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にじいろの煙  作者: 芝みつばち
9/19

キス

翌朝、真春はモヤモヤした気持ちのまま目が覚めた。

ゴロンと寝返りをうって気付いたが、昨日の服のままだ。

しかも布団も掛けずに寝落ちしていた。

どうりで寒いわけだ。

リビングでコーヒーを準備してから部屋に戻り、電気ストーブをつけてその前で体育座りをした。

テーブルに置いたマグカップからゆらゆらと上がる湯気を見て、香枝とこの部屋で過ごした日のことを思い出した。

あの時は楽しかった。

こんな嫌な気持ちになるなんて思いもしなかった。

せめてあの時の楽しい気持ちでいたかった。

昨日の事を思い出すだけで、真春はまた憂鬱な気分になった。

聞かなければよかった。

優菜とクリスマスを過ごすと聞いて、正直、嫉妬した。

隠されていたこともショックだった。

そんな自分を認めたくなかったが、あの時の怒りにも似た気持ちは正真正銘、ヤキモチだ。

眠りから覚めてやっと気が付いた。

電気ストーブで十分に温まった頃、真春はベッドの上に座って窓を開けた。

冷たく心地よい風が部屋に入り込む。

部屋の空気が一気に浄化された気がした。

この薄汚れた心も浄化してほしい。

同性に対して恋愛感情を抱くなんて許されることじゃないし、普通じゃない。

真春は窓から上半身を少しだけ出し、タバコに火をつけた。

空に向かって煙を吐き出す。

煙の行方を目で追った先に見えた青空に浮かぶ小さな白い点。

飛行機だ。

そうだ、香枝はキャビンアテンダントになりたかったんだっけ。

そう思ってすぐに真春は、はっとした。

寝ても覚めても香枝のことを考えている。

頭がおかしくなりそうだ。

タバコを吸い終えて、コーヒーをまた一口飲む。

寝ようかと思ったが勿体ないと思い、倒しかけた体を起こした。

今のうちに記録をやってしまおう。

真春は切り替えるために別のことで頭をいっぱいにしようとした。

が、記録を始めて早々に携帯がメールの受信を告げた。

さやかからのメールだった。

『12月20日にバイトの忘年会するよー!予定空けといてね♪』

忘年会か。

もうそんな時期か。

飲み会のシチュエーションを瞬時に想像する。

真春の脳内ではいつも香枝の隣には優菜がいる。

そして、2人の近くにはさやかがいる。

真春はキャッキャするその他大勢のバイト仲間と、酒を飲み交わすのだ。

きっとどんな飲み会であろうと、絵面は一緒だろう。

せっかく切り替えようと思ったのに、メールのせいでまた気分が落ち込んだ。

冷め切ったコーヒーを飲み干すと、自然とため息が漏れた。


最後の1週間はあっという間に過ぎた。

島倉さんは驚異の回復力を見せ、年末までには退院できるだろうと先生のお墨付きをもらった。

最終日、別れの挨拶をしに行くと、島倉さんは「お前には世話になったな。絶対にいい看護師になれる」と初めて暴言ではない言葉を掛けられた。

「ありがとうございます。でも、島倉さんにそんなこと言われると調子狂っちゃいますよ」

「褒めてやってんのになんだと?さっさと帰りやがれ」

「あはは。そっちの方が島倉さんらしいですよ」

真春はぎこちなく微笑んだ島倉さんと握手し「お元気で」と噛みしめるように言った。

皺だらけの温かい手は、力強く握り返してくれた。

帰りの電車の中、長い実習がやっと終わってホッとすると同時に、思い返せば毎日香枝に支えられていたことを思い出した。

今度会ったらお礼を言わなくては。

週末に香枝とバイトが被っていたので憂鬱な気分になっていたが、風邪を引いて休んでしまっていたのでご飯を食べに行った日以来、香枝とは会っていない。

もちろん、メールもしていない。

あの嫌な空気になってしまったのは自分が原因だと真春は自負していた。

しかし、白々しくメールを送るのも嫌だったし、謝るのもまたなんか違う気がして、結局なにもできなかった。

ほぼ毎日の恒例だった"実習頑張って下さいメール"が月曜日に来なかったのはとてもショックだったが、仕方のないことだと思うことにした。

どれもこれも、自分の撒いた種だ。

香枝とは今まで以下の関係になってしまうかもしれない。

真春は、徐々にそう考えるようになっていた。


実習が終わり、レポートを提出した翌日から長い冬休みが始まった。

冬休みに入ってからというもの、真春は今までの分を取り返すかのように毎日腐るほど働いた。

なんの偶然か、香枝とは1回もシフトが被らなかった。

久しぶりに香枝に会ったのは忘年会の当日。

この日も真春はラストまでのシフトで、お座敷席で会場が作られていくのを締め作業をしながら視界の片隅で見ていた。

焼き場だけ片付けずにいた戸田さんが「白石さん何食べたい?」と聞いてくる。

「何食べたいって、焼き場以外全部締めてるから焼き物限定じゃないですか」

「あははー!バレたー?」

戸田さんと話していると、裏口のドアが開いた。

デシャップの位置から丁度見えるので、確認すると「わー!真春さーん!」とニコニコと手を振る香枝が目に映った。

久しぶりに香枝を見て、心拍数が跳ね上がる。

香枝はそのままキッチンを通り抜けてデシャップまでやって来た。

最後に会ってから半月ほど経っているので、あの頃の気持ちは大分薄れていたが、いざ目の前にすると若干の気まずさがある。

しかし、香枝は何もなかったかのように、いつもと変わらぬ穏やかな笑顔を向けた。

「お久しぶりです!実習終わったんですか?」

「久しぶり。もう実習終わったよ。毎日バイトしてた」

真春は香枝のテンションに戸惑いながら答えた。

「香枝は学校忙しいの?全然シフト入ってないけど」

「最近テストとレポートばっかで忙しかったんです。でももうすぐテスト終わりますし、冬休みはいっぱい遊びましょうね!」

やんわり笑う香枝。

いっぱい遊びましょうって社交辞令かな、とドブのように捻くれた思いが過ったが、真春は「うん」と返した。

今日はお客さんの引きもよく、スムーズに締め作業も終わって少し早めに忘年会が始まった。

「みなさん、揃いましたかー?そろそろ始めますよー!お酒持って持って!はい、かんぱーい!」

さやかの声が響く。

みんなの「かんぱーい!!」という声で忘年会がスタートした。

「お疲れー!」

「お疲れさまでーす!」

カチカチとグラスが鳴る音があちこちで聞こえる。

今回は忘年会なのでパートのおばちゃんや普段あまり絡みのない人も参加していて結構な大人数だ。

男は戸田さん含め4人しかおらず、バイト2人と社員1人が隅の方で集まって楽しんでいる。

きっと泰貴のためにならない恋愛講座でも開講しているのだろう。

戸田さんはパートのおばちゃん達と何やら真剣な話をしている。

真春は未央と実習の話をしながらお酒をハイペースで飲んでいた。

「ほんっとに疲れたよー。途中で鼻血出すしさぁ」

「真春さんって、結構体弱いタイプなんすね」

「疲れてただけだと思いたい。こんなにひ弱なはずないんだけど」

「過信し過ぎかもですよー?」

未央が「ま、でも無事に乗り越えたからいいじゃないっすか」と言った時。

「真春さ~ん!」

「うっ!」

奈帆が突然後ろから真春に抱きついた。

その衝撃で顔に少しビールがかかった。

「なんだよ奈帆ー。顔にビールかかったし」

「すみません。でもでもそんなことよりー、ホント会いたかったんですよー!」

奈帆は真春の隣に座ると、また抱きついて「ずっと会えなくて寂しかったー」と言った。

そう言った奈帆の顔はすでに真っ赤だった。

「奈帆、顔真っ赤!もうそんなに飲んだの?」

「真春さん大好きなんですー!もう、可愛すぎ!付き合いたい!」

「なにそれー!酔っ払いすぎでしょ、もー」

もはや会話になっていないが、そんな風に慕ってくれる奈帆が可愛くて真春もふざけて「あたしも奈帆が好きだぞー!」と抱きついた。

奈帆はこう見えて人と関わるのがあまり得意な子ではない。

クールでサバサバしていて大分個性的なので、人と揉めることが多いのだと南が言っていた。

しかし、一旦仲良くなってしまえば、面白くて芯が通っていて、可愛い一面もあるいい子なのだということを真春は知っている。

バイトの時、奈帆は真春に抱きついて「真春さん大好き!」なんて言ってくることもしばしばある。

それが香枝だったらドキドキしちゃうんだろうなと何度も思ったことがある。

「本当ですかー?じゃあチューしちゃおっ!」

次の瞬間、奈帆に突然キスされた。

しかも唇に。

瞬時に目が香枝を探す。

「んもー!酔いすぎ!」

真春は奈帆の頬をギューッと引っ張った。

「痛いー!痛いよー!」

奈帆が笑いながら暴れた拍子にテーブルに頭をぶつけたのを見て、近くに座っていた子たちもケラケラ笑った。

「ちょ…大丈夫?」

ひっくり返った奈帆の腕を引っ張る。

真春の目が香枝を捉えたのは、起き上がった奈帆が真春の右隣に座った時だった。

香枝と優菜はいつものごとく隣同士で、奈帆と優菜を挟んだ隣の場所に座ってた。

奈帆は酔い過ぎていて、犬猿の仲である優菜の隣に座っていることなど気付いていない。

優菜は香枝を独占している状態で、ずっと2人で喋っている。

パートのおばちゃん達と話していたさやかが混じったのはほんの僅かな時間で、ほとんど2人で飲んでいるようなものだ。

毎回毎回ずっと一緒にいて、一体何をそんなに話すことがあるのだろうか。

真春はそんなことを考えるのが嫌で、無理矢理テンションを上げてお酒を飲みまくった。

女子高生たちとキャーキャー騒ぎ、くだらないどうでもいい話でゲラゲラとはしたない声で笑って、少し若返った気がした。

その時だけは、香枝のことを忘れていた。

「真春さんって本当に女子から人気ですよね」

少し落ち着いた時、未央が言った。

「奈帆にも付き合いたいとか言われちゃってるし」

「冗談でしょ」

真春は何杯目か分からないビールに口をつけた。

少しフワフワしてきた。

「嫌われるよりいいよー」

「そりゃそうですけど。同性からこんなにウケるのって本当すごいと思いますよ。特技の欄に書けますって」

「特技って!」

未央の言葉に真春は爆笑した。

酔いが回って笑い上戸になっている。

未央もつられて笑い上戸になり、周りにいた女子高生達もまた笑い始め、再び笑いの渦に巻き込まれていった。

1時間を過ぎた頃、みんなが本格的に酔い始めてきた。

パートのおばちゃん達は日付を超えて少し経った頃帰宅していった。

戸田さんもさやかに戸締まりを任せて、先に帰ってしまった。

残ったメンバーは変わらずどんちゃん騒ぎしていた。

ひどく酔っ払っている奈帆を中心に、何故かキスの嵐が始まり、誰彼構わずキスをしまくっている状態だった。

多分、ほとんどの子とキスを交わしたと思う。

男達はどん引きしているだろう。

頭の片隅でそう思ったが、酔いすぎててどうでもよくなって、記憶の彼方に消えていった。

時間が経つにつれお座敷の席は合宿の大部屋みたいになり、酔いつぶれた数人がそこかしこで座布団を枕がわりにして寝てしまっている。

しかしまだ騒ぐ人は多く、夜はまだまだこれからといった感じだ。

真春は奈帆が離れてさやかとウィスキーを飲み始めたのを機に、タバコを吸いに外に出た。

裏口のドアを開けると風がびゅうっと中に入り込んできた。

マウンテンパーカーの上からマフラーを巻いてきたので、防寒はばっちりだ。

こんなに寒くてもタバコを吸いに外に出るなんて、もう依存症の他の何者でもない。

真春は喫煙所まで行くのが急に面倒臭くなり、その場でタバコを吸おうとした。

手に取ったタバコとライターを見ると、目の前がぼやんとしていることに気が付いた。

結構飲んだもんなぁ。

そんなことを思っていた時。

「真春さんみーっけ!」

ドアが開いたと思ったら、イヒヒと笑う香枝が顔を覗かせた。

「おー、香枝ちゃん」

真春が笑うと、香枝は隣に来て「またそんなところで〜」と言った。

若干ぼやけて見える。

「香枝ちゃん、って」

「たまにはちゃん付けも可愛いかなって」

酔っ払って普段なら言わないようなことも口を突いて出るので自分で自分が怖くて仕方ない。

しかし、今の真春はブレーキが壊れかけていた。

香枝がすごく近くにいる。

優しい、いい匂い。

だめだ、酔いすぎている。

もう嫌われているかもしれないと思っていたのに、前と変わらない態度でそんな風にされたら、また期待してしまう。

会うのが憂鬱だったのに、一目見ただけで胸が高鳴って熱くなって、自分はどうかしている。

「真春さん、大丈夫ですか?…なんかすごい眠そう」

「うーん、ちょっと飲みすぎたかも。お酒あんま強くないのに調子乗った」

真春はへへっと笑った。

「香枝、飲んでる?あんま絡んでないからわかんないや」

「あたしですかー?まぁまぁ飲んでますよ。でも明日、学校なんで…」

「明日学校なの?じゃああんまり楽しめないか」

「そればっかりは仕方ないですよね。てか真春さん、めっちゃチューされてましたね!」

香枝はヘラヘラ笑いながら「モテモテですね」と乾いた声で言った。

やはり見られていたか。

見られたくなかったな。

引かれてたらどうしよう。

「みんな酔っぱらうとキス魔になるからなー」

笑って軽く流すつもりだった。

しかしフワフワする頭は真春の背中を強く押した。

「でもね」

ダメだダメだと言う心が、アルコールの力に負けた。

本心には敵わない。

ブレーキは完全に壊れた。

「あたしが一番好きなのは、香枝」

そう言って、真春は香枝の腕を軽く引き寄せて唇にキスをした。

短いキス。

その瞬間、真春ははっと我に返った。

「あ、ご、ごめん。香枝、そんな酔ってないよね。キスされすぎてつい…」

「ひひ、恥ずかし。キスなんてご無沙汰だー」

そして真春の腰に腕を回して胸元に頭を預けると「大分酔っ払ってますよ」と香枝は言った。

香枝の頬がほのかに色づいているように見えたのは気のせいだろうか。

時が止まったような気がした。

心臓が激しくのたうち回っている。

「へっ?」

抱きつかれた衝撃で、変な声が出てしまった。

この鼓動は、絶対にもうバレている。

ドキドキし過ぎて、手が震えそうになる。

「真春さん」

「え?!あ、なに?!」

「本当、真春さんって酔っ払うと可愛い。早くタバコ吸って戻ってきてくださいね!」

可愛い…?

香枝は真春から離れるとみんなのところへ戻って行ってしまった。

謝らないで酔っ払ったフリをすれば良かったのか、なんちゃってと悪戯っぽく笑えばよかったのか、これで良かったのか…分からない。

しかし少なくとも嫌な気持ちにはさせていないようだ。

それにしても、なんなんだこの展開は。

そもそも、香枝はここに何をしに来たのだ?

真春の思考回路は停止した。

震える手でタバコに火をつけた。

身体が変な感情に支配されて、味も何も感じない。

真春は今の出来事を何十回も脳内でリピートさせた。


飲み会は明け方まで続いた。

お店を出る頃には、空は白くなっていて吐く息も一層白さを増していた。

朝の澄んだ冷たい風が気持ちいい。

みんなで片付けたゴミを手分けしてゴミ捨て場に運ぶ。

「オープンからとかマジキツいわー」

さやかはゴミ捨て場にゴミを放りながら言った。

「全然寝れないじゃないですか」

「ホントだよ。ま、でも楽しかったからよしとする!」

「また飲みましょうね!今度はさやかさんが次の日オープンじゃない日に」

「そこはマジでお願いします」

駐輪場でみんなで少し話してから、それぞれ帰路につく。

「おつかれー!」

みんなと解散し、真春は自転車をゆっくり走らせた。

酔ってガンガンする頭の中で、何度も何度もさっきの事を考えた。

香枝にキスをした。

ドキドキした。

笑ってくれた香枝。

あの時、拒絶されなくてホッとしているのは事実。

でも、本当は嫌だったのに酔っ払っているから、と受け入れてくれたのかもしれない。

優菜のことを許しているくらいだ。

香枝なら我慢するかもしれない。

そう思う反面、嬉しいと思っていてほしいと思ってしまう自分が情けない。

嫌いにならないで欲しい。

考えれば考えるほど気分が落ち込んだ。

家に着く頃には悪いことしか考えられなくなっていた。

朝日が優しく差し込む部屋に入ると、途端に睡魔が襲ってきて、真春は電源が切れたように着の身着のままベッドに倒れ込んだ。


「真春さん」

隣で寝ている香枝が可愛らしい声で自分の名前を呼んだ。

「ん?」

「あたし、真春さんのことが好きです」

香枝のストレートな言葉が信じられなくて、真春は数秒間何も言えなかった。

「…え?」

そう言うので精一杯だった。

すると、香枝は真春を抱き締めて唇を重ねてきた。

真春は突然の出来事に何もできず、なされるがままだった。

身体が動かないのだ。

頭の中もパニック状態となっている。

何もできずにいると、香枝は真春の指に自分のそれを絡めた。

ドクンと胸が大きく鳴る。

握り締められると同時に、香枝の舌が唇を割って入ってきた。

「んっ!!…んー!」

息も出来ないくらいの深いキスに溺れていく。

「香枝っ…や、やめっ…!やだっ!!」

何してんの、ダメだよ。

取り返しがつかなくなる。

「真春さんっ…」

そんな声で呼ばないでよ。

胸が苦しい。


目を開けると、枕が顔に覆いかぶさり、グシャグシャになった布団が身体の上にのしかかっていた。

薄暗い天井を見つめる。

恐ろしい夢をみた。

この部屋で、香枝と…。

真春は自分の唇に指で触れた。

寝起きとは思えないほどに呼吸が乱れ、動悸がする。

なんでこんな夢をみてしまったのだろう。

罪悪感と虚しさに襲われた。

夢で香枝に犯されるなんて…。

望んでいるから、そんな夢をみたのだろうか。

絶対に違う。

そんなことは望んでいない。

身体の関係を持つなんて、考えたくない。

どうしようもない気持ちに駆られる。

自分は、最低だ。

夢だとしても最低だ。

そんな夢のせいで、時刻は16時を過ぎているというのに全く寝た気がしなかったし、気が動転していて18時からバイトだということを危うく忘れるところだった。

準備を済ませて落ち着かない気持ちのまま真春はバイトに向かった。

世間は本格的にクリスマスモードに入っており、お店の隣のコンビニのスタッフがサンタの帽子を被って働いているのを目撃した。

あんな浮かれた気分になれない。

しかし真春の働くファミレスもまた、世間の波に乗ろうとしていた。

「おはようございまーす」

戦意喪失のまま出勤する。

「ねーねー真春さん」

軽くあくびをしながらサロンを巻いていると、未央がやってきた。

「あ、おはよ」

「真春さん大丈夫ですか?なんか顔色悪くないですか?」

心配そうに真春の顔色を伺う未央。

寝たようで心は寝ていなかったのだから、無理もない。

「そう?朝まで飲んでたしね…。未央は逆に元気そうで羨ましいよ」

「あたしも結構眠いですよ。あ、そうだ。はい、今日からこれ着けて下さい」

未央は困ったような顔で笑った後、思い出したかのように言うと真春にトナカイの角が付いているカチューシャを手渡した。

「え、何これ」

「うちの店もクリスマス仕様にしましょうって、さやかさんが。戸田さんもノリノリだし」

未央が戸田さんに目を向けると、サンタの帽子を被った戸田さんがニコリと笑った。

本物のサンタクロースのようだ。

「あはは、戸田さん可愛い!オッケー、ちょっと恥ずかしいけど」

真春はあまり気分が乗らなかったがトナカイのカチューシャを着けて「どう?似合う?」と言った。

「似合う似合う!」

未央はポケットから携帯を取り出して何枚か写真を撮った。

そしてそれを真春に見せた。

未央とはしゃいでいるうちに、少し元気が出てきた。

「意外とイケてるねー」

「次はサンタさんのも撮りましょうね。…あ、真春さん」

「ん?」

「ちょっといいですか?」

未央は真春をパントリーに連れて行くと、「あまり言わないでくださいね」と囁いた。

「あさって、みんなでイルミネーション見に行きません?」

「イルミネーション?どこの?」

未央曰く、隣の市の山奥にイルミネーションで有名な公園があるらしく、そこに行きたいとのこと。

しかしその公園は交通の便が悪く、電車では行けないし、バスも本数がかなり少ないらしい。

「真春さん…車出せません?」

未央はニヤついて真春に懇願した。

「しょうがないなー。じゃ、今度ビール奢ってね!」

真春はふざけて「もしかして足のために誘った感じ?」と未央を睨む仕草をした。

「違いますってー!奈帆と南と話してて、真春さんもあさってバイト休みだし誘おうってなったんですよ。で、免許持ってるのが真春さんだけだったんで」

「なるほどねー。4人で行くの?」

「まだ確定ではないんですけど、あと香枝にも聞いてみようと思ってます。あと、この事は秘密でお願いします」

未央は口元に人差し指を当てて、再び囁くように言った。

「わかった」

「詳しいこと確定したら、また言いますね」

「うん、ありがと」

香枝が来ると聞いて、少し取り戻した元気が萎えた。

嫌なわけではないのに、むしろ喜ばしいことなのに、どうしてこんな気持ちになってしまうのだろうか。

どんな顔をして会えばいいのだろうか。

香枝はあの日のキスのことを、どう思っているのだろうか。

自分は、あんな夢を見た後に、香枝と普通に接せられるのだろうか。

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