羋蒼旅の志
泰阿剣――欧冶と呼ばれる伝説の鍛冶師が鍛え上げた剣である。かつて茨国の開祖、武王が会戦に敗れ、城を囲まれた。その際、泰阿剣が輝いて嵐を起こし盲従を呼び寄せ、敵兵を撃退したとの逸話が残っている。
雷衝動――古くは、落雷を受けても倒れなかった神木から作った弓とされている。北方の勇士が茨国の領、弦という地に赴いて製作を依頼し、その弓を以て天日を射落としたという神話があった。
もちろん、これらはどこまでも伝承である。名剣、強弓であることに違いはないが、少なくとも当世においてそのような神威を見た者はいない。
しかし茨国の王室においてその伝承は信じられており、王権の象徴となっている神器であった。
それを羋蒼旅は、闘氏に与えてよいと言ったのである。
「失礼ながら、王子は泰阿剣と雷衝動のことを存じ上げておられますかな?」
敖賈が振り返って、怪訝な目を向けた。
「武王伝来の神器であろう。しかし、私には何の愛着も価値もないものだ。それで闘氏への顕彰となるというのであれば、私は喜んで国庫を開こうではないか」
「わかりました。正しくその意味を理解された上でのお言葉とあらば、私から申し上げることはございません」
羋蒼旅の言葉もそうだが、敖賈がすぐに引き下がったのもまた、茨国の名家の人らしからぬものであった。むしろ若い羋蒼旅を諫めるべきであろう。
闘羽夸としては、難題を押しつけて出方を見ようとしたのである。それが、あっさりと受け入れられてしまったので、次の出方に窮してしまった。
「だが、所詮はこの場での約束ではないか。事が巧く運べば、なかったことにするつもりではないのか?」
「それについては、私を信じてもらうしかないな。しかしまあ、そういう狡猾なことをするつもりはないさ。私が兄を排斥すれば、兄の一派も連座で多く罰さねばならぬからな。そうなると、私が王座にあるためには闘氏の力が欠かせなくなるであろう」
「ならば、本当に……我らが王子のために尽力し、僭王に勝つことが出来れば、その時は泰阿剣と雷衝動を頂けるというのですか?」
「だから、そう言っておるだろう。これが他国へ渡るというのであれば私とて少しは考えるが、羋姓の功臣の手に渡るのであれば、躊躇うことなどないさ」
こうなると、むしろ退路を防がれてしまったのは闘羽夸のほうである。
しかしそれでもなお、闘羽夸が前言を撤して助力せぬと言ってしまえばそれで終わることでもあった。羋蒼旅には、闘氏を従わせるための力など、戦後の褒賞の口約束の他には何も有していないのである。
茨国王室への嫌悪はある。しかし、羋蒼旅という若い王子に対して、闘羽夸が興味を持ったのもまた事実であった。
「ならばもう一つ、お聞かせいただきたいことがあります」
「ふむ、なんであろう? 褒賞がまだ足りぬか?」
そうではないと、闘羽夸は静かに否定した。
「王子は、兄を倒して即位なさったのち、どのような王にならんとお思いですか?」
闘羽夸が、鋭い眼光を向けてきた。一瞬だけ唖然とした後、羋蒼旅は顎に軽く手を添えつつ俯いた。
確かに、これから王として奉戴されるというのであれば、それは担ぐ者が当然ながらに抱く疑問である。しかし今の羋蒼旅には、兄に会って父王弑逆と、自身の命を狙ったことの真意を問いただす以外のことは考えていなかった。
闘氏に褒賞を与えるためにも、王にはならなければならない。羋烙漣に対する情はあるが、父を弑した兄との対立が公然のものとなってしまえば、羋烙漣の即位を容認することは出来ない。羋烙漣を降し、獄中にて問うより他にないと割り切ってもいる。
だが、その後のことなどまるで考えていなかった。
そしてこの問いへの返答こそが、闘氏を味方につけられるかどうかの分水嶺であると羋蒼旅は見た。
といって、それらしい言葉を弥縫して示しても闘羽夸は納得しないだろう。ともすれば、その言葉のせいで永遠に闘氏からの信を失うことさえあり得るのだ。
羋蒼旅は黙然としつつ熟考した。つい先日まで、自分が王になるなどとは夢想だにしなかったのだから、即答できなくて当然である。
――民を富ませるとか、国土を広げるとか。いいや、違うの。言葉として軽いし、何よりも、面白くない。
ここで、面白いかという観点が出てくるのが羋蒼旅という少年である。まだ若く幼い王子は、それ故に、人は堅苦しい理想よりも喜楽に惹かれるものだと感じたのであった。
何よりも、実際に王となれば、ここで口にしたことを主導するのは自分なのだ。肩肘の張るようなことや、つまらないことはしたくないのである。茨という大国の君主になったからといって、荘重な鳥籠の中で豪奢な生活をしながら、飛び立つことも出来ず蒼天を見上げるだけの不自由な存在にはなりたくなかった。
そう考えたとき、ある言葉が羋蒼旅の口から転び出てきた。
「――武王を凌ぐ王になる」
闘羽夸も、そして敖賈も、思わず耳を疑った。
茨国中興の祖であり、今日の繁栄の礎を作った英邁なる王。茨人であれば誰もがその名を知り、その業績を崇める偉大なる王を超えると、未だ王ですらなく、兵の一人も持たぬ少年王子は言ったのだ。
「そのような畏れ多いことを、王子は本気で言っておられるのか?」
闘羽夸は声を震わせていた。霊威の棲む山に不浄を纏って踏み込むような不敬を目の当たりにしたような、度し難い愚者を見るような眼をしている。存在そのものが尊貴であり、今や伝承となった武王を越えんとすることは、茨人にとってそれほどに信じがたいことなのだ。
「先祖の功績を、その裔が凌駕せんと欲して何が悪い? それを忌避するのであれば、武王は茨を興した羋鬻よりも茨人の崇敬を集め、祖霊に不敬を働いていると言えるのではないか?」
茨国の開祖の名を出して、羋蒼旅はそう反論した。闘羽夸は言葉に詰まった。確かに茨国において武王は広く恭敬されているが、羋鬻のことは武王ほどには知られていないのだ。
その論理を聞いた敖賈は、納得すると、口元を抑えつつ笑いをかみ殺しはじめた。
「なるほど、確かにそうですな。これは、私や羽夸どのよりも王子の言われることのほうが正しいかと」
闘羽夸は、今一つ釈然としないながらも、言葉を返せずにいる。茨国において武王が偉大であることには疑いなく、詭弁とも取れる言である。それが出来ぬのは、羋蒼旅にそういうつもりが微塵もないからであった。
羋蒼旅は、子孫が先祖の業績を越えることに畏れを抱いていない。むしろそれは、踏破すべきものであると信じているのである。そのための具体的な経論は何一つとしてないが、とりあえず、理想だけは示した。
次は、闘羽夸が応える番である。羋蒼旅は、猛禽のような鋭さで闘氏の氏長を見据えた。
――この王子は、世を知らぬ愚者か。それとも、真に武王を超える大器か。
このまま日陰で時を待つか。それとも、今の闘氏にあるすべてを以て、羋蒼旅という王子に賭けるか。
闘羽夸は瞑目した。暫くして、刮と眼を開くと、
「わかりました。ならば我らは、王子に與することに致します」
と、高らかに宣言したのである。
闘羽夸の中に未だ、迷いはあった。しかし、
――武王を凌ぐ。その言葉の響きは悪くない。
そう感じたのである。一度、茨王にと対立して零落した闘氏である。ならばもう一度、茨王に挑むのも悪くない。それで亡びるのであれば、それが闘氏の天与の命数なのだろう。
闘羽夸は応じてくれた。そのことに安堵しつつも、羋蒼旅は複雑な胸中であった。
『蒼旅。俺はな、いずれ――武王を凌ぐ王になりたい』
『偉大な祖に敬意を払うのはいい。しかし、その遺徳の上に座しているだけではいけないと思うのだ』
まだ羋蒼旅が今よりも幼い時分のことである。覇気を込めてそう語ったのは、兄の羋烙漣だった。
どのような王を目指すべきかと考えた時に、かつてのやりとりが頭をよぎり、そのまま口にしたのである。その英邁なる志が今、兄と戦うための与党を集めるのに役に立ったと思うと、
――人の生とは、どう転がるか分からぬものだ。
と、思わずにはいられなかった。




