秋の夜長に — October, and the Things Left Unsaid
週が明けた月曜日、午前四時半。
僕のプジョーの前を、彼女の車が走っていた。
まだ夜だった。街灯の下で、見覚えのある車種とナンバープレートが浮かび上がった。彼女の地元の地名だった。
同じ車種で同じ地域のナンバーをつけた車など、いくらでもある。そう考えるのが自然だった。
しかし、僕は彼女の車だと思った。
金曜日の深夜、彼女から届いた返信を思い出した。
「証拠隠滅しなくて良いですよ。時間が合えば是非!」
あれから二日しか経っていなかった。
信号が赤になり、僕は彼女の車の後ろでブレーキを踏んだ。前の車の中に彼女がいる。
そう考えると、いつもと変わらない通勤路が、少し違ったものに見えた。
信号が青になり、二台の車は同じ方向へ走り出した。
会社の駐車場に着くと、前の車はいつもの区画へ向かった。
僕は普段Aに止めていたが、その日はBに止めた。
Aには空きがあった。
別に彼女と顔を合わせることに問題があったわけではない。金曜日のメッセージについても、特に話す必要はなかった。
それでも僕はBに止めた。
先週、金曜日の夜に食事に誘い、月曜日の朝にはその女性の車のすぐそばに止める。
それがどうということではないのだろう。。。
僕は彼女の上司だったし、彼女は僕の部下だった。それ以上でも以下でもない。
少なくとも、これまではそうだった。
僕はエンジンを切った。
駐車場の照明が、フロントガラスに白く映っていた。
以前なら、彼女の車を見つければ、何も考えずに声をかけていただろう。
今は、声をかけることにも、かけないことにも、何か意味が生まれてしまうような気がした。
それが少し面倒だった。
僕は携帯電話をポケットに入れ、車を降りた。
彼女のほうは見なかった。
その朝、彼女を現場で見かけた。
彼女はこちらに気づいているはずだった。
僕はいつもの通路を歩いていたが、彼女の姿を認めたところで、少し遠回りになる別の通路へ入った。
彼女も、僕がいつもと違う方向へ歩いていくのを見たかもしれない。
僕は彼女の上司だったし、彼女は僕の部下だった。顔を合わせれば、いつものように声をかければよかった。
しかし、そうしなかった。
午前四時半の駐車場でも、同じことをしていた。
彼女に会いたくなかったわけではない。
それなのに、会わないための行動ばかり選んでいた。
僕は自分の行動を、少し奇妙に感じていた。
午前中、大きな会議があった。
彼女も出席していた。
ガラス張りの会議室には、いつものように数字と英語の略語が並んでいた。僕は必要な説明をし、いくつか質問をした。
彼女とは特に話さなかった。
話す必要のない会議だった。
ただ、彼女の様子が少し気になった。
いつもより静かだった。
彼女はもともと、何でもないことで愛想笑いをする女性ではない。しかし、その日は少し違って見えた。
会議が終わったあと、僕は彼女に声をかけた。
「大丈夫?」「何かあった?」
金曜日の夜以来、初めて直接交わした言葉だった。
それなのに、食事の話も、証拠隠滅の話も出なかった。
彼女は何でもないというような返事をした。
僕もそれ以上は聞かなかった。
彼女は仕事に戻り、僕も仕事に戻った。
それだけだった。
しかし、その日の帰り道、僕は何度か彼女の表情を思い出した。
何かが違っていた。
それが何なのかは分からなかった。
翌日、トラブルが起きた。
彼女とほかの社員との間で、仕事の進め方をめぐる行き違いがあった。
内容そのものは、特別珍しいものではなかった。
僕は彼女と三十分ほど話す時間を設けた。
前日のことも気になっていた。
ガラス張りの小さな会議室だった。
「昨日も少し元気がないように見えたけど、何かあった?」
「何もないです」
彼女は言った。
「そう」
僕は少し間を置いた。
「何か困っていることがあるなら、聞こうと思ったんだけど」
「何がですか?」
僕は質問を変えた。
「何を聞きたいんですか?」
彼女の声は少し硬かった。
僕は彼女の顔を見た。
金曜日には、あんなに楽しそうに証拠隠滅の話をしていた。
あれから四日しか経っていなかった。
「何を言いたいのか分かりません」
彼女は言った。
そして、
「今後は質問を端的にお願いします」
と言った。
僕は頷いた。
端的に。
なるほど。。。
僕は仕事では、相手に何かを伝えることにそれなりの自信があった。
しかし、そのときは、何をどう伝えればいいのか分からなかった。
彼女が困っているなら力になりたかった。
ただ、それだけのことだった。
少なくとも僕は、そう思っていた。
やがて彼女は立ち上がり、会議室の扉を開けた。
「これで終わりでいいんですね?」
僕は尋ねた。
“何を”終わりでいいと聞いておきながら自分でもわからなかった。
そして、もう一度同じことを尋ねた。
面談は終わった。
僕はテーブルの上の携帯電話を手に取り、会議室を出た。廊下の向こうでは、何人かの社員が笑いながら話していた。
僕はその横を通り過ぎた。
それから一か月、僕たちは一度も言葉を交わさなかった。
彼女から一度だけ、仕事の依頼メールが届いた。
とてもよく整理されたメールだった。
僕は必要なことを丁寧に返信し、そのメールがよく書けていることも伝えた。
ほかの社員に対してするのと、まったく同じことだった。
それ以上のことは書かなかった。
仕事の依頼に、仕事の返事をした。
ただ、それだけのことだった。
彼女はときどき僕の近くに来た。
僕は近くを見るとき、眼鏡を外す。老眼が進んで、眼鏡をかけたままでは手元の文字が読みにくくなっていた。
彼女が視界の端に入ることがあった。
僕は眼鏡をかけ直さなかった。
彼女がこちらを見ているのか、何か言いたそうにしているのか、よく分からなかった。
分からないほうが都合がよかった。
五十歳を過ぎて、視力が衰えることに初めて感謝した。
十一月の初め、大きな会議があった。
部門長がこれからの組織の方針について説明していた。
僕は説明の足りないところを補い、いくつかの質問に答えた。
彼女は僕の近くに座っていた。
僕は会議室の端から端まで視線を動かしながら話した。
彼女のいる方向だけは見なかった。
見ようと思えば見られた。
ほんの少し首を動かすだけでよかった。
しかし、その少しができなかった。
会議が終わり、社員たちはそれぞれ席を立った。
彼女も立ち上がった。
そして一人で廊下を歩いていった。
僕はその後ろ姿を見た。
少し早足だった。
いつもの彼女だった。
僕は彼女の名前を呼ぼうと思った。
何を話すつもりだったのかは分からない。
以前なら、そんなことを考える必要もなかった。
彼女が近くにいれば話しかけたし、彼女も僕に話しかけた。
それだけのことだった。
しかし、僕は何も言わなかった。
彼女は廊下の角を曲がった。
僕たちはまだ同じ会社にいた。
明日も、来週も、おそらく同じ建物で働くだろう。
それなのに、彼女の後ろ姿は、もう二度と会えない人間のもののように見えた。
僕はしばらく、その廊下を眺めていた。
そして眼鏡を外した。
廊下の向こうが少しぼやけた。




