神の帰還 2
第六章
1
宿場町の夜から十数日が経過した。一行は、背の国最大の港町・マナに到着していた。ここから海路を使って、根の国に行くことになる。
3人は当初予定していた大きな街道からマナに向かうのをやめ、国境地帯を縫うように細い街道を使い、道を進んだ。
宿場町で目をつけられていたことの警戒のためだが、人の少ないところを進もうというのは、アルミスの強い希望だった。
宿場町で町の人々を巻き添えにしたクレイの戦いを、アルミスは強く責めた。クレイもまた、それに反論はしなかった。
クレイ自身、あの戦いに関しては、自分の意志と、胸の中の者の意志、そのどちらが働いたのか、確信が持てないと、つぶやくように言った。この十日間、アルミスとクレイの関係はずっとぎくしゃくしていた。特にクレイは自分の考えに沈み込むことも多かった。
夜、アルミスは時々、クレイが小さな笑みを浮かべているのを見た。手をゆっくりと握り、眼はどこでもない虚空に注がれている。それでいながら、時に眼に不安を宿らせてアルミスを見るのだ。
「どうしたの? 何を考えているの?」
アルミスは何度その声を出そうとして止めただろう。クレイは何も話してくれない。自分もまた、きつく問いかけられない。自分が本音をぶつけてしまったら、クレイの心が、二人の関係が壊れてしまいそうだ。こんな苦しいことは初めてだった。
クレイの胸に潜む、あの存在は一体何なのだろう。クレイは断片的にしかそのことを話してくれない。あの存在は、「恐怖」を糧としてその力を増すという。人間が放つ恐怖は“オレンジ色の光”としてクレイの目に見える。その光が増すほど、より大きな力がなだれ込んでくるという。
クレイ自身が、恐怖を求めるその存在に恐れを懐いていることは明らかだ。しかし、強く魅了されてもいる。変身したときの体験を話す時の、クレイの熱に浮かされたような目の光。そして誇らしげな声。
バーノルは「男なら誰でも自分の力が大きくなれば少しくらいおかしくなる」とはいってくれる。しかし、バーノルの目の中にも懸念の光があるのをアルミスは知っている。アルミスにも、クレイ自身にもわからない、はっきりと邪悪さを感じさせる魔法の力、どうすればいいのだろう。
バーノルにはそれとは別にもう一つ大きな懸念があるとアルミスとクレイに教えてくれた。それは、“噂”だ。黒い、巨大な怪物が東の宿場町を燃やしたと、その噂が信じられないスピードで広がっている。森の中での凶猟鶏の戦い、三人の他、誰も見たことのない戦いまでその噂には加わっていた。酒場での人々の話題、昼間の井戸端会議でも、駅馬車の中でも声高に怪物の噂が話されていた。
この時代、こんな速さ、正確さでは噂は伝播しないと、バーノルは語った。
しかも、不思議なことに、魔法使いの子供達や(巡礼者の格好はしているが)、大きな体の戦士はその噂には登場しないのだ。誰かが意図的に、黒い怪物への恐怖、それだけを巧妙にあおっているのだという。
これは、どういう事なのだろう。
あの宿場町での神官と民兵。地方の神官があんな強力なアースジャイアントなど用意できるわけがない。あれは“中央”ですらそう多くはいない、大魔法使いの一人だとバーノルはアルミスとクレイに説明してくれた。「神殿」の人間達は特別な魔法でお互いに連絡を取り、さらに特別な魔法の移動手段を持っているという。“魔法”の力がなければ、クレイとアルミスの位置がわかっているような手を打てないだろう。
「今回の噂の伝播にも、不自然な、“魔法”の匂いがある」バーノルは呟くようにアルミスに語った。しかし、そうなると、今までのような直接的な手段ではなく、噂を使って人々をあおるような事をしているのは何故なのか。
わからない。
アルミスはそのバーノルの心配事を考えすぎだとは言い切れなかった。アルミスはもう一つ大きな不安を抱えていた。クレイは、自分の噂にどのような感想を持っているか、わからないところがあるのだ。クレイの怪物は恐怖を食べて大きくなる。多くの人が黒い怪物に恐れを抱くこの状況を、ひょっとしてクレイは喜んでいるのではないか、そう考えるとあるミスの胸は不安にうずいた。
バーノルの心配が確信に変わったのは、マナに到着してからだ。根の国に行くためには、この街から海路を使うしかない。その港が、封鎖されていた。根の国からフォゴルの神官戦士の一団を乗せた「羽ばたく船」が三日前にやってきたのだという。
マナは大混乱に陥った。街の噂によればマナを守る背の国の軍は不満を持ちながらも、静観の構えを取っている。羽ばたく船は現在、港の真ん中で町全体を威嚇するように停泊している。
このような暴挙は、背の国が精霊信仰から、フォゴルを国教とするに至った十年前の戦争以来だ。町は押し殺したフォゴルへの恐怖と不満が充満していた。
バーノルが特に注目しているのが、今回の神官戦士の一行は「大神官アグン」に率いられていると言う噂だ。根の国の最重要人物といえる人間が、例え実質的な支配の形にあるという国とはいえ、少人数でやってくるなどという事態はあり得ない。しかも下町の船宿のうわさ話にすらそれが広まっている。明らかに非常識だ。
アルミスはアグンがやってきたこと、クレイの力が無関係でないことを感じていた。宿場町で彼らを捕らえようとしたのはフォゴルの神官だった。そして、アルミスの父であり、クレイの師であるボドルフは根の国の魔法の中枢にいた人物だ。何か、大きな陰謀が動いている。アルミスの考えにバーノルは同意してくれた。
マナに到着してから2日、足止めをされたことで、どうしても色々なことを考えてしまう。アルミスは自分特例を取り囲むような罠と、クレイへの不安で心が沈んでいくのを抑えきれなかった。
2
宿屋のバーノルの部屋に深夜、小さなノックの音がする。
バーノルは目を開ける。
「何だ?」
声に警戒は混ぜない。多分、ノックの主は……。
「……私です」
消え入りそうな、アルミスの声。バーノルはゆっくりとドアを開ける。
アルミスが真っ赤な目でバーノルを見上げる。ずいぶん迷ったのだろう。まだ物腰にためらいがある。
バーノルはアルミスを部屋に招き入れ、自分はベッドに腰掛け、アルミスに椅子をすすめる。
「どうした?」
アルミスは椅子に目を向けてから窓に移動する。木戸を開けると、夜の冷たい風が部屋に入ってくる。潮の匂いが濃い。
「どうしたんだよ、アルミス?」
わざと声に軽い調子を混ぜて、もう一度聞く。
アルミスは窓の外を見つめる。バーノルの方を見てから窓の方に向き直り、独り言のように、
「バーノルさん、私達があの山奥に帰りたいと言ったら、一緒に来て……くれますか?」
「……」
アルミスが振り返る。唇を引き結び、じっとバーノルを見つめる。
「クレイと話し合ったのか?」
小さく首を振るアルミス。そのまま下を向いてしまう。
「アルミス?」
うつむいたアルミスの顔から、ぽたり、ぽたりと涙が落ちる。
「お、おい?」
腰を浮かせたバーノルの胸にアルミスが飛び込んでくる。アルミスの肩が震え、押し殺した鳴き声が漏れてくる。バーノルはぎこちなくアルミスの肩を抱く。
「助けて、バーノルさん、助けてください! 私はどうすればいいんですか」
アルミスはバーノルの腕の中で、バーノルを見上げる。涙をこぼし、顔をくしゃくしゃにしているアルミスは、いつもよりずっと幼く見える。
「クレイがどうなっているのか、何を望んでいるのか、私にはわからない。このまま旅を続けていたら、きっともっと良くないことが起こる。そんな気持ちだけが大きくなっていくんです」
「アルミス……」
「お父様のことだってそう。私、村から出てすぐお父様が助けてくれるものだと信じていた。とにかく、何とか連絡は取れる、消息はつかめると。それなのにもう20日近くもたつのに手がかりもつかめない。このまま根の国に行って、どうなるの? お父様はどうなったの?」
いつものアルミスとは思えない取り乱しぶりだった。アルミスはバーノルの服を両手でぎゅっとつかみ、揺さぶる。
「クレイと私、これからどうなるんですか? どうすればいいんですか?」
今や声を抑えることをせず、アルミスはバーノルの胸に頬を当て、泣きじゃくる。バーノルはただ、アルミスの震える肩を優しい力で抱いた。
ほんの少しだけ、時間が過ぎた。
「落ち着いたか、アルミス?」
ささやくような、バーノルの声。アルミスは自分がバーノルに力一杯抱きついていることを急に自覚したようだった。顔を赤くしてあわてて身を離そうとするのを、バーノルは強い力で引き留めた。息がつまるような強い、しかし優しい力でアルミスは抱きしめられる。アルミスはバーノルを見上げる。
「バーノルさん?」
アルミスの声が呟くように自分の名前を呼ぶ。バーノルは自分の胸が高鳴るのを感じた。自分でもびっくりするほどの優しい声で、ささやく。その声に、急に自分の中でアルミスの存在が大きくなった。自分の心を止めることはもうできなかった。
「これからどうなるか、何が起こるか、俺にもわからない。」
そういってから、アルミスの肩を手でつかみ、わずかに身体を離してアルミスの眼を正面から見つめる。
「だが、約束する。俺が守ってやる」
アルミスの涙に濡れた目が大きく開かれる。
「え……」
「俺が、必ず、守ってやる」
アルミスの身体の力が抜ける。涙が再び溢れる。膝の力が抜け、座り込みそうになるのを背に回されたバーノルの手が、優しく、しっかりとアルミスを支えた。アルミスがおずおずと手を伸ばし、バーノルの身体に回すのを感じた。自分の胸に柔らかなアルミスのほほが押しつけられた。自分の鼓動が聞かれているだろうか、とバーノルは思う。
3
アルミスは、今までにない心の安らぎを感じていた。もう一人で悩まなくていいのだ。バーノルの強い力を感じながら、想う。
バーノルが見つめている。優しい眼だ。アルミスはバーノルの眼を正面から見つめ返してから、ゆっくりと目を閉じる。一瞬だけバーノルがためらう気配がする。そして、アルミスの唇に、乾いたバーノルの唇が重ねられた。
バーノルの、匂い。アルミスは自分の込められる限りの力で、バーノルを抱きしめる。
ガタン。
物音に、二人は目を開く。
開け放たれた戸口に、クレイが立っていた。
「クレイ……」
アルミスがバーノルの腕の中で振り返る。クレイは目を大きく見開いて、立ったままだ。
バーノルがアルミスの身体から手を離す。アルミスがクレイの方へ足を踏み出すと、クレイははっきりと身をひいた。身体がかすかに震えている。
クレイは後ろを向くと、走り出す。次の瞬間、戸口で大きな音がする。クレイが廊下に倒れ込んでしまったのだ。
「クレイ!」
アルミスは扉に駆け寄る。戸口のすぐそばに、うずくまっているクレイが見える。アルミスは、ゆっくりとクレイに近付く。
クレイが振り返る。その顔が黒い光に照らされているのをアルミスは見る。クレイの胸の宝石が、黒い光を放っている。
「うわぁぁぁっっ!」
胸をかきむしるクレイ。
ゴウッ。
クレイの胸から吹き出した黒い竜巻がクレイを覆う。その竜巻が一瞬割れて、クレイの顔が見えた。クレイは必死の表情でアルミスに向かって叫んだ。
「アル、バーノルさん、逃げてっ!」
クレイの顔は、叫びは、再び黒い竜巻に包まれていく。
アルミスは呆然と立ちすくむ。不意に強い力で抱きかかえられた。バーノルがアルミスを抱え上げ、走る。アルミスは、宿屋の壁を、屋根を壊しながら黒い竜巻が大きくなっていくのを見る。
バーノルは、アルミスを抱いたまま窓から身を躍らせる。宿の一階のひさしをつかみ、落下の速度を殺して着地する。二人とも部屋着のままだ。
「グオォォッッ!」
屋根を突き破り、クレイの怪物が出現する。天空に向かって腕を差し上げ、大きな雄叫びを上げる。辺りが騒然となる。
「なんだあれは!」
「ば、化け物だ!」
悲鳴と、叫び声。
怪物はゆっくり周りを見回す。そして……アルミスとバーノルを見つけた。
「ガアァァッッ!」
怪物が宿屋の2階から飛び降りる。バーノルは再びアルミスを抱えて、走る。宿屋周辺の路地は狭い。建物を破壊しながらクレイの怪物は二人を追う。
バーノルは建物の影にアルミスを放り投げると振り返り、怪物と対峙する。両手を大きく広げ、足に力を込める。
つかみかかってくる怪物の手をかわし、バーノルは渾身の力を込めて迫ってきた怪物の顔に拳をぶつけた。
ガツン。
怪物が大きく姿勢を崩す。さらにバーノルは足を振り回し、怪物の頭を蹴る。そのすさまじい衝撃に怪物が地面に叩きつけられる。
肩で息をするバーノル。
仰向けになった怪物がバネ仕掛けのように跳ね上がる。そのスピードのまま再びバーノルに手を突き出す。かわすことのできないバーノルは手を胸の前で十字にしてブロックする。
ものすごい衝撃、バーノルは高く吹っ飛ばされ、建物の屋根に叩きつけられる。
怪物は翼を広げ、空に飛び上がる。怪物は屋根の上で頭を振り、うめき声を上げるバーノルを見下ろす。眼があった瞬間、怪物はバーノルめがけて突進してきた。
バーノルはすんでの所で身をかわす。怪物はそのまま建物を壊しながら、落下する。大きく開いた穴にバーノルも落ちかけるが、裂け目にしがみつき、身体を振って屋根の上に戻る。そのまま、隣の屋根に飛び移り、走る。再び翼を振るい、空を飛ぶ怪物がバーノルを追う。
グオウッ!
怪物から放たれた炎がバーノルに迫る。バーノルは次々と屋根に飛び移りながら炎をかわす。再び怪物が身体ごとバーノルに向かう。バーノルはとんぼを切って地面に着地する。建物の破片をまき散らしながら落下した怪物はバーノルを追おうと、破片の中でもがく。
バーノルは崩れた建物から柱を抜き取る。両手の筋肉がぐうっと盛り上がる。
「うおおおっ!」
渾身の力で怪物に向かって振り下ろす。
グワン。
柱が粉々になる。姿勢を崩した怪物の身体を駆け上り、バーノルは怪物の顔面をに拳をたたき込んだ。怪物の顔が大きく歪む。
「クレイっ! 正気を取り戻せ、元に戻れよっ!」
1回、2回と拳を振るう。
怪物の目が輝く。その巨大な手の平にバーノルを挟み込み、押しつぶそうとする。
「がぁぁぁっっ!」
叫び声を上げ、四肢に力を込めてバーノルは怪物の力に対抗する。
4
「クレイ、クレイっ!」
アルミスは逃げまどう人の流れに逆らい、もみくちゃにされながらバーノルとクレイを追いかける。涙で目の前がかすむ。何度も涙をぬぐいながらアルミスは二人の姿を探す。
バーノルの叫び声。
アルミスは、クレイの怪物がその巨大な手でバーノルをつぶそうとしているのを見る。
「やめて、お願い、やめてクレイ!」
叫んで駆け寄ろうとする。
その時。上空から降り注ぐ何本もの光の矢がクレイの怪物の身体を貫いた。
「ガアアアッ!」
怪物は苦悶の声を上げる。バーノルへの圧搾がゆるむ。バーノルが怪物の腕から逃れた瞬間、再び光の矢の雨が降り注ぐ。穴だらけになるクレイの身体。
クレイの怪物はゆっくりと上空を振り仰ぐ。怪物の身体の穴はシュウシュウと音を立て、ふさがっていく。
アルミスは空を見上げる。下界の炎に照らされて、何体もの金属の鳥が飛んでいるのが見える。大きい。子馬ほどの胴体に、何倍もの巨大な羽がついている。胴体には鞍がついていて、真っ赤に輝く穂先を持つ槍を構えた男達がまたがっている。男達の鎧は鋭いとげが生えていて、兜は威嚇する悪鬼の顔の形をしている。
「神官戦士の“黄金鳥”だ」
町の誰かが叫ぶ。根の国の、フォゴルの神殿が使役している混沌の生物、「黄金鳥」。実物は金色と言うよりはくすんだ銅に近い色なのだが、フォゴル神殿がその名を広めた。金属にしか見えない翼がしなやかに羽ばたくその異様な姿は、自然界の獣では決してない、異世界から呼び出された混沌生物だ。
騎手は火の精霊を封じた宝石から灼熱の熱線を出す“火炎槍”を持つ神官戦士だ。彼らは上位神官のように精霊を操る能力を持たず、厳密には魔法使いではないが、見る者に恐怖を与える魔法をかけられた鎧と、火炎槍を持ち、黄金鳥の扱いに長ける。彼らの姿は無知な人々に“魔法”の実在と、恐ろしさを植え付ける。彼らはフォゴルの、根の国の力の象徴なのだった。
今、神官戦士を乗せた黄金鳥はクレイの周りを囲むように旋回していた。自分たちの火炎槍の威力をじっと観察している。
バッ。
怪物は翼を広げる。3つの眼が、溢れんばかりの憎悪をたたえて黄金鳥たちをにらんでいる。空に向かって炎をはき、黄金鳥の陣形が乱れたところを一気に舞い上がる。神官戦士達は黄金鳥を操り、向かってくる怪物をかわし、背後の戦士が怪物を射抜く。威嚇の叫び声を上げる怪物。黄金鳥たちは巧妙にクレイをある方向に誘導していく。
「バーノルさん!」
アルミスはクレイから逃れ道に横たわるバーノルに駆け寄る。バーノルは体を震わせながらゆっくりと立ち上がった。クレイの押しつぶす力に対抗し、四肢に力を込めすぎてまだガクガクとしている。
そのバーノルの前にアルミスが立つ。アルミスは胸に手を当て、涙を流し、叫ぶ。
「私、クレイを傷つけてしまった。こんなことが起きたのは私のせい!」
なおも叫ぼうとするアルミスの頬を、バーノルが叩いた。頬に手を当て、アルミスは大きく目を見開く。
バーノルは眼に強い光をたたえて、アルミスに顔を近づける。
「クレイを信じないでどうする? あいつはあの時、『逃げて』と俺たちに言った。今のあの怪物が暴れているのは、あいつが望んでの事じゃない。アルミス、お前はあのクレイの叫びを信じろ!」
「バーノルさん……」
「まずはクレイを助けよう。いろいろ考えるのはそれからだ」
アルミスは涙を拭いて、ゆっくりと頷く。バーノルはアルミスの肩に手を置く。アルミスはそっとバーノルの手に自分の手を重ねた。
「とりあえず、崩れてしまった宿屋から俺たちの持ち物を探し出す。それからすぐにクレイを追うぞ」
「はい!」
アルミスとバーノルは走り出す。
第七章
1
「怪物がこちらに来ます!」
緊張した報告を聞き、根の国の主神である混沌の4大神の一柱・フォゴルをあがめる大神官アグンは口の端で小さく笑う。
手に持った錫杖を大きく上に上げ、高らかに宣言する。
「『羽ばたく船』を浮上させる。そして発掘した“法の溶解器”で怪物を倒すのだ!」
アグンが立っているのは根の国が誇る“魔法”の象徴たる「羽ばたく船」の甲板である。アグンの前には直属の上級神官数名を先頭に、魔法技術者達と、この船を操る魔術師、そして神官戦士達が規則正しく整列している。
「勝利を我が神に! フォゴルに栄光あれ!」
「フォゴルに栄光あれ!」
全員が唱和する。アグンの背に戦慄が走る。
船の側面から生えた3対の巨大な半透明の翼によって移動する羽ばたく船。帆を持たず、河川で使われる平船の形をしているこの乗り物は、船自身に封印された強大な風の精霊「竜巻の主」の魔法力で空中を移動する。この乗り物は“船”としては小型で、人員や物資を多くは運べないが、これを見る人々へ“魔法”の存在を強く印象づける。南の大陸で発掘されて以来、大神官と直属の上級神官を運ぶ船として活躍している。
現在、羽ばたく船の甲板の前方に巨大な“機械”が設置されていた。細かいルーン文字が描き込まれた四角い箱の上に漏斗のように広がるパイプが前に伸びている。芦国の大湿原で発掘場所に大事故を起こさせた、亜人が使ったと思われるあの“箱”である。その能力からこの機械は「溶解器」と名付けられた。
上位精霊を扱う力を持った神官、20騎の黄金鳥と神官戦士、通常の戦闘では小数しか投入しない彼らをあえて集結させ、さらに羽ばたく船によって溶解器まで運ばせたのは、アグンが考えうる最大の“デモンストレーション”だった。溶解器のそばでの神託から2年、アグンはこのために準備をしてきた。
“悪魔を打ち倒す神軍”この場面を人々の記憶に刻み、そして大きく喧伝する。巨大な魔法力のぶつかり合いは百年の間吟遊詩人に語り継がれることになるだろう。神話世界を現代によみがえらせることこそ、アグンの目的だった。そのストーリーは人々を魅了し、瞬く間にこの世界に広がっていくに違いない。根の国のフォゴルの大神殿は世界の中心として文明世界にその名を轟かせることになる。
「根の国に行け」と、クレイとアルミスをおびき寄せる計画を考えたのもアグンである。フォゴル神殿と、アグンの力に対抗しようと画策する勢力に協力しているのがボドルフであることをアグンは知ったのはつい最近だ。アグンはボドルフの弱点である、彼の娘と弟子を捕らえ、人質にするだけの作戦を立てた。しかし、クレイが呼び出した“あの存在”を眼にしたとき、アグンはかねてから待ちわびていた時が来たことを確信した。
溶解器を手に入れた時に現れた謎の青年が告げた「恐怖」、それは国王派のクーデターではなく、“魔法”を体現する邪悪な存在であることを直感したのだ。
宿場町でのクレイの怪物の姿も、部下の神官の目を通じてアグンは目撃していた。街のシンボルである巨木を燃やし天空に向かって叫ぶ怪物。上級神官でも扱える者の少ない地霊の主を2本の腕でつり上げ粉々にしてしまったあの怪物の力は、アグンの予想を超えていた。しかし、その強大さこそアグンが直々に魔法の軍勢を率い、倒すべき存在である事を証明していると、アグンには思えた。
“情報”の広がり方も今回の怪物で試したものだった。神官の間で使うことができる“遠話”の魔法を使い情報を与えさせ、さらに「ささやくもの」と名付けられた“夢魔”を使い、吟遊詩人など霊感の強い人々の精神に働きかける。彼らはうわさ話から伝わるわずかな情報で怪物の恐怖の物語を作り出し、広めた。今回の恐怖の伝播は、仕掛けたアグンですら驚くスピードと規模で広がった。
この「情報の伝わり方」もアグンの行動に自信を与えた。神人の存在がすでに伝説になって長い時が過ぎた。現在の人々の多くは、魔法生物や魔法の存在に触れることすらなく一生を終える。
「悪魔」が存在し、そして姿を現すという夢物語のような情報が、魔法の力を借りたとはいえ、これほど容易に広まるというのはアグンの予想を遙かに上回っていた。ここ数年、「魔法」への関心は、まさにアグンとフォゴルの神殿が人々に刻みつけていたものであった。周辺国もそれに呼応し神人達の遺跡の発掘が盛んになり始めている。
「神話時代の復活」は現在、根の国を中心とした“文明国”の人々が予感として持っていることを、アグンはこの遠征で知った。人々はかつての神人の様に魔法を使う人間の姿を認め始め、そしてより強大な存在を恐怖を持ちながらも期待している。小さな噂が大きな時代のうねりに呼応していく。「時の力」ともいうべきものをアグンははっきりと感じていた。
バサリ。
船の両側面で半透明の翼がふるえ、海水を叩く。激しいしぶきを上げながら船が浮上する。大きな振動をアグンは船に捕まり、こらえる。しばらく激しい上下運動が続いてから船は家々の屋根を越え、およそ地上10メートルまで上昇する。
ブーン。
船の前方に設置した溶解器が身体を震わせ始動する。キリキリと音がして漏斗が前方に傾いていく。技師達の大きな声、甲板を歩き回る兵士達。
不意に背中の方から光が差す。アグンはゆっくりと振り返る。夜明けだ。水平線の向こうからまばゆい太陽が昇る。前方に視線を移すと、光が街を染めていくのがわかった。
アグンは錫杖を握りしめる。
この光景のように、自分の力で、この世界に“魔法文明の光”をもたらすのだ。
2
暁の光が周囲を染めていく中、黒い怪物の姿がはっきりと浮かび上がる。
「おお!」
アグンの口から思わず声が出る。
7メートルほど、大きな旅籠の屋根ほどの身長を持った巨大な怪物。いつもは大きく見える黄金鳥が、怪物の近くでは小鳥のようだ。翼を打ち振るい、空に浮かぶその怪物の姿は、妖魔や混沌生物など魔法の存在を見慣れたアグンにさえ恐怖をいだかせる強大な魔法の力を感じさせる。
時折、緑色の炎が怪物の口から放たれる。黄金鳥はかわしているが、統制の取れた神官戦士達の陣形にほころびが生じ始めていた。神官達の動きからは怪物への恐れが感じられる。当然だろう。“恐怖”の魔法のかかった兜で人を萎縮させ、空中から一方的に火炎槍の熱線を浴びせかけるのが神官戦士達の今までの戦いだった。しかしこの怪物は、人体にすら穴を空ける熱線すらほとんど効果がないのだ。
「ぎゃあああ!」
恐ろしい悲鳴が上がる。ついに一騎の黄金鳥が怪物に捕まったのだ。神官戦士はあわてて鞍と自分をつなぐ革ひもを断ち切り怪物から逃れようとするが、間に合わない。怪物の手が槍のように変化し、細かい装飾が施された神官戦士の鎧を貫く。苦悶の表情を浮かべた神官戦士の顔が徐々に黒くなっていき、死体が黒い霧状に変化すると、怪物の身体に飲み込まれる。
その光景は更なる動揺を神官戦士達の間に広げた。乗り手の不安を感じたのか、黄金鳥が大きな声を上げる。それは威嚇の叫びと言うより、悲鳴のようだ。
神官戦士のリーダーは隊列を維持しようと号令を出すため、空中で静止する。怪物はその隙を見逃さなかった。口を大きく上げ炎をはきかける。緑の炎に包まれて、リーダーは落下していく。
神官戦士達の包囲網は崩壊する。数騎の黄金鳥が離れ、他はただ怪物の周りを回っているだけだ。
「溶解器を使う、前方の怪物に照準を合わせて、すぐに発射しろ」
アグンはこちらを見つめる技師達に命令を発する。技師は頷き、機械を操作する。機械のうなりが大きくなり船全体が大きくふるえる。
大きく開いた漏斗の口から紫色の巨大な泡が生まれる。表面は水面に浮いた油のような7色の光がある。泡は直径4メートルほどまで大きくなった後、漏斗の口から離れ、ふわふわと怪物の方に移動する。
背後から迫ってくる泡を見て、神官戦士達はあわてて怪物から離れようとする。パニックに襲われた一騎の神官戦士は黄金鳥にうまく指示ができず、空中でもがく。紫の泡が迫る。
紫の泡が黄金鳥と神官戦士に触れる。悲鳴も上げずに一瞬で神官戦士と黄金鳥が溶ける。泡はそのまま怪物に迫る。怪物が翼を振るう。大きな風が巻き起こるが、泡の進路は全く変わらない。怪物は翼を止め落下し、ぎりぎりで泡をかわす。
泡はしばらく漂っていた後、いきなりはじける。紫の液体が地上に落ちる。
ジュウッ。
液体が建物を、地面を、そして地上の人々を溶かす。もうもうと上がる白煙。液体が落ちたところは石畳が溶け、地面がむき出しになる。縁の部分は石畳がぶくぶくと泡立ち、じゅうじゅうと音を立てている。怪物との戦いを見守っていたマナの町の人々は、船から離れようと悲鳴を上げて逃げまどう。
怪物が再び空に舞い上がる。そのスピードのまま船に迫り、炎を浴びせかける。
怪物が吐き出した炎は、船に触れる寸前に砕ける。はじかれた炎が、羽ばたく船の前面に張り巡らせた不可視の障壁をはっきりと浮かび上がらせる。船の舳先から前半分を覆う障壁が存在しているのだ。
甲板上の神官戦士達が火炎槍を片手に船の前面に集まる。一斉に火炎槍を怪物に向け熱線で怪物を貫く。怪物は怒りの叫び声を上げるがその熱線の圧力に船から離れる。
「2発目だ!」
アグンは叫ぶ。ほぼ同時に機械から泡が放たれた。
怪物は今度は泡を警戒し、大きく距離を取ろうとする。しかし、泡はその軌道を変え、怪物に近付いていく。泡に背を向け翼を振る怪物。しかし泡は怪物に追いつく。
「ギャアアアアア!」
怪物の口から今までとは違うはっきりとした悲鳴が上がる。右の翼が泡に触れ、どろりと溶けるのをアグンは見た。翼を失った怪物は家が密集した地上に落下する。怪物の悲鳴は止まらない。大きく苦悶の声を上げながら建物をつぶして転げ回る。
しばらくのたうち回っていた後、ゆっくりと怪物が立ち上がる。右の翼は今も白煙を吹き出していて、再生しない。
怪物は3つの赤い眼から吹きこぼれるような憎悪をたたえて船を見上げる。
「奴はすでに飛んで逃れることができない。とどめを!」
アグンの声に船が高度を下げる。漏斗の角度が下を向き、怪物を正面に捉えた。
3
今まで以上に大きな泡が地上の怪物に迫る。溶解液で作られた紫の泡は、高度を下げ、背の高い建物を溶かしながら怪物に迫る。
ジュウッ。
怪物と泡がぶつかる。白煙がもうもうと上がる。
甲板の上で神官達が歓声を上げる。
アグンは拳を握りしめる。
戦いの場から離れた町の人々がこの光景を見ている。物見高い者は屋根の上に上りこの戦いを見守っている。この戦いは、根の国、そしてフォゴルの威光を示す物語として吟遊詩人達に語り継がれることになるだろう。
突然、町で大きな悲鳴が上がる。
揺れている。アグンは、眼下の町が地震のように振動しているのを見る。
「なんだあれは!」
甲板上の神官が叫ぶ。
建物が、沈んでいく。背の高い2階建ての建物が地面に飲み込まれていく。建物の一階部分が完全に埋没した時、隣の平屋が沈み込んだ。そこから建物の埋没は加速していき、1つ、また1つと“道”を作っていく。その道はまっすぐ羽ばたく船へと伸びる。建物の陥没が羽ばたく船の真下に到達したとき、火山の噴火のように土砂が吹き上がった。
羽ばたく船に乗るすべての人間が、太陽の光を遮り、船に向かってまっすぐ降下してくる怪物の姿を見た。怪物は紫の泡が迫ってくる間に地面に潜り、地下を掘り進んで羽ばたく船に接近、そして船の前で大きく跳躍し、船の上に落下したのだ。
ドン。
怪物は船の上に降り立つ寸前、四肢を突っ張り、空中で何かにしがみついているような姿で停止する。羽ばたく船の不可視の障壁が怪物を阻んだのだ。
しかし、船の人々の安堵は一瞬だった。不可視のはずの障壁が怪物が触れた部分からどんどん黒い色に変わっている。障壁は瞬く間に黒く染まり、そして霧散した。
今度こそ怪物は船に着地する。その大きな衝撃に甲板上の人々は引き倒され、数人が恐ろしい悲鳴を上げながら地上に落下した。
怪物はメキメキと甲板を破壊しながら溶解器の傍らに移動する。その振動に船の人々は動くこともできない。
アグンは怪物が溶解器に腕を突き刺すのをはっきりと見た。自身の力の象徴である機械が無惨に破壊される様を。
怪物が腕を引き抜いた穴から、紫色の液体が噴き出した。その液体は瞬く間に船の縁を溶かし、範囲を広げていく。
船が苦痛に震えるのを、人々ははっきりと認識した。左前方の翼が力なく垂れ下がり、そして消滅する。船は大きく傾き、下降し始めた。神官達が傾いた甲板を滑り、悲鳴を上げながら落下していく。
「アグン様、こちらです!」
その声にアグンは我に返る。黄金鳥にまたがった神官戦士が手を差し出している。アグンは差し出された神官戦士の手を必死に握る。鞍の上に引っ張り上げられると同時に黄金鳥は羽ばたき、船から離れる。
黄金鳥は二人の人間の重みに抗議の叫びを上げ、よたよたと飛びながら地上を目指す。鞍の上で腹ばいになりながらアグンは羽ばたく船が白煙を上げ落下していくのを見る。
何が起きたのだ?
アグンの心には混乱だけが広がっている。“神託”に従って彼は軍隊を動かした。勝利により神の名は決定的なものになり、支配は永遠を約束されるのではなかったのか?
「ガアァァァァッッッ!」
落ちていく船の上で怪物が歓喜の叫び声を上げる。アグンは乗っている黄金鳥が恐怖で身体を大きく震わせるのを感じる。しびれるような“畏怖”の感情がアグンの心を覆っていく。なんと強く、美しい怪物。人が逆らうことを許さない、制御することもできない力の化身。“神”の名はあの怪物にこそふさわしい。
あの怪物こそ神なのだ。アグンはそれをはっきりと知る。
黄金鳥が地上に降り立つ。アグンはその場にへたり込む。立ち上がる気力はもう無かった。怪物は船の残骸の上で天に向かって大きく勝利の叫びを上げ続けていた。アグンは自分の身体が、自然な動きで怪物に向かって臣下の礼を取ろうとしていることを意識する。圧倒的に畏怖する存在を前にした時、人はその存在に向かって屈服の姿勢を取るしかない、と言うことをアグンは知った。
その時。
「クレイっ!」
怪物の叫びすらかき消す、朗々とした声が響いた。
怪物を見ていたすべての人がその声の主を捜す。
緩い弧を描く異国の大剣を持った大きな男が、立っていた。
怪物を見るバーノルの口には不敵な笑みが浮かんでいる。
クレイの怪物はバーノルの姿を認めると目を大きく見開き、地響きを上げながら彼に向かって突進していった。
4
走りながらクレイの怪物は叫び声を上げる。その声にこもった憎悪のすさまじさ。地響きを立てながら怪物はバーノルに迫る。
バーノルは刀を上段に構える。怪物がつきだしてきた腕を振り下ろした刀で、斬る。クレイの怪物の腕が真っ二つに裂ける。悲鳴を上げて手を引っ込める怪物。黒い霧が手の回りに渦巻くが、再生しない。翼もまた溶けたままだ。
バーノルの刀や、溶解器はかつて神人達と戦ったという“亜人”が仕えた「法の神」の魔法が生みだしたものだ。それは精霊の力や、通常の攻撃とは決定的に異なったダメージを混沌の生物に与える。混沌の神そのものの強さを獲得したクレイの怪物でも例外ではない。
怪物は獲物を狙う獣のように四つんばいになって姿勢を低くし、バーノルをにらむ。巨大な顔が正面からバーノルを見つめている。その大きさ、力強さ。バーノルは全身で怪物からの“圧力”に耐える。自分の何十倍もの大きさを持った怪物が攻撃する隙をうかがっている。
生き物の根源を揺さぶるような恐怖を感じながら、バーノルは興奮が背中を這い上ってくるのも感じていた。この巨大な怪物とどう戦う? 自分の身体を、刀をどう使う? クレイをこの怪物の呪縛から解き放ちたいと本気で思いつつも、強大な敵に自分の力がどこまで通じるか、試したいという気持ちも抑えることができない。バーノルは戦士だった。腹の底からわいてくる闘志が、バーノルの唇に微笑を浮かべさせている。
怪物が口を開け、断続的に炎を浴びせかける。バーノルは刀を掲げる。刀身に触れた炎が消滅する。
ドン。
大きな振動にバーノルの姿勢が乱れる。目の前の怪物が突然かき消える。次の瞬間、バーノルは自分の周囲が暗くなっていることに気がつく。躊躇せずに前方に身を投げ出す。バーノルを覆っていた影、地面を蹴って大きく飛び上がり、頭上からバーノルを襲おうとしていた怪物の攻撃は空を切る。着地の衝撃に四肢を大きくたわめていたクレイの怪物にバーノルは走りより刀を振り下ろす。怪物はかわしきれず肩を切りつけられる
怒りの咆哮を上げる怪物。振り回す手の範囲から逃れ、バーノルは再び正眼に刀を構える。
怪物の胸の中央には丸いふくらみがあり、脈打っている。ちょうど人間が収まるくらいの大きさだ。あそこにクレイがいる。バーノルの直感がそう告げている。以前黒い宝石を壊したように、あのふくらみに傷を付ければ怪物の“変身”を解くことができるかもしれない。バーノルは親指の腹で軽く唇に触れる。口づけの時に感じたアルミスの震えを唇が覚えている。なんとしてでもクレイは助ける。バーノルは自分に強く言い聞かせる。
怪物は腕を振り回す。横から迫る腕をバーノルはとんぼを切ってかわし、反転して刀を突き出す。怪物は後ろに大きく飛びながら炎をはきかける。バーノルは炎を斬り、さらに怪物に迫る。怪物が手を伸ばす。バーノルはそこから逃れて腕に切りつける。浅い。怪物はさらに後ろに下がる。
怪物は再生しない自分の傷を見る。そして崩壊した建物に手を突っ込み、柱や扉の破片、道を造っている石、手当たり次第につかみ、バーノルに向かって投げる。大きな質量を持った物体が高速で飛んでくる。バーノルは刀で斬り、かわし、拳でたたき割って前進する。
怪物が再びつかみかかってくる。バーノルは敵の攻撃に合わせたタイミングで刀を振るう。刀を警戒するあまり、怪物の動きは萎縮している。それが怪物自身を苛立たせているようにバーノルには思える。縦に3つ並んだ怪物の赤い眼がぎらぎらと輝いてバーノルをにらんでいる。
そんなに俺が憎いか、クレイ。バーノルは心の中でその眼に語りかける。バーノルはクレイがアルミスに向ける想いの強さを知っていた。しかし、それでも自身のアルミスへの愛しさを止めることができなかった。アルミスが心をぶつけてきた瞬間、バーノルの心は彼女へまっすぐ、強く突き進んでいった。
クレイを怪物に変えたのは自分だ。怪物に刀を振るう度に、暗い衝動が自分を襲う。刃がクレイの怪物を傷つけるごとに愉悦が走る。自分の中にもこの怪物のような恐ろしく、邪悪で、ねじくれた心がある。アルミスを想うクレイを消し去りたいという心が。……だからこそ。
「正気に戻れ、クレイ!」
刃を叩きつける。闇に囚われ、暴走するクレイが哀れだった。誰でも恋には狂う。バーノル自身、クレイとのこの戦いがそうだ。一回りも年下の娘をさらに下の小僧と取り合っている。しかし、その感情を大人として割り切ることはできない。
刀を振るう度に恋敵を傷つける快感がある。自分の力を誇示する優越感がある。クレイを正気に戻そうと努力をするのは、バーノルのエゴだ。罪悪感を消すために戦っている。それでも、アルミスのため、クレイのために、バーノル自身のため、彼をこの暗い呪縛から解き放ってやりたかった。そしてバーノルができることと言えば、刀を振るうことしかない。
怪物の腕をかいくぐり横をすり抜けると、バーノルは怪物の足に向かって刀を振るう。怪物の膝裏に刃が深々と食い込み、そのまま片足が切断される。大きな地響きを立てながら怪物は仰向けに倒れる。怪物の身体の上に駆け上がり、つかみかかってくる腕を切断し、刀を胸の丸いふくらみに振り下ろそうとした時、怪物はもう一方の裂けたままの腕でバーノルを突き飛ばした。
吹っ飛ぶバーノル。崩れた建物に叩きつけられ、瓦礫に埋もれる。うなり声と共に破片を払いのけ、バーノルは立ち上がる。大きな地響きが地面を揺らす。バーノルは怪物が立ち上がろうともがいているのを見た。
四肢のほとんどを傷つけられた怪物は、それでも残った部分を動かして、バーノルに向かって這い進もうとしていた。眼は憎悪を込めてバーノルを睨み続けている。バーノルは刀を握り、下段に構える。
怪物に向かって走ろうとした瞬間、
「もう、やめてください!」
小柄な影がバーノルの行く手を塞ぐ。アルミスだ。怪物をかばうように手を広げバーノルの前に立つ。涙を流し肩を振るわせている。
バーノルがアルミスをどけようとすると、アルミスはその手にすがりつき、頭を激しく振る。
「クレイはもう戦えません。もう、やめて、やめてください」
「胸の部分にクレイの身体はあるはずだ。この刀ならばあの黒い怪物からクレイを引きはがすことがきっとできる!」
アルミスは全身の力でバーノルの手にすがりつく。バーノルが正しいかもしれない、という心の声がする。しかし彼女は、バーノルの手を離さなかった。クレイが斬りつけられ、傷つくのを見るのはこれ以上耐えられなかった。たとえ怪物に姿を変えていても、それでも間違いなくあれは、クレイだった。理不尽な自分の心を止めることができない。
バーノルもまた、アルミスの心がわかった。力を込めれば払いのけられる彼女の身体を動かすことができなかった。
怪物の眼がぎらりと光った。怪物の背から6本の昆虫のような細い“脚”が生え、身体を持ち上げる。そのままその脚を動かし、一本の前足を振り上げ、信じがたいスピードでアルミスとバーノルに迫る。
針のようにとがった怪物の足が突き出された。バーノルはアルミスを突き飛ばした。
革鎧を貫いてバーノルの腹に怪物の前足が突き刺さる。
「うおおおっ!」
バーノルは叫び声を上げて怪物の脚を引き抜くと、そのままの勢いで怪物の胸のふくらみを一気に切り裂いた。怪物が悲鳴を上げて後ずさる。まっすぐ裂け目が入った胸からは黒い何かが見えるだけだった。
バーノルは膝をつく。貫かれた腹から血が噴き出し、あっという間に足下に血溜まりを作る。アルミスはバーノルに駆け寄る。バーノルの背中に手を当て、身体を支えながら怪物を見上げる。怒りと哀しみが叫びとなって迸る。
「クレイっ!」
怪物は腕を振り上げる。その胸の卵形のふくらみが激しく動いているのをアルミスは見た。アルミスは目を見開く。怪物の胸の中から何かが出ようとしている!
「やめろぉぉ!」
クレイの、叫び。
その声と共に怪物の胸がはじける。はじけた胸の中からクレイの上半身が現われた。腕やそれ以外の部分は黒い物質に覆われ、怪物の身体と融合している。クレイの黒い瞳がまっすぐにアルミスの緑の瞳を見る。クレイの目はアルミスと同じように涙に濡れていた。
「アル! バーノルさん!」
クレイの声には、悔恨がある。クレイが自分を取り戻したのだ。
「クレイ!」
アルミスはバーノルを見る。バーノルはゆっくりと頷く。アルミスは笑顔が浮かべ、頷き返した。
アルミスがクレイに眼を戻したとき、
白い光が、クレイの胸を貫いた。
5
アグンは自分が向けた火炎槍の穂先の先にあるクレイの肉の薄い胸に、穴が開くのをはっきりと見た。クレイが身体をのけぞらすのに合わせるかのように、怪物の身体が倒れていく。クレイの胸の穴から、血潮のように黒い霧が吹き出した。
アグンは自分が構えた火炎槍を見つめる。怪物の身体から現れた少年の胸を狙い、間違いなく引き金を引いた。しかし、クレイの胸を貫いたのは火炎槍からの熱線ではなく、天空からの白光だった。何が起きたのだ? 火炎槍を投げ捨て、アグンは呆然と周りを見回す。
アグンは遠巻きにしている人々がざわざわと騒ぎ始める声を聞く。
「なんだあれは?」
怪物の動きを遠巻きに見ていた者達が叫ぶ。アグンは自分の周囲が白い光に包まれていることを突然認識する。
その場にいた、すべての人が目撃した。
白く、まばゆく輝く、巨大な人物がアグンのすぐ後ろで実体化していく。それは、怪物が黒い霧を吐き出し、小さくなっていくのとほぼ同時に、その姿を鮮明にしていった。
アグンは光に包まれながら、空を見上げる。美しく、神秘的な、慈悲と英知に満ちた神の顔が、彼を見下ろしていた。
豊かなウエーブを描く金の髪。大人のたくましさを備えつつあるみずみずしくしなやかな筋肉、聡明な額、強い意志を感じさせる顎のライン、青春を謳歌する青年の肉体に、獅子と熊の毛皮を縫い合わせた衣装。胸に輝く混沌を現す八本の矢をかたどったペンダント。フォゴル神殿に必ず置かれている神の像、そのままの姿でありながら、どんな芸術家の絵筆でも描ききれない美しさを持った神が、人々の前に光に包まれて立っている。
今こそ叫ぶときだ。アグンはそれを確信する。
「フォゴルよ!」
その声は光を目撃したすべての人に響いた。アグンの叫びを聞いたとき、人々は稲妻に撃たれたように今起きていることをはっきりと認識した。フォゴルの力がアグンに宿り、怪物を打ち倒したのだ。怪物が倒れ、光り輝く神の姿が現れたこの現象こそ、それを証明している。人々は一斉に平伏する。
彼らは、この世界に実在する“神”を目撃したのだ。
アグンは胸に異常な熱さを感じる。
ドクン。
心臓とは別の何かが、胸で脈打つ。
法衣の下をのぞき込む。つややかな黒い宝石が、胸の皮膚と一体化し、輝いていた。
黒い宝石を発見した瞬間、そこからからすさまじいエネルギーがなだれ込んできて、アグンは小さくうめき声を上げる。自分の身体が爆発するようなすさまじさだ。アグンは周りを見回し、そして知る。そのエネルギーを生んでいるのは、今、フォゴルの名を口々に唱える人々だ。
アグンは怪物を見る。今や怪物は支えていた6本の足もくずおれ、地に伏せようとしていた。フォゴルの姿はますますはっきりと、神々しくなって、その怪物を見下ろしている。
アグンは突然理解する。
この怪物と、今出現したフォゴルは同じものだ。この存在は最初に悪魔として姿を現し、そしてそれを倒す神としての姿を人々の前で強調した。これは、神自身が用意した“舞台劇”なのだ。この存在が神話の語る“フォゴル”なのかどうかは、わからない。しかしこの存在は怪物になり、ついでフォゴルの姿を借りることで、人々からより強くあがめられる存在となった。
この存在は人の思念を受けることでより強大になる。それは今、フォゴルという既存の神の名を使い、自分の力を使って奇跡を演出し、見事にフォゴル自身になったのだ。
アグンは自問する。何故そんなことがわかるのだろう? 胸の宝石が大きく脈打つ。アグンは空を見上げる。神がアグンを見つめている。
『お前は私の力の扉だ』
頭の中、いや、胸の中から声が響く。
アグンは怪物を見る。その胸に穴を空け、黒い霧を吹き出しながら小さくなっていくクレイの姿を見る。今や宿主は変わった。クレイと黒い怪物は消え、そして、アグンと、本当に存在する神の時代がやってくる。フォゴルに導かれた神官が、伝説の神人のように世界に君臨する。
この存在が真実はどんなものか、それはもう関係ない。現在、この存在は「フォゴル」になった。そしてアグンはその使者となった。今まで以上の超自然の力がアグンの傍らにある。地上に再び混沌の世界を! その想いはアグンと、胸の中の存在両方が持つ野望だった。
人々の歓喜と祈りの声が大きく、大きく世界を覆っていく。その思念を浴びながら、アグンは天に向かって両手を広げる。神の姿は人々の祈りを受け、よりまばゆく輝いた。
6
消えていく。
クレイは、自分のすべてが消滅していくのを全身で感じていた。胸に開いた傷口から黒い霧が吹き出し、怪物の身体を、クレイの身体を分解し、天に吹き上げていく。
クレイは、自分の意識が薄れていくのに合わせて光り輝いていく紙の姿をぼんやりと見つめていた。クレイの役目は、終わったのだ。クレイはそれを、はっきりと知る。クレイに力を貸していた存在は、神自身となる。クレイは神の引き立て役として、悪魔と共に消え去る。
それで良い。薄れゆく意識の中で、クレイは思った。バーノルを傷つけてしまった。アルミスを絶望させてしまった。どうしてこのようになってしまったのだろう。バーノルと肩を並べるような力が欲しかった。アルミスを守りたかった。ただそれだけだったのに。
アルミスと、バーノルの口づけ。
力を得たはずなのに、アルミスはバーノルを選んだ。そしてクレイの力は彼自身にとっても最悪な方向に暴走した。
怪物の中で、クレイはその力を止めようと努力した。必死に抗い、力を押さえようとした。しかし、本当に、本気で、クレイは怪物の暴走を止められなかったのだろうか。建物を破壊し、人々の恐怖のエネルギーを集め、バーノルとアルミスを苦しめる。そこに“悦び”を本当に感じなかったのか? 怪物の心は、本当にクレイとは別だったのだろうか。クレイにはわからなかった。
血まみれのバーノルを抱き、クレイを見上げるアルミスの眼。クレイはその時、消え去りたいと、心の底から願ったのだ。
クレイは自分や民衆を見上げる神の意識が自分の心に入り込んでいるのを感じる。恐怖の思念、崇拝の思念が神に力を与えている。クレイもその思念と同じように、神の一部になるのだ。クレイは目を閉じ、その運命を受け入れる。
「クレイっ!」
アルミスは自分の出せる限りの声でクレイの名を呼ぶ。
クレイの姿が薄れていくのを見たとき、アルミスの中で何かが音を立てた。黒い霧を天空に吹き上げるクレイと怪物へアルミスは走る。怪物の身体に手を触れようとすると手を伸ばすと、そのまま怪物の身体に手がめり込む。アルミスの手には何の感触もない。黒い怪物の身体が薄れ、自分の手が透けて見える。
「クレイ、クレイ、クレイ、クレイ、クレイっ!」
アルミスは何度も、何度もクレイの名を呼ぶ。クレイがいなくなってしまう。クレイがいなくなってしまう。アルミスは身体ごと怪物の中に突っ込み、闇雲に手を振り回す。クレイはどこ? 視界が全くきかない。
泣きながら手を振り回す。クレイの身体を探す。
クレイが好きだったのだ、愛している。その時初めてアルミスは自分の本当の心に気付く。幼いころの草原で一緒に遊んだ記憶、共に机を並べて魔術を学んだ記憶、初めて精霊を使った日、夜が明けるのを心配しながら語り続けたあの日、大事なこと、つまらないこと、クレイとの記憶がぐるぐると回る。アルミスの心は真実をはっきりと見つけた。クレイを失いたくない。
「クレイっっ!」
薄れていくクレイの意識を、アルミスの叫び声がつなぎ止めた。消え去ろうとするクレイを自分の名を呼ぶ声、アルミスの声が引き留める。クレイはアルミスを感じる。アルミスの想いを感じる。愛している、愛している。なんと力強く、暖かい力だろう。アルミスの想い、クレイ自身の想い。消えたくない、アルミスと共にいたい。心の底から、クレイはアルミスを想う。
アルミスは怪物の身体の中で、再び全力でクレイの名を呼び手を掲げる。不意に、アルミスの指が何かに当たる。華奢で柔らかな皮膚の感触。アルミスはその感触を確かめるようにさらに手を伸ばす。くしゃくしゃの髪、痩せた胸、骨張ってきた肩、アルミスは確かに手のひらでクレイを感じる。心の底から歓喜がこみ上げる。
「クレイ、クレイっ!」
視界がきかないままで、アルミスは探し当てたクレイの身体に全身でしがみつく。
黒い霧が完全に消え去る。
そこには、裸のクレイをしっかりと抱きしめるアルミスの姿があった。
アルミスの手の中で、閉じられていたクレイの眼が薄く開く。自分を抱きしめるアルミスをゆっくりと見て、
「……アル」
震える声で、小さくささやく。
「クレイ!」
歓喜の声を上げ、アルミスは強くクレイを抱きしめる。
バーノルはそんな二人を見つめていた。傷口の血は止まらず、身体は力を失いつつあったが、胸には熱いものがこみ上げていた。何とかこの群衆から二人を逃がさなくてはいけない。刀を杖に震える脚に力を入れて立ち上がる。
バーノルの目が大きく見開かれた。神がかがみ込み、アルミスをつかもうとしている!
バーノルは必死に身体を前に出そうとする。血を失った身体はまるで水の中のように思い通りに動かない。神の巨大な手がアルミスを包み、天空に持ち去るのをバーノルは見た。
クレイはその場に倒れ、震える手を天空のアルミスに向かって伸ばしている。神のもう一方の手がクレイに向かって伸びる。間に合わない! バーノルがそう思った時、
「フォゴル様! アグン様!」
叫びを上げて、群衆の中の一人が大神官に向かって走り出した。
民衆の呪縛は解け、暴走が始まった。平伏していた人々は大神官に向けて走り出す。大神官を間近で見ようと一斉に前進を開始する。その群衆に押されてバーノルはクレイまでたどり着く。群衆に踏みつぶされないように全身でクレイをかばう。背中に次々と人がぶつかってくる。傷口からさらに血が流れる。
くずおれそうになった時、力強い手がバーノルを支えた。
「こっちだ」
その声に聞き覚えがある。
バーノルの腕をつかんだその男は、十数年前、彼と友を見送った根の国の魔導師、ボドルフだった。
7
アグンは何者かが群衆に紛れ、バーノルとクレイを運び去っていくのを見た。
バサリ。
巨大な羽音と共に、アグンを守るために黄金鳥にまたがった神官戦士が群衆とアグンの間に降り立った。神官戦士に止められた群衆は再び平伏し、口々に神をたたえる。
神はかがみ込み、手の中のアルミスを地上に横たえる。アルミスは気絶している。
アグンは目の端でアルミスを捕らえる。
アグンの脳裏には、あの時のクレイとアルミスの姿が焼き付いていた。
クレイは、完全に消え去るはずだった。宿主はクレイからアグンに移動したことで、クレイの役目は終わった。クレイは神と共に、アグンと一体化し、その身体と意識は完全に消去されるはずだった。それがどうして止まったのか、アグンにはわからなかった。
神はその答えをアグンには明らかにしなかった。クレイは逃してしまったが、このボドルフの娘が何かの秘密を握っているのは間違いない。アグンはそれを確信していた。
その秘密を解き明かさなくてはならない。もしアグンが神の宿主である資格を失った時のために、解き明かさなくてはならない。魔術師であり、大神官であるアグンだからこそ、魔法そのものとも思えるこの存在の恐れは、大きかった。
もちろん、恐怖と共に、大きな愉悦もある。魔法とは何なのか、力とは何なのか、アグンの中にある神は、その鍵を握っている。権力にとりつかれてはいても、アグンもまた、探求者であり、神秘に挑戦する者であった。
群衆が神の名を口々にたたえる。アグンは両手を大きく天に伸ばす。
「悪魔は去った、フォゴルに栄光あれ!」
群衆の声がさらに大きくフォゴルと、アグンの名を呼ぶ。
神の姿はゆっくりと薄れ、消え去る。群衆の神をたたえる声はいつまでもやまなかった。
第八章
1
アグンは人々の声に見送られながらマナから去った。
クレイとバーノルはフォゴル神殿の追跡から逃れ、マナの豪商の家にかくまわれていた。
クレイは神との分離から意識を失い3日目に目覚めた。バーノルはボドルフの魔法治療によって5日で傷口がふさがり、軽い運動ができるほどにまで回復した。
ボドルフはマナで反ファゴル神殿、正確には反アグンの活動を支援していたのだった。背の国の中枢部、そして根の国の国王派もこの動きには呼応しているという。背の国や根の国の王族派が力を持ち支配を強めるフォゴル神殿に脅威を感じていた。このままでは王権は完全に衰退し、フォゴルの名の下に新しい秩序が打ち立てられてしまう。彼らの恐れは変化していく時代を感じ取ってのものであった。
しかし反アグンの中心となっているのは彼らではなかった。最も力を注いでいるのは、新興の商業国家リテンの大商人達である。昔日の勢いを失った「楽の国」から20年前に独立したリテン。島国であるが、所有する船の数はこの時代他のどの国も肩を並べることができない。商人達によって運営されるこの国は、主に船を使った世界中に活動領域を広げつつある。商人達への保護政策、造船技術、航海術……根の国とは別な方向で世界に名を轟かす国であった。
リテンもまた“魔法”に強い関心を示している。世界の果てを目指して旅立っていく冒険商人達、彼らが持ち帰ってくる情報や秘宝。昔から魔術体系は混沌や精霊をあがめる神殿でのみ学ぶことができ、魔法の研究と信仰は切り離せないものだった。しかし、リテンはここに風穴を開けた。世界各地の文献や資料を持ち寄り(略奪同然に集められたものも少なくなかった)、解析し、研究を行う。学者、特に“科学者”という職業が生まれ始めていた。各神殿から異端と呼ばれ排除された者や、より純粋に魔法を求める者達はリテンの国を目指した。そういった人々はうさんくさい野心家がほとんどだった。それでもリテンは、権力への欲求や、商人達のごり押しなど様々な問題をはらみつつも近年急速に独自の魔法体制を整えつつあった。
こういった新しいものを積極的に取り入れる国がかつて世界一の魔術師といわれたボドルフに関心を持つのは必然だった。ボドルフが根の国を去ったのはリテンの働きかけも強かったという噂も根強い。真相はわからないが、数年前からリネンはボドルフと接触しており、反アグンのための計画を練っていたのだった。
いよいよその計画が実行されようというその時、アグンが背の国の港マナに乗り込んできた。計画がばれたかと色めき立つマナの商人や国王派の行動を止めたのはボドルフだった。ボドルフはその時リネンにいたのだがマナに急行し、暴発寸前の彼らを押しとどめた。リネンとボドルフの情報網はアグンが別な目的でマナを訪れたのを突き止めていたからだ。
ボドルフはそこで“奇跡”を目撃した。彼は神と直面したのだ。ボドルフはかつてのフォゴルの大神官として、神の“存在”は知っていた。しかし、人ではそれに到達できない、と信じていた。
この世界における魔法とは、主に我々の“次元”とは異なった世界にいる者を呼び寄せ、使役する法を指す。人間と親和性を持つ精霊、そしてさらに高次な“混沌”の次元。魔法使いは毒物を常用し、神人の言葉「精霊語」を使いこなすといった訓練によって、神人達に近い存在へとなる。薬の力を使うことで精神を活性化し、次元の壁を越え、異界の存在と交渉をする。彼らを現世に呼び出し、かりそめの実体を与え、使役する。それが「魔法使い」と呼ばれる者達だった。
異界への精神による“冒険”は様々な形で行われていた。多くの術者が現世への帰り道を見失い、息絶え、あるいは狂気に陥っていった。ボドルフ自身そんな危険を冒した事も1度や2度ではない。先人達の血みどろの研究と、ボドルフ自身の経験により、我々が到達できる以上の次元の連なりがあり、異界の強大な力が存在することはわかってきていた。遙か彼方に存在する強大な力を持った、まさに神としか言えない存在があることも、理論として実証されていた。しかし、魔法が体系されて以来、人類の中の誰一人としてそういった存在に触れることはできなかった。
クレイが呼び出し、そしてフォゴルとなったあの存在。その場を目撃したボドルフは、人々の心を吸収していくその存在を目撃した時、心の底からの恐怖と、感動を覚えた。人の“心”を糧として成長する存在。それはまさに人々をひれ伏せさせる“神”としか呼びようのないものだった。それはボドルフですら見たことのない“魔法”そのものだった。
魔法使いとしての好奇心を覚える一方で、現実の社会を俯瞰する者として脅威を覚えた。それはマナの豪商や街を守る責任者が、あの存在を恐れ、フォゴルに逆らうことに反対をし始めたその深刻な表情を見た時に決定的となった。「現世に出現した神」、この存在が、今の社会を根底からひっくり返してしまう存在であることを、ボドルフは改めて思い知らされた。神が実在するというこの脅威が広がる前に、手を打たなくてはならない。その決意は、ボドルフの心に深く刻まれた。
アルミス、クレイがこのことに関わっていることは、ボドルフにはそれまでつかんでいなかった。それはボドルフ自身の油断であり、誤算だった。ボドルフがアグンの情報をつかんでいるのと同様に、アグンもまたボドルフの弱点を知っていたのだ。そこに思考が行かなかったことをボドルフは強く悔いた。
大神官という地位を捨て、隠遁を選んだのは、ボドルフという魔法にしか興味を持たなかった彼が、“家族”と“愛情”というこれまでの人生とは全く違うものの存在を知ったからだ。それは現在のボドルフにとってかけがえのないものだった。娘を危険にさらし、奪われてしまったのは、家族を忘れ、世界を動かす計画に関わってしまった事への罰のようにもボドルフには思えた。だからこそ、なんとしても取り戻さなくてはならない。
バーノルとの再会もまたボドルフを驚かせた。彼が今までアルミスとクレイを守っていたのだという。何かの運命すらボドルフには感じられた。間違いなく何か大きな変化がこの世界に起きようとしている。ボドルフはそこでどのような役割を果たすのだろうか。
2
リネンに向かう船の中、甲板上でバーノルは刀を握っていた。見張りの船員や非番の兵士などが遠巻きに彼を見ている。
バーノルは上段からまっすぐに刀を振り下ろす。その速度を殺さずに刃を回転させ下から切り上げ、さらに胴をなぐ。優美な弧を描く細い刀ではあるが、バーノルの身長近くの長さを持ち、その重さは相当なものだ。
それを素早く、力強く振るう事ができるバーノルの筋力と技量は見ている者すべてに感嘆の声を上げさせる。剣の技にうとい者でもバーノルが刀を振るう姿を見れば、それだけで彼の刀に身体を両断される者の姿が想像できる。彼の素振りには美しさと同時に“怖さ”があった。
バーノルはゆっくりと刀を正眼に構えてから鞘に刀を戻す。左手で鞘の金具を操作する。ぱちんと音を立て、貝のように鞘が閉じ、刀を収納する。右の脇腹をなでる。まだ鈍く痛みは残るが、問題ない。魔法の治療とはたいしたものだと改めて感じさせられる。
後ろを振り返り、
「よし、クレイ、昨日教えた型をやってみろ」
声をかけられたクレイは、きまじめな表情で頷き、小剣を抜く。その剣はバーノルがクレイに貸し与えたものだ。
クレイが剣の使い方をバーノルに習い始めて数日が経過していた。
「バーノルさん、僕に剣の使い方を教えて下さい」
バーノルが歩けるようになったとき、クレイは拳を握りしめ、そういったのだった。
神から分離したクレイの身体は大きく変貌していた。爪がピンク色になっており、肌もまた血色が良い。肉が薄く、華奢ではあるものの、クレイの身体は魔法使いのものではなく、健常な肉体となっていた。しかし、その代償からか、クレイは魔法を使う能力を失っていた。精霊語は話せる、魔法の知識もある、しかしその肉体は常人と同じように魔術師の薬を受け付けず、精霊との交感もできなくなってしまっていた。
どうしてそんなことが起きたのか、彼の師であるボドルフにすらわからなかった。あの“神”が関わっていることは間違いないが、あの存在自体が人類が持つ魔法の知識を根底から揺るがすものである以上、誰も真相はわからない。クレイは魔法の力を失い、健康ではあるが非力な肉体だけが残った。
クレイはその時、真剣な表情でバーノルに言ったのだ。
「アルミスを、助けたいんです。お願いです、僕も戦場に行かせてください」
リネンと背の国、そしてその他周辺国家による根の国への侵攻計画。多くの国、そして大商人が関わる船団が結成され、根の国の首都イジェにあるフォゴル大神殿を強襲する。この戦いの際、根の国の国王軍は手を出さない。フォゴル、そしてアグンに対する戦争が着々と準備されていた。
戦力はリネンに集結しつつある。バーノルやクレイ、ボドルフは背の国の先発隊と共にリネンに向かっていた。フォゴルの大神殿は世界の魔法を統べる場所だ。しかも、“神”を味方につけている。数ではこちらが勝るとはいえ、戦いがどのようになるかは誰も予測がつかなかった。
そんな戦場にクレイを連れて行くのは無謀を通り越している。しかし、それでもクレイを止めることはできなかった。
「いいだろう、この剣を使え」
バーノルはそういって、いつも左腰につけていた小剣をクレイに与えたのだった。背中の刀とは違う、この地域で一般に使われている両刃の剣だ。
「俺が若い頃から使っている剣でな、見た目はくたびれているが、バランスもいい」
クレイは鞘から剣を抜いてみる。よく研がれた刃が光る。柄を握りしめる。本物の武器を持って興奮しない男子はいない。クレイの様子を見て、バーノルは口の端で小さく笑う。自分が初めて武器を握ったのはいつだったろう。
「そいつには仕掛けがあるんだ」
バーノルはクレイの手から剣を取る。そして正面に構えると。
『燃えろ!』
クレイは大きく目を見開く。小剣の刃の部分が発火したことよりも、バーノルが発した言葉が精霊語だったことに驚かされた。バーノルはクレイの表情を見て笑う。
「この剣には火の精霊が封じられている。昔、友達がかけてくれた魔法だ。その時に『燃えろ』と『消えろ』の2つの精霊語を教えてもらった。剣の中の精霊はこの2つの命令だけに反応する。発音が違うとかで繰り返し練習させられたよ」
バーノルは剣の炎を消し、クレイに剣を渡す。
『燃えろ!』
クレイの声に反応して、刃の部分が炎に包まれる。
「例え神官戦士といえど、魔法の剣をお前が持っていると知れば驚くだろう。あいつらは魔法を目にするが、理解はしていない。普通の人間以上に魔法を警戒するはずだ。その隙につけ込むんだ」
バーノルの言葉に、クレイは頷く。
それから、バーノルは毎日クレイに剣の使い方を教えてきた。バーノルは以前傭兵団に所属していたこともあり、若い戦士を鍛えたこともあった。クレイは素養として剣を振るうことには全く向いていない。しかし、だからといって彼を止めることはできない。
バーノルが教えたのは「身の守り方」であった。常にバーノルと行動を共にし、自分に向かってくる刃を受け流す。基礎以外は様々な状況に対してどう対応していくかの練習に重点を置いた。
「とにかく生き残り、持ちこたえろ。自分から倒そうとするな。お前が受けることで、他の者が戦いやすくなる。初戦から手柄を狙うな、生きていればいつかはそのチャンスが来る」バーノルが新兵達にくり返し言ってきた言葉だ。かつての経験が、クレイへのアドバイスになっている。
船の中での練習では、興味深そうにそれを見守る船員達もいて、見学者の数も増えていた。バーノルは彼らにも声をかけ、練習に協力してもらっていた。
彼らが手伝ってくれるのは、クレイの必死さに共感したからだろう。非力な少年が、必死に馴れない剣を操っている。思わず応援したくなる悲壮さがある。クレイの肉体は激しい運動には向いていない。熱が入りすぎるのを止めるのもまたバーノルの役目だった。クレイの熱意と、船員達の応援によって、クレイのぎこちなかった剣の扱い方もだいぶましになってきている。
クレイの練習の熱の入り方を見ていると、バーノルの心には小さくうずくものもある。アルミスを愛している。バーノルはクレイの目の中の奥にあるバーノルへの対抗心にも気がついていた。それに敏感に反応する心もある。青臭いと自嘲してしまうが、恋は大人としても割り切れない。
ボドルフとの再会もバーノルの決意を固めさせた。バーノルは船室のある方へ頭を動かす。ボドルフは今も国の代表者達と綿密に打ち合わせをしている。その表情はしわの深い、険しい、バーノルの記憶の通りのものだろう。娘のことを考えていないような様子で話をしているに違いない。
彼は初めて出会った十年前からボドルフの髪はすべて白髪で、神官にしては肩幅があり、背筋もしっかりと伸びている、たくましい“精気”を感じさせる人物だが、相当な高齢の老人に見えた。いかめしい顔つきの、ボドルフに、アルミスのような娘がいるとは今でも信じられない。
しかし、クレイと再会したときのボドルフの目を細めた笑顔を見たとき、初めて彼に“家族”がいることをバーノルは納得した。それは心地よい驚きだった。そしてその厳しい表情の下に娘の身を案ずる父親の心を確かに感じたのだ。
バーノルは再び視線を甲板に戻す。アルミスを助け出す。そして、クレイを守る。一心不乱に剣を振るクレイを見て、バーノルは改めて心に誓う。
3
戦いが始まった。巨大な戦艦5隻と、武装商船30隻。陸戦隊4千人を積んだ連合艦隊は根の国の首都イジェを目指す。狙うはイジェの南にあるフォゴルの大神殿だ。
ボドルフは旗艦である「暁の女神号」の舳先に立っている。
ボドルフは荒々しい精霊の呪歌を歌う。目は半ば閉じられ、トランス状態のボドルフの声に応えて前方に巨大な竜巻が生まれる。その風は襲撃隊のすべての船を揺らす。すべての者にあらかじめ言い含められていたが、それでもざわめきが上がる。
「嵐の王よ!」
ボドルフの声が轟く。竜巻が消え去ると、猛烈な追い風がすべての船の帆をふくらませる。ざわめきが歓声にと変わる。ボドルフと古くから繋がりのあるストームジャイアントの力は、35隻の船すべてを力強く戦場へと運ぶ。
「敵だーっ!」
船団の誰かが叫ぶ。
神殿から飛び立つ黄金鳥と神官戦士。その後ろから、わらわらと黒い獣が飛び立つ。かつてクレイ達を襲った“凶猟鶏”だ。
彼らはあっという間に船団にまで到達し、甲板上にいる兵士や船に炎を吹きかける。炎に包まれてのたうち回る兵士、炎上する帆、悲鳴が上がる。
「“水仙の矢”を使え!」
上官の指示に兵士達は一斉に弓を構える。矢尻には緑の液体が塗られている。水仙の根と葉をすりつぶし、さらに砂鉄をある割合で混ぜ合わせたものだ。構えられる弓を見て神官戦士達は上昇したが、凶猟鶏はそのまま船のすぐ上空を飛び続ける。異界から呼び出された混沌の生物は、通常の武器では傷つかない、怪物はそれを知っているのだ。
一斉に放たれる矢。その効果は激烈だった。矢が刺さった怪物は苦痛の悲鳴を上げて落下する。魔よけの植物として知られる水仙は混沌の生物にとって猛毒となる。ここ数年で発見された魔法への知識だ。凶猟鶏の間に動揺が走り、船団からは歓声が上がった。
「いくぞ、クレイ」
「はい!」
バーノルに肩を叩かれ、クレイははじかれたように返事をする。バーノルは緊張しているクレイの顔に笑いかけ、もう一度肩を叩く。クレイも小さく笑みを浮かべる。
クレイとバーノルは旗艦の姉妹艦「黄昏の女神」の甲板上にいる。この船は他の船と違い兵士達で満ちあふれてはいない。代わりに白い羽毛を持った巨大な鳥が甲板上に座っていた。
鳥、という表現は正しくないかもしれない。羽毛に包まれ、羽は生えているものの、足は鱗に包まれていて、翼には蝙蝠のようなかぎ爪がある。顔にはくちばしはなく、小さなワニのようで、牙も生えている。「鳥トカゲ」と呼ばれる燐の国に棲息する生き物だ。この鳥トカゲはかつて神人が呼び出した混沌の生物だったが、世代を経るごとにこの世界に順応していった。燐の国はこの生物を飼い慣らし、繁殖させ、騎乗動物として育て上げた。燐の国の「鳥の騎士」は国を象徴する存在だ。
黄昏の女神は一番前の帆柱が鳥トカゲが飛び立つことができるように外されている。鳥トカゲはすべて二人乗り用の鞍が取り付けられている。50騎の鳥の騎士達はそれぞれ先発隊として選抜された精鋭の兵士達を乗せている。彼らを神殿の入口に運び、援護をするのが鳥の騎士達の役目だ。バーノルとクレイは彼らと共に神殿に突入する。
「出撃準備!」
鳥の騎士のリーダーの声に、騎士団に緊張が走る。バーノルもまたクレイを後ろに乗せ、鳥トカゲの鞍にまたがっている。
「しっかりつかまっていろ!」
戦いの喧噪に負けないように、バーノルはクレイに向かって叫ぶ。クレイは返事をする代わりにバーノルの身体をつかんでいる腕に力を込めた。
「出撃!」
鳥トカゲが一斉に飛び立つ。見送る船員達からの声が聞こえる。
一気に視界が開ける。バーノルは鳥トカゲを操りながら眼下の景色を見る。
火炎槍から熱線を放射する神官戦士。ボドルフのストームジャイアントは実体化し、神殿の海の番人である大海蛇と格闘を繰り広げている。炎がついた帆を消している水の精が見える。
特別に改造された武装商船がカタパルトから巨石を打ち出す。神殿の風の精がその軌道をそらす。襲撃隊側の水の精が大波を起こし守備隊の足下をすくう。
鳥の騎士達とほぼ同時に小舟が海上におろされ、すさまじいスピードで神殿に向かう。同時作戦で展開する海からの先発隊だ。彼らの船を引っ張っているのは水かきと鱗を持った牛のような動物だ。
どこを見ても魔法、魔法だ。
バーノルは大規模な魔法のぶつかりあいに強い衝撃を覚える。この戦いにはバーノルが駆け抜けたどの戦場よりも「魔法」に満ちていた。彼の冒険にはいつも魔法があり、彼自身は魔法は使えないものの、この時代の大多数の人間よりも魔法に触れていると自負していた。しかし、ここまでの魔法のぶつかり合いは見たことがなかった。
今までの戦場でも魔法は活用されてきたが、火の精霊を扱う魔道士が一人だけだったり、怪物を扱う部隊が参加する、という程度の規模だった。魔法は極めて限られた、選ばれた人間が使う秘術であり、大きな影響を持つものの、戦場の主役たり得なかった。
この戦いは違う。リネンとフォゴル神殿、現在の世界の魔法の中心とも言える勢力のぶつかり合いは魔法こそが主役であった。
これからはこの戦いが戦争の原型になる。この戦いを目撃した者達、耳にした権力者達はこの戦いを分析し、自らの陣営に魔法を取り込むことに必死になるだろう。大きく時代が変わる。戦士であるバーノルは、この戦争の風景を見て思う。
「バーノルさん!」
クレイがバーノルの身体を揺らし、前方を指さす。その先にある神殿から光の柱が立ち上るのをバーノルは見る。
戦場全体が大きくどよめく。
巨大な、あまりに巨大な光に包まれた神の姿が現れたのだ。
「フォゴル神だ!」
戦場の様々な者の口が、1つの神の名を呼ぶ。
光り輝く神は、迫り来る船に向かって指を伸ばした。
すさまじい轟音と共に武装商船の帆柱に雷が落ちる。帆が一瞬で燃え上がり、船に乗っていた人々がバラバラと海に落ちる。大きな動揺が船団全体に広がる。
一刻も早く神をとめなくては!
「行くぞ!」
バーノルはクレイに声をかけ、一気に鳥トカゲを降下させる。鳥の騎士達もバーノルに続き、神殿を目指す。
4
剣の響き、叫び声、そして、血。
バーノルが刀を振るうと、血煙が上がり、人が倒れる。命を失った男の目がクレイを見上げる。クレイは萎えそうになる足に必死に力を入れてバーノルを追う。
先発隊の男達は、上陸部隊の船が岸に上陸したのに合わせて前進を開始した。雄叫びを上げる者、命を失った身体に執拗に斧を振り下ろす者、後ろからぐいぐいと押してくる者、何かをずっとつぶやきながら周りを見回す者……クレイ自身は周りの者達にかばわれる格好であったが、「戦場」という人間の性をむき出しにした場所に圧倒されていた。
神殿の通路を進んでいるときに、先発隊は突然横から強襲を受ける。あらかじめ部屋に隠れ、待ち伏せをしていたのだ。襲撃部隊の数はそれほど多くはなかったが、先発隊は分断され、パニックに陥る。
クレイは誰かに突き飛ばされた。床に引き倒され、見上げると白い鎧をつけた守備の兵士が彼を見下ろしていた。敵は武器を落としてしまったらしく、素手だ。クレイは剣を構えようとする。
「うわあああ!」
叫び声を上げ、兵士がつかみかかってくる。剣を持つクレイの腕を握り、奪おうとする。剣の向こうに兵士の顔が見える。歯をむき出し、目を血走らせている兵士の顔。
『燃えろ!』
精霊語を叫ぶ。クレイの手にある小剣が炎に包まれる。刀身の炎に軽く顔を焼かれた兵士は、顔を覆って飛びのき、しりもちをつく。クレイはその隙に立ち上がる。さっきと逆の位置になり、クレイは兵士を見下ろす。
顔を覆う指の間からのぞく兵士の目に、おびえの光を見たとき、クレイの中で何かがはじけた。両手で剣を握り、兵士に向かって振り下ろす。兵士は腕を上げて防ごうとするが、手甲の内側に剣が食い込み、血が流れる。クレイはさらに剣を振る。鎧が刃を防ぎ、小さな傷ばかりが増えていく。兵士は血まみれになる。
「クレイ!」
背後からクレイの剣を握り動きを止めると、バーノルは兵士のみぞおちを蹴る。悶絶し、床にくずおれる兵士。クレイはバーノルの手から逃れようともがく。
「落ち着け!」
肩を揺さぶられる。ようやくクレイの身体から力が抜ける。
「バーノルさん……」
恐慌は去った。足下には血を流した兵士が横たわっていた。クレイの身体が震える。
「そいつは生きている。襲ってきた奴らは全員倒した。先に行くぞ」
バーノルの声にクレイはつばを飲み込んで頷く。自分の手が震えていることに気がつく。力一杯握りしめていた剣から手を放す。手の感覚が戻ってくるのにしばらくかかった。
その後も小さな部隊とぶつかりながらバーノルとクレイは先に進んでいった。クレイは夢中になって敵の剣を受け、剣を振るった。すでに多くの部隊が神殿にたどり着いていて、守備隊の力はかなり分散されていた。それでも、一人、また一人とバーノルの隊は人を減らしていく。クレイをかばって倒れた者もいた。バーノルはクレイを励まし、クレイも小さな傷を身体のあちこちに負いながら進んでいった。
大きな広間に出る。前方に青銅で作られた巨大なフォゴルの像が見える。巨大な円柱に取り囲まれた吹き抜けの空間で、攻め寄せる船団が見える。戦いは激しさを増しており、いくつもの船が炎に包まれており、悲鳴や怒号も聞こえる。バーノル達は海を見下ろす一人の男を見つける。アグンだ! 彼を守るために神官戦士がアグンを囲み、こちらに火炎槍を発射してくる。仲間の一人が炎に包まれる。バーノル達は柱や入口に隠れる。
アグンはゆっくりと振り返り、襲撃隊を見る。
「ここまですでに入り込んでいるのか……」
アグンの声が響く。
彼はつぶやくようにしか声を出していないはずなのに、はっきりと声が聞こえる。クレイは眼下の戦場の兵士達が戸惑いざわめきを上げているのを聞く。アグンの声は戦場全体に響いているのだ。聞く者の“恐怖”を煽るためだと、クレイは直感する。これもまた、神の魔法なのだ。
「ボドルフと、リネンの国、他の国より派遣されてきた軍隊。お前達の焦りと危機感は正しい。フォゴルの名の下に広がる、かつての神人達に劣らぬほどの神の国が、この地上に生まれようとしている。これは、我々、そしてフォゴル自身に与えられた試練だ。この襲撃を撃退することで、我々の力を世界に証明するのだ」
戦場から、大神官の声に応えて鬨の声が上がる。襲撃隊の間に動揺が広がる。
アグンは戦場からの声を全身で感じているかのように大きく両手を上げる。そして物陰に隠れるバーノル達に向き直る。
「お前達に対抗する良い方法を思いついた」
邪悪に、笑う。それと同時に、地響きが辺りを揺らす。
襲撃隊から悲鳴が上がる。彼らの正気を失わさせる事態が起こっていた。
神の像が動く! 青銅で作られた巨大なフォゴルの像がゆっくりと台座から降り、歩き始めた。すさまじい重量を持った神の像が動く。その衝撃は広間を覆っていた天井を崩し、襲撃隊のみならず、神官戦士達の頭上にも瓦礫を落下させる。
敵も味方も悲鳴を上げて逃げる。フォゴルは今や金属でできた生き物のようになめらかに動く。その姿からは“精気”が感じられる。その姿を見た者すべてが“分かる”だろう。先ほどまで光の柱となって船団に雷を落としていた神が、無機物に過ぎなかった神の像に宿り、何か別な存在に変えたのだ。神が持つ力が具象化した存在、それは、ただ歩くだけでその力を誇示し、敵対する者に恐怖を与える。存在するだけで見る者すべてを萎縮させる、神ならではの圧力をその像は持っていた。
こんな怪物を止められるわけがない。それを見たすべての人間が、神に逆らう人間の無力さを思い知らされる。フォゴルの像が歩き、船団まで到達するだけで我々は負ける。襲撃隊の誰もがそう思い、ある者は一目散に逃げ出し、ある者はその場にしゃがみ込みすすり泣いた。
そのフォゴルを前にして一歩前へ踏み出す影があった。
大きな体を持ち、湾曲する異国の剣を背負った戦士が挑むように神の像の前に立つ。
アグンは笑みを浮かべる。
巨大な神の像を見上げながら、バーノルはゆっくりと刀を抜いた。
5
フォゴルの像はバーノルを前にして立ち止まる。
フォゴルの後ろに立つアグンは目を細めてバーノルを見る。
「あの時怪物に立ち向かった、あの戦士か」
バーノルはアグンを見てから、フォゴルの像に目を戻す。クレイのように自分の身体と力の具象化した存在は一体化していないようだ。それならば、アグンを斬ることでこの神を止めることができるのだろうか。
攻撃の意志を感知したのか、神の像は腰を落とし、バーノルと対峙する。
「混沌の力を失わせる法の魔法で作られた刀だと言っていたな……しかし、青銅の像を刀で斬れるか?」
アグンの声と共に、フォゴルの像は大きく振りかぶり拳をバーノルに叩きつける。バーノルは迫ってくる拳に向かって剣を振り下ろす。火花を散らして金属の皮膚が刀をはじく。そのままバーノルは拳に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
刀を杖にしてバーノルが立ち上がる。
フォゴルの像はゆっくりとバーノルに近付く。
バーノルは刀を正眼に構える。静かに目を閉じる。
「イェェッ」
バーノルの口から、甲高い気合いが迸る。ビリビリと空気を揺らすような大きな声だ。
バーノルは目を開き、神の像を見上げる。
再び神の像が右拳をバーノルに向かって突き出す。バーノルは紙一重でそれをかわし、腕に向かって刀を振り下ろした。
クレイは見た、神の像の右腕がバーノルの刀によって切り落とされるのを。
「おお!」
アグンすら感嘆の声を上げる。
フォゴルの像は音を立てて後ずさりする。
神が“怯えて”いるのだ。
しかし、ひるむ神にバーノルは続けて刀を振るうことができなかった。バーノルは刀を構えたまままっすぐ神を見ている。
正眼に構えたままのバーノルの肩が激しく上下している。顔にも疲労の色が濃い。奇跡とも言えるバーノルの剣技は、肉体にも強い負担をかけるほどの精神集中を必要とするのだ。
神はそのバーノルをじっと見つめている。その顔が変化している。青銅の像、美しい青年の無表情だったはずの顔が、憎悪で歪んでいる。神の像はその表情のまま、地響きをたててバーノルに迫った。
バーノルは剣を上段に上げて迎えうつ。剣を振り下ろす瞬間、神官戦士が火炎槍でバーノルを撃った。熱線が左腕をかすめ、バーノルの剣は勢いを失い、刃は金属の皮膚にはじかれた。神の像の拳はそのままバーノルにぶち当たる。バーノルの身体が跳ね、何度も床に叩きつけられる。
バーノルは身体を震わせながら立ち上がる。口からは血が流れている。床に血を吐き出し、拳で口元の血をぬぐう。再び刀を正眼に構える。
そのバーノルの前にクレイが立った。バーノルうしろにかばい、両手を広げる。
「クレイ?」
「バーノルさん、僕が盾になります。防げないかもしれないけど、それでも攻撃は少しは遅くなるはずです。その隙に、大神官を!」
「何を言っている? そこをどけ!」
バーノルの声に、クレイは首を振る。自分の力ではアグンまでたどり着けない。今は、これしか思いつかない。クレイは一瞬だけバーノルを見る。その目は涙に濡れていた。
「お願いします、アルを、助けてください」
バーノルは唇をかみしめる。クレイがどんな想いで言っているのかが、痛いほど分かる。例え自分を犠牲にしても、恋敵にその役目を譲っても、愛した娘を助けたい。クレイにこんな行動までさせてしまっている自分の無力さに、激しい怒りを感じる。この少年を殺してはならない、なんとしても。バーノルはガクガクする手足に必死に力を入れる。
クレイは巨大な神の像が拳を振り上げるのを見た。自分の意志に反して恐怖で目が閉じられる。恐かった、恐かった。しかし、アルミスのためにもうできることはこれしかなかった。絶対に動かない!
その時、
『クレイ! クレイっ!』
アルミスの声。
「アル!」
クレイは、叫ぶ。
叫びながらクレイは自問していた。今の声はどこから? クレイの身体の中から聞こえたのではないだろうか?
その認識が、クレイの意識を覚醒させる。
クレイの胸に穴が開き、アグンに宿主が変わった時、クレイの存在そのものは消え去るはずだった。それをこの世界につなぎ止めてくれたのは、アルミスだ。いや、つなぎ止められたのではない。エネルギーと化し、神の身体の一部となるはずだった“混沌”の中から、クレイはアルミスによってあの時、創られたのだ。
クレイは改めて自分の中のアルミスの想いを見つめる。クレイの体中の細胞が、アルミスのクレイへの想いが満ちている。クレイの身体全体から愛しているというアルミスの叫びが聞こえる。アルミスが望んだクレイ、それが今のクレイの身体だ。魔法を使えないこの身体はアルミスの望んだものだったのだ。アルミスはあの時、魔法を恐れ、「健康」なクレイを欲した。クレイはアルミスの想いを今度こそ正確に感じ取ることができる。アルミスのおかげでクレイは今、ここにいる。愛している、愛している。クレイは力の限りアルミスへの感謝と愛を叫んだ。
そしてクレイは気付く。アルミスの心は、想いは、クレイをこの世界につなぎ止め、肉体を再構成するほどの力がある。クレイ自身の想いもこの肉体に作用するはずだ。あの時作られた身体を、もう一度、今度はアルミスと、クレイの意志で……。
ならば!
バーノルは目の前のクレイの身体が変貌するのを見た。クレイの爪の色が青く変わっていく。皮膚が青白く、魔術師のものに変わっていく。
自分の想いで身体が変わっていく。その実感がクレイの自信を後押しする。そこからさらにクレイの心は、怪物に捕らえられていた自分を思い出していく。視界が変わる。オレンジ色の光が戦場を、世界を覆っている。クレイは今、黒い怪物の視界で世界を見ていた。その光の中心に神がいる。
クレイはさらに意識をとぎすませていく。戦場の想いは前方の神の像だけでなく、小さいが、自分の身体にも確かに集中している。消えゆく悪魔から作られたクレイの身体は、本質的に、神の“分身”なのだ。その確信がクレイの身体に力を呼び込む。クレイの中に戦場の想いがなだれ込む。神を恐れる者、そして、神を認めない者、神の消滅を望む者、彼らの想いもまた、集中できるものを望んでいる。神と戦おうとする者達に応える存在は!
ドオン!
大質量の者同士がぶつかる衝撃音。クレイに神の像の拳が届く寸前、黒い巨大な腕がその拳を受け止めていた。クレイの目の前で、黒い霧が渦巻いている。そこから巨大な存在が姿を現す。腕から肩、頭……。鉱石の様にも見えるなめらかな黒い肌、巨大なコウモリのような翼、クレイの怪物がそこに出現していた。
「ガアアアッッ!」
怪物が吠えた。その頭部に三つの縦に並んだ赤い目が現われ、怪物は叫び声を上げたまま神の像につかみかかった。神の像は大きくバランスを崩し、次々と広場の天井を支える円柱をその身体で壊していく。
建物は完全に崩壊する。天上が、円柱が、広間を覆っていた物が崩れていった。
戦場にいるすべての人々が見た。神と悪魔が、再び争っている! 瓦礫と化した広間で信じられないくらいに大きな存在が激しく戦っている。それは戦場にいる人間達の手を止めさせ、呆然とさせるすさまじい光景だった。
バーノルもまた目の前の光景が信じられなかった。彼の前にはクレイが立っていて、怪物の戦いを見守っている。クレイは前方に指を伸ばす。
「今です!」
バーノルはその声で我に返る。そして神の戦いを見つめるアグンを見つけた。
バーノルは、走る。神官戦士がアグンに何かを叫び立ちふさがる。
火炎槍から放射される熱線。バーノルは刀でそれを受ける。熱線は刃に触れると霧散する。神官戦士は火炎槍を構えた姿勢のまま、袈裟懸けに斬りつけられ、倒れた。
絶命した神官戦士を一度だけ見てから、アグンは虚ろな視線をバーノルに向ける。バーノルは刀を上段に振りかぶり、大神官の身体を両断した。
大神官が絶命した瞬間、フォゴル神の像は大きく身体を震わせ、硬直した。怪物は叫び声を上げ、その腕を神の像に突き刺した。痙攣する神。しかし神の像の目に力が戻り、怪物の頭を手でつかみ強く押す。怪物の背後に、水の表面に走る波紋のような空間の歪みが生まれている。神の腕がその歪みへ怪物を押していく。
怪物の身体が歪みにめり込む。怪物の身体が消えていく。歪みはさらに大きく広がり怪物の身体を飲み込んでいく。しかし、神の勝利もまたなかった。飲み込まれる怪物が神の像をしっかりとつかみ、2つの存在はもがきながら完全に姿を消した。
戦場に戸惑いの空気が流れる。そして戦いは、大きく襲撃者側に傾いた。
6
「何が起きたんだ、クレイ?」
バーノルはクレイに尋ねる。クレイの変貌、そして怪物の復活と、神と怪物の消失。目の前で起きたことは彼の理解を超えていた。
クレイはゆっくりと振り返った。その表情には、今までと違う落ち着きがある。
「“魔法”の1つの側面を見た気がします。今、この戦場では神を信じる者と、疑う者が争っています。実際に動く神を見たとき、多くの人がひれ伏すだけでなく、反発も感じた。その存在を認めない者、目の前の神が唯一絶対だとは思わなかった者、そして神に対抗するもう一つの力、悪魔の存在を知っていて、その復活を恐れている者達もいた。あの怪物が登場する状況は、整っていたんです。人々の想いに応えてそれが可能になっていた、僕が少しだけそれを後押ししたんです」
バーノルはなおも問いかけようとする。その二人に広場の奥からボドルフが声をかけた。
「クレイ、こっちだ。アルミスが見つかったぞ!」
「アル!」
クレイは走り出す。バーノルも後を追った。
神殿の奥の小さな部屋にアルミスは、いるようだった。部屋の入口の通路で、クレイとバーノルはその空気の変化に気付いた。
ボドルフと共に通路に立っている男達の顔が真っ青だ。一人の男は、痛ましそうにボドルフを見ている。バーノルはボドルフを見る。ボドルフは目をそらし下を向いて唇を噛んだ。
「アル!」
クレイが部屋に入ろうとすると、兵士がそれを押しとどめる。ボドルフは兵士に声をかける。
「いいんだ」
兵士はクレイの身体を離す。はじかれるように部屋に飛び込むクレイ。
バーノルは部屋の中からアルミスの悲鳴を聞いた。
「来ないで! お願い、私を見ないで!」
バーノルもまた兵士を押しのけて部屋に入る。
部屋の中のものを見たとき、バーノルははっきりと自分が後ずさったのを自覚し、激しく自分を責めた。
そこには恐ろしい現実があった。
白い何かが、床にうずくまっていた。
それはひっきりなしに姿を変える。人の腕が生えたかと思うと、昆虫の羽が生え、犬の顔が生えた。それらは認識するまもなく、次々と姿を変える。
それが真に残酷なのは、不定形で不気味な粘塊にしか過ぎないそのものが、アルミスであることがはっきりわかるのだ。形を完全に失い、違うものに変えられても、アルミスがまとう雰囲気と、美しさを、それは間違いなく持っていた。だからこそ、一層無惨だった。
粘塊は床を這い、部屋の中の日の差さない影に動いている。必死に姿を隠そうとするアルミスが哀れだった。
「“混沌”の魔法だ」
ボドルフがバーノルの背後でつぶやくように言う。その声には聞く者の胸を締め付ける自責と悔恨があった。バーノルは振り返る。軍の魔力を象徴する存在として力に溢れていた魔術師の姿はそこになく、愛する娘の悲劇に苦しむ老人の姿がそこにあった。
「アグンは、アルミスが消えていく怪物の身体から、クレイを助け出すのを見ていた。そしてその秘密を知るために、アルミスの身体に混沌の魔法をかけたのだ。本来混沌と呼ばれる魔法の存在は、この世界ではかりそめの形を得るはずだ。しかし、“神”の力が、あの子の身体を混沌そのものに変えてしまった。あの子は一瞬たりとて決められた形を取ることができない……しかも、触れる生き物すべてに混沌の影響を与え、ゆがめてしまうだろう」
ボドルフは娘を見ることもできずに、独り言のように言った。その傍らをクレイが通り過ぎる。クレイは、アルミスに向かって足を踏み出した。
「止まれクレイ! アルミスに触れればお前も混沌の物質に変わってしまう!」
ボドルフの声に、バーノルはクレイを止めようとする。クレイはバーノルに頷きかける。クレイの顔は緊張していたが、その表情には“自信”が確かにあった。バーノルは足を止める。
「来ないで!」
アルミスである粘塊が一瞬だけ口を創り、叫んだ。ずるずると音を立て、部屋の隅に移動する。
「大丈夫だよ、アル」
優しく、そして決意を込めたクレイの言葉。
「大丈夫だ、アル。僕の身体も、混沌の物質となって、フォゴルに吸収されるはずだった。それを引き留めてくれたのは、僕を助けてくれたのは、君だ。あの時、君の想いが僕を混沌から創り出したんだよ」
「……」
「そして、今日改めて気がついたんだ。人は、自分で想い、人に想われることで存在できる。君が僕を想ってくれなかったら、僕は消えていた。それに気がつくことができるのは、なんて心を暖かくしてくれるんだろう。僕は僕自身と、君の“想い”のおかげで、今、この世界にいるんだ」
クレイは粘塊に向かって手を伸ばす。粘塊は震え、その手を避けて形を変えた。
「手を伸ばして。今度は僕の番だ、アル。僕の想いは君を助けてみせる。君が好きだ。愛している、アルミス」
おずおずと粘塊がクレイの手に向かって伸びていく。クレイの手に触れた瞬間、それは華奢な少女の腕に変わった。腕から肩、銀の髪、緑の瞳、背中、クレイの腕の中で少女は身体を取り戻す。
アルミスは左手を見る。手の内側に右手を添えると、なめらかな皮膚に凶猟鶏に噛み裂かれた傷跡ができた。クレイはアルミスを見つめている。アルミスは無言のままクレイを抱きしめた。
7
戦いは終わった。
ボドルフとバーノルは、手をつないで海を見ているアルミスとクレイを見ている。
「ボドルフ、教えてくれ。あの怪物はどうやって現れたんだ? クレイは何故魔法を再び使えるようになった」
ボドルフは目を細めながら、応える。
「あの存在はクレイに『お前は力の扉だ』といった。いわば、神がこの世界に現れるための“通路”たる資格を得たんだろう。そして、さっきのクレイの言葉が正しいのであれば、クレイは混沌そのものからアルミスに創られたことになる。通路は、ふさがっていないのかもしれん。
クレイが魔法を使えなくなっていたのは、アルミスがそう望んだのだろう。怪物から分離した時のクレイは、アルミスの想いのみで創られたのだ。そしてそれに気がついた。クレイは、アルミスの想いと共に、自分の想いで身体を作り直した。魔法を使える身体に。
そしてあの怪物の出現は魔法の使い方を分かったクレイがきっかけを作った。それ以上に、多くの人間の“想い”があの状況を可能にしたのだと、私は思っている。神が存在することがはっきりし、戦いの中、様々な想いがそれに対抗する存在を欲した。クレイがさっき言ったように“舞台は整っていた”のだよ」
「ちょっと待ってくれ。あの存在はここにいる人間達が望んだ筋書き通り動いた、言ってみれば“観客”に踊らされた、とでも言うのか? 神と呼ばれる存在が?」
「人の心があの存在を生みだした。それが存在することで人の想いが集中し、強大な力を発揮した。あの存在は、資質のあるなしにかかわらず、多くの人間の想いの影響を受けた。確かに言えることは、それだけだ。これもまた魔法の1側面なのかもしれない」
バーノルは首を振る。理屈と目の前で起きた現象はいくら考えてもスムースには繋がらなかった。
しばらく黙ってから、バーノルはさらに聞いた。
「これから、どうなるんだ?」
ボドルフはゆっくりと答える。ボドルフはまぶしそうにアルミスとクレイを見ていた。その表情に、バーノルは家族を取り戻した老人の喜びを見た。
「神は現れ、そして去った。しかしそれは一時のことだろう。人々は神の“実在”を知ってしまった。今日起こったことを調べ上げ、そして自分の力にしようとするはずだ。人々はより魔法を求める。これからが始まりだ。世界は大きな変化を迎えていくだろう。」
バーノルはアルミスとクレイを見る。しっかりと手をつなぎ、同じ方向を見ている二人。バーノルの胸に小さな痛みが走る。
パン。
両手で顔を叩き、ごしごしとこする。そして唇に笑みを浮かべて、言った。
「あの二人ならば、大丈夫さ」
完




