第二話「堀大樹」前編
夫が死んだ時、美玖はそうめんを食べていた。
「奥さん、落ち着いて聞いてくださいね。旦那さんが先程、社用車で事故に遭いまして……」
休みの日のお昼どき。黙っていたエアコンの稼働音。白く輝くそうめん。何気なくつけたテレビの、のど自慢大会。
どこを取っても完璧な、平和な夏の日であったはずだ。調子の外れた歌声が、美玖を置いたまま平和の続きを流している。
「春日野中央病院に運ばれたって連絡がきました。ともかく、急いで行ってください。春日野中央病院ですよ」
いきなり電話を寄越してとんでもないことを言う夫の同僚は、必死に病院の名前を連呼していた。
「早く、早く、行ってあげてください!」
なんと答えたのか覚えていない。激しく動揺していたことだけは覚えている。
夫が事故に……
動揺が過ぎたので、むしろぼんやりとした意識の中で、美玖はいつのまにか切れていた携帯を握りしめて激しい動悸が治まるまで待った。
どこかに行かなきゃいけない。そうだ病院だ。まず財布を掴み玄関に出た。とたんに襲い掛かってくる、夏の日差しに怯む。
咄嗟に日傘を握ったが、それだけでは足りない気がした。
そういえば、今の恰好は両腕剥き出しのワンピースだ。一枚、羽織らないと。
美玖は部屋に取って返し、サマーカーディガンを広げようとした。
そこで握ったままの財布に気が付き、バッグを探す。
最初に掴んだトートバッグは買い物用で頑丈で、使いやすくはあったがカジュアルがすぎた。
一瞬迷って、黒のハンドバッグに持ち直す。少し小さいものだが、まあいいだろう。
ふと見ると洗濯物がベランダで揺れている。その足元には、小さな実をつけたトマトのプランターが置かれていた。この暑さに、だいぶ萎れている。
お水をあげなきゃ。やっと収穫できるまでになったのだ。これを夕飯に、サラダとして出したら大樹さんは喜ぶだろう……
夫のことを考えたところで、美玖は急いでいることを思い出した。
行かなければ。でもトマトも可哀想。
迷ったところで、迷っている時間があれば水なんかすぐやり終わると結論づけた。
ベランダに出ると、早くも洗濯物が乾いていることに気が付いた。ならば入れていこう。
洗濯物を握って部屋に入り、さて今度は畳もうか、どうしようか。
早く畳まないとシワになってしまう……いや、さすがにやめておこう。量が多い。あまり遅くなったら何か言われるかもしれない。
身支度を整えやっと家を出る。日差しは変わらず強かった。
今日も暑い一日になりそうです、と朝の情報番組でも言っていた。途中のコンビニで水を買おう。熱中症対策は大事だ。なにしろ連日、その注意喚起はテレビから流れてくるのだから。
ところが、バス停に来てみるとすぐそこに信号待ちのバスが止まっているのが見えた。
目の前にコンビニもあるが、寄っている間に発車してしまうだろう。
美玖はまごつき、キョロキョロと両者に目をやったが、青信号で流れて来たバスがさあ乗れとばかりにドアを開けたため、逆らえない動きで乗車して、空いたシートに腰かけてしまった。
吹き下ろす冷風が涼しい。窓の外は輝かんばかりに太陽が照り付けていた。
目的地まではしばらくかかる。バス停を降りたら、電車に乗り換えて一駅分。そのくらいは歩こう。
建物の中を選んで通れば目的地には遠回りだが、こんな日に外を歩くよりはいいだろう。
病院にやってきた美玖を見て、義母の春子は叫ぶように言った。
「美玖さんあなた……遅かったわね! 大樹は死んだわ!」
そしてワッと泣き出した。それにつられて、その場にいた人たち……親族、あるいは会社の人……もすすり泣きを始める。
「どうしてもっと早く来なかったのよぉっ!」
後で知ったが、そういう義母も死に目には会えなかったらしい。
というより、電話の時にはもう夫は亡くなっていたのだ。
夫は形式上、病院に搬送され、様相を一目見た医者に「死亡」と診断を下されていた。急ぐも何もない。
だが、結果論だ。看取ってやれなかった息子を想い、嘆く母親の姿はとても痛々しく、誰も気軽に声をかけられるものでもないのだ。
ましてや遅れて来た美玖に口ごたえの権利はなかった。
「すみません」
と蚊の鳴くような声で言うしかない。
「さあ、美玖さん」
義父の大輔がストレッチャーの横を示し、優し気な声を出している。
「……」
そこに、美玖が必死に目を逸らしていた「何か」があった。
台の上のふくらみ。大人が寝ているくらいの大きさ。それを覆う布。
不穏な空気に怯んだ美玖が固まって動けないでいると「大樹に会わなくていいのか?」と同じ声色で言ってきた。美玖はぶんぶんと首を横に振る。
あまりに必死な形相だったからか、独り言の体をした誰かの声が、ポツリと流れてきた。
「事故の後だもんね……見たくないよね」
あるいは、フォローだったのかもしれない。しかし、美玖は言葉の意味に思わず体を震わせた。
見たくないほどの形になっているんだ。きっと、ひどい有様なんだ。
朝、何気なく家を出た夫が、様相の違う顔で……
外野からの声に途方にくれたような顔をした大輔は、もごもごと言い訳のように呟いた。
「もうすぐ葬儀屋さんが来るから……そうしたら、化粧もしてもらえるから、な、その後でもいいな」
何がその後か。どの後だってイヤだ。ごめんだ。
もう泣きそうになってしまった。美玖はギリリと歯を食いしばる。何が何でも見たくない。
頑なな態度に業を煮やしたのか、春子はまた尖った声で文句をつけてきた。
「美玖さん、あなたしっかりしてちょうだいね? 喪主なんですから、色々とやって貰わないと……」
「喪主!? も……喪主!?」
声が裏返る。
「私が!?」
「当たり前でしょう? あなた、大樹の嫁なんだから……」
「無理です! 出来ません! そんなの無理!」
すると春子はまた新しい涙を噴き出してみせて、ヒステリックに叫んだ。
「何を言ってるの、出来ないじゃないでしょ、やるのよ! あなたがやらなくてどうするの」
窘めているつもりなのだろう。春子にとっては当然のこと。家に上がるときは靴を脱ぐ、程度の話。
自分が正しいと思っているからこその押し付けてくる態度だ。この強い態度を見せているならば、何を言っても引く気はないはず。美玖は嫌気がさした。
「だって……」
困るのだ。そんなこと言われても。できっこないことに胸張って出来ると言う方が不誠実だろう。
「無理ですそんなの!」
「どうして? あなた、大樹と仲良くやっていたんじゃないの? 愛してなかったの?」
愛はあった。夫のことは好きだった。
しかしそれは、何の問題もなく健康で穏やかな今朝方までの夫であり、大変なことになったもの言わぬ肉塊とは違うのだ。
本物の夫は、大樹は、妻が困っていると知ったらすぐに慰めてくれるし庇ってもくれる、優しい人なのだ。だから愛した。
それなのに今は目の前にいながらぴくりとも動かず、良くない冷気を発して圧だけをかけてくるだけの存在になり果てたのだ。そんなの、愛せるはずもない。
ちなみに、義母の春子との関係も悪くなかった。
嫌なことを押し付けてこなかったからだ。今までは。
「ともかく嫌です!」
「だから、どうして!」
「怖いもん!」
春子はポカンと口をあけた。バカを見る目ようなだわ、と美玖はキリキリしながらも解ってもらおうと必死に訴えた。
「怖い! 無理無理、触れない! 嫌だそんなのイヤ、気持ち悪い! だってし……し……し……死んでる……のに」
自分で言って気が遠くなる。
本当はとっとと逃げ出したいのに踏ん張っているあたりが、言うなれば美玖精一杯の愛だ。
死んでいる……その事実だけでもうすっかり及び腰で、じりじりと後退っているというのに、腰まで落ちて今にもしゃがみ込みそうなのに、この上まだ死体と一緒にいなければならないなんて到底理解できない。
「すみません、葬儀社の方が……」
看護師の一人が呼びに来た。喪主の方はどちらですか、と声がする。春子は毅然と言った。
「私が」
名乗り出ると、サッサと一人で部屋を出て行く。もう美玖の方を見ることもしなかった。
残された一同はなんとなく押し黙り、居づらい空気を味わっていた。
シンとした空気に耐えかねたのか、会社の人たちは「ご家族様も大変でしょうから……」と帰る気配を見せ始めた。美玖にすれば羨ましい話だ。何とか一緒に抜け出せないものか。
部屋を出て行きながら、誰かがまたヘタなフォローの呟きを漏らす。
「まあ、自損だったのは助かったよな……」
何も助かってない。全くどいつもこいつも、他人事のように。
あれは小学一年生の時。
いつもの帰り道、友達と二人で歩いていた。あの建物は、通学路上にある何かの施設だった。よく覚えていない。
重要なのは塀代わりの生垣に、子供の掌ほどの大きな石が置かれていたことだ。誰かが無造作に置いただけに見えた。赤いレンガの上にあり、目立ったのが罠だったと言えよう。
美玖は何気なく、邪魔な石を取り上げた。
「わっ」
驚きに声が出た。ちいさな青虫が、緑色の染みを広げてその下にいたのだ。友達は無感動に言った。
「あ、青虫」
つまり、誰かが、この青虫を見つけ、殺してしまおうと小さき虫に石を叩きつけたというわけだ。
なんということだ。ショックがすぎる。
そもそも、虫を日常生活であまり見たことがなかった。インドア派だし、住んでいるマンションは上階の方だし。虫は怖い。おまけに
「まだ生きてる」
友達の言葉に目を凝らせば、柔らかそうな虫は腸を流しながらもプルプルと震えているのが見て取れた。石の凹凸が致命傷には至らない程度しか傷をつけられなかったのだろう。
美玖は動揺のあまり石を元の位置に戻す。
「ど、どど、ど、どうしよう」
「殺せば?」
やはり無感動に友達は言う。恐ろしいことを、サラッと。
「そんな! 可哀想!」
美玖は憤った。美玖にとっては、世の中の全てのものは生きているのだ。
虫けらだからといって、醜いからといって、命を取ることなどそんな残酷なことできない。これから蝶になるかもしれないし、絵本の世界ではアリスの道案内をしてくれるだろう。
美玖は優しかった。まだ現実より絵本の方に多く触れて来た時期だ。
それなのに、友達はズバリと言いきったのだ。
「今のままのが可哀想じゃん。トドメさしてやる方が優しいよ」
もう名前も思い出せない友達だが、随分若い時からクールな子だったと思う。世の中のどうしようもない事実というものを、忌憚なく口にしてくれた。
「生きてたら苦しいのがずっと続くんだよ」
そうかもしれない。それでも、美玖には出来なかった。
恐る恐るもう一度石をめくってみても、震える青虫の息の根を今度こそ止めるように、体の半分以上を潰すように、上手く石を振り下ろす……その勇気は出なかった。
「ねえ、やってよ」
「どうして私が! いいじゃんほっときなよ、そのうち死ぬから」
小学一年生の美玖は、弱虫だった。
反論もできず、まして解決もできなかった。結局、手にした石をまた同じように置いて、見たくないものに蓋をしただけで家に帰ったのだ。
だけならまだしも、そう日もたたないうちに曾祖父が亡くなった。親から手を引かれて葬式に出席させられた時、親戚の言う声が聞こえたのだ。
「どうせ死ぬなら苦しませずに、もう少し好きにさせてやれば良かった……」
曾祖父の死因は知らない。治療の過程で何かあったのかもしれないが、その時に美玖が思い出したものは、あの青虫だった。
あれ以降、死が苦手。
死とは、生物である以上、逃れられない運命。であるからこそ、それが怖い。
人は死ぬ。いつか自分も死ぬかもしれない。そしてそれは、逃れられない苦しみかもしれない。不意に大きな石に潰され、腸を出し、身動きとれず呻きながら、それを助けてくれる者もなく。
寝る前にそんな想像をして、トイレに行けなくなることもあった。
夏のホラー番組なんかを、泣いて嫌がるようになったのもこの頃からだ。
周りはただ、「美玖ちゃんは怖がりねぇ」と言って笑うだけで、理解しようとはしてくれなかった。
代わりに美玖が愛したものがある。平穏である。
何もない日常こそが至高と気がついたのだ。
大樹は優しい人で、美玖を脅かす人ではなかったし、サプライズが嫌いなのも気が合った。
彼がそのような家庭で育ったこともあり、美玖に専業主婦になることを許してもくれた。
だから結婚したのだ。美玖の暮らしは平穏だった。自分の作った空間に大樹が帰ってきて、料理を出してテレビを見て風呂に入り、翌日の弁当の準備などを済ませて寝る、素晴らしく平和な日々。
こんな風に簡単に終わってしまうなんて……
結局、その日美玖がヘトヘトになりながら帰って来れたのは日が暮れた後だった。
電気をつけると、テーブルの上にはすっかりのびきったそうめんが、食べかけのままそこにある。昼までは確かにあった、今となっては尊い日常を湛えて。
美玖は泣きそうになりながら、日常の名残を流しに捨てた。
続きは明日お持ちする予定です。
葬儀を前にして美玖の迷走が始まります。




