりしろとなる資格だ』
目で見ているのか、意識でとらえているのか、もうクレイには分からない。クレイの意識をつかんでいるものが、はっきりと笑みを浮かべたのだ。嘲笑の笑みを。
『お前は私の力の扉だ』
クレイの姿は、意識は、黒い闇に飲み込まれていった。
3
「それは本当のことですか! 村長?」
隣の部屋からアルミスの声が上がる。その声の響きにただならぬものを感じて、バーノルは腰掛けていたベッドから立ち上がる。隣の部屋のドアが勢いよく開いてアルミスが廊下を走っていく音がする。バーノルは刀をつかみ、あわてて彼女の後を追う。
追いついたアルミスの背に声をかける。
「どうした?」
「クレイは村長に生け贄を用意させたの! 止めないと、危険すぎる」
アルミスが振り返って叫ぶ。バーノルには何が危険なのかわからないが、アルミスの声からはただならないものを感じる。
その時、二人の耳に村人の叫び声が聞こえた。
「火事だーっ」
東のはずれに火の手が上がっている。
「クレイがいた方だわ」
アルミスの声が震えている。アルミスは急激に膨らんでいく不安に自分の肩を抱く。アルミスの手の上にバーノルの大きな手の平が重ねられた。
「何してる。早く行くぞ」
「はい」
走ろうとしてアルミスがよろける。バーノルは手を伸ばしてアルミスを支える。今まで我慢を重ねていたが、左腕の傷はアルミスの体力を著しく消耗させていた。バーノルはアルミスを抱えると、村人達の集まっている方へ、走る。
その時、村中の犬が吠え声をあげた。その怯えの声に眠りを覚まされ、外に出た村人達が、火事を見つけたのだ。火の手は村のはずれの納屋だった。発見者が悲鳴を上げてからすぐに、人々は桶に水をくんで集まってきた。何人かは、鍬や槌をもってきている。燃えている建物の回りを壊して、延焼を防ぐためだ。
しかし、集まった村人は炎を前にして、動きを止めることしかできなかった。
炎の中に、何かがいる。
納屋のほとんどを燃やし尽くすほどの激しい炎の中に、何かが動いていた。獣でも、人でもない、村人が見たこともない、何か。村人は炎を消すこともせずにそれを見つめている。犬が一匹、人々の間から飛び出し、納屋の前で激しく吠えたてる。犬の声に炎の中の物が反応をする。村人すべてが後ずさった。
ザクリ。鋤が地面を掘るような、硬質な何かが地面に突き刺さる、足音。黒い、ガラス質の皮膚が炎を写している。炎の中から現れたのは、水晶の塊を無理矢理人間の形に組み合わせたような、二メートルほどの巨人だった。
人の形という形容は正しくないのかもしれない。手ばかりが長く背骨の折れ曲がった、巨猿のような姿。水晶人形という言い方がぴったりな、曖昧な造形。それは人の形からかけ離れているからこそ、人という存在を嘲笑しているように見えた。
犬が水晶人形に飛びかかった。
カチン。怪物の皮膚が、犬の牙を跳ね返す。
悲鳴が上がった。人形の手が、一枚の刃に変わり、犬の体に振り下ろされたのだ。刃は一気に犬の体を貫通した。子供が一人、犬の名前を叫びながら、怪物に石を投げる。飼い主なのだろう。
人形が、首を巡らす。顔の部分には、卵のような艶やかで丸い表面があるだけだ。そこに三つの赤い裂け目が現れる。裂け目が広がっていく。村人が一斉に後ずさりする。
目だ。白目も、瞳もない、ルビーのような赤い裂け目。
それなのに何故、目だと分かるのだろう。何故、こちらを見ていると感じるのだろう。
その裂け目から迸る光が、眼だと確信させるのだ。憎悪。すべての存在を呪う憎しみの光。村人のすべてがこの光を忘れることが出来ないに違いない。人々は夜、その光を不意に思い出し、恐慌にかられるだろう。ある者は酒に逃げ、ある者は眠れぬままに朝を待つことになる。魂に食い込み、怯えの毒をそそぎ込む。怪物の眼は、そんな意志を持っていた。
石を投げた子供は声も出せず座り込む。ゆっくりと、人形は村人の方へ足を踏み出した。
「この野郎ぉ!」
見守っていた男の一人が持っていた斧を人形に振り下ろした。刃が半ばまで怪物の腕に食い込む。怪物が勢いよく腕を振った。斧を持ったまま男の体が地に転がる。怪物は腕を振り上げる。怪物の腕の、斧で作られた裂け目に、黒い色の付いた風が吹き込んでゆく。裂け目は瞬く間に塞がっていく。黒い風は裂け目に触れると、瞬時に皮膚として固着していった。斧を持った男は立ち上がることも出来ずに、呆然と振り上げられた怪物の腕を見ていた。
怪物は縦に並んだ赤い、三つの目を細めた。笑ったのだ。怪物の腕が振り下ろされる。女達が悲鳴を上げる。怪物の腕は地面に突き刺さった。へたり込んでいた男の姿は消えている。
地面には物を引きずった跡がある。男の悲鳴は怪物から遙か離れたところ、群衆の中から聞こえた。次の瞬間、怪物は首の半ばまで斧を食い込ませ、吹っ飛んでいた。
バーノルであった。串刺しにされる寸前の男の襟首を掴んで放り投げ、返す手で斧をつかみ、怪物をなぎ払ったのだ。男の身体を数メートル放り投げ、大きな怪物を地に転がすその圧倒的な力。
「アルミス、こいつは何だ?」
倒れた怪物を見下ろして、バーノルは背後に問う。アルミスは村人をかき分けて、バーノルの傍らに立つ。
「分かりません。〝混沌〟の生き物なのは確かですが……」
怪物がゆっくりと起きあがる。斧が地面に落ちる。
「ほう」
バーノルの口に不敵な笑いが浮かぶ。斧が作った怪物の傷に黒い風が吹き込み、瞬時に治っていく。怪物の目はさらに細められ、バーノルの顔一点に注がれている。吹きこぼれる憎悪の、何という凄まじさ。怪物は刃に変わった腕を振り上げ、跳躍する。二メートル半の巨体が、その倍の高さに飛び上がり、バーノルめがけて落下する。
バーノルは背中に背負った刀の柄を握る。
アルミスはこんな時なのに、つまらない疑問を感じていた。バーノルの曲刀はその長身の半ば以上の長さがある。鞘は帯で固定され、背にくくりつけられているため、柄をいくら持ち上げても、手の長さでは刀は鞘から抜けない。どうやってあの刀を抜くというのだろう? バーノルの左手が、その答えだった。鞘の先端に添えられた指が金具をはじくと、鞘が貝のように割れた。鞘から放たれた刃が、怪物の腕と交差した。
切り落とされた怪物の腕の先端が、地面に落ちる。バーノルは刀を正眼に構える。
怪物は切り落とされた自分の腕を見つめている。切断された切り口に、今までと同じように黒い風が渦巻いている…しかしそれはこれまでの傷のように、固着化し、治癒することはなかった。
怪物が、バーノルを、いや、向けられた刀を見る。バーノルが足を踏み出す。怪物は後ろに飛び退く。
「こいつが怖いか? この刀は混沌の魔法に対抗する“法の魔法”で鍛えられている。斬られれば、混沌はその力を失うんだ」
アルミスは耳を疑う、そんな話は聞いたことがない。この人は、一体?
怪物が身を低くする。目は真っ直ぐにバーノルに向けられたまま、四つん這いになり、バーノルを見上げる。バーノルは足を開き、大きく上段の構えをとる。怪物の体が地面から跳ね上がる。バーノルは一気に刀を振り下ろした。怪物はバーノルの背後に着地する。バーノルはゆっくりと体を回転させ、変わらずに揺るぎのない構えで対面する。
「真っ二つにしたと思ったが……よくかわしたな」
村人からどよめきが上がる。怪物の顔の半分が、ない。半分になった目の憎しみの光は変わらない。しかし、バーノルとの距離、慎重さを持った姿勢が、バーノルへの恐れを物語っている。
「次はしとめるぞ」
バーノルの笑みが深くなる。怪物はさらに後ろに後ずさった。
バーノルが刀を構え直す。
怪物が突然2本の足で立ち上がる。手を広げた無防備な姿勢。
「む?」
バーノルの動きが止まる。
怪物の体が左右に開いていく。黒一色の硬質の皮膚の下から現れたもの、
「クレイっ!」
アルミスの叫びには驚きと、そして悲しみがあった。
怪物の体の中に、クレイがいる。目は堅く閉じられ、顔は紙のように白い。クレイの胸に異様な物があった。黒い宝石がはだけられた胸の中心に埋め込まれている。その宝石は、露出した心臓のように、大きく脈打っていた。
アルミスの予感は確信に変わった。この怪物は、クレイが喚びだしたものなのだ。クレイは魔法で呼びだしたこの怪物に身体ごと取り込まれてしまったのだ。
「アルミス、これはどういうことだ。クレイはどうなったんだ?」
怪物の体が再び閉じ、バーノルに向けて腕を振り下ろす。バーノルはその腕をかわし、反射的に怪物の身体を斬ろうとして、刀を止めてとびすさる。クレイの身体を傷つけるわけにいかない。
怪物の目が笑みを浮かべる。怪物がさらに刃に変わった腕を振るう。わずかにかわし損ね、バーノルの腕から血が流れる。
「クレイ、目を覚ませ!」
バーノルは怪物に向かって叫ぶ。怪物の動きは変わらない。
「アルミス、何とかならないのか!」
怪物の腕がさらにバーノルを傷つけていく。
どうすればいいのだろう。拳を胸の所に押しつけながら、必死にアルミスは自問する。
「分かりません、何でこんな事になっているか、クレイが何をしたのか、私には分からない!」
さらに怪物が襲いかかってくる。
「むんっ!」
バーノルは刀を捨て、怪物の腕を掴む。怪物の動きを封じようと、バーノルの腕に筋肉が縄のように浮き出る。凄まじい、力同士の戦い。力のぶつかり合いが、両者の体を激しく震えさせる。村人達が歓声を上げる。バーノルの力に、怪物が押さえ込まれていく。
「クレイっ!」
アルミスは呼びかけることしかできない。
『風の精よっ!』
アルミスは首飾りに封じた風の精を呼び出す。小さなつむじ風が、空気を歪ませ、輪郭のぼやけた乙女の姿を形作る。
『私の声を、あの怪物の中へ届けなさいっ!』
精霊語で叫び、怪物を指さす。風の精が怪物の体にまとわりつく。
「クレイっ! 目を覚まして、お願いっ!」
アルミスの絶叫が、怪物の体の中で、反響する。その瞬間、怪物の体がはぜた。
「アルっ!」
怪物の身体の中で、クレイは叫ぶ。クレイの身体を再び中に封じ込めるように、黒い物質が両側から扉のようにクレイの身体を覆い始める。バーノルはその物質の縁を押さえる。閉じようとしていた黒い物質の動きが止まる。
「バーノルさん!」
バーノルは歯を食いしばり、閉じようとする物質を全力で止める。その歯のすきまから、震える声でバーノルはクレイに話しかける。
「クレイ、こいつを何とか止められないか?」
クレイは周りを見回す。そして自分の胸から溢れる黒い光に気付いた。
「僕の胸の所にこいつを封じるはずだったオパールがあります。これを壊せば、こいつはこの世界にいられなくなるはずです!」
バーノルはクレイの胸を見る。はだけられた胸に、脈打つ宝石が埋め込まれている。クレイはオパールといったが、漆黒の色に変わり、脈打つ宝石は明らかに違うものに変質している。その位置は……クレイの心臓の真上だ。
バーノルの顔がこわばるのを見て、クレイは悟る。怪物に取り込まれたクレイの胸の宝石を壊すということは、クレイの身体を刃で貫くしかない。怪物を倒すと言うこととは、クレイもまた死んでしまうということなのだ。クレイは事の成り行きと自らの運命に呆然とする。
「おい!」
バーノルがクレイの顔の前で、大声で呼びかける。反射的にクレイは顔を上げる。黒い物質を押さえたまま、バーノルはクレイに笑いかける。
「心配するな、絶対助けてやる」
クレイはバーノルの眼を見てから、大きくうなずく。バーノルが飛び離れると同時に、クレイは再び黒い物質に覆われる。クレイの胸の宝石だけが、怪物の胸の表面に露出している。バーノルは落ちていた刀を取り上げる。柄を握った手を大きく後ろに引き、切っ先を怪物の胸に向ける。
「あの宝石だけを、壊すんだよな…」
剣の切っ先は微動だにもしない。バーノルの額に汗が光る。狙うは親指大の宝石ただ一点。刀の切っ先を宝石の厚さだけ、突き刺そうというのだ。
怪物が迫る。
「ふんっ!」
紙一重で怪物の腕をかいくぐり、ねらい通りに切っ先を宝石に当てる。
宝石に刀が突き刺さる。刀から伝わる宝石は、ぞっとするほど柔らかな、予想と違う物質に変わっていた。
「ちいいっっ!」
バーノルの口から声が漏れる。このままでは刃がクレイの心臓に届いてしまう! バーノルは必死に刀を引き戻す。
激しい破裂音とともに、怪物の体がはじけ飛ぶ。クレイの体が、地に落ち、仰向けに横たわった。
クレイの胸の宝石は硬質の堅さを取り戻し、二つに割れて胸に埋め込まれている。宝石の埋め込まれている部分からわずかに血が流れている。バーノルはクレイの胸に手を当てる。心臓の鼓動が伝わってくる。刃はクレイの皮膚を傷つけただけだ。
気を失ったままのクレイがわずかにうめく。
「クレイっ!」
アルミスがクレイの体に取りすがる。
バーノルは空気が変化したのを感じ、後ろを振り返る。村人達が立ちすくんだまま、三人を見ている。バーノルはわずかに眉をひそめる。ある物は密やかに、そしてある物ははっきりと、感情を宿して、三人を見ている。嫌悪と、恐怖。アルミスも不穏な空気を感じて、涙を拭って村人に振り返る。
その時、
「ここから出ていけ、魔法使いっ!」
村人の中から、声が上がった。反応は強烈であった。すべての村人が、不安と恐慌に支配される。誰だ。不遜なことを言ったのは、自分じゃない、魔法使いに目を付けられたら終わりだ。決して、自分じゃない。
村人達の目は生け贄を、魔法使いが怒りを向けるための不敬な生け贄を探してお互いを見る。
「みんな、ボドルフはいなくなったんだ。あの山にいるのはもうあの餓鬼二人だけなんだ。俺達は魔法使いから、自由になったんだ」
再び、声が上がる。村人達の列が割れる。その中心に一人の男が立っている。村長の息子・ルボノ。先ほどから声を上げていたのは、この男だった。ルボノはアルミスを指さす。
「この魔法使いの娘が、親父に言っていたんだ。ボドルフは家を出て帰ってこない。こいつらはボドルフを探しに根の国に行く。俺達はもう自由なんだ。魔法におびえることも、村一番の作物を捧げることもしなくていいんだ。俺達の村は、俺達自身のもんだ。もうこいつらに、でかい顔なんてさせやしない!」
震えていたルボノの声が熱を帯びてくるとともに、村人のアルミス達を見る目に力がこもっていく。村人達すべての表情に変化が起きつつあった。恐怖から、反発へ。
バーノルはわずかに足の位置を変える。大きな動きは出来ない。村人達に刺激を与えれば、どうなるか分からない。緊張した空気が、お互いの間に流れる。
「何を言うんだ。馬鹿者が!」
ルボノの後ろから、声が飛んだ。同時にルボノはいきなり棒で殴りつけられ、地に倒れる。
「村長?」
村人達の驚きの声。倒れたルボノの後ろに棒を持った村長が立っていた。ルボノは父親を見上げる。
「お、親父…」
村長はさらに倒れている息子を蹴る。そのまま息子の身体を飛び越えると、アルミスの足下に平伏した。
「お、お許し下さいアルミス様。息子の戯言を、お許し下さい」
大声で叫んでから、後ろを振り返る。
「お前らも、早く許しをこわんか不敬者が! 儂等の畑をならしてくれた人は誰だ? 二年前、青銅獣の群から村を助けてくれたお方はどなただ? 儂等もあの獣達のような目に遭いたいのか?」
村長の声に村人はすぐさま従った。一斉に土下座し、口々に許しの言葉を叫ぶ。
「お許しを」
「お許し下さい」
「お助けを」
恐怖だけが村人を支配していた。見上げる村長の顔を見て、アルミスは悟る。見慣れた村が、村人一人一人が、アルミスの前で、何度も姿を変えるようだった。一斉に土下座をし、口々に許しを乞う村人を見て、アルミスは思う。
知らなかった。この人達は私達が、いや、お父様の魔法が怖いのだ。
アルミスの背に不意に寒さがやってくる。気を失ったクレイの体を抱きしめる。胸の中に、黒い穴が開いたような気持ち。
アルミスは静かにクレイの体を横たえてから、立ち上がる。
「……顔を上げて下さい。私達は気にしていません」
ゆっくりと、アルミスは言う。
ぱっと村長が顔を上げる。歓喜の表情。その老人の顔にアルミスはかすかに嫌悪を感じる。
「ゆ、許していただけるので?」
村長の震える声にアルミスは無理に笑う。
「クレイが、あなた達の納屋を燃やしてしまった上に、こんな夜更けに騒ぎを起こしてしまったのです。謝らなくてはいけないのは私の方です」
「そんな、もったいないお言葉です」
村長はアルミスに卑屈に笑いかける。アルミスはわずかに声を張る。くじけそうになる足に力を込める。
「今はお詫びをすることが出来ません。いずれ、近い内に……お父様の方から、お詫びをさせて……頂きます」
涙があふれそうになる。下を向きそうになったとき、強く、暖かい腕が、アルミスの胸をそらさせた。
村中の人間が、再び深く土下座をする。
アルミスは小さく後ろを振り向く。バーノルが、アルミスの背をそらせるために肩にかけていた手で、もう一度アルミスの肩を軽くたたいた。
アルミスはかすかに、バーノルに笑いかける。涙が、少しこぼれた。
5
『お前は私の物だ』
闇の中から声が響く。クレイは必死に耳をふさぐ。
『お前は私の物だ』
いくら耳をふさいでも、声はとぎれない。闇の中をいくら走って逃げても、声は離れない。声はクレイの中から、聞こえてくるのだ。
「助けて!」
クレイは絶叫する。
クレイの中のものが笑い声をあげる。
『何を逃げる。何故私を拒む。私を呼んだのはお前だ。お前は私の物だ』
「違う!」
『私はお前だ。自分の心に問うがいい。私を求めたのはお前だ。私とお前は一つになった。死が互いを分かつまで、お前は私の物だ。私はお前のものだ』
「嘘だ」
声の嘲笑。
『嘘かどうか、きちんと自分で問うがいい。この声はどこから聞こえる? そしてお前に話しかけているのは、誰だ?』
胸に激痛が走る。クレイの胸の中から、何かが出てくる。胸が皮膚を、肋骨を圧迫する。その激痛が、愉悦に変わっているのを自覚して、クレイはおののく。このまま力に任せてしまいたい。この力を解放したい。
何かが胸の皮膚を突き破り出てくる。いつの間にかクレイは胸の中のもの自身になっている。クレイの体は卵の殻だ。この殻から出ることで、自分の力を思い切り、振るうことが出来る。力を解き放てば、自分は変わることが出来る。力を持った存在に。
流れに身を任せれば、信じられないほどの快楽と、力を得ることが出来るのだ。出てくるものに恐怖を感じる自分。解放の衝動に身を任せる自分。クレイには、境界線を引くことが出来ない。
その恐怖が、クレイに悲鳴を上げさせる。
ベッドの上で、クレイが悲鳴を上げる。
「クレイ!」
アルミスはベッドの上で暴れるクレイを押さえつけ、何度も名を呼ぶ。暴れる腕がアルミスの傷に触れる。歯を食いしばって、アルミスは声が出るのを押さえる。
口から出すのは、クレイの名前だけだ。
クレイの様子が落ち着く。クレイの髪をなでる。柔らかな、茶色の髪。
子供の頃、クレイはアルミスの銀の髪をうらやましがったが、アルミスはクレイの柔らかい髪に、指を通す感触が大好きだった。
クレイの苦しげな顔。アルミスの目に涙があふれる。
小さな、ノックの音
「クレイは大丈夫か?」
「バーノルさん……」
バーノルが部屋に入ってくる。アルミスはクレイのベッドに腰掛けて、バーノルに椅子をすすめる。
あの騒ぎが終わった後、クレイは目を覚まさなかった。三人は村長の家に戻り、アルミスはクレイの看病をしていたのだ。
「クレイのやつ、大丈夫なのか?」
バーノルは、もう一度聞く。
アルミスの緑の瞳が下を向く。
「分からない……“封印”を失敗すると、こういう症状になる。精霊にほとんどの力を吸い取られてしまうんです」
「お、おい」
「命に関わることはない。ない……はずなんです」
アルミスの語尾が震える。
「でも、あれがなんだったのか、私には分からない。あれは精霊なんかじゃない。何であんな事になってしまったのか……分からない」
「……」
「でも、クレイが無茶なことをするんじゃないかって、思っていたんです。こんな事になるんじゃないかって、心の底で感じていたような気がします」
「アルミス……」
「……私には止めることが出来ませんでした。クレイに『無理をしないで』とは言えなかった……」
嗚咽がアルミスの口から漏れる。涙の滴が、包帯の上に落ちる。
「まぁ……、誉めてやるんだな」
わずかに顔を赤くしながら、バーノルはアルミスを見ずに、小さく言った。
「えっ?」
アルミスが、顔を上げる。
バーノルは天井を見上げて、首筋の傷跡をかきながら、
「まずはしかるんだぞ。『無茶なことするな』とか、何とか。その後、誉めてやれ。実際、あんな凄いやつをまがりなりにも、喚びだしたんだ。そうまでして、クレイは努力をしたってことだ。そこは、誉めてやった方がいい」
「バーノルさん……」
アルミスの声に、さらにバーノルは照れたらしかった。頭を乱暴に掻く。それからクレイに目をやって、唇の端を笑いの形にゆがませる。
「こいつは、本当にがんばったんだ。それだけは、ちゃんと、誉めてやれよ」
アルミスは涙を拭って頷く。
「はい」
「少し居心地が悪いが、迷惑のかけついでだ。明日一日村にいて、それから出ようぜ。明日はゆっくり休めるようにしよう」
そういってからバーノルは部屋を出る。
「……ありがとう」
アルミスの声が背にかかる。バーノルはちょっと惜しいと思いながらも、アルミスの顔を見ずに、ドアを閉めた。
昼頃に、クレイとアルミスは、村長や、バーノルの前に姿を現した。バーノルはクレイの表情の中に、明るい光がを見る。アルミスの緑の瞳の中にも。大丈夫だ。バーノルは心の中で確信する。
次の日の早朝に三人は村を離れた。村から分けてもらった荷物は、もらったロバの上に積んである。村人すべてが早朝にも関わらず、三人を見送っている。
アルミスとクレイは、硬い表情で村人を見ている。そのまま足を速めて村から出ようとする。そんな二人に、バーノルは声をかける。
「よく、見ておけ。お前達とつながりのある世界は、ここで終わるんだ。思い出に、この光景は焼き付けておくんだ」
アルミスとクレイは後ろを振り返る。村人達は三人を見送り終わったとして、それぞれの生活に戻っていくところだった。
アルミスとクレイが知っている人々が住んでいる所。ここを出て、二人は本当の旅人となる。村を見たまま、クレイはアルミスに話しかける。
「アル、きっと、帰ってこよう。先生と一緒に。三人で、また、この村に来るんだ」
「ええ」
アルミスと、クレイは互いの手を握る。
アルミスとクレイは、二人にとって未知の世界へ、足を踏み出す。
第三章
1
開拓村から続く道は多少踏み固められているとはいえ、細い。アルミスを荷物と共に村で譲り受けたロバの背に乗せ、三人は道を進む。傷の熱と痛みを抱えたまま進むアルミスはそれでも苦痛の表情を押し隠して旅を続けていた。アルミス自身にとっては自分の傷よりもクレイが心配だった。クレイはあれから不安そうに胸をなでる仕草が多くなっている。彼の胸には二つに割れたオパールから変質した黒い宝石が埋め込まれたままだった。あの時のように脈打ったり感触を変えることはないが、それでも皮膚と一体化していて、はがすことはできなかった。
根の国へ、根の国へ。
アルミスと、クレイの気持ちはどうしても先を急ぎがちになる。歩く時間、休む間隔、休憩の場所、バーノルは慣れた調子で二人に指示を出す。ゆっくりとさえ思える道程の配分に、二人は素直に従った。たった四日ではあるが、バーノルと共に過ごした時間は、二人の心の中に確固たるバーノルへの信頼を生んでいた。
開拓村から出て2日目、国と国をつなぐような大きな街道へ出るためには、まだ2日ほど野宿をしなくてはならない場所で、変化は突然訪れた。
バーノルが突然立ち止まる。クレイとアルミスも振り返る。
「つけられてる、この前のやつだ」
声を潜めて、言う。アルミスとクレイは周りを見回す。バーノルはロバの手綱を引いて足を速める。
「できるだけ早く、洞窟に行くぞ」
洞窟とは街に出る村人達が野宿に使う休憩場所だ。村でもらった地図によれば、もうそれほど遠くないはずだ。
「まだ少し距離がある。急ぎすぎるな」
バーノルは時々声をかけるが、二人の焦りは静まらない。
いる。
道の脇の茂みから、時々黒い身体がのぞく。
バサリ。大な羽音に空を見上げると、凶猟鶏が翼を広げ頭上を旋回しているのが見える。どうやって連絡を取っているのか、彼らの数は増えてきている。一定の数が集まったら、集団で襲ってくるつもりだろう。
「バーノルさん、風の精で怪物の翼を邪魔すれば、落とせます」
アルミスの提案に、
「1匹落としてもどうにもならん、それよりも、洞窟に急げ。後ろから襲われないようにしてから対処しよう」
4匹、5匹と怪物の数が増えてくる。今や姿も隠さず、つかず離れずの距離を保って三人を追う。
「洞窟が見えたぞ、走れっ!」
バーノルは手を貸してアルミスをロバからおろし、手綱をクレイに渡した。バーノルは刀の柄を握って後ろを振り返る。アルミスとクレイは洞窟の入口に向かって走る。行く手を塞ごうと、空を飛ぶ凶猟鶏がせまってくる。
『翼を止めなさい!』
アルミスの命令に、風の精が怪物の翼にからみつく。バランスを失って落下する怪物の身体を、バーノルの刀が串刺しにする。
「急げっ」
怪物達が一気に距離をつめてくる。バーノルは刀を左手に移し、革鎧に直接つけてある鞘からナイフを引き抜き、投げる。怪物の一体が足を貫かれ、転倒する。3匹の怪物がまとめて飛びかかってくる。バーノルは右手を伸ばし、先頭の怪物の身体をつかむと、振り回して他の2体に叩きつける。地面に叩きつけられた怪物達はダメージを感じさせない動きで起きあがる。
「バーノルさんっ!」
クレイの声と共に、起きあがろうとした怪物のうち一体の動きが止まる。地面から生えた腕が2体の怪物の足をつかんでいた。バーノルは両手で刀を握り、もがいている怪物の身体を両断する。
凶猟鶏は飛びかかるような動きを変え、威嚇のうなりを上げながらバーノルを取り囲むように移動していく。バーノルは刀を構えて、怪物の動きを見る。怪物はまだ10匹近くいる。
「洞窟に入れ!」
バーノルは背後に向かって叫ぶ。クレイとアルミスは洞窟の入口へと急ぐ。
グオッ。バーノルが後ろを向いた瞬間を見計らって、凶猟鶏の口から炎が放たれる。バーノルが炎から身をかわした隙に凶猟鶏はアルミス達に近付こうとする。バーノルは強引に追いすがり敵をけん制する。さらに浴びせかけられる炎。バーノルは魔法の力を打ち消す刀身で炎をなぎ払う。
「キャアーッ!」
背後からアルミスの悲鳴が聞こえた。
「しまった!」
二人に気を取られたバーノルに、怪物達が殺到していく。
2
洞窟の中には、二匹の凶猟鶏がクレイとアルミスを待ち受けていた。怪物は待ち伏せがうまくいった喜びと、絶対的な優位を認識し、目を輝かせている。クレイはアルミスをかばう。足がガクガクと揺れる。声を上げたら飛びかかってくるだろう。地の精を呼び戻す時間もない。
恐い。
思わず目を閉じそうになる。叫び声を上げて逃げ出したい。しかし、それだけはできなかった。アルミスがクレイの服をつかんでいる。もうアルミスには前に出て欲しくない。アルミスをかばうと言うより、アルミスにかばってもらわないために、クレイは両手を広げ、怪物の前に立ちふさがる。
何もできないが、絶対ここを動かない。麻痺しつつある心で、クレイはそれだけを念じた。心臓が大きく高鳴っている。クレイがそれを自覚したとき、わずかな違和感が生じた。
違う!
ドクン
脈打っていたのは、心臓ではなかった。心臓とは全く別な速度で、胸の宝石が大きく脈動している。その鼓動はどんどん大きくなり、呼吸を圧迫するほどになる。クレイは思わず胸に手を当ててしゃがみ込む。
『力を貸してやる』
クレイの身体の中からあの、声が響く。
「うわあっ」
パニックが襲ってくる。耳を押さえ目を閉じて、クレイは絶叫する。宝石を中心に何かが身体の中にしみ出して、全身をかけめぐる。なんだこれは、なんだこれは?
「クレイ、クレイっ!」
身体が揺さぶられている、見開いた眼に、アルミスの顔が写る。
『何を恐れる、何を失う? この少女以上に、お前が失うことを恐れるものがあるのか?』
クレイは立ち上がる。
同時に、黒い光がクレイの胸から放たれ、爆発的に広がる。光の圧力に眼を細めたアルミスは、クレイの身体が浮き上がり、黒い霧が彼の身体を取り巻くのを見る。
怪物の一匹が、クレイに向かって飛びかかる。その牙はクレイの身体に触れる寸前、止まった。
「グウェーッ」
怪物が悲鳴を上げる。四肢をばたつかせ必死に動く怪物の身体もまた黒い霧に飲み込まれていく。凶猟鶏の血走った目が、突き出された舌が霧に飲まれていく、怪物の悲鳴はくぐもり、やがて消えた。
もう一度、黒い光が洞窟の中で爆発する。アルミスは思わず眼をかばう。
光が消える。そこに、あの水晶人形が立っていた。
大きい。身長は2メートル半ほどだ。怪物の身体は狭い洞窟では身をかがめ、長い両手をついていないと洞窟の天井についてしまう。水晶人形は這うように前に進む。凶猟鶏が後ずさりをしながら口を大きく開け、水晶人形に向ける。
グオッ
凶猟鶏の口から炎が放たれる。
「クレイっ!」
アルミスの悲鳴。水晶人形は浴びせかける炎をものともせずに凶猟鶏に突進し、腕を獲物に向かってまっすぐに伸ばす。水晶人形の五指が同化し、槍のように変形して凶猟鶏の身体を貫く。
「ギャァァーッ」
身体を串刺しにされたまま、緑の血をまき散らして凶猟鶏はもがく。アルミスは貫かれた怪物の身体が小さくなっていくのを見た。そして、水晶人形の身体がその分だけ大きくなって行くのを。この怪物は、凶猟鶏の生命を吸い取っているんだ。アルミスはその事実をはっきりと認識する。
「大丈夫か?」
入口からバーノルの声。アルミスは振り向く。
突然、突風がアルミスを襲う。身をかがめたアルミスの頭上を両手両足を伸ばし、平たくなった水晶人形が、天井を猛スピードで這っていく。
「うおっ?」
バーノルは洞窟から自分に向かって突進してくる黒い怪物を見る。刀を構え迎え撃とうと構えるバーノルの前で、水晶人形は天井から落ち、次の瞬間身をかがめ、空へと高く跳躍した。
水晶人形の腕が二つに裂ける。上の腕がそのまま背後に回り、さらに細かく枝分かれし、間に膜が張られる。それは見る間にコウモリのような翼になる。翼を打ち振るい、水晶人形はさらに上昇する。
その異様な光景に、バーノルやアルミスだけでなく、追いすがってきた凶猟鶏達までもが釘付けになる。
凄い。
空に舞い上がり、クレイは歓喜していた。
何という力、何という開放感。
クレイは自分の心の中に別の者の意志も感じる。それは宝石の中のものだ。それはクレイの高揚感を後押しすると共に、暗い衝動をささやき続けている。
もっと力を、もっと破壊を!
その恐ろしい衝動におののきながらも、力の実感に酔う自分がいる。
クレイは上空から地上を見渡す。洞窟の入り口に立つバーノルが見える。そしてバーノルを囲む怪物達の姿。クレイは彼らの姿に違和感を感じた。バーノルや怪物達がほのかなオレンジ色の光を発しているのだ。クレイがそれを認識したとき、胸の宝石が再び大きく脈打った。あの光は、何だ?
凶猟鶏達は再びバーノルに向かって迫る。クレイは、自分がこの体をコントロールできていることを実感する。クレイは怪物の翼をたたみ、一気にバーノルと凶猟鶏の間に落下する。腕と足を変形させ、衝撃に備える。
ドン。
土煙を上げて、水晶人形が着地する。水晶人形の卵のようなのっぺりした顔面に3つの裂け目が走り、ルビーのような紅の光を放つ眼が現われる。凶猟鶏達は身体を低くし、威嚇のうなり声を上げる。
クレイは、凶猟鶏達を包んでいるオレンジ色の光が鮮やかに、大きくなっているのを見る。クレイは突然悟る。オレンジ色の光は、凶猟鶏達の恐怖の感情だ。オレンジ色の光は、とても美しくクレイに感じられた。
ドクン。胸の宝石が再び大きく脈打った。凶猟鶏達のオレンジ色の光が強くなった瞬間、自分の身体の中にかけめぐる力がふくれあがったのだ。クレイはわざとゆっくり水晶人形の身体を凶猟鶏に近付かせる。凶猟鶏のオレンジ色はさらに濃く、強くなり、クレイの身体の中の力は強くなる。
間違いない。オレンジ色の光、「恐怖の感情」を相手が燃え立たせるほど、この水晶人形の身体はより強力な力を振るうことができるのだ。黒い宝石の中のものは恐怖を「喰う」のだ。クレイはその光を見て思う。もっと、もっと燃え上がるようにこの光を大きくしたい。
クレイは凶猟鶏の群れに向かってその身体を突進させる。逃げようとする凶猟鶏が自分に向かって伸ばされる腕を見つめ、身体をえぐられ大きな悲鳴を上げる。凶猟鶏達の細かい動きすべてが見える。逃げ回る凶猟鶏を1匹ずつ倒すことなど、造作もない。
凶猟鶏達のオレンジ色の光“恐怖”がさらに大きくなる。光が大きくなるごとに、自分の中の力も大きくなっていく。生き物に恐怖を呼び起こせばそれだけ水晶人形の、クレイの力は強くなる。その力に上限はない! もっと、もっとだ!
クレイは凶猟鶏達の恐怖の光をもっと大きくする方法を思いつく。一匹の凶猟鶏を頭上に持ち上げ、ゆっくりと身体を引きちぎる。わざと喉は押さえない。
「ギャアアアッッ」
頭上の凶猟鶏の苦痛が、周りの凶猟鶏に伝播していく。凶猟鶏達のオレンジ色の光が激しくなる。その光が黒い宝石を通じて更なる力をクレイに与える。クレイの身体を炎であぶるかのようすさまじいエネルギーが充満してくる。クレイは、こみ上げてくる歓喜をそのまま咆哮に変えて解き放った。
水晶人形の目の下の部分にさらに大きな裂け目ができ、真っ赤な口が生まれる。その口を大きく上げ、水晶人形は胸を張り、空を見上げ、身体を震わせて雄叫びを上げる。
「ガアァァァッッッ!」
バーノルは刀を構えたままクレイの怪物の凄惨な戦いを見ていた。指が白くなるほど力を込めて刀の柄を握っている。恐怖がバーノルの身体に緊張を生んでいた。バーノルは後ろにかばったアルミスに向かってささやく。
「あれがクレイ……なのか?」
バーノルの問いにアルミスは答えることができない。
残った2匹の凶猟鶏は後ずさりをし、やがて必死の逃走に移った。後を追おうとする水晶人形に、思わずアルミスは叫ぶ。
「もうやめて!」
水晶人形が振り返る。クレイはアルミスとバーノルを見る。バーノルには小さなオレンジの光を、アルミスは大きな青い光を放っている。初めて見る光の色。答えを胸の中の者がささやく。それは“哀しみ”だ。
何を哀しむというんだ? クレイはアルミスを見る。アルミスは胸に手を当て、こちらを見ている。
敵は遠くに去った。戦いは終わった。硬質だった水晶人形の身体が霧状になり、中からクレイの姿が現れる。クレイは服の上から胸の宝石を触る。二つに割れた石は再び1つになり、かすかに脈打っている。あの力。クレイは先ほどまでの感触を思い出し、拳を握りしめる。
これは、僕が望んだ力だ。戦いの中くり返した心の叫びをもう一度、強く、想う。
3
「…なんだ、あれは?」
闇の中で老人がうめく。鏡の形をした魔物は、さっきまで凶猟鶏の見ていたものを写していた。現在、鏡の妖魔は何も写していない。恐怖に支配された凶猟鶏は彼の支配から逃れ、何処にいるかもわからない。
老人の名前はアグン。根の国の主神、混沌の4大神の一柱・フォゴルをあがめる大神官である。アグンは、指輪や飾りひもなど魔法のかかったアクセサリーを身につけ、富と権力をもたらすというルーン文字の描かれた大神官の衣をまとっている。その服装と同様に、大神官の執務室もまた豪奢で、各地から発掘された魔法の品物に溢れている。
しかし現在、アグンはそのきらびやかな環境に似合わない、不安と恐怖の表情を浮かべていた。
先ほどまで鏡に映し出されていた、凶猟鶏を殺していく黒い怪物。あの化け物は凶猟鶏の眼と鏡の妖魔を通じて、はっきりと、自分を見たことをアグンは確信していた。
何故ならば、アグンは、あの水晶人形の怪物を、正確にはあのような怪物が現れることを知っていたからだ。
魔法王国として近隣諸国を支配する根の国。魔法を研究し、世界各地に残る神人の遺跡を国王軍を従え、次々と略奪していくアグンが率いる「フォゴルの神官戦士」の名はかつて“神人の使い”と呼ばれたボドルフ以上にこの世界で畏怖される存在までになった。
混沌の神とは、現在の世界で最も多くの信者を獲得している存在である。神話では神人達に魔法を授けたのも彼らであり、かつては地上に頻繁に現れたという。神人がいなくなった今、人類は彼らとの直接の繋がりを持つことはできなかったが、信仰の対象としてこの世界に広く知れ渡っていた。フォゴルはその中でも、美の創造と破壊をなす最も力のある存在として多くの信者を集めており、国々との繋がりも強かった。
3年前、神人と異世界の亜人達が戦ったと言われる芦国の大湿原でのことだった。
亜人達の末裔といわれる沼人達を火の巨人の炎で焼きつくし、妖魔と兵士の力で遺跡を発掘していた神官兵士軍は緊急事態としてアグンを呼び出した。
遺跡の中央にあった亜人の兵器が暴走し、神官兵士軍の3分の1が“溶かされた”という。直属の神官兵士と共に、神人の遺産である「羽ばたく船」で向かったアグン達が目撃したのは、凄惨な光景だった。
沼の泥濘に沈んでいたはずの遺跡が、紫色の粘液に包まれ、3日たった現在も白い煙を上げ続けている。粘液から立ち上る瘴気に溶かされながら遠見の妖魔が送ってきた映像は、その紫色の粘液の中央でただ一つ溶けずに残る巨大な「機械」だった。
漏斗のような口を突き出した、赤銅色に輝く箱。箱は4メートルほどの立方体で、表面にはルーン文字のような文字がびっしりと描かれている。文字の大きさもまた人の手ではあり得な巨大さだった。
瘴気が薄れるのにそれからさらに5日、根の国に持ちかえるのに1ヶ月の期間を要した。根の国の研究施設で2つの事故を起こしながら、1年の月日を経て、この箱の力は研究団の力で明らかになった。
今でもアグンはその実験の光景を度々思い出す。研究員の操作によって漏斗の口から編まれ紫緑色の巨大な泡。その泡は漏斗の口を操作することで自由に方向を変える事ができる。その泡が標的として用意された岸壁を一瞬で溶かした。泡が触れた部分は大きくえぐれ、岸壁の形を一瞬で変えてしまった。
アグンの背に戦慄が走る。この“力”こそが、求めていたものだ。この力をふるうことができれば、フォゴルの勢力は今以上のものになる。
精霊を使役したり、妖魔を物品に宿らせる魔法などは進歩したが、使うことができるのは生まれたときから身体そのものを変えた魔術師だけであり、しかも成長した資質に左右される。伝説で語られる神人の域まで到達することは、人の力では不可能だと、アグンは魔法を解析していくにつれ強く思い始めていた。
しかし、この機械は違う。精霊を使役する能力のない科学者達でも扱うことができ、なおかつ「視覚的」な効果は絶大だ。これをうまく利用できれば、今まで以上にフォゴルの威光を世界に知らしめることができるだろう。もしこの技術を複製することができれば、根の国という枠を越えた力さえも得られるかもしれない。
大神官でありながら、アグンには神への信仰はなかった。神人達が語る「歴史」によれば混沌の神々は神人達が去る遙か前にこの地上への興味を失っており、神がこの世に姿を現した記録はない。人間が発掘された秘術を尽くしてみても接触できる世界は混沌界とも言うべき“神の領域”の表層に過ぎない。
人を狂気に陥らせるほどの“魔薬”投与も、死ぬ寸前の精神集中を行った「実験者」達も魔神といえる存在とは接触できなかった。「神は感知できない、つまり、いない」というのがアグンの長い人生で得た結論であった。アグンにとって信仰とは人を縛るための鎖であり、人を支配するため、人の力を集中させるための方便であった。
しかし、皮肉にも“箱”の力を眼にしたその時、アグンは「何か」への恐怖と畏怖の感情を抱くことになる。技術者達に促され、箱の操作卓へ向かうとき、アグンはその卓に腰掛けている一人の青年を見た。
青年がこちらを見る。縦長の瞳、つり上がった目尻、とがった耳、そして全体から漂う圧倒的な気品。口元のわずかな微笑が、恐ろしいまでの知性と、残忍性を伝えてくる。伝説が語る“神人”の特徴を持っている人物がそこにいた。
アグンは青年と眼があった瞬間それを認識し、気がつくと平伏の姿勢を取っていた。彼の人生で1度もしたことがない、奴隷の姿勢だ。青年が持つ存在感がアグンの身体を、心を服従させてしまう。
『神の威光を、この世に、再び』
青年の歌うような声。神人が使っていたと言われる魔術語だ。
その声は、さらにアグンの頭を下に下げさせる。アグンの頭に衝撃と共に1つの理解が生まれる。神人は我ら魔術師の爪の色のような、青い肌のはずだ。青年の肌は黒色だった。アグンの記憶が、神人達の記録の一節に突き当たる。神人達は、誰に似せられて作られたのか、その存在が地上に現れたとき、黒い肌を持った化身を好んで使うと言われていなかっただろうか。
「あなたは、まさか、フォゴル様では?」
顔を地面につけたまま、震える声でアグンはささやく。答えはなかった。しかし、その存在の笑みが深くなったことが、姿を見ることもできないアグンに、確かにわかった。
『東より、“恐怖”がやってくる。これに備えよ』
からかうようなその言葉、それと共にアグンの身体を締め付けていた圧力が消える。アグンは顔を上げもう一度その存在を見ようと顔を上げようとして……。
「こちらです」
箱の前の研究員に促されて、我に返った。周りを見回す。青年はいない。というよりも、青年と対峙していたあの瞬間、研究員や取り巻きは何処に行っていたのだ?
白昼夢だったのだろうか?
あの光景を思い出そうとした瞬間、全身に震えが走る。この緊張と恐怖が夢のはずがない。あれは、確かに、“神託”だ。
箱の前での体験から2年、アグンは積極的に脅威に備えるための組織作りを行ってきた。単純な侵略や討伐のための軍隊ではない。人々が恐れ、そして神への崇拝を抱くような、儀式要素すら帯びた「神軍」の結成だ。
下位の精霊であるウィスプを封じ込めた“火炎槍”を持ち、金属のような羽毛を持つ混沌生物黄金鳥にまたがる恐れの仮面を身につけた騎兵、巨人を扱う神官兵士、そして中心には、妖魔による生ける台の上に載せられた箱。百鬼夜行のようなこの軍隊が神の名の下、戦う。それは、人々に新しい時代の到来を強く印象づけるだろう。
鏡に映っていた凶猟鶏をなぎ倒した怪物は、アグンにとってはありふれた存在だった。彼のみならず、彼の配下の神官戦士達が扱う“巨人”、上位精霊や、異界からの強力な存在に比べれば遙かに貧弱な力だ。しかし、あの眼、鏡を通し、アグンの心すら貫くあの赤い瞳は、アグンには以前の謎の存在との邂逅をまざまざと思い出させた。
神人の使いボドルフが活動をしているという報せをアグンは重要視していた。かつて自らの手で権力の座から追い出し、娘と小さな弟子だけを連れて姿を消したボドルフの消息をつい最近アグンは知ったのだ。追跡をしようと動いた瞬間、ボドルフは再び行方をくらました。何をしようとしているかはわかっている。周辺諸国と、根の国の国王派の一部が結託し、フォゴルの、正確にはアグンの勢力を弱めようとしている、その中心の力としてボドルフは活動をしているのだろう。
ボドルフの弱点は、娘とその弟子だ。彼らがいたために、ボドルフは逃亡を余儀なくされた。ならば、彼をいぶり出すためにもあの二人を利用する。アグンは配下に指示し、山奥の彼らの家を探し出し、根の国に向かうための偽のメッセージを送った。のこのこと出てきたボドルフの娘と弟子は、凶猟鶏の一団によって簡単に捕らえられるはずだった。
しかし、あの存在がアグンの考えを変えていた。恐怖とは、ボドルフが中心となって作られつつあるクーデター勢力ではないのかもしれない。あの存在ならば利用できる。そしてうまくこちらが動くことで、フォゴルの名と力は大きく高まり、この世界全体に轟くだろう。
フォゴルよ、感謝を。アグンは生まれて初めて、心から神に向かって祈りを捧げる。
第四章
1
「クレイ?」
ベッドから起きあがり、クレイは呼びかけたアルミスを見る。
クレイが起きあがる気配に、アルミスは蝋燭を灯す。闇の中にアルミスの顔が浮かび上がる。アルミスの瞳には、真摯な光がある。
凶猟鶏の戦いから2日がたっていた。大きな街道に出るにはあと1日と言うところだ。辺境の訪れる人の少ない開拓村のたった一件の宿屋に三人は泊まる。部屋にはアルミスとクレイ、隣の部屋にバーノルが寝ている。アルミスの傷口の薬草を取り替え、包帯を巻き直してベッドに入り明かりを落としてしばらくしてから、アルミスはクレイに声をかけた。アルミスは何度もためらい、そして耐えきれず声をかけたのだった。
「何?」
アルミスの表情がクレイの声にも緊張を含ませる。
「クレイ……あの、あの“力”の事なのだけれど……」
アルミスの眼がクレイの胸を見ている。
「やっぱり、その力には何か恐ろしいものを感じるわ。今のうちに……手放した方が良いと思うの。そのための方法を考えなくては」
クレイは、唇をかむ。手のひらを胸に当てる。
「確かに、僕にもこれがなんなのか、わからない。先生が呼び出すことのできる妖魔と似ている気がするけど、もっと、何か恐ろしい力を秘めているような、そんな気もする」
「それならば……」
「でもね、アルミス」
クレイは胸の前で拳を握る。
「あの、凶猟鶏の数。もう間違いない、僕らは“追われて”いるんだよ。バーノルさんは確かに信じられないくらい強いけど、だからといって、それで安心だというわけじゃない。何かはわからなくても、胸の中のものは、僕に力を貸してくれる。あの力を、アルミスも見ただろ?」
「ええ……」
「この前、わかったんだ。力の使い方は、こいつ自身が教えてくれる。本当のこいつの力は、まだまだあんなものじゃないのが、はっきりわかったんだ。もっと、もっとこいつは力を持っている。それはどんなものなんだろう……」
「クレイ!」
アルミスは思わず駆け寄る。クレイの手を右手でつかむ。
「“魔法には代償が必要だ”って、お父様はいつも言っていた。私達の青い爪。私達の姿がこんなに特殊だったなんて、外に出るまで気がつかなかった。次の街からは、この爪に薬を塗って隠さなくてはいけないって、バーノルさんはいったわ。昼間でもフードをかぶって、巡礼者の振りをして、極力隠れなくっちゃいけない。私達が使う魔法ですら、人の身体をこんなに変えてしまう。あの蓑村の人達の目、魔法は、私達の心の有り様すら普通の人とは違ったものに変えてしまっているかもしれない。クレイの力は危険よ、はっきりわかるの」
アルミスを見上げて、それからクレイは目をそらす。
「それは……わかっているよ」
「クレイ……」
身をかがめて、アルミスはクレイの顔をのぞき込む。
「でも!」
突然クレイが手を伸ばす。クレイはそっと、アルミスの左手、包帯を巻いた腕に手を触れる。
「僕はもう、アルをこんな目に遭わせたくない。そのためなら、どんな代償だって払うよ。僕が、アルを守る。どうなるか、そんなことは、今はどうだっていい。僕は、あのときアルに守ってもらった。もう、あんな想いは、したくないんだ!」
最後の方は叫びになる。
クレイはアルミスの手を放し、背を向けて毛布をかぶる。
アルミスは、しばらく立っていた。やがて、自分のベッドに戻る。
一度だけクレイの背を見つめる。
「……ごめんなさい」
そういって蝋燭を吹き消し、目を閉じた。
2
「今日は夕方までに宿場町に着く。しっかり食っとけよ」
干し肉を挟んだパンをかみちぎりながら、バーノルは言う。少し大きな声だった。アルミスとクレイは昨日から、どこかぎくしゃくしていた。
街道から少しはずれたところで火をおこし、3人は食事をしていた。これから地の精を使って、材料を集め、爪の色を変える塗り薬を作る。
薬の作り方や、他にも旅に役立つ知識は、ボドルフが書いた本の中にまとめられていた。“巡礼者を装うための割り符の作り方”なども書いてある。旅立つまで読むこともなかった本だが、その実用的なノウハウはアルミスとクレイを驚かせた。まるでこの日があるのをあらかじめ予見していたかのようだ。
アルミスは顔を上げ、クレイの手を取り、強く握る。驚いたクレイの目を見つめ、
「大丈夫よ、クレイ。根の国に行けば、お父様がいる。きっとなんとかなるわ」
アルミスの手がかすかにふるえている。クレイは少し答えをためらいながら、
「そうだね。」
と、つぶやいた。
バーノルは二人を見つめる。そして大きく息を吐き出しながら、
「そう、うまくいくか?」
二人はバーノルを見る。
「おまえらは、魔法使いだろう? 『魔法使いは、この世のすべての事象の真理を探究するために努力するのが“基本の姿勢”です』というのが俺の知り合いの口癖だった。曲がりなりにも、大魔導師の娘と弟子が、師匠にまかせっきりで、いいのか?」
いかめしい顔に、笑みを浮かべる。眼にはからかうような光がある。怪訝な顔をする二人。
「根の国まではまだまだある。時間は山ほどあるんだ。まず、おまえらだけでやって見せろ。あれがいったい何なのか、どんな力があるか、えーと、『問題を先延ばしにするのは、賢い方法ではありませんね』だ。」
かっての友人の口まねだろう。バーノルには全く似合わない気取った言い回しに、クレイとアルミスは思わず吹き出す。
「そうですね」
自分に言い聞かせるような、クレイの言葉。アルミスはクレイを見て、小さく頷く。
バーノルはさすがに苦笑する。しかしまあ、こういう空気を作ってやることは大事なことだ。これからも旅は続く。それにこいつらの行く手は、決して平安なものじゃない。とにかく、まずは気力だ。
「まず、食っちまえ。それから準備だ」
「はい!」
生徒のような二人の返事。しかし、バーノルの苦笑は、二人が食事の後にする行動を見て、一瞬堅くこわばる。
食事を終えた二人は、小さな香炉を取り出して、その中に薬品をとかし、飲む。色で分かる。水銀を含んだ、常人にとっては猛毒の薬。
バーノルは知っていた。こういった薬こそが、魔法使いの肉体を形作っているものだ。そして、幼い頃より常人には猛毒となるような数々の薬品を受け入れ、人とは違う肉体を持つことこそが、魔法使いの最初の“資格”なのだ。
バーノルは改めて二人を見る。あまりに青い爪。そして彼らの仕草ひとつひとつの中に潜む、違和感。俺たちとは違うのだ。改めてバーノルは自分にそのことを言い聞かせる。
準備が整う。アルミスとクレイは爪に薬を塗り込む。ぱっと見ただけでは、爪に何かが塗っているようにも見えない。病的にも見える白い肌も、巡礼者としてフードをかぶっていればそれほど奇異には見られないだろう。バーノルは二人に魔法使いであることを気付かれないようにするための仕草や、言葉の使い方を注意した。
二人は改めてバーノルの魔法使いへの知識に驚く。
「あなたは、一体?」
アルミスの問いに、バーノルは考える。確かに、出来過ぎた出会いだ。バーノル自身もそう思っている。彼ら二人にとって、バーノルこそおあつらえ向きのガイドではないか。
バーノルの脳裏には、若き日に出会ったボドルフの顔が浮かんでいる。何かが彼らの出会いを仕組んだのだろうか? わからない。東方での冒険を終えて、彼は故郷へ帰る途中だった。二人に出会ったのは偶然にすぎない……はずだ。
考えに沈み込むバーノルをアルミスはじっと見つめる。バーノルに強い信頼を寄せている自分の心に不意に気がつく。不思議で、温かい人だ。彼の刀を振る姿、言動、にじみ出る貫禄。傭兵を生業にしている彼は、厳しく、そして恐ろしい。しかし、どこかに優しさがある。
いま、自分は思考の迷路に陥っていきそうな不安の渦中にある。クレイと二人だけだったら、歩くこともできなくなってしまったかもしれない。先のことは、不安が大きくなるばかりだ。しかし、進まねばならない。とにかく何が起きたのか、根の国に行って、知らなければならない。改めて、バーノルが傍らにいることをアルミスは感謝する。
3
日が沈む頃、3人は宿場町に着いた。アルミスとクレイはその“初めての世界”に好奇心を抑えられない。道行く人、明け放れた門と、退屈そうな門兵。開拓民の村とは明らかに違う家々。人が生活を営む、そのことにかわりがないが、積まれた年月が違う、使われている技術の洗練が違う、そして何より、住んでいる人々が違う。
形だけ取り繕い、その日を生きているのに精一杯な開拓民に比べ、例え辺境であっても交易が行われている宿場町の人々は、活気と、どこか倦怠がある。
「朝にはな、市が立つんだ。いろいろ珍しいものが見られるぞ」
バーノルにはクレイたちの興奮が分かる。旅を始めたばかりの気持ち。彼は結局、自分の最初の旅の時の好奇心や警戒心、希望と不安の入り交じったそんな気持ちを忘れることができずに、ずっと旅を続けている人間なのだ。
街の中心には巨大なトチノキが生えている。この巨木が街のシンボルだ。
三人はトチノキを囲むように作られた広場に面した大きな建物の前で立ち止まる。古ぼけてはいるが、頑丈そうな作りの家。煙突からは、大きく煙が出ている。大きな木の下で、小人がランプを持ている構図の、凝った意匠が施された看板が掲げられている。街にはいる前、バーノルが農夫に聞いた、「街一番の宿屋」だ。
小間使いが出てくる。バーノルは短く交渉をし、二人を手招きする。前金制だ。バーノルは隠しから銅貨を出し、小間使いに渡す。
建物にはいる。二人は入り口で立ち止まって、驚きとともに周りを見回す。
広い部屋、大きなテーブル。大きな暖炉と、部屋を明るく照らすランプ。そして、人の匂い。
何組かある大きなテーブルは、二つのグループに分かれている。片方は街の連中が固まって、カードやおしゃべりを楽しみ、もう片方では、宿泊客がお互いに距離を置いて、すわっている。
「二階でまず荷物を置いてから、裏で手足を洗うぞ。」
バーノルが二人を促す。店の客の視線が自分たちに集中しているのを意識しながら、アルミスとクレイは階段を上り、バーノルに部屋を案内される。
粗末なベッドが二つ。しかれた藁は古くなってつぶれていて、ごわごわの厚手の毛布が掛かっている。
バーノルは粗末な袋を懐から取り出し、少しだけ声を潜めて、
「アルミス、とりあえずコレにちょっとだけ砂金入れろ」
「?」
バーノルは少し笑って、
「路銀を手に入れとくんだよ。砂金見せびらかしてたら、トラブルの元だ。俺が換えておいてやる。こういうのは、ちょっとしたコツが必要なんだよ。」
「あ……はい」
アルミスがあわてて袋を取り出し、口を開けたところを、
「こんなものでいい」
と、バーノルはほんのちょっとの量をつまみ上げた。
袋をしまおうとするアルミスに、
「ここから先、そいつだけは服の中にでも入れて、簡単に持っていることを気付かれないようにするんだ。もし人に金を見せなくてはいけないときは、全部見せるな。ほんのちょっと、手のひらにおくか、小袋に入れて見せろ。そうしないと、厄介事になる。」
「はい」
バーノルが隣の部屋のドアを開けて中にはいる。アルミスは少しの間だけ、その扉を見つめていた。
宿屋の夕食の時間、アルミスとクレイは妙な緊張感を味わっていた。
クレイは周りを見回す。バーノルに促されて降りた、宿屋の1階にあるホールだ。宿屋の一階は広い酒場になっていて、円形の大きな木のテーブルが全部で15卓ある。1つのテーブルには6つの椅子が置いてある。
ホールの真ん中は通路になっている。食事には旅行者だけでなく十数人のこの街の者達も来ていた。通路が両者をはっきりと隔てている。街の者達は常連なのだろう。野良着のままで、くつろいだ様子で小さな声で話をして、時々旅行者側に顔を向けて声を出して笑い合っている。クレイやアルミス達の旅行者側はほとんど会話もない。暖炉には薪がたくさんくべられていて、少し蒸し暑い。
食事の時間が始まって20分もたつが、料理はほとんど運ばれてこなかった。食事はいっこうに進まない。厨房から音は聞こえるが、次の料理が運ばれてくる気配はないし、下男が皿を並べようともしない。ワインと共に出された粉が荒く堅いパンは、食べるのが遅いアルミスでさえ、すでに食べ終えている。
「次の料理はまだかね?」
場の雰囲気にたまりかねたのか、一人の太った商人風の客がぼうっと立っている下男に声をかける。商人はさっきから、舌打ちをしたり、いらいらと胃のあたりをなでていた。
下男は最初、その男の声が聞こえないふりをしていた。もう一度同じ言葉が男から出ると、仏頂面で答える。
「うちの料理は時間がかかるんでさ。文句があるなら、他の店へ行ってください」
商人はむっとした表情を浮かべる。
街の住人である常連客のテーブルから、押し殺した笑い声が洩れる。粗野な格好をした町の者たちは、にやにやと一般客のテーブルを見つめている。意地の悪そうな笑顔。一般客たちがお預けを食ってとまどっている姿を娯楽として楽しんでいるのだ。
アルミスはバーノルがこちら側の、旅行客の側で一人だけ笑顔を浮かべているのに気がつく。
バーノルはクレイとアルミスに顔を近づけ、小さな声でささやく。
「宿場町の宿屋ってのは、こういうもんなんだよ。さっきの太った男の服を見てみろ、真新しいし、そんなに日に焼けてもいない。あいつは、旅ってものを知らないんだ。」
「どういうことですか?」
クレイの問いに、バーノルはニヤリと笑う。
「まあ、もうしばらく見てると、楽しいぞ。こういう歓待を受けると、ようやく“文明圏”に帰ってきた気がするよ。やっぱりこうじゃないとな」
バーノルは息を大きく吸い込む。料理の匂いがかすかに漂ってきて、さらに笑みを深くする。やはり本場の料理の匂いは違う。帰ってきたのだ、ようやく。
バーノルは感慨深く、手をこすりあわせる。クレイとアルミスは、顔を見合わせる。
下男がテーブルにミルクで割った麦の粥を運んでくる。旅行客は待ちに待った食事の貧相さに顔をしかめながら、それでも空腹を紛らわせるために、せっせとスプーンで口に運ぶ。
バーノルはにこにこ笑っている。
「ようやく始まるぞ」
バーノルのささやきが合図だったように、
今までどこに隠れていたのかと思われるような数人の女の給仕達が厨房の扉から飛び出した。手には大きな皿を持っている。そのさらに山盛りにされた料理! 大きな肉団子と野菜をたっぷり入れたスープ、じゅうじゅうと油が音を立てているあぶり肉、たっぷりのハーブを加え煮た魚が来る、詰め物の入った焼きたてのパン、大きな骨付き肉の入った濃厚な煮込み料理……。さっきまで仏頂面だった下男がワインを満たした大きな杯を手に、顔中を笑顔にして忙しく注ぎ回る。
常連客は歓声を上げる。宿屋全体が爆発したような騒ぎになった。地元の人々が杯と瓶を手にずかずかと旅行客の方へいき、とまどっている客達の肩を抱き、ワインを注ぐ。さらに料理は運び込まれ、あっという間に広いテーブルの上を占領する。その騒ぎの中で、宿屋の親父がもったいぶった仕草で東方から渡ってきたスパイスを各テーブルの料理に振りかけた。
タイミングを計っていた吟遊詩人が、暖炉の前に立ち、汗だくになりながら激しい曲を奏で始め、宿屋中で唱和する。
さっきまで不機嫌だった太った商人は、鳥の足を持ち、口元を肉の脂で光らせながら赤ら顔で大声で笑っている。ひげ面の地元民が、びっくりしている旅人のやせた背中をどついている。
この喧噪の主役は間違いなくバーノルだった。健康な“獣”の食事というものは、それだけで見物となる。力強い顎が大きな肉を難なく噛み裂き、熱々の煮えたシチューをものともせずに口の中に流し込む。大きなパンが一口で消える。速いスピードでありながら、1つ1つの料理を味わい、そして楽しんでいるのが分かる。皿が次々と空になっていく。客達はいつの間にかバーノル達のテーブルに集まり、バーノルの健啖ぶりをはやしたてた。
「エールをくれ!」
口元を拭って、バーノルが声を上げると、人混みの中から大きなジョッキが回されてくる。
バーノルはジョッキを上げ、ニヤリと笑い、周りを見回す。観客が固唾をのんで見守る。
次の瞬間、傾けられたジョッキは、そのままバーノルの口の中に一瞬で消えた。
ドンと音を立てて空のジョッキがテーブルに置かれたとき、歓声は最高潮に達した。大きな拍手の中、バーノルはそれに片手を上げて応える。
テーブルの料理が空になりみんなが満腹になると、宿のバカ騒ぎは一段落した。暖炉の脇に腰掛けた吟遊詩人は物憂げな恋歌を奏で始め、客たちはそれぞれのかたまりに分かれていく。給仕達は皿を片付け、食後のワインを置いていく。
「どうだ? 感想は?」
ゆっくりとワインをすすりながら、バーノルはアルミスとクレイに声をかけた。ふたりはさっきから目を大きく見開き、周りを見回すばかりだ。
「すごいですね…宿屋というのはどこも、そして毎晩こんなに凄い騒ぎなんですか?」
応えるクレイの頬の上気はワインのせいばかりではない、興奮の余韻だ。
「そうじゃない、静かなところもあるし、ケチな親父が鳥の餌の様なまずいものを出す店だって、旅人の荷物を狙うようなところだってある。はずれの宿に泊まるくらいなら町をさっさと通り抜けて、野宿しちまうほうがましだ。良い宿屋を見抜く条件としては、ちゃんとした村、建物の立派な作り、使用人の態度とか、いろいろあるが、宿屋を選べない町だって多いし旅人がそんな贅沢を言っていたらたちまち日干しだ。旅をする風来坊なんて、飯を売ってくれるところに巡り会えただけでも幸運というものだよ。そんな時、自分を助けるのはなんだと思う?」
バーノルは小さく笑みを唇に浮かべてから、ふたりに顔を寄せる。
「芸だよ。別に歌や踊りである必要はねえ、目の前で荷車持ち上げられちゃ、盗賊崩れだってそいつを襲う気もうせる。腕っ節が弱くったって、面白い話を歌う鳥を締めちまうやつはいない。ジプシーって奴らがいる。一族郎党彷徨える民、ほとんど盗人って奴らだが、奴らは突然村に祭りをひらいちまう。派手な服着た奴らが踊り、異国の歌を歌う。集団で来ることもあるが、一人でもそれは見事なものだ。長く旅を続ける人間は、そういう取り柄があるものさ。それを武器にして、日々の食い物を得て、世界中を渡り歩く。その旅は決して楽しいだけじゃない、命もかかってる。つらいことだって多い。それでも旅をやめられないんだ」
バーノルは街の人々の卓に目をやる。
「街に住んでいる奴らは、そういう変わった奴らに、恐れと共に、強い興味を持っている。街の人達の恐れを刺激せず、好奇心を満足させてやることだ。異国気分をかき立ててやるのがコツだな。街に住んでいる大概の連中は、頭が固くて臆病だから、こんな旅人が来るような宿屋で夕飯なんて食わない。それなのに、酒場の常連達の話を聞きたがるんだよ。向こうの連中のように毎日飲んだくれているおやじ達の酒代を、又聞きの時喜んで出してやるんだ。あの連中達は街の人にそうやって養ってもらってる。こういう“社会”ってやつが見えてくると、面白いぜ。」
クレイと、アルミスがあらためて周りを見回す。
バーノルはそれを見ながら、ウィンクする。
「……と、こんな話を旅慣れない奴にすると、感心される。テーブルで隣り合った偶然を良いことに、うまく解説すればこっちに対しての警戒心はなくなるし、宿代を持ってくれる場合もある。うまくいけば雇ってくれる、俺のような用心棒を生業にしている奴にとって、信用を得るのにいい方法だよ。旅をするには、狡く立ち回って、客の求めるモノを少ない労力で提供するのがコツだ」
バーノルは目を丸くする二人を見て、大きく笑う。
4
その時、大きなドアを叩く音が宿屋に響いた。ノックの音ではない、下男が小槌でドアを叩いたのだ。
「見回りだ」
下男が大きく声を上げると、剣をぶら下げた民兵と、小太りの役人が入ってくる。常連の客達が声を上げ、ジョッキを持って近づこうとすると、役人は大きく咳払いをして押しとどめた。咳払いを一つして、
「これより検分を始める!」
大きな声で告げた。常連客が顔を見合わせているのを、宿屋の従業員たちが緊張をしているのをバーノルは見逃さなかった。これは、いつもと違うのだ。
「何かあったとき、すぐ動けるようにしておけ」
バーノルはふたりにささやく。ふたりの表情にも緊張が走る。
役人が後ろを向き、恭しく頭を下げる。入り口から、一人の男が入ってくる。
灰色のローブを着た男。口元には深いしわが刻まれ、肌は青白い。そして、華奢な飾りの目立つ僧衣と、腕と腰に巻かれた仰々しい飾りひも。
「神官だ…」
常連客の間から、つぶやきが漏れた。男の胸元からは、大きなペンダントがぶら下がっている。八本の矢が円を描く“混沌”の印に、足を絡めた蜘蛛。男はフォゴルに仕える神官であった。
役人に先導されて、神官は宿屋の中心へと移動する。ふたりの民兵は、テーブル周辺を回る。緊迫した空気が流れた。
神官は目深にかぶっていたフードを跳ね上げる。肉の落ちた、険の強い顔があらわれる。神官は落ちくぼんだ、ぎらぎら光る目で一人一人の客の顔を見ていく。客たちは神官から目をそらし、身じろぎする。
神官の目が、アルミスとクレイに向けられた。その時、神官の唇が笑みの形に曲がった。バーノルはテーブルの下でベルトに差した短剣の柄を握った。
しかし、神官はそのまま後ろを向き、部屋の外へ歩き出した。役人はあわてて声を張り上げる
「こ、これにて検分を終了する!」
戸口で神官は止まり、役人にささやきかける。役人は直立して敬礼し、宿屋の主人に耳打ちする。
一団は出ていく。場は完全に白けた。常連客は帰りはじめ、宿泊客は2階へ上がっていく。
「傭兵さん」
店の主人がバーノルを呼ぶ。
「お前らは荷物をまとめとけ。とにかくすぐ出れるようにしとけよ」
クレイとアルミスに声をかけてから、バーノルは席を立つ。ふたりも頷いてから急いで二階に向かった。
主人は厨房の入り口に立っていた。手に大きな包みを持っている。
「お客さん、さっきいわれていたお弁当、今渡しておくよ」
バーノルは包みを受け取ってから、
「明日のはずだが?」
店のオヤジは辺りを見回してから声を潜めて、話しかけてくる。
「役人が明日の朝にきて、あんたらを取り調べるそうだ。その前に出た方がいい」
「なぜ俺たちにそのことを?」
バーノルの問いに、主人は一層声をひそめて、
「その大きな体と、食べっぷり、覚えているよ。2年前、あんたは横柄な貴族とその用心棒がここで起こした厄介事を解決してくれた。あの大きな用心棒が床にたたきつけられたのを見たときは、ざまあみろと心の中で声を上げたよ。あれからずっと、この宿屋で盛り上がる話の1つになったよ」
宿屋の主人の言葉に、バーノルはにやりと笑う。
「それにな、あの神官、半年ほど前にきたやつなんだが、どうも気にくわねえ。道神様の教会に突然居座って、フォゴルの像を置きやがった。道神様の像を皆の前で壊したんだ」
主人は大きく魔除けのまじないをする。
「あんたらはこの背の国というより、フォゴルの神官どもににらまれているようだよ。都の方は根の国の締め付けでずいぶんおかしくなっているらしい。どっちに行くのかは知らないが、気をつけたほうがいいね」
数年前、遺跡の調査と称して背の国に侵攻した根の国は、海を隔てた大国である背の国の軍隊を敗退させ、国教をフォゴルに改められている。背の国の各所に伝導所が作られ、国民達は大きな不満と共に、仕方なしにそれを受け入れていた。
バーノルは親父の言葉に手を挙げて応えてから二階に上がる。クレイとアルミスはすでに荷物を背負い、緊張した面もちで待っていた。バーノルはふたりに笑いかける。
「そんなに気張った顔をするんじゃない、大丈夫だ。今すぐ動けば逆にやばい。夜明けに出発する。それまでちゃんと寝とけ。やはり地べたよりベッドはいいもんだ」
「でも…」
言い返そうとするアルミスにバーノルは強引に弁当を押しつける。
「旅をするコツは“ちゃんと寝る”ことだ。心配事はいろいろあるだろうが、先のことを考えたら、疲れるだけだ。疲れて足が鈍るのが一番悪いぞ」
アルミスの肩を叩いてから、バーノルは笑みを浮かべ、クレイの胸の辺りをこづいた。黒い宝石の埋め込まれたあたりを。クレイははっと顔を上げる。バーノルはそれにウインクを返すと、部屋を出ていった。
アルミスとクレイはベッドに入る。クレイはアルミスに背を向けて、そっと胸に手をやる。
かすかに宝石の脈動を感じる。神と名乗るあの存在との契約の証。親指より一回り大きかった黒い宝石は、亀裂がつながり、さらに大きくなっていた。今は小さめの卵ほどだ。バーノルはこのことに気がついているのだろうか? アルミスには言えない、心配をさせるだけだ。
バーノルはたぶん、知っている。気づいてくれているのだ。そう考えるとクレイはかすかな安心感がわき上がってくる。魔法使いでないバーノルが何をしてくれるとも思えない。しかし、見ていてくれているというのはそれだけで力になる。味方がいるのだ。クレイは目を閉じる。無理にでも寝ておかなければならない。
第五章
1
乱暴にドアが開けられ、アルミスは飛び起きる。戸口をふさぐほどの大きな影。バーノルだ。
「ふたりとも起きろ、急げよ」
言葉に緊張がある。アルミスはとクレイは急いで上着を着て、靴をはく。
バーノルは窓を薄く開ける。
「まずいな」
クレイは背嚢を手に持って同じように窓を覗き込む。
松明が6本。炎に民兵の鎧が反射している。10人ほどいるだろうか。真夜中、こちらが寝ていることを見越してとらえるつもりなのだ。
「主人の話と違いますね」
クレイの言葉にはかすかに怒りがある。バーノルはクレイの肩に手を置いて、
「まあ本当のところはわからんが、ちゃんと役人にも顔が立つようになったな。こうでなきゃ宿屋の主人は勤まらないだろ。教えてくれてたぶんだけ、助かっている。弁当だってあるしな」
クレイは頷く。バーノルの言葉を聞いていれば何とかなるような気がしてくるから不思議だ。この戦士は、軽口をたたくことでパニックを押さえ、冷静に難局を切り抜けてきたのだ。
「とはいえ…」
ほんの一瞬、バーノルの顔に暗い影がよぎるが、それをうち払い、クレイの肩をつかむ。
「クレイ、お前、俺とアルミスを抱えて、飛べるか?」
声をあげたのは、アルミスだった。
「バーノルさん、それはクレイにあの力を使えということですか?」
「あいつらと戦うのはさけたい。クレイが変身したあの姿は、奴らの足をすくませるのに十分な派手さがある。おまけに飛んで逃げられれば、追う気にもならないだろう」
「でも……精霊で驚かすというのはどうですか? 空を飛ぶことはできないけど……」
「あの神官が何かを仕掛けてくる可能性がある。一発派手なのをかましておいた方がいい」
なおも言い募ろうとするアルミスをクレイが止める。クレイは、バーノルを見る。クレイの視線を受けてバーノルが頷く。
「いいんだアル。それに、あいつの力を知っておくのは必要だと思う。やってみるよ」
アルミスは言葉に詰まる。バーノルがクレイとアルミスの肩を抱き、一瞬力を込める。
「いくぞ、屋根の上に出る。そこから飛ぶんだ」
窓を大きく開けて、バーノルは身を乗り出す。隠しからナイフを取り出す。民兵たちの松明の照り返しを受けて、刃がきらりと光る。
ドンッ。
部屋に大きく響く音を立てて、バーノルは木の壁にナイフを深く突き刺す。そのまま窓の外に一気に身を躍らせた。再び大きな音が響く。ナイフを足がかりにして、今度は頭の上、屋根にもう一本を突き立てたのだ。
「よし、こい!」
屋根から逆さまにバーノルの顔が出て、たくましい腕がアルミス達に向けられる。
「え?」
アルミスは思わずためらう。
「何も考えず、俺の手につかまればいいんだよ! お前らみたいなやせ鳥の体なんざ、藁束と同じだ」
アルミスは思わず下を見る。宿屋の2階は意外に高い。地上は遠くにあって、不安が足をすくませる。それでも再びバーノルに促され、窓枠に足をかけ、バーノルの腕に両手で取りすがる。
アルミスの目の前でバーノルの腕がふくれあがり、血管が浮き出る。アルミスの体が、腕一本でつり上げられていく。
「屋根にしがみつけ」
その言葉とともに、屋根に押しつけられる。アルミスはあわててつかまるものを探し、上に上る。アルミスがいた場所に、クレイが来る。
落ちないように気をつけて、アルミスは屋根の上に立ち上がる。大きな月が出ていた。月明かりに照らされて、山の峰が浮かび上がっている。
「やります」
クレイの声に、アルミスは振り返る。
ゴウッ。
突風が吹き、アルミスは思わず屋根の上に手をつく。黒い色の付いた風がクレイの体に巻き付くのが見える。クレイの体は浮き上がり、黒い物質に覆われていく。
ギシッ。
屋根がきしむ。今では見慣れつつある黒い水晶人形がアルミスとバーノルの前にあらわれていた。
外が騒がしい。クレイの姿を見て、民兵達が騒いでいるのだ。
アルミスはその怪物の姿にかすかな違和感を感じる。こんなに皮膚がなめらかだったろうか? 筋肉や骨格がこれほどしっかりと、形作られていただろうか? そして…こんなに力強かっただろうか? アルミスの背に悪寒が走る。水晶人形でしかなかった怪物の不器用な姿が、変わっている。その姿はさらなる強力さと、恐ろしさを表面に出しつつあるように感じられる。
「どうだ、クレイ?」
バーノルの声に、怪物の頭が向けられる。顔に刻まれた三つの裂け目が広がり、赤い光がこぼれる。
『ええ、やってみます』
怪物の中からの声。クレイがちゃんと意識を保ち、怪物の力を使っている証拠だ。それなのに…アルミスは自問する。それなのに何故、自分の不安感は大きくなっていくのだろう、悲しさが増してくるのだろう?
「いくぞアルミス」
その声とともに、アルミスはバーノルの腕に抱え上げられる。彼女の体重など感じないかのように、力強く。アルミスはバーノルを見上げる。すぐ近くにある厳つい顔が、小さく頷いた。
「クレイはこの力とやっていこうとがんばっているんだ。お前が応援してやらなくてどうする?」
その言葉とともに、アルミスの体を抱く腕に軽く力が入った。アルミスはバーノルの腕の中から、クレイに声をかける。
「お願い、クレイ」
アルミスの言葉に怪物は頷き、両手を大きく天に向かって差し上げる。
ベリッ。左右の手が同時に大きく裂け、一瞬4本の腕になる。四本の内のふたつはそのまま高く差し上げられたまま、さらに天空にのびていく。さらにその腕がさけ、そこに黒い風が集まっていく。次の瞬間、月を覆うような、大きな黒い翼になった。
コウモリの翼だ。アルミスは確信する。あの猟鶏の特徴を、この怪物は兼ね備えているのだ。
建物の下から、驚きの声があがる。月光と松明に照らし出された異形の姿。それは人にとって、足をすくませるのに充分な異様な光景だった。
『行きます』
クレイの、声。バーノルはアルミスを抱き上げたまま、クレイに近づく。大きく、黒い腕がバーノルとアルミスを包み込む。怪物の腕は、アルミスの布で吊っている左腕に触れないように注意深く回されている。さの優しさにアルミスは、クレイを確かに感じる。アルミスは自分を押さえている怪物の腕に触れる。つるりとしたなめらかな感触と、不思議な柔らかさがある。予想していた冷たさや、硬質な感触はない。
アルミスは顔を上げる。怪物の目が、アルミスを見ていた。
『行くよ』
赤い、異質な目の光にも、クレイを感じる。アルミスはその目に向かって頷く。
ゴウッ。
翼が大きく振られ、すさまじい風が巻き起こる。天空に輝く月に向かって、クレイは上昇を開始する。
2
空気を、つかむ。自分の体を軽々と持ち上げる感覚。地上の松明が遠ざかる。視界が広がる。
素晴らしい。クレイの体に感動が満ちる。何という開放感、何という力。空を飛ぶ鳥は、この気持ちをわからないだろう。自らの足でそう速く走ることもできない人間ならではの快感だ。体の奥から、喜びの叫びがわき上がってくる。この声をあげれば、自分の中での快感が爆発する予感がある。それは自分の体が裂けてしまいそうな、魂が“叫び”と共に天へ上ってしまいそうな、しびれるような恐怖を含んだ予感だった。
その欲求のまま、クレイは怪物の頭を天に上げさせようとする。
「クレイ、この高さは何かあったらやばい。道に従って、地上すれすれを飛ぶんだ」
バーノルの声。クレイは自分が置かれている状況を改めて自覚する。そして、この強烈な力の欲求が自分のものであったかを自問し、恐れを感じる。一瞬自分は黒い宝石の中の者に支配されていたのではないだろうか? バーノルの声に従って、地上近くを滑空する。そのスピードが、再びクレイの心を麻痺させていく。
「む?」
バーノルは眉をひそめる。道の先ににひとつだけ灯りがある。松明にしては大きな炎。それに照らされているのは…。
「あの神官だ!」
バーノルの声に答えるかのように、目の前にせり上がる影。
それは、巨大な、土でできた手のひらだった。
ガツン。
巨大な手が、クレイの怪物の足をつかむ。その衝撃にバーノルとアルミスは、クレイの怪物の手の中から空中に放り出される。
「きゃぁぁっ」
アルミスの口から、押さえられない悲鳴が上がる。すごいスピードで迫る地面から目をそらすことができない。地面にぶつかる寸前、バーノルの腕が伸び、地面を叩いた。回る視界。体がきつく圧迫され、激しい振動が襲う。その回転が収まったとき、アルミスは自分が地上すれすれでたくましい腕に抱え上げられているのを知る。
「怪我はないか?」
ゆっくりと地面におろされる。見上げるアルミスの顔に滴。バーノルの血だ。顔を朱に染めたバーノルがアルミスをのぞき込んでいる。
「バーノルさん、血が!」
「大丈夫だ」
血を滴らせた凄惨な顔でバーノルは笑う。ごしごしと顔をこすり、首に巻いていた布をほどいて額に巻き、立ち上がる。右手にはいつの間に抜かれたのか、もう刀がある。
「すぐに立て、気をつけろよ」
その声に、アルミスは答えず、
「クレイ!」
大きく叫び、周りを見回した。
アルミスは、見る。巨大な、大木ほどもある土塊の巨人が、クレイの怪物をつり上げている。
「土巨人…」
それは、魔法使いであるアルミスですら目にしたことのない、強力な精霊だった。
土の巨人は、クレイの怪物の足をつかんだまま、大きく振り回し、一気に放り投げる。
「クレイっ!」
アルミスは悲鳴を上げる。クレイの怪物は大きく翼を広げ、投げられたエネルギーを殺し、空中に静止する。その体に土の巨人は手を伸ばす。腕が長く、鋭く変形し、怪物の体に迫る。
クレイの怪物は土の巨人に応えるように、迫ってくる土の槍に向かって右手を突き出す。その手は無数の触手に分裂し、土の槍にからみつく。
土の巨人が身じろぎする。怪物の触手に触れられた土巨人の腕が黒く変色していく。変色は面積を広げ、腕を上っていく。
『手を切り離せ!』
土の巨人の背後から、声があがる。あの神官だ。彼が差し上げた両手の先には、虹色の輝きを放つ大きな玉が抱えられていた。
神官の精霊語の命令に応えるように、玉の七色の光が増す。それと同時に、土の巨人が自分の腕に左手をたたきつけ、切断する。
クレイの怪物の右手は、大きくふくらんでいる。地の巨人の切り落とされた腕を吸収しているのだ。怪物の体が一回り大きくなる。
『立ち上がれ! 奴に触られないようにするんだ』
神官が再び光の玉を振る。土の巨人は左手を地面に突き刺す。土巨人の体が大きく震えるとともに、失われた腕が復活する。
クレイの怪物は地上に降り立つ。手も地面につき、4つ足で土巨人の方へ走る。
土巨人は復活した右手を地面に差し込む。地面に触れた部分から、土巨人の皮膚が変化していく。土塊の皮膚が、白く、硬質な結晶に覆われていく。
クレイの怪物は脚をたわめ、一気に跳躍する。土巨人は白く変わった腕を再び槍のように変形させ、怪物に突き出す。クレイの怪物は再び手を触手状に変化させ、もう一度土の巨人の腕を取り込もうとする。
巻き付こうとするクレイの怪物の腕が、白い結晶にはじかれた。土巨人の槍のような腕は、怪物の腕を引き裂き、そのままクレイの怪物の身体をえぐり、左腕ごともぎ取った。怪物は苦痛の絶叫を上げながら地に落ちる。
よろよろと起きあがったクレイの怪物に、土巨人は再び白い腕を伸ばす。怪物は残った右腕を平たく、盾のように変化させる。
ドォン。
大きな音ともに怪物の体が吹っ飛ぶ。何本もの若木をへし折り、巨木の幹にたたきつけられる。
ガハッ。
クレイの怪物の大きく裂けた口から、鮮血がこぼれる。
「クレイっ!」
「馬鹿、危ない!」
怪物に、クレイに駆け寄ろうとして、アルミスはバーノルに押さえられる。バーノルを突き飛ばそうと、アルミスはもがく。
口から血を滴らせながら、怪物が立ち上がる。クレイの怪物の脚がガクガクとふるえている。もう一度血を吐き、かたわらの大木にもたれかかる。
土の巨人は、ゆっくりと怪物に近づこうとして、止まる。
クレイの怪物が寄りかかっている大木が黒く変色していく。怪物がふれている部分から、大木が溶け崩れるように変化している。怪物の身体からにじみ出す黒い色は、幹を染め、枝をかけあがり、瞬く間に木の先端に達した。次の瞬間大木は、黒い霧として完全に分解した。その霧は渦を巻き、一気にクレイの怪物の体に流れ込んでいく。
「なんだ、あれは…」
アルミスはバーノルのつぶやきを聞いた。魔法使いである彼女にさえ信じられない光景が目の前で展開されていた。クレイの怪物は大木を“食った”のだ。
クレイの怪物の体がふくれあがっていく。今や、土の巨人と肩を並べるほどに大きい。千切られたはずの左半身は完全に再生していた。
クレイの怪物の邪悪な赤い三つの目が、土巨人を見る。そして、大きく顎が開いた。
「ガァァァッ!」
地の底から響いてくるような、クレイの怪物の声。その叫びとともに、怪物の体のあちこちから触手が現れ、土巨人に向けて伸びていく。
まっすぐ伸びた怪物のいくつもの腕は土巨人の皮膚にはじかれるが、再び力を取り戻すと、土巨人の身体に巻き付いていく。
土巨人が腰を落とす。怪物は地面に足を突き刺す。怪物の体が大きくふくれあがり、触手がぴんと伸ばされる。怪物と土巨人の間で、地面全体が揺れるようなすさまじい力比べがはじまる。
やがて……。
ビキッ。
土巨人の皮膚が割れる。
「何だと?」
神官の叫びが合図だったように、亀裂が一気に拡がる。怪物の触手の締め付けによって土巨人の身体は粉々にされ、地面にばらまかれる。
「やった!」
バーノルは歓声を上げる。
しかし、次の瞬間、
「気をつけろ、クレイ! まだだ!」
バーノルの鍛え上げた目は、地面に吸い込まれていく土巨人の破片を見ていた。土巨人は力を失っていない!
クレイの怪物の足下に、大きな裂け目ができる。その裂け目の縁に巨大な“歯”が並んでいるのをバーノルは見た。怪物を飲み込んだものは、巨大な口であった。
鋭く巨大な歯が、クレイの怪物の体に突き刺さる。怪物は口を大きく開け、苦痛の叫びをあげる。さらに口の奥からのびた舌がクレイの怪物の体に巻き付き、そのまま地の下に怪物の体を引きずり込んだ。怪物の体は完全に地面の下に没する。
「クレイっっ!」
アルミスが悲鳴を上げる。
その声に応えるかのように、地面を突き破って、ふたつの触手があらわれる。それが見る見るうちに翼に変化し、大きく振られる。怪物の体が、再びあらわれる。その体に、土の土巨人が取りすがっている。
ふたつの巨大な力は、激しくぶつかり合い、大木をへし折りながら森の奥へ移動していく。
3
「クレイ、アースジャイアントは地面に足をつけている限り、何度でもよみがえるわ! 土巨人の体を地面から引き剥がして!」
アルミスが叫ぶ。
「黙れ!」
神官が玉を振り上げ、アルミスに向ける。土の土巨人が、アルミスに向けて腕を伸ばす。迎え撃ったのは、バーノルの刀だった。彼の刃がふれると、精霊の腕はその力を失い、ただの土塊と化す。
さらに怪物が土巨人を押し倒し、立ちはだかる。
バーノルの背後からアルミスは声をかける。
「土の巨人はあんなに狡猾な戦い方をできるとは思えません。神官が知恵を貸しているんです。きっと、あの玉で!」
「よし!」
バーノルは返事と同時に神官に向かってナイフを投げる
すさまじい速度で一直線に迫る投げナイフ。しかし、それは神官に届く前に透明な壁にぶつかったかのようにはじかれる。
「魔法の障壁か」
バーノルは舌打ちをする。
神官はバーノル達に向かって嘲笑を浮かべ、土の巨人に向き直る。
バーノルは刀を、へし折られ地面に落ちた大木に振り下ろす。枝を切り落とし、あっという間に“丸太”を作ると、肩に担ぎ上げ、神官に向かって突進する。
「うぉぉぉぉっっ!」
バーノルの叫びに振り向いた神官の顔が引きつる。大きな丸太を担いだ大男がこちらに突進してくる!
ガツン
魔法の障壁に叩きつけたれた丸太の先端部分が砕ける。丸太は神官に触れることはなかったが、衝撃で神官は引き倒される。抱えていた玉が地面に落ち、転がる。
同時に、土の巨人の動きが止まる。
クレイの怪物は、捕まれていた土巨人の腕をふりほどくと、翼を広げ、土巨人に背を向けた。翼を打ち振るい、一気に上昇し、あらぬ方向に向かって猛スピードで進む。
神官は地面をはいずり玉を握る。
『あいつを追うんだ!』
アルミスもクレイを追って、走る。
「どこに行くの? 何をするつもりなの?」
悲鳴のような甲高い声で、アルミスは叫ぶ。嫌な予感が、彼女の胸にこみ上げる。
刀を構えていた神官の出方をうかがっていたバーノルも、じりじりと後ろに下がってから、二人の後を追う。
もっと、もっと力を!
土巨人と戦いながら、クレイは焦っていた。土巨人の力は底なしのように思えた。反対にクレイの方は疲労が濃くなっていく。大木を吸収したときに得た力が、どんどん失われていく。
不意に、力を得る方法をひらめいた。土巨人が動きを止めた瞬間を見計らい、空に逃げる。背後に、ほのかな明かりが見える。宿場町の灯だ。クレイはその明かりを目指して翼を振る。
町は騒然としていた。宿屋に現れた“怪物”のために非番を含めたすべての民兵が集められた。街の外から響いてくる破砕音も彼らの心を焦らせた。とにかく、音の調査に誰か、と話し合っているときに、それは再び現れた。
巨大な翼を振る、真っ黒な怪物。
クレイは、上空から自分を見上げる民兵達を見る。まだ光が少ない、もっと集めるためには……。
民兵達は怪物の胸が大きくふくらむのを見た。
ゴウッ。
怪物の口から放たれた緑の炎が宿場町のシンボルであるトチノキに浴びせかけられる。
「か、火事だぁっ!」
民兵の中の誰かが叫ぶ。広場に面した建物の窓が一斉に開き、多くの人々が家から飛び出してくる。そして彼らすべてが目撃する。炎に照らされた黒い怪物の姿を。
人々が集まってくる。クレイには彼らに重なって見えるオレンジ色の光が見える。なんと心地よい光だ。クレイは村人達を、彼ら放つ光を見つめる。この光をもっと強くしたい。クレイは顔を上げ、天に向かって大きく叫ぶ。
「ガアァァァァッッ!」
力に流される恐怖、自分が何か別なものにかに変わってしまうかもしれない不安、人々を利用している罪悪感、クレイの心のどこかに残るそんなためらいは、その叫びと共に消え去る。
邪悪で、力に満ち、人々の魂に恐怖を食い込ませる咆哮。
パニックが起きた。
広場に出てきた人々が蜘蛛の子を散らすように逃げる。
その混乱は瞬く間に宿場町全体に広がり、悲鳴と喧噪が町を覆い尽くしていく。
町の人々から放たれるオレンジ色の光がクレイの視界全体に広がる。その光は今や炎のように町全体に広がっている。胸の宝石が大きく強く脈打つ。人々が放つオレンジの光、“恐怖”のエネルギーが宝石を通じてなだれ込んでくる。あまりのエネルギーの強さに身体が爆発しそうだ。その恐怖すら、快感に変わる。
クレイを追い、町に駆け込んできたアルミスは見た。
燃えさかる炎を背に、咆哮するクレイの姿を。
違う。
違う!
アルミスは必死に否定の言葉を叫ぶ。何を? あの叫び声を上げているのはクレイだ。怪物に操られているのではない。それがわかる。私はこんな事を望んでいない。何よりも、クレイに変わって欲しくない。
ドォン!
すさまじい破砕音と共に、アルミスのすぐそばにあった町の門を粉々にして、アースジャイアントがクレイに向かっていく。
その勢いに吹き飛ばされたアルミスは、バーノルに抱き留められる。
「大丈夫か?」
バーノルの問いにも答えず、アルミスはクレイの姿を探す。
土巨人は建物を破壊しながら怪物に迫る。町の人々の悲鳴が大きくなる。大木の炎が燃え移ったのか、町のそこかしこで火の手が上がっている。
その怒号と混乱のど真ん中で土巨人とクレイの怪物が再びぶつかる。
「グァアアッッ!」
大きな怪物の咆哮に、一瞬人々は動きを止め、そして見る。
今や土巨人を上回る巨大な身体を獲得した怪物が、二本の手で土巨人を持ち上げている! 土巨人は手足を振り回し、怪物の手から逃れようとする。
グァン。
土巨人の腕や足がすさまじい勢いで怪物の身体にぶつかるが、怪物は微動だにしない。巨大な異形のぶつかり合いはすべての人を呪縛し、魅了していた。
「つ、土の色が!」
人混みの中から、誰かが叫んだ。掘り返されたばかりの、黒々とした土の色をしていた土巨人の肌が、乾き、ひび割れ、砂に変わって崩れていく。アースジャイアントは、力の源である大地から引きはがされると、瞬く間に力を失う。やがて土巨人の手足の動きは緩慢になり、力を失った。その瞬間、完全に砂に変わり、身体全体が崩壊した。
「ギャアアーッ」
人がこんな声を出せるのかという、恐ろしい悲鳴に人々は振り返る。
神官が立っていた。頭を抱え、空を見上げている神官の顔は、完全に正気を失っており、醜く歪んでいる。光を失った玉が足下に転がっていた。
「アースジャイアントとの“繋がり”を強制的に切られたんだわ……あの人の心もまた、失われてしまった」
震える声で、アルミスはささやく。
怪物が歩き出し、人々は再び後ずさる。
神官に近付こうとする怪物の前にアルミスは飛び出す。
「クレイ、もう充分よ、行きましょう」
言いたいこと、叫びたいことはたくさんあった。しかし、何も出てこなかった。
アルミスの傍らにバーノルが立つ。
怪物の頭が頷く。二人に手を伸ばし、抱きとめると、翼を広げ、飛び立つ。
天空で、クレイはもう一度大きく咆哮した。
勝利と、歓喜の雄叫び。
アルミスはその声に身体を震わせる。哀しみだけが胸を覆っていた。暖かい、強い手が一度だけ、強くアルミスを抱きしめた。振り返ったアルミスの眼をバーノルが見つめ返す。アルミスは怪物とバーノル二人の手の中で、声を上げずに泣いた。
神の帰還2に続く