第一章 日常生活
指宿の自宅の庭には、彼がかつて大切に手入れしていた一本の紫陽花があった。主を失い、雑草に埋もれかけていたその花が、今年も淡い青色を湛えて咲き誇っている。
鹿児島へ戻った君沢良子は、あの日、シーサイドももちで手放した名刺のことを時折思い出す。
結局、その名刺の主から連絡が来ることはなかった。
だが、良子の心は不思議と穏やかだった。
あの老人の、汚れを纏いながらもどこか神々しささえ感じさせた横顔。そして、彼を慕うように寄り添っていた真っ白な子犬。
「……翔ちゃん、あなたは今、幸せなのね」
第一章~第十四章
広く何もない空間の中に、私はいる。ベッドに横たわる自分自身の姿が見える。その私は、夢を見ているのか、ただ目を閉じているだけなのかは分からない。私はゆっくりと自分自身に近づき、その顔に手を触れた。
瞼の奥に暖かい光を感じた。ゆっくりと目を開けると、カーテンの隙間から朝陽が差し込んでいる。枕元の時計を見ると、いつもと変わらぬ時間だ。しばらく寝たまま天井を見つめ、それからゆっくりと起き上がる。これが私の日課だ。
居間のテレビを無造作につけ、眺めるでもなく食事を摂る。朝食は市販のスープ一杯とバナナ一本。献立を考えるのも片付けも面倒なだけで、こだわりがあるわけではない。
私は今、一人だ。四十五年連れ添った妻は三年前、病で他界した。一人娘がいたが、嫁ぎ先で夫婦とも事故に遭い、亡くなっている。還暦を過ぎて十年。両親も亡く、兄弟もいない。俗に言う天涯孤独である。
そんな環境に生きる私だが、実はもう一人の「配偶者」がいる。齢十一。この種類としてはなかなかの高齢だが、彼女はいつも家の中で気ままに動いている。朝、日差しで目覚めない時は、彼女の舌で顔を舐められて起こされるのが常だ。
その同居人は、愛犬のマリン。知り合いから生後二ヶ月で引き取り、早いもので十一年が経つ。生前の妻が可愛がり、私も共に面倒を見たせいか、実によく懐いている。マリンの朝食は決まってドッグフード。品数の少なさは私のモーニングメニューと同じだ。
朝食を済ませると、しばらく座椅子に座り、軒先の小さな庭を眺める。それが一縷の楽しみだ。季節ごとに小花が咲いては散り、それを繰り返す風情が良い。
時間はゆっくりと過ぎていく。春夏秋冬、雨天を除いて私は必ず同じ時間に出かける。もちろんマリンも一緒だ。行き先は近くの総合公園。野球場や広場、遊具があり、針葉樹や落葉樹が茂る遊歩道は散策にちょうどいい。秋には銀杏の葉が道を黄金色に埋め尽くし、壮観ですらある。いつものコースを歩き、いつもの長椅子に腰を下ろした。
目の前には噴水があり、時間になると吹き出したり止まったりを繰り返している。私にとっては、今日も変わらぬ一日だった。
しばらくすると、椅子の端に一人の男が座った。八十歳くらいだろうか、明らかに私より年上に見えるその老人は、噴水を指さして唐突に声をかけてきた。
「今日は噴水が出ていませんね?」
少し躊躇したが、すぐに私は応えた。
「あの噴水は、まだ吹き出す時間ではないですよ」
「この前来たときは出ていたんだが……」
噴水の少し奧に設置している時計を確認して私は続けた。
「あと五分もすれば吹き出しますよ」
「いや、ずーっと出ていた」
「失礼ですが、よくここに来られるのですか?」
「いや」
「あの噴水は決まった時間に出るんです。前回はちょうど出ている時間だったのでしょう」
老人は少し考えた末に言った。
「なるほど、そういうことか。……あんたは、ここによく来るのかね?」
「恥ずかしいことですが、雨の日以外は毎日です」
「お仕事は?」
「年金生活ですよ」
「まだお若いのに。失礼だが、お幾つかな?」
私も聞き返してみた。
「八十三になった。おたくは?」
「七十一です」
老人は指を折りながら言った。
「申年か。ちょうど一回りだね」
「ええ、申年です。お仕事は何をされていたのですか?」
「普通の会社員だよ。辞めてもう二十年になるかな。……お名前を伺っても?」
「指宿です。失礼ですが、あなたは?」
「わしは箭内」
「箭内さん……どのようにお書きになるのですか?」
「指宿さんは、あの鹿児島の温泉の指宿だろう。わしの名前は説明するのが面倒でね」
確かに、私の名字は温泉を知らない相手には「指の宿」と一文字ずつ説明せねばならず、手間をかけさせてしまった。初対面なら分かりやすく説明するのが筋だろうに、些細な失態を恥じ入ってしまった。私は話を切り替えた。
「箭内さんは、お住まいはお近くで?」
「竹冠に、前という字の角をとって、内側の内……正確には前ではないんだが……」
箭内さんは結局、改めて名前を説明してくれた。話題を変えたことが、かえって彼に気を遣わせたようで申し訳なくなる。
「以前は隣町に住んでいたが、家内が亡くなってね。最近は娘の住むこの近くで世話になっているんだ」
箭内さんは、問いへの答えが少しズレることはあっても、口調はしっかりとしていた。
「なるほど、それで噴水の時間をご存じなかったのですね」
「ワッハハ、そうかもしれないな」
他愛のない箭内さんの笑い声が響く。しばらく雑談を交わした後、彼は公園の出口の方へ立ち去っていった。
公園デビューして以来、こうした出会いは珍しくない。知り合いも増え、通りがかりに会釈を交わすこともある。日常の何気ないコミュニケーション。相棒のマリンも椅子にひょこんと座り、人間の雑談には関心がない様子で、気まぐれに辺りを眺めている。ここでは、そんな穏やかな時が過ぎていくのだ。
そろそろ帰る時間だ。腕時計は持っていないが、人の流れでおよその時間は分かる。公園に集まる老人たちは時間に正確だ。誰がいつ来て、いつ帰るか。それを眺めているだけで、私の脳裏には正確に時が刻まれる。
帰り道は寄り道もせずひたすら歩くが、頭の中では昼飯の献立を考えている。出かける前に米だけは炊いてきた。おかずが悩みどころだ。この歳なりに栄養バランスを考えてはいるが、自炊はできない。いや、してこなかった。生前、妻がすべてやってくれていたのだ。当時はお山の大将のように踏ん反り返っていた自分だが、今になってその代償を払わされている。
帰路にあるスーパーに寄る。入り口の脇にマリンを繋いでおくのが習慣だ。惣菜売り場へ向かい、メンチ、コロッケ、アジフライ、唐揚げを週替わりで選び、百円のカット野菜を買う。レジの店員は私の顔を覚えているらしく、軽く会釈をくれる。「この人は独身で揚げ物が好きなんだな」と思われているかもしれない。最初は抵抗のあった買い物も、いつの間にか理由のない羞恥心が芽生えてきた。たまには違う店へとも思うが、遠く離れた場所まで行く気力はなかった。
店を出ると、マリンがお座りして私の顔をじっと見ている。媚びるように尻尾を振ることもない。
帰宅して食事を済ませ、座椅子に横たわる。無趣味な私の数少ない楽しみは、図鑑で気に入った花木をホームセンターで買い、小さな庭に植えて眺めることくらいだ。
それ以外は何もしていないのに、時が過ぎるのだけはやけに早く感じる。
風呂は面倒でシャワーで済ますことが多い。下着の洗濯を思うと、毎日入るのも億劫になる。ここでもまた、洗濯をしてくれていた妻のありがたみが身に染みる。夕食は昼の残りとカップ麺。大して動いていないのに、一人前に腹は減るのだ。
夜もテレビを点けるが、音は聴いていない。ただ画像が流れるのを眺めているだけだ。食事が終わると猛烈な眠気が襲い、座椅子で寝入ってしまう。気がつけば深夜、慌ててベッドへ這い出すのが常だった。
翌朝は、自然に目が覚めた。窓の外は曇天だ。雨の日は公園へ行けないため、少し憂鬱になる。前日の残り物も、缶詰も、冷凍食品もわずかしかない。今日はまだ降っていないことに安堵し、いつものようにスープとバナナを流し込んで公園へ向かった。
歩調を合わせるマリンと共に、慣れた道を歩く。交差点を渡る時も、マリンは左右を確認することなく公園だけを見つめて歩く。私にとっても、それが自然な光景だった。
公園の椅子に決まった指定席はないが、選ぶ基準は「景観」だ。遠くの山々の稜線、その先に望める富士山。冬の透き通った空気の中にそびえる雪化粧の富士は、一時の醍醐味である。
あいにく先客がいることもある。その時は諦めて別の場所へ行くしかない。先日、噴水の前の椅子に座ったのも、そんな理由からだった。一番乗りにこだわって気合を入れる必要はない。これは仕事ではなく、ただの散歩なのだから。
案の定、富士の見える一等地には先客がいた。仕方なく球場前の椅子へ向かおうとした時、ふと昨日のことが脳裏をよぎった。
(もしかしたら、昨日会ったあの人がいるかもしれない)
そんな予感に誘われ、マリンと遊歩道を歩いて噴水の方へ向かった。
噴水を囲んで左に曲がった先にある椅子は、人気がなく空いていることが多い。だが、角を曲がった瞬間、私は目を疑った。
そこは見知らぬ老婆たちに占有されていた。余儀なく最初の目的地へ戻ろうとしたが、なんだか嫌な予感がした。今日はやけにすれ違う人が多い。もしかしたら、あちらの椅子も埋まっているのではないか。
不安は的中した。ここも見知らぬ人たちでいっぱいだ。気のせいか、マリンまで疲れたような表情をしている。
宛てもなく歩いていると、遠くから若い親子連れや高校生たちがこちらに向かってくるのが見えた。
その光景を見て、私はようやく気がついた。
今日は土曜日か、日曜日なのだ。
微かな疑念が胸をよぎった。現役の頃、休みである土日を忘れることなど決してなかった。あんなに待ち遠しかった休日が、今では曜日すら分からない。
老いか、それとも社会との繋がりを断った末の慣れの果てか。そんなことを考えずにはいられなかった。
ほどよく歩いていると、いつもは座らない椅子が空いていた。よし、今日はここにしよう。マリンも疲れたのか、私が腰を下ろすと同時に足元に丸まった。
ささやかなおやつをマリンにやり、無意識にポケットから携帯を取り出す。今日の曜日を確かめたかったのだ。画面にはやはり「土曜日」と表示されている。
普段、携帯は持ち歩いてはいるが、自分から画面を見ることはほとんどない。時刻を確認するか、めったに鳴らない電話を待つだけの道具だ。公園の連中がよく画面を指で弾いているが、私の携帯にそんな機能はない。俗に言う「ガラケー」である。
携帯をポケットにしまい、改めて正面を眺めた。なるほど、ここが不人気な理由がわかる。椿の垣根と欅の木が視界を遮り、富士山がまったく見えないのだ。ただ、公園を行き来する人々が目の前を通り過ぎていくだけ。
そうこうしているうちに、いつもの帰宅時間が近づいた。重い腰を上げようとした時、近くで声がした。
「調子はどうだい?」
振り向くと、公園仲間のやっさんだった。
「相変わらずですよ、やっさん」
「なんだい、もう帰るのか。ゆっくりしていけよ」
やっさんはいつも自転車でやってくる。私の目の前に自転車を止め、隣に腰かけた。
「今日は珍しいところにいるね」
「いつもの場所は先客がいてね、ここしかなかったんですよ」
「そうか、今日は日曜日だからかな」
「やっさん、違いますよ。今日は土曜日。もう、土日もわからなくなっちゃいましたか?」
「いやいや、毎日が日曜日みたいなもんだからねえ」
やっさんは豪快に笑った。勘違いしておきながら人を食ったような態度をとるのが、少し滑稽で、少し哀れに感じた。
「そうそう、今日も感染症が増えてるね。ワクチンは打ってるかい?」
やっさんが唐突に話題を変えた。
「ええ、もう何度か打ちましたよ」
「いや、流行りのやつじゃなくて、インフルエンザとか肺炎のワクチンだよ。いぶさんも七十過ぎだろ。みんな打ってるぞ、打っておいた方がいい」
「通知なんて来ませんが」
「ばかだね、その辺の病院で金を払えば打ってくれるよ」
「タダじゃないんですか?」
「有料だよ、有料。これで調べればすぐわかる」
やっさんはスマートフォンを手に言った。
「そんなことまで、その電話でわかるんですか?」
「ああ、調べたいことは何でもわかる。あれ、いぶさんは持ってないのか?」
「ありますよ、ほら」
私がガラケーを見せると、やっさんは鼻で笑った。
「いぶさん、それはダメだ。今時のを買いなよ」
たしかに、多くの年配者が画面を触っているのは見てきたが、そんな便利な使い方をしているとは思いもしなかった。自分は無知ではないつもりだったが、時代の流れに取り残されているような不安が、胸に小さなざわつきを残した。
いつもの時間を少し過ぎて、やっさんと別れた。私は昼食を調達するため、スーパーへ向かった。




