君がいれば(裕紀Side)
一部、自死を想起させる表現があります。ご注意ください。
もし私がその瞬間に死ななければならなかったとしても、悔いはありません。私の幸せはあなたの手の中にあります。それを大切に扱ってくれますか?
三島由紀夫「春の雪」
この屋敷に越してきてしばらくして見つけた、俺と美鈴だけの秘密の場所。
大人たちはおろか、沙夜子や美央美にすら教えていない『フタリだけのバショ』。
屋敷の庭の片隅。忘れ去られたかのようにポツンと立っていた古い蔵のそのまた片隅の死角に、子どもなら四人ほどが隠れられそうな空間がぽっかりと開いていて。
偶々二人だけで遊んでいた時そこを見つけた俺たちは、美央美や沙夜子にも内緒でそこを二人の隠れ家にした。
隠れ家と言ってもそこで何かするでもない。手慰みで作った押し花・花冠、ただ拾った綺麗な石やセミの抜け殻、大きかったり真ん丸だったりで目についたドングリ。河原で見つけたカマキリのタマゴ。そんな他愛ない『タカラモノ』を隠しておく場所。
あの日。彼女が何も言わずに自分を置いていくはずがないと。それならあそこに何かあるのではないかと、そう思って足を運んだそこに。
ポツンと置かれた一通の手紙。
あの日そこに置かれていた手紙を。
書斎の机、鍵付きの引き出しの一番底に入れていたノートに挟みこみ、普段は目につかないようにしていた手紙を。
数年ぶりに取り出して、四つ折りのそれをゆっくりと開く。
そこには年相応の少し丸みを帯びた文字と、達観した大人のような冷静な文章。それが奇妙に同居している手紙。
まるで大人の美鈴が、子どもの美鈴の体を使って書いたかのような。
それは、彼女が『子どもでいることが許されなかった子ども』だったからなのだと、今ならわかる。
そしてそれを彼女に強要していたのは、恐らく『俺』なのだ。
『秘密の場所』
手に手紙を持ったまま、過去それがあった場所に足を運ぶ。
美鈴がいなくなって少しして、先代が屋敷を建て替える際に一緒に取り壊された蔵があったそこには、今は数本のハナミズキが植えてある。
俺にとってのこの花は、その花言葉もあって彼女が消えた後も『途切れずに続いていくもの』の象徴だった。
美鈴がいなくても季節は巡る。
俺が止まっていても世界は進む。
『誰か』がいなくても、構わず途切れず進んでいく季節と世界。
変化したのはたったの二つ。
世界からの美鈴の喪失と、俺の世界の崩壊。
ただ、さらさらと、さらさらと。
音もなく、途切れることもなく崩れ続ける世界。
――裕紀が、誰かと共に歩む未来を選んでくれますように。
望んでいたわけではないその一文を読むたびに、胸の奥で崩れ続ける『世界』が軋む。
『……ああ、しまった』
時間の経過とともに、虚無のほうへと硬質化していく自分の思考と感情に気づき。
美鈴の手紙など読むのではなかったと、そう後悔する。
この手紙を読む度に、思考が、感情が、冷めて、こごり、柔軟性をなくして硬質化していく。
ギシギシと軋むそれは、痛みとも違って、
ただ。どうしようもなく。苦しいのだ。
人は、ここで苦しさを吐露できれば。
泣くことができれば。
硬質化した『ソレ』を、溶かすことができるのかもしれない。
だが泣くことができない壊れた俺は……
その時だった。
「裕紀」
背後から、聞きなれた柔らかい声。
それはまるで、硬質化したそれがギシギシと軋む音の中を、スルリと抵抗なく潜り抜けてきたかのように、静かに、けれどはっきりと聞こえてきた。
「沙夜子?」
「裏の桜かココじゃないかとは思ってたけど、当たっていてよかった」
俺の隣で立ち止まった沙夜子は、ハナミズキの花の一つにゆっくりと手を伸ばす。
祖母にかなり強硬に願ってこの場所にこの木を植えてもらいはしたものの、まだ一度もこの花に触れたことが無かった俺にとって、この花は沙夜子のいう所の「宝石箱の中の宝石」なのだろう。
そしてもしかしたらここは、沙夜子にとっても似たような場所だったのかもしれない。
まるで宝物に触れるかのような、柔らかい笑みを浮かべながらのその手を、花を撫でる指を、視線で追う。
『秘密の場所の事は知らなくとも、沙夜子にとってもココはなにかしら思い出があるのかもしれない』
沙夜子が纏う穏やかな雰囲気から、そんなことを考えていた時だった。
ふと、沙夜子の視線が俺の手元、美鈴の手紙に移った。
「さっきは言いすぎたと思って……それは?」
肩をすくめ、無言で手紙を沙夜子に差し出す。
受取り、何気なく手紙を開いて視線を落とした沙夜子が、一瞬固まったのがわかった。
「これ……いつ」
声が。手紙を持つ指が。震えていた。
「いつ見つけたのかって質問なら、『あの日』の朝だ」
「ほか……だれ」
「他に誰かに見せたのかって質問なら、誰にも見せてない」
一瞬、沙夜子が目を瞠る
そして自分が平常でない事を理解しているのだろう。
目を瞑り。
手紙を抱き込むように両手を胸に当て。
三度、四度と深呼吸する。
そして次の瞬間。
左頬に痛みが走った。
普段家事をしているとはいえ、特に鍛えているというわけでもない女の細腕だ。
痛みも衝撃もそれほどではない。
ただ、『あの』沙夜子が手を挙げたというのが、一番の衝撃だった。
いや、正確には『あの沙夜子に手を上げさせた』という、後悔の方が強かったかもしれない。
「あなた……こんなもの今の今まで一人で抱えていたの? 馬鹿じゃないの? ……あなた、本当に何もわかってないじゃない。何も変わってないじゃない」
静かな怒り。
けれどその目元はわずかに潤んでいて。手を挙げた沙夜子の方が痛みを堪えているような、そんな表情。
「なんで私があなたの側にいると思っているの? 子どもの頃からの惰性でいるわけじゃないのよ。頼ってよ。甘えてよ。今までのあなたと私の時間はいったい何だったの?」
両手を握り、俯いて握った両の拳を俺の胸に叩きつけながら、絞り出すような声。
沙夜子の手を離れた手紙がハラハラと舞いながら地面に落ちる。それを視線で追いながら。
思い出したのは高校時代、沙夜子に喫煙がばれた時のやり取り。約束させられたこと。
『自分を粗末に扱わない』と。
ああ。と思った。
ああ。としか、思えなかった。
ただ、沙夜子の拳が胸に当たるたび、こごっていたものが微かに揺らぐ。
「なんで、そんなに一人で抱え込むのよ。こんなの裕紀が辛いだけじゃない」
まるで嗚咽を押し殺すかのような、震えた声。
「こんなの……『裕紀のために私は死にます』って言ってるようなものじゃない」
怒りではない。おそらくそれは悲しみの震え。
「……沙夜子」
名前を呼ぶ。
拳が止まる。
そして顔を上げて自身が打った俺の左頬に、ゆっくりと手を当てる沙夜子。
涙で潤んだ瞳。一筋、彼女の頬を伝って地面を濡らした。
「ねえ、裕紀」
続いて二粒・三粒・四粒。しとどに溢れて落ちていくそれを、彼女は拭おうともしない。
俺も、いつものように彼女の涙を拭い、髪を撫でつけることはしなかった。
「これを誰にも見せずに一人で抱えて、傷ついて、壊れ続けて。あなたはそれで満足だった? 私や美央美、冬子さんに晴紀小父さん、朋子ちゃんや美咲ちゃん。あなたの傷を知る色々な人たちがあなたの傷をなんとかしようとしてたのに……」
「……」
沙夜子が屈んで落ちた手紙を拾い上げる。
「あなたはこれを抱えて、私たちの事をいらぬ世話だって思ってた?」
否定はできなかった。
沙夜子や美央美をはじめ、瑞香や周りの人々がいなければとっくに俺は美鈴の元へ行っていただろうし、心の奥底で、美鈴と二人だけの世界に行く事を望んでいるのは確かだったから。
でも、肯定も出来なかった。
美鈴の元へ行かずに今、ここに、俺が生きていること。それが肯定できない事の証左だった。
「……」
否定も肯定も出来ず黙り込む俺を、再び手紙を胸に抱きこんだ沙夜子が見つめる。
「ねえ裕紀。私今美鈴さんにも怒っているの。こんな『呪い』みたいな手紙で裕紀を何時まで縛るのかって」
再び深呼吸して発した沙夜子の言葉は、それまでと違いただ静かなものだった。
「違うだろ。美鈴は俺の未来を心配して、俺が『箱庭』から出るように。いつまで生きていられるかわからない自分は、離れたほうがいいって」
沙夜子の言葉にとっさに反論する。
「だったら普通に距離をとればいいだけだわ。……あんな方法取らなくても」
「そうなったら俺にとって、美鈴が冬子たちと一緒になる。『死』という絶対的な別離があったからこそ、俺の中で美鈴は美鈴のままでいられた」
「それがわかっているなら、どうして裕紀はこれを誰にも見せずに一人で抱え込んだの? 直後はともかく時間はいくらだってあったし、だれかに見せてもよかったはず。実際、さっきは素直に私に渡したわよね」
瞳に涙はまだ浮かんでいたけれど。そこにあったのはもう、責めでも、怒りでも、悲しみでもない、静かな響きだった。
「……認めたくなかったんだ」
「……」
「これを誰かに見せて、『お前は美鈴に置いて行かれたんだ』と言われたら、認めなくちゃいけなくなる。……俺だけなら、まだ自分を誤魔化せる」
沙夜子が手をわずかに彷徨わせ、そして俺の服の袖をそっと掴んだ。
握るというより、まるで縋るように。
「私ね。高校時代、北島先生から言われたことがあるの。『佐藤はどうして裕紀に遠慮してるんだ?』って。答えは自分でわかってるのに、答えられなかったわ……。裕紀の側にいるのが自分でいいのか、美鈴さんじゃなくていいのか、そう悩んでるなんて。自分が情けなくて答えられなかった……」
「……」
「でもね、この手紙を読んで吹っ切れた。美鈴さんが自分から裕紀の側を離れたのなら、私が遠慮をする必要はないんだもの」
袖から手を放し、俺の右手を両手で包むように握る。
「裕紀の心が壊れても、私は裕紀の側にいる。
裕紀の世界が崩れても、私は裕紀の手を握るわ」
沙夜子のその言葉を聞いた時だった。胸の中でカツンカツンと音がした気がした。




