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日課となっているもの

 夏の朝は昼間のじりじりと肌を焼く暑さより幾分かは涼しいけれど、時折強く吹く風がなければ、むあっとした熱気が足元から上がり、無防備な頭上から汗が流れ落ちて来る。

 今日も今日とて私は、逢坂神社でご奉仕(お仕事)だ。暑っ苦しい袂は襷でまくり上げ、人目が無いのを良い事に、袴の裾を腰の両脇に挟み込み、のんびりゆったり社殿の裏山へと歩いていく。この辺りの木々は大層大きいから日差しが遮られ、程よい気温となっている。快適過ぎて、もうここから出たくない程だ。

 まあそれでも、炎天下に居るよりは汗が噴き出す量が減っているだけで、額にはじんわりと汗が滲んでいる。


「夏は夏、なんだよねえ」


 ここでは、頬を撫でる風さえも涼やかに感じるのだ。


「もう少しゆっくりと、は出来ないよね」


 だって今日の目的はカグツチさんにお供えするお水を取る事だから。


「カグツチさん、待ってるのかなあ」


 今朝はまだその姿を見てはいないけれど、いつものパターンならば、多分後一時間もすればひょっこりと社頭に姿を見せるかもしれない。そうなればカグツチさんを待たせてしまう事になる。

 豊布はゆっくりで良いよとは言っていたけれど、早めに戻らないとカグツチさんにお呼ばれするかもしれないから。心持ち急ぎ足で歩いていく。

 そう思えば、ゆったりとした足取りが勇み足に変わってずんずんと大股になって進んでいく。

 きちんと舗装された道ではないけれど、地ならしされたこの道は草履でも歩きやすく、山道というよりは遊歩道のようなそれだ。

 勿論、ここは逢坂神社が所有する境内で、一般の参拝者の方がここに入る事は無いのだけど。


 勿体ないなあとは思うけれど、神域を荒らされる事は何より忌避するべき事だから、と立ち入りを禁止している豊布の気持ちが良く分かる。

 ―――ここは、神様の領域なんだと、自然に思うんだもの。この自然は、人が立ち入ってどうこうすべき場所じゃない。

 そう思うのは、カグツチさんをまだ短い期間だけれど側で見ているからかもしれない。

 基本的にカグツチさんはマイペースだ。何をしているのか、何処へ行っているのかはよく分からないけれど、何か大切な事をしているぞ、という事は流石に私でも感じる事。

 とはいえ、カグツチさん以外の神様を見た事が無いから、他の神様がどのような事をしているのか、どんな性格をしているのかはさっぱり分からない。いつか私と同じ神様の奉持者(お世話係)に会ってみたいと思う。


 水を汲む道具は、手元に下げた一升瓶のみ。本当は、もっと沢山取っていた方が良いのかもしれなけれど、流石に水を沢山汲んだ一升瓶を何本も抱えて戻るのは無理がある。

 というより、私に筋力が無いだけなんだけれど。とほほ。

 元々、文系の部活動にしか所属していなかった私は、筋力が少なく、体力も平均以下だ。逢坂神社でご奉仕し始めてから漸く体力が平均程度になってきた…気がする。こう見えて、というか何というか。神社でのご奉仕というものは、本来体力勝負のような部分があるのだ。

 重い授与品が入った段ボールを倉庫に運んだり、夏の熱い時期に扇風機しか無い拝殿で豊布の補助をしたり。後は、境内を竹箒で清掃したり。

 竹箒で清掃することがこんなに大変な事だったなんて、私自身以前には考えつかなかった事だもの。


「まさか清掃奉仕で筋肉痛になるだなんて、思っても見なかったもんなあ」


 本当に久しぶりに筋肉痛となって、ふおおだとか痛たたた!等と喘ぐ私を見た豊布に、『今まで筋肉を使ってなかった証拠だね。大丈夫、これからはもっと楽になる筈だよ』とにこにこ笑って言われたら、ぐうの音も出なかった。まあ、その通りだしね、うん。

 いやいや、か弱い乙女ならば仕方無いんですよ、ともごもご反論すると、更に『じゃあこれからは、しなやかな筋肉を付けた淑女におなりなさい』と言われてしまい、肩を落として『精進します』としか言えなかった。

 という事を祖母に愚痴ったら、『ならば薙刀でも手習いしますか? 私が教えてあげますよ』と床の間に飾った薙刀を持って来られた時は、全力で断った事は記憶に新しい。

 祖母はもう随分年を取っているけれど、若い頃に習った薙刀を今でも稽古しているシャキッとしたお婆さんなのだ。『薙刀は女の武器』と豪語する程度には熟練した技を持っているのだから、祖母の凄まじさにはただただ感服するしかない。遡れば戦国時代の女性達は薙刀を習っていたというし、昔の女性達の秘めたる強さというものには、現代に生きる私には持ちえない強さだ。


「本当は私も、弓道とか習った方が良いのかもしれないけれど」


 豊布さんは、習いたければ習える場所を紹介するよ、とは言ってくれているものの、漸く人並み程度の体力を有した私には未だ手が届かないものだ。

 でもいつかは、習ってみたいかもしれない、と思う。まあもう少し体力と気力が無いと続かないだろうから、それはまだお預けという所かな。

 右手に下げた一升瓶を抱え直して奥まで歩いていくと、心地良い水のさざめきが聞こえてきた。この山には川の源流となっている山の湧水が流れているから、その心地良い音色にいっそう涼やかな気持ちになる。


「ここ、かな」


 大きくせり出した岩の影に絶え間なく湧水が湧いている。その傍にはひっそりとお社が立ち、この場が神域である事を示す厳かな清浄な空気で満ちていた。

 よいしょ、とお社の前で一升瓶を下ろし、二拝二拍手一礼(お参り)をしてから一升瓶をそのまま豪快に湧水に付け、瓶いっぱいに満ちるまでじっと湧水に水を付ける。ひんやりと冷たい湧水は、透明に澄んでていて本当に綺麗だ。

 気泡がなくなった一升瓶を引き上げて、袂に入れたハンカチでぐるりと回りを拭い、ずっしりと手の中で重くなった一升瓶を胸に抱えた。


「やっぱり風呂敷を持って来るんだった…」


 空瓶だった時には然程気にならなかったけれど、やはり口一杯に水が入っているとずっしりと重い。一応回りを拭いてはいるけれど、つるつると滑って持ち難いことこの上無い。落とさないようにしっかりと胸に抱いて立ち上がると、何の気配もなく隣に人の影が落ちた。

 ぽかんと口を開けたままその人を見ると、私とそう身長が変わらない女性が立っていた。その服装は、教科書や資料集なんかで見かける、古代大和王朝の卑弥呼のようなそれ。

 何処か幻想的な水色の髪と水色の目を持つその女性は、何かしゃべろうとしたのか美しい唇を僅かに開けた瞬間、「お前、誰だよ!」とお社の後ろの方から幼い子どもの声が聞こえた。

 そちらに目を向けると、頭から湯気を立てた男の子が出てきて、目を瞬かせた。


「お前、こんな所で何してんの?」


 怒った口調でそう言う男の子に気を取られ、いつの間にか隣に立っていた女性が消えていた事には全く気付かなかった。

 「おい」と重ねてそう言われると、大人げないけれどムッとしてしまう。Tシャツに短パンを履いたその男の子は、多分小学生位だと思う。手に持っているのは小さな巾着一つで、虫取りに来た訳でもなく、ここの湧水を汲みに来た訳でもなさそうだ。でも、どうしてこんな所に男の子が居るのだろう? だってここは、立ち入り禁止の場所の筈なのに。


「君こそ、ここで何をしているの? ここは、逢坂神社の境内だよ」


 思わず強い口調でそう答えれば、男の子はじろじろと私の恰好を見て、「なんだ、あんた逢坂神社の人間か」と馬鹿にしたように嘆息する。男の子は私の質問に答える気が無いようで、面倒臭そうに私に背を向ける。何処へ行くかは分からないけれど、ここから先は行き止まりの筈だから、多分男の子が遭難するような事態にはならないだろうけど。

 早くどっか行け、というような態度を見せる男の子には、ここは年上の人間としてビシッと言っておく必要があるのかもしれない。


「ここは立ち入り禁止の場所なんだよ。私はもう行くけど、君も早くここから出なさい。いい?」


 返事を聞く前に身を翻した私は、袴の裾を両脇に挟んでいた部分を元に戻し、急ぎ足でその場を後にした。





「――という事があったんです」

「成る程ねえ。それで帰って来るのが遅かったんだね」


 夏用の薄い狩衣を着装した豊布は、「男の子か」と呟く。

 社務所の中はエアコンのお陰で随分涼しくなっているけれど、豊布の姿を見るとどうにも熱そうに感じて、「暑くないですか?」と突拍子もなく聞いてしまう。


「うん? これはもう慣れだね。暑い事は暑いけれど、涼しいものだよ。これでも」

「そうなんですか? 熱中症に気を付けて下さいね」

「ありがとう。じゃあ、ちょっと毎日祈祷をしてくるよ」


 軽い足取りで社殿に足を向けた豊布は、ふと「そういえば」と声を上げる。どうかしたのかしら。


「その子はもしかしたら、美都さんと同じ奉持者かもしれないね」

「ええっ。本当ですかっ?!」

「うん。まあ、神サンが来た時に聞いてみると良いよ」

「分かりました」


 じゃあ、今度こそ行ってきますと微笑んだ豊布はむあっと熱い空気で満ちた社殿への扉を開き、社殿の奥へ消えて行った。


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