Another Story 〜戻った場所〜
「いつでも寄り添いたい」
会社を辞めてからも、通院は続いた。良くなったと思えば、また悪くなる。以前のように身体は動かなかった。それでも生活はある。病院にも行かなければならないし、働かなければならない。
私は実家に戻ったことになっていた。そう伝えていた。実際には、しばらく一人で暮らしていた部屋を完全には手放していなかった。なぜそうしたのか、自分でもうまく説明できない。家族に心配をかけたくなかったのかもしれないし、自分の居場所を正確に知られたくなかっただけなのかもしれない。彼にも、部屋は引き払ったと伝えていた。
体調の良い日を選びながら、アルバイトを始めた。週に何日か、決められた時間だけ働いた。以前のような働き方ではなかったけれど、何もしない日々よりはよかった。
以前の会社の人たちとは、その後も何人かと連絡を取り合っていた。
「最近どう?」
「体調、大丈夫?」
「今度、ご飯行きましょう」
そういうメッセージには、返せる時に返した。
「元気です」
「ありがとうございます」
「ぜひ」
会社を辞めたからといって、そこで知り合った人たちまで嫌いになったわけではない。仕事という関係がなくなったことで、むしろ話しやすくなった人もいた。
彼以外は。
彼から最後に届いた長いメッセージは読んだ。会社を辞めたこと。引っ越したこと。離婚したこと。あの頃のことを、自分なりにずっと考えていたこと。そして、
「これを最後にします」
最後は、
「さようなら。」
だった。
深夜と言うべき明け方だった。一度スマートフォンを閉じた。眠れなかった。しばらくして、もう一度開いた。当然、同じ文章がそこにあった。
返事はしなかった。
何を書けばいいのか分からなかった。
ありがとう。
元気で。
私も楽しかった。
どれも違う気がした。
翌朝になっても返さなかった。その翌日も。そのうち、返さないことそのものが返事になった。彼からも、それ以降は何も来なかった。
それでよかったのだと思う。
たぶん。
アルバイト先では、何度か男性に食事へ誘われた。
「今度、仕事終わりにどうですか?」
私より少し年上だった。悪い人ではない。話していて不快でもなかった。
「みんなでなら」
そう答えた。
別の人には、
「彼氏とかいるんですか?」
と聞かれた。
「いません」
「じゃあ、チャンスあります?」
笑いながら言われたので、私も笑った。
「どうでしょう。。。」
便利な言葉だった。肯定でも否定でもない。
その人が嫌いなわけではなかった。むしろ、普通ならこういう人を好きになればいいのだと思った。独身で、年齢も近くて、会いたいと言えば会えて、休日も合わせられて、誰にも隠す必要がない。
それなのに、誰かに好意を向けられるたび、少しだけ疲れた。
相手が悪いわけではない。
私の問題なのだろう。
体調が少し安定してから、新しい会社に入った。もう一度、ちゃんと働こうと思った。
けれど、その会社は思っていたより忙しかった。人が足りない。休んだ人の仕事は、そのまま誰かへ回ってくる。朝から夜まで働いた。
「できます」
「大丈夫です」
そう答え続けた。
大丈夫ではなかった。
帰宅すると、照明もつけずに横になることが増えた。休日は何もできなかった。病院では、
「無理をしないように」
と言われた。
難しいことを言う人だと思った。
無理をしなければ仕事にならない。仕事をしなければ生活にならない。生活をしなければ治療もできない。
どれを選べば正しいのか分からなかった。
その会社も長くは続かなかった。
辞めたあと、以前の会社で一緒だった人から連絡が来た。
「戻ってきませんか?」
最初は冗談だと思った。
でも話は具体的だった。仕事内容も知っている。システムも知っている。知っている人もまだいる。条件も悪くない。
そして何より、
彼はもういない。
それも知っていた。
ずいぶん前に辞めたことも、別の会社へ行ったことも、引っ越したことも、誰かから自然に聞いていた。
私は何も尋ねていない。
だから、戻ることにした。
久しぶりに社員証をかざした。電子音が鳴り、扉が開いた。
知っている匂いがした。
懐かしいというほどでもない。それでも身体のどこかが覚えている。
「おかえりなさい」
何人かに言われた。
「ありがとうございます」
笑って答えた。
知らない人が増えていた。席の配置も変わっていた。会議室の名前もいくつか変わっていた。
それでも、変わっていないものの方が多かった。
自動販売機。給湯室。エレベーターの音。少しだけ冷えすぎる空調。
チャットツールを開いた。
たくさんの名前が並んでいた。
彼の名前はなかった。
当然だった。
分かっていた。
それなのに、名前がないことを確認している自分に気づいた。
戻ってしばらくした頃、以前から仲の良かった中国人の女性からメッセージが来た。
「そういえば、彼から連絡きたよ」
指が止まった。
「そうなんだ」
それだけ返した。
すぐにまたメッセージが来た。
「みんな元気かなって。夢に出てきたんだって」
少し間があって、
「あなたが戻ったことも伝えちゃった」
画面をしばらく見ていた。
「そうなんだ」
また同じ言葉を返した。
「体調を崩してたよねって言ってたよ。心配してるんじゃない?」
彼女らしい。昔から、思ったことをそのまま言う人だった。
私は返信欄を開いたまま、何も打たなかった。
彼が私のことを聞いた。
それだけだった。
別に特別なことではない。
以前一緒に働いていた人間が体調を崩して会社を辞め、その後戻ってきたと聞けば、近況くらい気になる。
そう思った。
それなのに、その日の仕事は少しだけ手につかなかった。
彼は約束を守っていた。
「これを最後にします」
あれから、私には一度も連絡をしてこなかった。
私ではなく、昔の同僚に連絡をしただけ。
偶然、私の話が出ただけ。
それだけ。
分かっている。
スマートフォンを伏せた。
しばらくして、また表にした。
当然、新しいメッセージはなかった。
少しだけ安心した。
何に安心したのかは考えなかった。
しばらくして、昔からいる男性社員に声を掛けられた。
「戻ってきたって聞いて、びっくりしました」
「そうですか?」
「今度、ご飯行きません?」
少し笑った。
「みんなでなら」
「またそれですか」
「また?」
「あ、いや」
彼も笑った。
私は、その人が以前から少し好意を持っていたことを知っていた。知らないふりをしていた。
そういうことは、たいてい分かる。
でも、分かったからといって、どうすればいいのかは分からない。
彼はいい人だった。仕事もできた。独身だった。体調も気遣ってくれた。
何も間違っていない。
だからこそ、少し困った。
ある日の午後、会議室を出て自分の席へ戻ろうとしていた。
少し離れたところで誰かが笑った。
足が止まった。
似ていなかった。
声も違った。
それでも、一瞬だけ身体が先に反応した。
廊下の先を見た。
当然、いない。
私はそのまま歩いた。
別の日には、チャットツールを開いた瞬間に思い出した。
昔、自分で作ったチャットルーム。
名前は、
「闇」。
なぜそんな名前にしたのか、今では自分でもよく分からない。
一度、彼がその部屋を削除した。
既婚者だから、もう終わりにする。
そんなことを書いていた。
私は数秒後、同じ名前で作り直した。
「もう。。。」
彼が、そんなことを言っていた。
少しだけ笑った。
何をしていたのだろう。
帰り道、駅まで歩いた。昼間は暑かったのに、夜になると少し涼しかった。
スマートフォンを開く。
仕事の連絡。
以前の同僚からのメッセージ。
食事に誘ってくる男性からも一件届いていた。
「今度こそ二人でどうですか?」
画面を見た。
閉じた。
返事は後でいい。
駅前の信号で立ち止まった。
ふと、富士山を思い出した。
写真を送ってきたことがあった。
見せたかった、と書いてあった。
あの人は、いつも少し大げさだった。
面倒で。
細かくて。
勝手で。
よく考えて。
考えすぎて。
そして優しかった。
信号が青になった。
人の流れに合わせて歩いた。
この会社に戻れば、昔を思い出すことはあると思っていた。
でも、思っていたほどではなかった。
毎日は忙しい。
仕事をして、病院へ行って、食事をして、眠る。
誰かに誘われることもある。
笑うこともある。
以前とは違う生活がある。
ただ、ごくたまに。
誰もいない廊下や、誰かの笑い声や、チャットツールの画面の中に、
彼がいた頃の空気だけが残っている。
私は彼がいないことを知っていた。
知っていたから、ここへ戻ってきた。
それなのに。
彼がいないということを、
戻ってきてから何度も確認している。
そのことだけは、少しだけ想定外で、面倒だとも思った。




