10.想定外が起きているようです。
「ほんとにあった……」
不安に似た予感に、最後のほうは駆け足に近くなっていた。
息があがるのはそのせいか、それとも強い不安に胸が締め付けられているから?
ヒュウ、と深呼吸をしようと吸った息がか細い音になる。
「ディアナ様!」
激しくなる動悸に落ち着こうと試みていると、いきなり強い力に引き寄せられた。
「!?」
気がつくとアレクシアの腕の中に、何かから庇われるように囲われていた。
「隊長っ、そのまま動かないで!」
その後ろから、アレクシアの部下であるミシェル・サリンジャーの声が響く。
鋭い声が通った後を、灼熱の火球が辿った。
彼女は火の魔法が得意な騎士だ。
ミシェルが何かに向かって攻撃したのだとようやく我に返り、アレクシアの腕の中から視線だけを巡らす。
大半が炎に巻かれたが、数匹、蝶のような黒い靄が漂っていた。
追い討ちをかけるように、ミシェルの弓から新たな火球が飛んだ。
騎士の持つ武器は、魔獣討伐に特化した魔法が宿っている。詠唱無しで、物理攻撃ではなく魔法攻撃が放たれるものだ。
蝶に似た何かの残党は瞬く間に燃え尽き、辺りには緊張感と静けさだけが残った。
「ディアナ様、お怪我はございませんか」
再び襲ってくるものがないことが確認された頃、ようやくアレクシアの腕から解放された。
「大丈夫です、アレク様のおか、げ、で……」
何事もなかったと続けようとした、が。
「アレク様っ、肩が、」
紺の騎士服は、清廉なアレクシアの容貌によく映えていたが、その肩に、墨を刷いたような靄がとりつき、熾が燻るような黒煙を出していた。
「少し、掠ってしまったようです」
これは、魔獣に触れることで負う魔傷だ。
触れるだけで、皮膚が爛れていく呪いの一種。
自分の不明に恥じ入るようにアレクシアは言ったが、わたしを庇って負った傷であることは明白だ。
言葉にならない悲鳴をあげ、わたしは慌ててその箇所へ手を伸ばした。
「いけません!触れたら貴女にも……!」
強い呪いの場合、受けた本人だけでなく、余人にも感染る可能性がある。
そんなことはもちろん分かっているが、そんなこと、わたしには全く関係がない。
「影響が……?」
遮ろうとした手が、止まった。
「そんな、消えていく……」
アレクシアの肩から立ち上っていた煙が、わたしの指先が近付くだけで霧散していった。
駆け寄ってきたミシェルの唖然とした声に頷いて、
「触れますね」
確信を込め、同じく驚いて瞠目しているアレクシアに告げる。
黒く焦げたように変色していたそこは、触れても熱さはない。
纏わりつく埃を払うように丁寧になぞれば、服の変色は残るが、その下の皮膚には傷ひとつ残らないだろう。
そう、この程度の魔傷なら、わたしには全く関係なく、消せてしまうものなのだ。
「もう痛みませんか?」
魔傷に触れている時、わたしの指先には抵抗するような気持ち悪さがある。
それを解くように押し退け、スルリと抵抗がなくなれば、呪いは解けたはず。
確認するようにアレクシアを伺えば、
「すごい……」
ものの一分もしないうちに癒えた傷に、アレクシアとミシェル、二人の口から同時に言葉が洩れた。
アレクシアは顔には出さなかったが、魔傷を負えば相当の痛みがあるはずだ。
しかしそれも、瞬く間に引いていった。
こんな魔傷の癒し方を、アレクシアもミシェルも、見たことがなかった。
普通、魔傷の治療は神官が行う。
それには聖水や霊薬、札などのアイテムを使うのが一般的で、通常の手傷と治癒の速度は変わらない。指先だけで、目に見える早さで呪いを解くなど、並の神官に出来ることではない。
「あの、ごめんなさい……!」
呆けたような騎士二人の様子に構わず、わたしは勢いよく頭を下げた。
「ディアナ様?」
「わたしがぼうっとしていたから、アレク様が庇ってくださったんでしょう?それで傷を負ったのですから、わたしの所為です」
例えすぐに癒したのだとしても、痛みを負わせてしまったことには違いない。それが護衛の仕事だとしても、必要のない痛みを感じさせることを、わたしは是だとは思えない。
「いえ、まさか私もこのようなところであんな魔獣擬きに会うとは思わず、油断しておりました」
「擬き?」
「アレはまだ魔獣と呼べる段階ではありません。アレがコーリング様が仰っていた、淀み、です」
「アレが淀み?」
淀みと言うには、姿形がハッキリしていた。
そう言うと、アレクシアが怪訝な顔をした。
「ディアナ様には、アレが蝶のように見えていたと?」
「アレク様には違うものに見えていたのですか?」
「ただ、漠然とした靄のようなものでしょうか。これと言って形は成さず、黒い影が突然飛びかかってきたように見えたので、咄嗟に体が動きましたが」
アレクシアの言葉に、ミシェルも頷いた。
「私も同じです。淀みとは立ち上る陽炎のようなものが大半で、自然と消えるものですが、一部はその影を増し、形を得て魔獣と化します」
ミシェルは小柄だが、アレクシアより年上の成人した騎士だ。耳の下で切り揃えた赤毛に、翡翠の大きな猫目が実際の年齢より年若に見せるが、弓の腕は確かで、理知的な判断をする人物だ。
「聖都の外で見かけることはありますが、聖都の中、それも神殿内であれほど色濃いものは私もはじめて見ました」
「消えてしまう前の淀みというから、わたしももっと弱々しい感じのものを想像していたのですが、魔獣と同じように魔傷まで負うものなんですね」
そう言うと、二人の騎士は押し黙り、お互いの顔を見合わせた。




