消えたセールスレディ
某大手製薬会社の本社は、実は大阪にあったりします
「――で、起きたらこんな具合になっていた、ってわけか」
「そういうわけですわ。いやあ、頭が痛くってかなンかったなあ」
悪い目覚め方をした余波が残っているのか、時折襟足をさすりながら、浮音はここまでの話へ一区切りをつけた。無関係と見られる乗客はすでに解散し、封鎖された三番ホームには鑑識班員の他は車掌と、夫を亡くした老婦人だけが留め置かれているばかりである。
「委細はすべて鴨川クンの言った通りでしてネ。セールスレディのくれた栄養ドリンクを飲んでから、日中の疲れが出て、そのまま眠りこんじゃったんですヨ。で、ウトウトしていたところに、同じようにうたた寝をしていた奥さんの悲鳴が飛び込んできて、気になって様子を見に行ったんデス。そしたら、ダンナさんがあんなことに……」
丸い顔で百面相をしながら、東野は情感たっぷりに先刻の出来事を補足してみせる。
「一瞬で目ェ醒めたな。あんなもん、二度と見とうないわぁ。――で、ホトケさん、どこのどなた?」
さすがにその場では聞く気になれなかったらしく、浮音は牛村警部に被害者の情報をせがむ。最初は警部も渋い顔をしてはいたが、日頃何かと世話になっている浮音を邪険にはできず、手帖を数枚めくってから、被害者のことを浮音へ伝えるのだった。
「ホトケは志村正蔵、新大阪駅前に事務所を構える、小さな土建会社の社長だ」
「――ひょっとして、志村建業と違います? ちょっと前に、ピンハネで裁判沙汰になってた……」
志村と言う名前に覚えのあった浮音が、ぴょんと人差し指を立てながら牛村警部へ尋ねると、警部は手帳を持った手を下げ、その通りだよ、と返す。
「半年前、経理担当者が自殺して、遺書で不正を告発したとこさ。忘れようったって、忘れられやしねえよ」
憎々しいやつ、と言いたげな警部の表情に東野もつられて、そんな事件がありましたネ、と言いながら、渋い顔を作ってみせる。
「志村建業って、今京阪神のJR沿線で設備更新を請け負ってる中堅企業だったはずですヨ。そこのボスが新快速の中で殺されたなんて――」
「――いわゆる天罰、ってやつかもしれねえな」
「警部サン、あまり趣味がよくありませんヨ」
東野にたしなめられてバツの悪くなった警部は、手帳をポケットへ戻し腕をほどき、しかしな、と前おいてからこう切り出した。
「――しかしなあ、こいつはちょっと、神がかりのようなヤマな気がするんだよなあ」
「何がデスか?」
ずれた眼鏡を直す東野の問いに、警部は嫌がるそぶりも見せず、こう説明してみせた。
「電車ってのは当然、隣同士の車両をつなぐ貫通扉がある。そこはガラス張りで、隣の車両からもよく見える。しかも、九号車はトイレがあるから、長距離移動中に催した客が、ほかのとこからあぶれてやってくる危険もある。さらに、車掌が巡回で車内を見回っている……。こんなところから煙のように消えちまった犯人は、相当な手練れだぜ」
まったく、牛村警部の話す通りであった。衆人環視の状況に近い中での凶行は、相当のリスクをはらんでいるのだ。
だが、浮音はそれを気にも留めず、どこか飄々とした調子で、
「いや、そうでもないかもしれんで?」
と、信玄袋を揺らしながら警部を一べつしてみせる。
「なんだ鴨川の、お前さん、心当たりがあるのか」
「いやァ、まだ完全にはわからんけど、怪しいやつに一人心当たりはあるんよ。――ほれ、今まで話した中に、ここにはいない人間が一人おるでしょ」
浮音の言葉に、東野と牛村警部はしばらく考え込んでいたが、ある一点が頭の中で結び付くと、二人は勢いよく、浮音の方へ頭を向けるのだった。
「――そうか、セールスレディのお姉さんですネ」
東野の指摘に、浮音はご名答、と返しながら、飲みかけで袂へしまってあった栄養ドリンクの瓶を出して、二人の前につきつけた。
「警部さん、栄養ドリンクをもろうた乗客がそろいもそろって眠りこける、っちゅうのは妙やと思わんか。おそらく、高槻で降りたらしいこのセールスレディをあたった方が得策かもわからんで……」
そぼ降る雨の中、京都駅の二、三番ホームには、異様な空気が漂っていた。
栄養ドリンクの中から睡眠薬が検出されたという報告を受けると、牛村警部はさっそく、大阪府警に渡りをつけ、件のセールスレディが配った品の製造元である大手製薬メーカー・タケノ薬品の新大阪支店へと向かった。だが、渦中の女性に該当するような人間はそもそも在籍しておらず、捜査はハナから暗礁へと乗り上げてしまった。
「――なんだか、えらい事件に首を突っ込んじゃったみたいだねえ」
数日後、新潟から戻ってきた有作は喪服にアイロンをかけながら、腹ばいになって新聞を読む浮音から留守の間の経緯を聞き、その難航ぶりに眉をひくつかせた。とうの浮音は、紙面をにらみ、ピースをやたらとふかしながら、
「まったくやで。東野くんのせいやないけど、君がいたらあないなことにはならんかったかもしらんなあ……」
と、苦々しい文句ばかりが並ぶ紙面をつつき、重いため息をひとつつく。事件発生から相当の時間が経過していたが、両府警は犯人につながる手掛かりを依然得られずにおり、捜査本部へは世間の非難が集中している有様だった。
「あの偽セールスレディが志村へ何某かの恨みを抱いとって、その復讐の場に新快速を使った……っちゅうのが、どうも気にかかるんよ。いくら一服盛ってるといえ、人目のある車中での凶行はリスクが高すぎる」
「警部さん、今は志村建業の関係者をたどってるらしいけど、該当しそうな人は見当たらないらしいね。怨恨じゃなくって、行きずりの犯行なのかなあ」
スイッチを切り、アイロンをケースの中へ戻しながら有作がつぶやくと、手近の灰皿を寄せ、真新しいピースへ火をくべていた浮音は煙を吐き散らしながら、
「にしちゃあ用意周到過ぎる。何かしらの理由はあると思うんやけど……」
新聞を雑に畳み、そばの座卓へ向き直ると、浮音は神経質に頭を掻き、むやみにピースをふかしていたが、玄関先で呼び鈴が二度鳴ると、それまでのいら立ちなどはどこかへ捨てて、洋々たる調子で玄関へ駆け出した。
「――待ってたんや、さ、こっちこっち……」
「あれっ、東野さん。どうかしたんですか」
浮音に伴われて居間へ顔をのぞかせたのは、今度の事件へ浮音を巻き込む機会を作ってしまった、鉄道マニアの青年・東野英二だった。いつも通り、折り目の正しくついた三つ揃えの背広を着こなし、灰色のソフトを脱ぎかけた巨漢の彼は、ロイド眼鏡越しに申し訳の立たなさそうな、実にバツの悪い顔色を浮かべている。
「佐原クン、このたびは実に申し訳ないことをしてしまいましテ……」
「いいんですよ、東野さん。悪いのは、電車の中で人殺しをやるような奴に決まってるじゃありませんか」
手土産のカステラの箱を差し出しながら、浮音の同居人である有作へ謝る東野の姿には、いつもの陽気で、呑気な好青年、という要素は微塵も見当たらなかった。
自分の好きなものが犯罪の舞台になったことがいくらか手伝っているのだろうか――と、おぼろげながら考えていた有作へ、浮音がピースをふかしながら、
「実はな、こないだの件について、東野くんにいろいろ調べてもろうてたんよ。これから、その一次報告をしてもらうんやけど、佐原くんも来てくれるか?」
異論があるわけもなく、有作が首を縦に振ると、浮音はじゃ、それ片したら客間に……と言って、奥の客間へと引っ込んだ。片づけを済ませて有作が客間に入ると、同じ愛煙家にして酒豪でもある東野青年によって、部屋はすっかり紫煙とウィスキー臭くなっていた。浮音が貰い物のスコッチを開け、東野へすすめていたのである。
「――カモさん、気付けの一杯ってやつかい?」
煙を避けながらソファへ座ると、有作は浮音からサイダーの瓶を受け取り、手酌でコップへ注ぎ入れた。
「ま、そないなとこやな。いろいろあってナーバスになっとるとこ、無理行って動いてもらっとったから、これくらいのことはせんとね……。で、どやった?」
グラスを置き、胸ポケットから出したマールボロを咥えた東野へ火を差し出しながら、浮音は待ちかねていた報告を催促する。
「鴨川クンの言った通りでしたヨ。あの日、ひどく空いていると思ったら、まさかこんな理由があったとは……。なんせ、あの男一人のために、JRは大いなる売り上げ損失をこうむっていると言っても過言じゃありませんからネ。この前はそうでもなかったらしいけれど、部下を連れて乗り込んだ日には酒瓶を開ける、そばのお客に絡む、散々なものだったそうで……」
「もしかして、それって亡くなった志村正蔵のことかい?」
有作の問いに、浮音と東野はその通り、とほぼ同時に返す。
「鴨川クンが、いつも満席の九号車がガラガラなのはおかしい、って言うもんデスから、知り合いの鉄道マニアたちにいろいろ聞いてみたんですヨ。そうしたら、こういう具合でちょろちょろと客足が遠のいてるとかで……」
切子のグラスへなみなみ注がれたジョニ青のストレートをやりながら、東野はため息交じりに「Aシート」の実情を語ってみせる。
「――じゃ、あの日そんなに空いてたっていうのは、殺された志村が原因だったわけか」
「どうもそういうことらしい。となると、案外恨みを抱いとる人間は、せんのピンハネ事件の関係者でなくて、鉄道員の中にアリ、っちゅうことになりそうやな――」
「そんな気がしますヨ。なんでも、注意をした新人の車掌さんが一人、志村の告げ口でいきなりクビになったって話もあるくらいですし……。いくら仕事を引き受けた会社のボスとは言え、ちょっと行きすぎな気がしますよネェ」
「なるほどなあ。ひとつ、そっちの線も探らんとアカンようやな。こりゃ、ちょっとした広域捜査やで……」
浮音がそこまで話しかけたところで、水を差すように、玄関先の黒電話が鳴り響いた。滅多にならない、鴨川邸の固定電話の呼び出し音である。
「野暮な電話やな。ちっと出てくる……」
不機嫌そうに客間を離れると、浮音は電話台の方へ向かったが、数分ほど経ってから突然、浮音が短距離走のランナーのような具合で乱暴にドアを開けて飛び込んできたので、中にいた二人はひどく面食らってしまった。
「ど、どうしたの、鴨川クン」
驚きのあまり、ズボンにこぼしてしまったジョニ青をハンカチで拭いながら、レンズ越しに東野青年が目を白黒させる。
「おもろいことになったで。あのセールスレディらしい女を見たっちゅう話が出てきたようなんや……」
浮音の顔は喜びの色に染まり、両の眼は自信に満ち溢れていた。
ところが、牛村警部がもたらした情報にはひとつ奇妙な点があった。
「ええっ、じゃ、その目撃証言は高槻じゃなくて――」
東野と入れ違いに現れた牛村警部へお茶を出しながら、横で浮音とのやりとりを聞いていた有作が、自分の聞かされていた経緯と食い違う点に眉を引くつかせる。無理もない話で、例の女の目撃談がもたらされたのは、整理券の販売記録にある高槻駅ではなく、浮音が警部に事情を説明していた、京都駅のプラットホーム上だったのである。
「――二、三番ホームのキヨスクの店員が、交代を終えて階段から改札へ出ようとしたところで、七号車の乗降位置から似た横顔の女の出ていくのを見たらしい。ところが、それが何から何まで、鴨川や東野くんの見た女の格好と食い違うんだ」
二人の証言をもとに描かれた、ハガキ大のセールスレディの似顔絵二枚――もう一つはキヨスクの店員の証言を基にしたものだった――を浮音へ渡しながら、牛村警部は眉をへしゃげさせ、ため息をつく。
「中で着替えた、っちゅう風に考えるのが筋やろうけど、今度ばかりはちいっと事情が込み入ってるからなあ……」
似顔絵をにらみ、出された番茶をすすりながら、話を終えて渋い表情を浮かべている牛村警部をじっと見つめながら、浮音は小刻みに、ピースの煙を天井へまきあげる。浅黄色の羽織の袂は、落ち着きのない浮音の貧乏ゆすりにつられて、生き物のように揺れていた。
「車内で着替えようとすれば、当然トイレを使う羽目になる。けど、そないなことをすれば、当たり前やけど車掌に見つかる。かといって、ほかの車両へ移ろうとすれば、今度は別のお客に見られる……」
「煙みたいに消えちまったかと思ったら、今度は姿を変えて現れた――まるで、妖怪変化か何かの仕業だな」
茶菓のカステラを手でつまんでぱくつく牛村警部に、まさかァ、と、浮音はカブリを振りながら、
「キツネやタヌキが殺すンは、せいぜいエサの小動物が関の山や。二十一世紀のこの世の中に、化け物話は流行らんで、警部さん」
と、右手に煙草を持ったまま、肩を上下させて大笑いしてみせる。
「だがなあ、状況証拠がこの体たらくじゃ、まともな人間の仕業とは思えんのだよ」
「牛村警部、阿保なこと言いなさんな。まともな人間は殺しなんかせんやろォ」
浮音の言葉に、牛村警部はらしくないことを言ったな、と赤面しながら襟足を掻き、見せられる限りの捜査資料の写しと、四角張った字でしたためた、報告のまとめ書きを置いて、そそくさと鴨川邸を後にした。
それからしばらく、浮音は二階の自分の部屋へ引っ込み、引き戸の隙から煙が漏れ出るほどの量のピースをふかしていたが、風呂の空いたのを伝えに来た有作が部屋の戸を叩くと、紫煙の中から、自身に満ちた双眸を携えて彼の前に立ちふさがり、こんなことを呟いた。
「もしかすると、東野くんのオトモダチが光明を差してくれるかもしれん。ちょっと電話してくる、風呂はその後すぐ入るよって……」
パジャマ姿の有作を押しのけて階段を降りると、浮音は玄関先の電話台へと急ぎ、手製の電話帳を乱暴にめくってから、どこかを呼び出すのだった。