第二十三話 記憶トは曖昧なもの
深い深い海の中。泡も光も何もない。
あるのは暗闇だけだった。
完全ではない世界。完全ではない時間。完全ではない自分。
不完全に包まれているのに、美しい。歪なのは想いだけ。
何も考えたくない。何も見たくない。
もう生きていたくない。
そんな負に包まれた自分に溺れて、このまま窒息できたならと望み、また沈んでいく。
――隣にいる資格なんて、きっとないんだ。
◇◆◇
―― Haruki side ――
俺は、あるいは僕は――異様に軽い瞼を持ち上げる。
周囲に広がるのは、白、白、白。
他に何色も存在しない。そんな空間だった。
「ここは……どこ?」
自分の一人称も定まらぬまま起き上がると、まるで海に潜っているかのような浮遊感に苛まれる。
どうやら、地面などという概念はないらしい。
「とりあえずこの空間の情報を手に入れた方がいいかな」
歩く――ではなく、飛ぶようにしてこの空間を巡っていく。
しかし、何処に進んでも結果は同じ、白だった。
進んでも白。下がっても白。上っても白。沈んでも白。
異常な景色もいいところだ。
「……もしかして、夢?」
何故、最も可能性のある選択肢を外していたのだろう。それはきっと、肌の感触がリアルだったからだ。右手で左手に触れたなら、手相の溝の感触が右手に伝わり、左手にはこそばゆさが広がる。
夢ならいつか目が覚める。その時まで、目を閉じて待っていよう。
ゆっくりと目を閉じて、白い空間を黒く染める。
「それがいいことだと思いますか?」
ふと、背後から歌唱ならばアルトを担当していそうな低さの声を持った女性に話しかけられる。
目を開けて背後を振り返ると、そこには真っ白なワンピースを着用した、三メートル近くはある女性が悠然と佇んでいた。
腰下まで伸ばした、ティシアがもつ髪とよく似た薄紅色の髪と、魂が引き込まれそうになる程透き通った藍色の目が印象的である。
美しすぎる顔から覗かせる、何処か妖しげで、何処かミステリアスな雰囲気。
それでいて、全てを見透かしていると言わんばかりの雰囲気も醸し出しているその女性は――穏やかに微笑んでいた。
「おはようございます。……とは違うのですが。まあ、夢と考えるならば、そんなこと今は良いんじゃないでしょうか」
「貴方は一体?」
「私は……アルカナ。……そうですね。人々からは全知全能の神と呼ばれてしまったモノといえばわかりますか?」
ティシアと出会ったときに一度だけ、全知全能の神がいるということを口にしていた。
しかし、ずっと眠りについていて、ヒト前にも神の前にも姿を見せることがない。そんなことも併せて言っていた気がする。
「どうして、全知全能と呼ばれる程の地位を持った貴方が――目の前に立っているんだ? ずっと眠りについているって」
「それは全知全能の私だから。今ハルキさんの前にいるのは、全知全能ではない私。――現在の情報と自分で見てきた過去しか知らないヒトと何ら変わりない存在。それが今ここにいる私です」
「つまり、眠っているアルカナさんは別の場所にいると」
「簡単に言えば、そうなりますね」
アルカナは少し残念そうな表情を浮かべる。
「今の私には、誰かに何かを啓示したり享受することはできません。貴方に対しても」
「そうなんだ。……でも、それだったら、俺に会おうとする必要はなくないか? もしかして――魔王の事、とか?」
「魔王の事もきっと大事なのでしょう。しかし、魔王はヒトに危害を加える存在ではないかもしれない。貴方が気にすることではありませんよ」
「だったら……なんで? ――それに、この世界にいないといけない理由がなくなってる気がする……」
「ここにいる理由は貴方に伝えたいことがあったから。――ハルキさんがこの世界にいないといけない理由は、契約を行ってもらったと思いますが、その内容が魔王討伐だから……というのが一つ。それとこれが貴方に伝えたいことでもあるのですが、理由にはもう一つあったりするんです」
「……もう一つ?」
「――貴方は貴方自身が何モノであるか理解していますか?」
「…………はぁ」
自分が何モノかなんて、理解しているに決まっている。
生きていた世界で――何かにあって死んでしまって、この世界に転生されたただの――。
――に迷惑をかけた自分が嫌いで、この世界に来たと同時に――を変えて昔の――を忘れようとしている。
――は――になろうとして、出会いの中で自分が――だと気づくことになり……。
「…………なんで?」
「ハルキさんは今自分が何モノか、分からなかったのではないですか?」
「…………」
否定できなかった。
――分からなかったのは「何モノ」か、だけじゃない。現実世界であったはずの出来事も、自分が何故戻ろうとして誰から赦しを得ようとしているのかも。
それは本当の自分と呼ばれる存在が保有していた記憶――現実世界の自分が持っていた記憶の大半だった。
「分からない――というのは仕方がないことでしょう。貴方は本来この世界の人間ではない。この世界に転生し、この世界のヒト達と出会い、この世界にある貴方のいた世界とはまるで異なる不可思議な現象を前にした。そして何より、貴方は自分の姿の変化を利用して、自分を変えようとした。……この世界に来てから短い時間しか経っていないとはいえ、これらがいつしか貴方の中で知らない間に、本当の自分を消し去ろうとしてしまっているのでしょう」
――とはいうが、自覚症状のない病気のようなもの。
自分を消し去るという無自覚の症状があって、それは既に自分が「何モノ」かを分からなくさせている。
「……自分が何モノかなんてどうやって思い出せば」
「それは貴方の中にしかなくて、誰かに分かるものではありません」
加えて、治療法も分からないときた。
「貴方はこれからも魔王討伐を理由に旅をして、自分が何モノであるかを理解してください。……いや、思い出してください。それは私達にとっても非常に大事なこと。――魔王はその過程で倒すことになるとは思います」
「それが――この世界に残っている理由?」
「そうですね。…………この世界なんて踏み台にしたって構わない。どうせ、時間が経てば朽ちてしまう。世界とはそういうものです。元の世界に戻れば、この世界の事なんて忘れてしまうかもしれません。だから、自由に使って、自由に足掻けばいいんですよ」
本当に神なのか、と疑いたくなる程の暴論をアルカナは口にした。
しかし、彼女は至って真面目。本気でそう思っているし、暴論だとも思っていない。それは例え他人であったとしても、鋭く、それでいて何故か儚げな瞳を見れば理解できる。
アルカナは一度目を閉じ、再び目を開けた時、切り替えるように美しい笑みを零した。
それは終わりの合図だったようで――白い空間が更に白い光で上書きされ始め、彼女の姿が見えなくなり始める。
「また会いましょう。――私もこの姿だとやることがなくて、暇なんです。……少しは未来が視える状態を維持して話せるようになりたいのですが……生憎そこまで全能ではないのですよ、私は」
「待って! まだ分からなくて、聞かなきゃならないことが――」
何を聞きたかったのだろう。――すぐに分からなくなる。
この空間はあまりにも不可思議だ。
世界の常識も、人間の常識も、全ての理も――一切無視しているような、そんな場所で。
――何より、アルカナと交わしていた内容が既に失われようとしているのだから。
そんなこと、もうどうでもいいか。
また世界が――受け入れ、閉ざされ、開かれる。
◇◇◇
おそらく窓から差し込む明るい陽光に眩しさを覚え、俺はゆっくりと目を開ける。
慣れない眩しさに一瞬目を閉じてしまうが、すぐに周りの明るさに慣れて、再び瞼を持ちあげる。そして、左足に僅かな痛みを走らせながら上半身を起き上がらせた。
周囲を見渡す。俺がいるのは青いビニールでできた巨大なテントの中で、自分が眠っていた真っ白なベッドの右に簡易的な入口があった。入口が完全に開け放たれており、どうやら陽光は窓からではなく、入口であるドアから入り込んでいたらしい。
ベッドと形式的に置かれた椅子以外は特に何もなく、五人は余裕で入れそうに思えた。
おかしな夢をみた。……でも、どんな夢だったんだろうか。
誰かと出会って、何かを告げられた――そんな気がするが、内容は殆ど覚えていなかった。
「うわっ、丁度……。おはようっ、ハルキ」
ユリアがドアからひょっこりと顔を覗かせ、はにかんだ笑顔を浮かべていた。
「おはよう。……起きた時に誰かがいるのって、なんか安心するな」
何故か――そんなことをふと思ってしまう。
その言葉を聞いて、ユリアはくすくすと口に右手を当てて笑った。
「……ルイの言ったとおりだね。起きた時誰もいなかったら寂しがるって」
「ルイがそんなことを?」
ユリアは無言で頷き、右隣に置かれていた椅子に腰かける。
座ると同時に、風がドアから入り込み、彼女の銀髪を靡かせ俺の身体を撫でる。それがこそばゆくて、身体を動かすと、身体を起き上がらせた時とは比べ物にならない程の激痛が左足に走った。
「いっ……た」
「大丈夫!?」
「あ……あぁ。大丈夫だから気にしないで」
俺はタオルケット(みたいな何か)の中でバレないように左足をさする。
ユリアは腑に落ちない表情を零していたが、一応俺のことを信じてくれた様子。体を左右に小さく揺らすという可愛らしい仕草を始めた。
それを見ると何処か落ち着いて、何故か安心してしまう。
「……今までは誰かがいないと寂しいなんて思ったことなかったんだけどな」
「そうなの?」
「一週間で人ってこんなに変わるもんなんだって思ってる。――今まで、家族はいないような……」
そこまで口にして、うっかりと口を滑らしていたことに気付き、俺は慌ててユリアに釈明する。
「ごめん、今のは忘れて」
「大丈夫だよ? あの日の夜に、そのことは聞いているから」
「え? 俺、ユリアに言った記憶なんて――」
「あっ! ルイを呼んでこないと! ……えっと、それとクレンさんにも伝えないと! だから……ちょっとだけ席外すね」
彼女は話を遮るようにテントを後にする。
少しだけ、何かを隠すために話を遮ったのかと思ったが、そんなことはなく、純粋に偶然あのタイミングで思い出しただけのようだった。
しかし――俺には彼女に家族のことを話した記憶が一切なかった。なのに、彼女はきっと、俺の過去を少しではあるが知っている。
俺と彼女の記憶に明らかな違いがあって――気持ちが悪い。
彼女が決して嘘をついていないと理解できているから、尚更だ。
「あの日の夜って……一昨日……だよな」
その日の記憶を思い返そうと、目を閉じ背中をベッドに預ける。
その時、誰かが心の中で囁いた。
記憶なんてそんなものだよ。
今までに何回か聞いたことのある声――のはずだった。
しかし、その声は今までと違って、何処か穏やかな声音で――美しい程に狂っていた気がした。




