五章 秘密を抱える者 (20) 知ったつもりになっていた
フィーネはまだ月花酒の瓶をじっと眺めていた。
瓶の口に結わえ付けられている銀の紐からぶら下がる三日月の飾りが揺れるたび、淡い光を返している。その美しさに目を奪われ、フィーネはそっと瓶を撫でた。
酒の中で水中花のように浮かぶ花びらは美しいが、まだ所々に白さが残っている部分がある。おそらくこれはまだ作りたてだろう。
思い返してみれば、アウィルドが花を育てている鷦鷯宮の中庭の一角に月来香の鉢植えが置いてあったが、この月花酒は彼が手作りしたのだろうか。それに、三日月の銀飾りがとても可愛らしい。
もしそうだったのなら嬉しいな、とフィーネは口元に堪えきれない笑みを漏らした。
だが、同時にフィーネは今年のアウィルドの誕生日に贈った瑞花水晶に似ていると思った。そこからいくつかとりとめもないことを考えた。
そういえば、自分はアウィルドのことをどれほど知っているのだろう。
彼は物知りだ。七年前の彼はとても優しい人だった。先日、雷でフィーネが取り乱した時に彼の苦手なものを初めて知った。ディムやノルンと魚釣りをするほど仲が良いことや、セイファンのことは素直になれないが信頼していること、ガイズとの絆など、様々なことを彼は手紙で話してくれた。
だが、じつはフィーネは彼の好きな食べ物を知らなかった。それに、彼のことはアウィルドと呼んでいるが、フィーネは彼の愛称を知らなかった。
アウィルドは第二王子リュシーリアスをセイ、もしくはセイファンと呼んでいた。
第一王女セーレァルシャはチェリサだ。
王族には、対外的な名前以外の愛称があるようなのだが、アウィルドはフィーネのことを友達だと言うくせに、愛称については全く教えてはくれなかった。
友達としての彼について知らないことが沢山あったが、王族としての彼については、それ以上に知らないことの方が多かった。
馬鹿祭りの間は、表向きには第三王子であるスヴァロンが監督役として王の代理を務めることになっている。だが、実際にフィーネが出会ったスヴァロン――ラキアは、アウィルドリーシャが変装した姿だった。
ふいに本物のスヴァロンはどこにいるのか気になってフィーネは瓶から目を離した。
セイファンから聞いた話によると、馬鹿祭りの期間中、国王以外の王族は、王都の北東にある離宮に移って国土の繁栄と平和を祈願する儀式を行っているらしい。
王族と呼ばれる者は現在、先王の子だけでも、国王であるアウィルドを含めて十六人いる。国王以外にも五人の王子と十人の王女がいるのだ。
その他に、国王の伯母や諸々親族がいたはずが、数が多くてフィーネも把握しきれていなかった。
そこでフィーネはノルンに頼んで図書寮からいくつか資料を持ってきてもらうことにした。
ノルンはフィーネの依頼を快諾すると、王族の一覧や近年で起きた重大事件についてまとめた資料や、祭りの際の人の配置について書かれた資料を用意してくれた。
しかも、何故かはわからないが、セイファンもやってきた。
資料の貸出にあたって、宰相の許可が必要なものがあったというのが理由だが、まさか本人まで来てくれるとは思いもしなかった。
ノルンはとても長い巻物を円卓の端から端に広げた。
「こちらは過去約二千年間のウルガ国王族の名と性別、生年月日、崩御の年月日を書き記した家系図の写しです」
「二千年とは長いですね。しかしこの紙は真新しく、ごく最近のもののように思えるのですが……」
セイファンがにこやかに答えた。
「よく気づかれましたね。あなたの推測通り、これはまだ新しいものです。即位の儀の一連の儀式の最後――即位から一年後に、新たな国王が以前のものを、宰相、文部大臣、兵部大臣、最高神官長の四者の監督の下で書き写すという決まりごとになっています。そして、これは三年前に陛下が書き写されたものです」
「ということは、セイファン様はこの家系図の書写に立ち会われていたのですか?」
「ええ。宰相として、しかと目を離すことなく陛下がこれを書き写す様子を見守っておりました。真剣な眼差しで書写する陛下はとても凛々しくあられました」
「以前の物は破棄してしまうのですか?」
「いいえ。過去のものは神殿の蔵に大切に収められております。それとファーシャ様は驚かれるかと思いますが、ここだけの話、陛下はこれを一度も間違えることなく一発で書ききったのです」
「……ご冗談ですよね?」
「冗談と言えたら苦労はしません。あの人はそういう部分に関しては完璧すぎて周囲の者は楽ですが気がかりでもあるのです」
繊細な線で、どの字も形や大きさが揃っており、書を嗜む者なら感嘆しそうなほど、見事に美しく仕上がっていた。
手紙のやり取りをしていても思っていたのだが、いつも冗談ばかり言っている人物と同一人物が書いたとは思えないほど、そこには一切の乱れがなかった。
目を通すと、とても流麗な文字で読みやすかった。
系図の頂点に初代翼王こと風の女神と、初代国王かつ初代片翼ことウェルフ・オルレガ・ラウルガル・ウーザンの名が並んでおり、そこから下に向かって逆さまの大木のように枝があちこちに広がるように伸びていた。しかも、世代を下るほど枝は複雑に絡み合い、王族同士の婚姻を示す線まで加わって、もはや一本の木というより巨大な根の塊のように見えた。
ひとまず、木の下部に目を通すと先代の国王ウェルフ・リルダム・ラウルガル・タイトの下に十六人の子の名が横並びとなっていた。
長子であるアウィルドリーシャが一番左に記されている。フィーネはいつもアウィルドと呼んでいるが、王族の名は、称号、個人名、ウルガ王家の血脈を示す尊称、そして母親の生家の姓という順序で構成されている。
例えば、母親がウルガ随一の名門のリドア家の出身のアウィルドリーシャの現在の名は国王・アウィルドリーシャ・ラウルガル・リドアという。
国王という称号を持つ人物は当代において一人のみだ。
そして、アウィルドの現在の名前の下には国王となる以前の名も併せて記されていた。称号がそれぞれ、第一王子、王太子と変遷をたどっていた。
アウィルドの右隣には第二王子・リュシーリアス・ラウルガル・リヴェーラと書かれ、追記には、臣籍降下のためセイファン・リヴェーラに改名したと記されていた。
リュシーリアスの隣には第一王女・セーレァルシャ・ラウルガル・リドアと、第三王子・スヴァロン・ラウルガル・タイト、とそのほかにも数多くの名前が並んでおり、フィーネはあまりの多さに目が滑ってしまった。
「セイファン様」
「どうなさいましたか?」
「セイファン様は、王子でいらした頃は、『リュシーリアス殿下』と呼ばれておられたようですが、どうして『セイファン様』とお呼びするようになったのですか?」
第三王子の欄を見ても、ミムウェル・スヴァロン・ラウルガル・タイトとあるが、他の名前は記されていなかった。
アウィルドは七年前はセイファンのことを『セイ』と、同腹の妹姫を『チェリサ』と呼んでいたことがある。
似たような例としては、ヒレナも先王のことを『リルダム』ではなく『サヴェラ』と呼んでいたが、これはリルダムの『愛称』だ。
「あの、どうして王族の方々はお互いを本名で呼び合わないのですか?」
「それはですね、王族には同じ父を持つ者同士はスヴァロンやリュシーリアスなどの表の名ではなく、愛称で呼び合う慣習があるのです。わたくしの愛称は煌めく虎でした。通常ですと、愛称は公には知らされませんし、記録にも残さないことになっています。もちろん、臣下や一般的な民が許可もなく王族を愛称で呼ぶことは不敬に当たります。しかし、王籍から離脱した際には、王族だった頃の名は使えなくなってしまいます。そのため、通称として愛称を流用する決まりになっています」
「どうしてわざわざそのような呼び方をなさるのですか」
セイファンは指で宙を指し示しながら答えた。
「ほら、我が国特有の風習として、子供が生まれた時には十日間は赤子には名前を付けずに、羽毛という呼び方をするでしょう?」
「わざといい加減な名前をつけることで、死魔や悪霊に魂を持っていかれないようにするためですよね」
「ええ。あれと少し似ているのですが、王族は、対外的に用いる名と、普段使い用の名をはっきり区別しています。諱と、家族間で呼び合うための愛称と、対外的な通称と、王族を直接呼ぶことを憚る慣習から生じた異名や称号。愛称と通称は同じものを兼ねることが多いのですが、それらまで異なる場合は、合わせて五つも名前を持っていることになります。
王族だった頃のわたくしを例にしてみると、通称のリュシーリアスという名は公務で用い、愛称のセイファンは身内にしか呼ばせません。称号は第二王子で、異名は……片翼宰相などと呼ばれることもありますが、元は煌文宮でした。諱ももちろん別にあります。これは、王族という皆の矢面に立たされる者は常に誰かしらから命を狙われており、呪詛されることを防ぐために、名とともに魂を分けるための防衛策なのですが、愛称とは呼んでいてもこちらの方が本当の名前と言っても良いくらいの認識を各々の王族は持っております」
「そうなのですか――」
彼の話に頭が少し痛くなりながらもフィーネは頷いた。
フィーネだって、王族ほどではないが沢山の名前を持っている。生まれた直後は羽毛と呼ばれ、愛称と通称が風の音で、諱はとても長くて、フィルナアリアラーシャネリムレジナムーアトゥルウェルフナハタムヤーンだ。
一般的に、諱は長ければ長いほど良い、とされるのでなかなか覚えるのも口にするのも一苦労だったりする。しかも、末尾は父系で共通の単語が代々受け継がれていくため、同じ単語が諱の最後についていれば父方の共通の祖先を持つ遠い親戚同士だとわかるようになっている。
「――それなら、アウィルド様にも通称や愛称があるということですよね。……王族の方々の愛称についてのお話はご本人からは聞いたことがなくて、今初めて知ったものですから気になるのですが、アウィルド様の愛称はどのようなお名前なのですか?」
「……残念ながら、陛下はアウィルドリーシャ以外の何者でもございません」
「え……」
セイファンの返事の無感情な響きはフィーネに大きな驚きをもたらした。
「……そんな、セイファン様!? 今し方、王族同士は愛称で呼び合うものだと説明してくださったではありませんか。それなのに、陛下には愛称がないのですか?」
「彼の場合は特別で、表向きのアウィルドという名と、人間には聞き取ることも口にすることもできない神としての神名と、人としての諱しか持っていないのです。王族とはいえ彼は、半神半人の身。神という存在は、自身の信仰者が多いほど元々の力より強大な力を得ることが出来ると言われております。神としての真の名は本人以外の誰も知りませんし、人の身である我々はあの方に気安く名付ける権利がないのです。彼を呪えるのは人ならざる者のみ。翼王という『神』は、神殺しであろうと、人間ごときが行った呪詛を受けることはそうそうございません。『翼王』という『音』そのものが神性を帯びており、敬意と畏敬の念を持って接しなければならないのです。ですので、残念ながら、陛下には、正式な愛称というものが存在しないのです」
「そんな……」
異母弟であるセイファン本人の口からその話を聞かされたフィーネは胸が締め付けられるような気持ちになり、鳩尾を押さえた。
なんということを聞いてしまったのだろう。
他の弟妹たちは互いに親から貰った愛称で呼び合うというのに、彼だけは違うだなんて。
「……そんなの、寂しすぎるではありませんか」
フィーネはアウィルドのことを気の毒に思うと同時に、アウィルドを親友だと思っていたのに、彼が幼少期に何を寂しがっていたかすら知らなかったことを考えると息が苦しくなった。
「その通りでございます。幼い日の兄は愛称を持つことが許されないことに孤独感を覚え、泣いておられました。まあ、それでもただ泣き寝入りしないところが兄の長所と申しましょうか、呆れるべきところと申しましょうか、勝手に色々な名を使ってましたね」
「色々な名、ですか?」
「ええ。覚えているだけでも、アヴィ、タパ、タキア、タシャー、ラタキアスなど、略してみたりご自身の諱の一部から取ったり、ファルーシャやポンポンパーなど意味不明な名前もありましたか。とにかく幼少期のあの方の愛称に対する執念は凄まじいものでした。その頃はまだわたくししかまともに喋れる年頃の兄弟はいなかったため、兄はわたくしにのみ、自作の愛称で呼ぶことを強制してきました。その日のきまぐれ次第で昨日と違う名前を呼ばされて、とても疲れましたね」
セイファン曰く、彼がうっかり昨日の名で呼ぶと、アウィルドは「今日はポンポンパーだ!」と怒ったという。なんとも理不尽かつ無茶苦茶な話だ。
セイファンは思い出話に花を咲かせて懐かしそうに笑っているが、フィーネは笑うことも呆れることも出来なかった。
ノルンはセイファンの話を聞いてしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。
「わたしがあの方に初めてお会いした時の名はパルパ・アドゥンナーと名乗っておられましたが、次にお会いした時はナガゥタ・ハルバンと別名を名乗られて混乱したことがありましたが、まさかそのようなご事情があったとは、存じませんでした」
「ええ。加えて兄は変装の名人です。……あくまでも推測ですが、兄は『翼王』でない人生に心の底から憧れておられたのでしょう。そのせいか、ある日突然、『自分は本当は第二王子で本来の国王はリュシーリアスだ』と奇妙なことを言い出したことがございました」
フィーネとノルンは目を見張った。
「もちろん、アウィルドリーシャという王子が最初に生まれた子であることはしかとお産に立ち会った者や目撃者もおりますし、記録もしっかり残っているため、明らかな出鱈目であることは瞭然でした。ですが、父は激怒し、兄を仕置き部屋に放り込むと十一日間反省文を書かせ続けました」
「反省文っていうのは……」
「何故そのような嘘をついたのか、誰からその話を聞かされたのか、その嘘が周囲にもたらす影響は何であるか、その結果起こり得る事態は何か、御用掛や医師や侍従への謝罪、母への謝罪など、あまりに数多く、父の怒りの強さがよくわかりました。ガイズ殿や前宰相のリュゼン殿たちが諫めなければ、少なくともあと十日間は続いたことでしょう。それほどまで、父は兄の行いを悲しみました」
「結局、兄は誰からその話を聞かされたのかということは明かしませんでした。しかし、父は星見の間に問い、当時の最高神官長だったルジアーラ・ファーグ――わたくし達からすれば伯父にあたる方がある理由から苛立ち、そのような出任せをアウィルドリーシャに聞かせたのだということを突き止めました」
「もしかして、ですが、先王陛下が先代最高神官長様のお命を奪った件も、その出来事が関係していたりしたのでしょうか」
「それはわかりません。……ですが、神殿の中にはアウィルドリーシャは第二王子である、という話を真に受けた者も多く、現在の最高神官長たるモールク・エントリハルクも同様のことをわたくしに対して言ってきたことがありました。……さすがに兄に対する無礼が過ぎたため、剣を抜いて撤回を求めましたが、あの者は無表情のまま、剣の錆となることも厭わぬ様子でとても不気味な男だったと今でもあの時のことは忘れられません」
物騒な話に戸惑い、フィーネとノルンは顔を見合わせた。
とんでもないことを聞いてしまった。
夕方から降り続く雨は今も激しい音を立てている。雷が鳴らないことは幸いだが、空気が湿り、だんだんと憂鬱な気分に拍車をかけた。
嫌な雨だ、とフィーネはため息をついた。
雨季といっても長く降り続くことは少なく、たいていは一過性の雨ですぐに止むのだが、今は本格的に降っていた。
久々に鷦鷯宮の雀の間で夕食の時間を過ごしているというのに、フィーネの胸中は今も重苦しい灰色の雲で覆い尽くされていた。
心なしか、料理も味気なくぱさぱさと感じる。甘い麦餅を手にしたまま、フィーネは悶々とした思いで食事を続けていた。
フィーネは目の前に座るアウィルドを盗み見た。彼はいつものように会話の途中でふざけた冗談をディムに投げかけ、困惑させている。
彼にはまだ直接謝ることが出来ていない。フィーネがこの部屋に入った時にすでに彼はここにいたが、元気になったようだな、と言ったきりひたすらディムのことばかり構い、フィーネに話し掛ける隙を与えてくれなかった。
フィーネは無理矢理飲み下したスープをどことなく味気なく感じた。料理を作ってくれた人や食材に対して申し訳なく思うが、とても舌鼓を打てるような気分ではなかった。
ラキアは自分に向けられたフィーネの視線に気づき、顔を上げると、不思議そうな顔で首を傾げた。
「どうかしたのか?」
「い、いえ、どうもしませんが?」
「さっきからずっと変だぞ。じろじろとこっちを向いたかと思えば、落ち込んだような暗い顔になったりして。体調でも優れないのなら無理はするな」
「そんなんじゃありませんっ。ただ……」
フィーネは先ほど知った彼の過去について一瞬のうちに考え、俯いた。
「ただ、どうした?」
面と向かって問われると、なんと言って切り出せばよいのかわからない。いや、何を話せばよいのかわからなくなっていた。場の雰囲気を悪くしたくはなかった。かといって話を逸らすためのうまい言い訳が思い浮かばない。
「ただ……少しだけ頭が痛いかな、と……」
ははは、と乾いた笑いで誤魔化そうと適当な言い訳をしてみたものの、言ったそばから言葉の選択を思い切り間違えたと後悔した。もっとうまい方便があっただろうに、と自分の機転の利かなさに嫌気がさしたのもつかの間、フィーネはさらなる後悔をすることになった。
「それならそうと隠さず言え!」
間髪入れずに返ってきた言葉が予想外の反応だったのでフィーネは思わずラキアを凝視した。
「それならすぐに部屋に戻って休め。道理で表情がすぐれなかったわけか。あとで薬と消化に良いものを届けさせよう」
「あ、大丈夫です。ご心配はいりませ――」
「大丈夫なものか。昨日も寝込んでいたし、王宮に来てからろくに気の休まる時はなかっただろ。体調が優れないのに無理に一緒に夕食の席につかせてしまってすまなったな」
「だから、大丈夫ですから!」
咄嗟についた嘘で想像以上に心配され、罪悪感が募ってくる。しかしラキアは気づかないようで、驚くほど優しくそっと諭すような笑みで制した。
「いいや、今は大丈夫でも、この後どうなるかはわからない。はっきりしなくとも、何かしらの違和感があるなら早めに休んだ方がいい。少しの疲労でも油断すれば積み重なって大事になりかねない。特に、雨季の終わりとはいえ昼間の暑さはまだまだ厳しいし、また体調を崩したらどうするんだ」
「それは……」
頭が痛むことは嘘ではない。だが、言い返せない。
「おや、珍しい。あなたがファーシャ様を心配なさるなんて一体どういう風の吹き回しでしょうか」
「……別に。こいつに何かあれば賭けに影響が出る。そうなると、かなり面倒くさいから元気でいてもらわねえと困るだけだ」
「素直じゃないですね」
「馬鹿祭りの監督役として見過ごせないだけだ。それ以外の理由なんてない」
そう突っぱねると彼はどこか拗ねた様子で浮かせていた腰を下ろして座り直した。
フィーネはセイファンと顔を見合わせた。
「どうぞファーシャ様。我々のことはお気になさらず自室でお休みになられて大丈夫ですよ。お食事も後ほど運ばせます」
「申し訳ございません。お心遣いに感謝いたします」
フィーネは礼を述べ、夕食の席を途中で辞することに対する謝罪を済ませると、ヒレナとともに緑水宮の自室に戻ったのだった。
自室に戻るとフィーネは腹の底から叫び出さんばかりの勢いで、ため息をついた。
寝台に上がったものの、えもいわれぬ落ち着かない心地がしてため息をつく。
「……お加減はいかがですか?」
ヒレナは水差しを手に尋ねた。フィーネは額の上の濡れ手巾をぺちぺちと叩きながら悶えた。
「……どうしよう。また皆様に余計な心配をかけたみたい」
「何かあったのですか? お昼までは元気そうでしたのに、夕食の前からずっと心ここにあらずといったご様子でしたが、なにか、心配事でもございましたか?」
「うん。あるにはあるんだ。でも、あまりおおっぴらにしていい話でもないから言い出せなかったんだけど……」
フィーネはヒレナに事の顛末を語り聞かせた。彼女は黙って話を聞いてくれた。
やがて、すべてを聞き終えると彼女は深く息をついた。
「……人にありながら人ではない、と。あなたはそのことに心を痛められたのですね」
「痛めたというか、私が怒っても仕方ないんだけどね。本人はあの通り、あっけらかんとしてらっしゃるし。……でも、どうにも納得できないというか、ひどいと思ったんだ。陛下は陛下であって、間違いなく人間だよ。もし、そうじゃないなんて言われたら……」
「ですがファーシャ様。翼王は風の女神の化身と言われておりますし、やはり、人間であるかと問われますと、わたくしも人間ではないと答えてしまいます」
「ヒレナもそう思う? でも、陛下は人間だよ」
フィーネは夜着の裾を強く握り締めた。皺が波のように寄る。
「それに、アウィルド様は、ご自身がじつは第二王子だったなんて言ったことがあるらしいんだ。あと、レリファ=シシカ様とセイファン様はその件で大喧嘩したことがあるらしいんだ」
「しかし、それは先代最高神官長のルジアーラ・ファーグ様の暴言なのですよね。確か、先代はサヴェラ様の兄君で、アウィルドリーシャ様にとっては伯父に当たる方とうかがったことがございましたが、どうしてそのようなことを仰ったのでしょうか」
「うん。いくらなんでも言っていいことと悪いことがあるよね。王位継承にもかかわる大事だし」
フィーネはやるせなさに拳を握り締めたが、今回ばかりはフィーネが踏み込む余地は全く存在せず、ただただ虚しさだけが積み重なっていくばかりであった。
「だけどね、ヒレナ。今になって思い出したんだけど……」
フィーネはそこで、はっと顔を上げた。
「鳥の渡りの夢の中で最高神官長様と陛下が話していた時に、陛下がねだって幸多き金花鳥という愛称を親から貰ったという話をしていたんだ。だからもしかすると、陛下には公的な愛称はないけど、私的な愛称はお持ちなのかもしれない」
「そうだったのですか?」
「うん。でも、そうなると……」
――彼は何故、フィーネに幸多き金花鳥の愛称を教えてくれなかったのだろうか。
フィーネはずっとアウィルドのことを恩人で親友だと思っていた。
だが、本当はアウィルドリーシャという人間についても、国王としての姿についても、知らないことが多すぎた。
五章は今回で一区切りです。
皆何かしらの秘密を抱えています。
そして、フィーネはこれから大変な目に遭うことになりますが……。
この先もお読みいただけましたら幸いです。




