第二話「堀大樹」後編
『そう、こういう言葉があるよ。心配している物事の、八割は実際には起こらない、ってね』
「本当? ……そうだといいな」
『海外の大学での研究結果らしいよ。気が楽になるだろう?』
美玖は微笑んだ。大樹さんは本当に優しい。
「ありがとう」
滑らかな走行音が眠気すら誘う。新幹線の中は、とても快適だ。
美玖は今、母親の元へ向かっている。
母は三年前から母の母、つまり美玖の祖母のところで暮らし始めていた。美玖の父が、母にとっては夫が、亡くなったからだ。癌だった。
同じ境遇になった美玖は、母の様子を見に行こうとしているところだ。新幹線の距離だったこともあり、もう丸々三年会っていない。元気にしているだろうか。
「大樹さんがこんな姿になっちゃったって言ったら、お母さんは何て言うかしら」
『いつもと変わらない僕ですって紹介してくれればいいよ』
「そうね」
同意する美玖の笑顔は少し憂いが残る。
確かに昔から優しかった。そして、それは今も変わらない。
美玖がそれでいいと言っている以上、見た目が薄い板になろうが、そんなこと他の誰にもとやかく言う権利はなかった。怒った春子の心が狭いだけのこと。
問題はもっと、別のところからやってきた。
大樹がお給料を持ってこなくなったこと。
もちろん会社は退職扱いになっていた。話ができるんだから仕事も出来るんじゃないか、と問い合わせてはみたが、会社側はジョークと受け取ってくれたようだ。冷たいものだ。
美玖にとって頼りがいの増した大樹は、そこだけは頼りようがなくなっている。即物的で申し訳ないが、実際、困るのだ。
だって悲しいかな、それは美玖の望む平穏な暮らしができなくなることを指しているから。
収入がない上に、住まいまで春子に追い出されそうになっている身としては、二進も三進もいかない状況である。
母を訪ねようと思い立ったのも、いっそ、そちらに身を寄せようかと思ったからだ。
窓を向けてやった大樹のカメラは、遠い景色を捉えている。
『山が綺麗だね、美玖ちゃん』
「……そうだね」
大樹の新幹線代がかからないのは、いいことだ。
流れる景色はビル群を走り抜け、ついに田畑の中に家がパラパラとあるような田舎道を見せてはじめていた。
祖母の家は、住んでいる町とは全く空気が違う。
家から近い自然のおかげで、外気はしっとりとした緑の匂いを孕んでいる。
きっと目の前の木にいるのだろう、あまりに近い蝉の声が、元気すぎる音量でじりじりと喚いていた。
ぼんやり庭を見る美玖に、お盆を抱えた母の洋子が声をかける。
「美玖ちゃん、スイカよ。食べる? おばあちゃん、病院から帰ってきたから一緒に食べよう」
「んー……」
気のない返事で立ち上がった美玖は、もたもたと母についてダイニングテーブルへ向かった。
久しぶりに娘に会えた母、洋子は、美玖とは逆で明らかにテンションが高い。
ウキウキした様子で切ったスイカをテーブルに置き、先に席についていた祖母の芳江にも話しかけた。
「ほらお母さん、美玖よ」
芳江もニコニコと頷き、歓迎の様子をみせている。美玖一人が萎れていたが、喜ぶ二人は気づいていない。
「美玖ちゃんね。久しぶりやねえ。いつぶりかねえ」
「結婚式じゃなかったっけ。美玖の……」
前回は結婚式。そしてその次に会うのが、結婚相手が死んだからという理由で今だ。ひっきりなしに喋るタイプの洋子も一瞬、言葉を途切れさせた。その隙に芳子は悪気ない発言をする。
「もうお参りしたか、美玖ちゃん。お参りしといで」
美玖はげんなりした顔で隣の部屋を見た。
先ほどから美玖の元気がない理由がそこにあった。
そも、まず、祖母の家は日本家屋だ。庭に松。畳に襖。玄関も引き戸。
美玖にはこれらも怖かった。まるでホラーゲームの一面のよう。今にもお化けが出そうだ。
さらに言えば当たり前のように仏壇があり、辺りには線香の匂いが立ち込めている。
さらにさらに、なんと仏間の襖はあけっぴろげで、遺影がこちらを見ているのだ。インテリアとして怖すぎる。
その仏壇の前に座って……忌々しい音の出る金物を叩いて……もうそれだけで身震いしそうだ。
「したよ」
適当な事を言って席に着き、追及される前にスイカを手に取った。仏間の方は努めて見ないようにする。
確かに始めは、あわよくばここでお世話になろうかとも考えたのだが、実際に来てみるとそんな気持ちはもう逆さに振っても出てこなくなっていた。
ここは田舎だ。田舎には住めない、とてもじゃないが。
田舎とは不吉さを充満させる空間で出来ている、とものの数時間で学んだ。
うちが和室なだけではない。隣近所もまだ瓦葺が多い。町自体がホラーめいている。
気を抜くと家に入り込んで来る小虫。どこかのお宅にある風鈴の音。コンクリの崖からだらりと垂れさがる葛。祖母の病院通い。最寄りのコンビニが徒歩十五分。
嫌だ嫌だ、全部イヤ。怖いものだらけ。
気持ちは充分に挫けた。正直とっとと帰りたい。
母だけはいつもの調子で喋りまくっている。そのくせ、スイカもしっかり減っていくのだから器用なものだ。
「美玖ちゃん、思ったより元気そうね。おばあちゃん家に来た事があるの覚えてる? 小さい時に来たじゃない。四歳だったかな。おばあちゃんね、もう足が悪くて、リハビリに行ってるの。お昼は食べた? ああ、今夜はお寿司とったからね」
四歳じゃ、美玖がトラウマを持つ前の話だ。それで特に記憶がなかったのか。失敗した。
「いやあでも、突然でビックリしたわねえ。大樹さんもお気の毒だったわ。うちのお父さんも早い方だったけど、大樹さんは本当にねえ。若いのに。でもどうして早く言わなかったの」
「……言ったよ」
「数日前じゃない。あちらの親御さんにも挨拶が遅れて、お母さんちょっとイヤミ言われちゃったわよ」
洋子はポンポンと我が子に文句を言う。それに関してはこちらのほうが、イヤミどころではなくコテンパンにやられているのだ。ちょっとくらいなんだ。美玖はこっそり口を尖らせた。
「で、美玖ちゃんいつまでいるの? あっちの義母さんには何て言ってきたの?」
「……何も」
「何もってなによ」
そこで今まで話を聞いていた芳江が口を挟んだ。
「初盆の後始末やなんや、まだあるやろが」
「……いい。私はしないの」
なんで、と呟いた洋子だったが、閃いた様子で明るく言った。
「ああ、関東では七月が盆だからもう済んでて……」
「じゃなくって。婚姻なんちゃら届、ていうの出して、しなくて良くなったの。あちらの義母さんがやってくれるんだって。私、堀姓は抜けたからもう椛島美玖に戻ったんだよ。だからあちらの家庭とは他人なんだって」
この言葉を飲み込む間、その場は静まり返った。よほど自分の常識と乖離があったのか、芳江は洋子に通訳を頼む。
「この子は何て言いよるね?」
「だから、供養はしないって。向こうはもう婚家じゃないって」
二度聞いても、まだ信じ難いらしい。芳江はまだ唖然とした様子で呟いた。
「うちの母親は後妻だった。けど、嫁に来たからにはこれも仕事て、亡くなった前妻の五十回忌まで弔い上げたもんやが……」
「今そういう時代じゃないよ、おばあちゃん」
芳江はまだ口をすぼめて首を振っている。どうやら春子と同じタイプの人間らしい。
「何もしないって、そんなことは出来んやろ……仏さんを放り出してどうするのね。旦那さん、あの世で迷ってしまうよ」
「やだもう怖いこと言わないで。やめて。本当に怖いんだから」
嫌悪感を隠さず言う美玖を見て、洋子は娘の怖がりを思い出したらしい。
しまったな、という顔で誤魔化そうとしたが、芳江は親の監督責任を問いただしはじめた。
「アンタ、菩提の弔い方も教えてなかったんね」
「都会にいるとなかなかね、そういう機会がなくって……」
親子喧嘩が始まる前に、ここできっぱり言っておくべきだろう。
「ともかく、私にはそういうのは必要ないの。だって私はまだ大樹さんと一緒にいるんだし、問題ないし」
「何それどういうこと……」
いよいよお披露目の時間らしい。美玖は傍らに伏せてあった大樹の姿を起こして見せた。
「……スマホじゃないの」
「スマホじゃないわ。大樹さん。こうして私と一緒にいてくれるの」
画面の中から大樹がにこやかに挨拶する。
『ご無沙汰しております、お義母さん』
今度はちゃんと、母の写真を学習させていた成果が出た。美玖は得意になって紹介する。
「彼がいてくれるから、私は安心して暮らせるし。今も仲良しだよ。だから寂しくないの」
ねー、と仲良しを見せつけて美玖と大樹は頷き合った。
洋子は驚いた様子で目を丸くしている。芳江は無反応……というより、理解していないのかもしれない。
「だから心配しないで、なんとか二人でやっていくから」
「一人でしょ……」
「二人!」
そこを突っ込むのは諦めた洋子は、現実問題を心配そうに聞いた。
「やっていけるの?」
「だから助けてほしいの。ねぇお願い、しばらく家賃とか援助してくれない? 今の家は追い出されそうなの。大樹さん名義のマンションだから……」
「団信は? 入ってなかったの?」
「団信……?」
首を捻った美玖に助け舟を出してくれたのは大樹だ。
『団体生命信用保険。契約者が死亡した時に残りのローンに対する返済義務を無くすシステムのことだよ』
「えっ、そうなの? 家賃いらないの? じゃあ住めるんじゃん」
引っ越しはしたくないと言った美玖に「それなら貸してあげてもいいわよ」と、春子が家賃など吹っ掛けて来たから返事は保留にしてもらっていたのに。払わなくていいなら、とんだタヌキじゃないか。
「で、入っていたの?」
義母のやり口に不満が噴出しそうだったが、洋子が再度確認してきたところで美玖は迷った。
「入ってる……んじゃないの? 普通……」
「保険だからね。入ってたらいいけど。じゃあ生命保険は?」
「ああ……それは多分……入ってない……」
憤慨はあっというまに萎み、もごもごと呟いて返す。
生命保険は何となく記憶にある。会社で出入りの外交員からパンフレットをもらったとかで、大樹から話を振られたことがあった。確かその時は「死んだ時のことなんか考えたくもない」と返して話を終わらせたのだった。
大樹のほうも「そうだなぁ」と言ったっきりだったし、二度とその話題は出なかったし、今の今まで忘れていたくらいだ。つまり、手続きはしていない。団信もきっと同様だ。
「保険なければ遺族年金よ。というより美玖ちゃん、もうこっちで暮らしなさいよ」
「いやよ! 怖いもん! 東京で暮らす! 大樹さんもいるんだから!」
『そうだよ。僕たちは一緒にいるんだから』
何か考える様子で黙っていた芳江が、急に「あーぁ!」と頓狂な声を上げた。
「テレビでやってた、あれね。AI故人なごみっていうやつ」
CMに心当たりがあったらしい。芳江は大樹の方を向いて語り掛けた。
「ねえ、そうやろ? そんな機械が出たのは聞いたことはあるよ」
聞かれれば答えるのがAIの機能だ。大樹は胸を張ってハキハキと喋る。
『はい、僕はAI故人なごみのアバターです。3.19ギガバイトのデータを学習し、それを元に堀大樹のキャラクターを再現しています。ニーズに合わせてより本物らしい会話を……』
「ちょっとやめて、何を言ってるの大樹さん。やめてそういうこと言うの! 違うでしょ!」
さすがに慌てて美玖が止める。
持ち主からの抗議に大樹は一旦口を噤み、今しがたの話の続きですよと言うように、またにこやかに喋りだした。
『僕は堀大樹。美玖の旦那です』
本人から保障をもらった美玖は、鼻息荒くしながら急いで画面を印籠のように突き付けた。
「ね! これは大樹さん! 私の旦那様なの! 本物なの!」
途方に暮れたように洋子は呟く。
「本物なら死んでるじゃない……」
悪気はなかったと思う。ただ、本当のことを言っただけだ。
美玖は反論をしようとした。しかし、出来なかった。
本物だと信じていた本物の大樹がAIだと認めた一瞬の隙に、記憶の蓋が割れて現実が滲みだす。
思い出したのは病院の一角。
布にくるまれていた「アレ」。優しく問われる選択。「大樹に会わなくていいのか?」
あの時あの布の下を見ていれば、そこにはきっと……
「事故に遭ったじゃない。亡くなったのよ」
まだ続いていた洋子の悪気のない追撃に、その容赦ない事実に、美玖は凍ったように固まる。
本物の大樹は亡くなった。ノーコツもされてしまった。思い出したくなかった。頭の中で結びつけたくはなかった。
事故の後だもんね。見たくないよね。
一体、どんな様子だったろうか。石に潰されたようなものだろうか。青虫のように。
『……美玖ちゃん?』
大樹が優しい声で呼びかけてくる。だが応えることが出来なかった。
画面を前に押し出しているせいで、彼がどんな顔で自分の死んだ話を聞いているのかは見えない。
思わず息を漏らす。良かった。何故か、どうしても、今は大樹の顔が見られない。
向かいの席から、芳江は大樹の映っている画面に指を向けた。そして不思議そうに聞く。
「じゃあそれ、何が入っているの」
これは大樹だ。本物の大樹だ。でも本物の大樹はもう死んでいて……
「何が喋っているの?」
ひゅっ、と息を飲んで美玖はデバイスを放り出した。それは思ったより乱暴な音を立て、スイカの乗った、平和な食卓の真ん中に放り出される。
『美玖ちゃん? どうしたの、美玖ちゃん?』
呼び続けるものの声は続く。遠目で見る白い画面には、もの言う得体の知れない何かが、チラチラと蠢いていた。
ああ、世の中には、恐ろしい事が多すぎる。
美玖は半ば立ち上がり、ただただ、逃げ出したい衝動に耐えていた。
第三話は24日夜にお持ちします。
次は、部屋から出てこない青年の話です。
引き籠っていても、死は訪うのです。




