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第15話 私は知ってる

村を出るとき、三十人が見送りに来た。


「気をつけてな」


「また来いよ!」


「英雄殿、達者で!」


「だから英雄はやめてくれって」


 俺が言うと、笑いが起きた。


 昨日の今日で、もうこの空気だ。人間というのは、案外図太い。


 あの薪運びの子供が、走ってきた。


「レンさん、これ!」


 差し出されたのは、木を削って作った小さな人形だった。


 剣を持っている。四本の線で顔が描いてある。


「……これ、俺か?」


「うん!」


「……下手だな」


「うるさい!」


 俺は笑って、それを荷物に入れた。


 森から持ってきた折れた騎士剣は、村を出る前に鍛冶場で引き取ってもらった。


 紋章が入っているし、折れたまま持ち歩いても仕方がない。


 女将が、ルナに包みを渡していた。


「お嬢ちゃん、これ持ってきな。道中の飯だよ」


「……お金」


「いらないよ」


「……でも」


「いいから。あんたたち、うちの村を助けたんだから」


 ルナは包みを抱えたまま、しばらく動かなかった。


 それから、深く頭を下げた。


 やり方がぎこちなかった。誰かに教わったことがないんだろう。


  ※


 街道を半日歩いたところで、俺たちは隊商に追いついた。


 幌をかけた荷馬車が四台。護衛が三人。


 先頭の男が、こちらを見て馬を止めた。


 五十がらみの、日に焼けた男だった。


「おい、そこの二人」


「なんだ」


「歩きか」


「ああ」


「王都か」


「……そうだが」


「乗るか?」


「え?」


「うちも護衛が足りん。腕に覚えがあるなら、飯と荷台の場所くらいはやる」


 俺は少し考えた。


「……俺、正規の訓練は受けてない」


「見りゃ分かる」


 男は鼻を鳴らした。


「だが、弱そうにも見えん」


 男が、俺の腰を見た。


「武器は」


「ない」


「護衛やるのに丸腰かよ」


「折れた剣なら持ってたけど、村で処分してきた」


「なんだそりゃ」


 男は呆れた顔をして、荷馬車の後ろを指した。


「使ってねえ剣が一本ある。やるよ」


「いいのか?」


「余ってる。護衛代だと思っとけ」


 隊商の頭は、ガランといった。


 塩と鉄を運んでいるらしい。北の砦へ荷を届けた帰りにこの村へ寄り、今度は王都へ向かうという。


「レスタの砦は本当に持ち直したのか」


 俺は馬車の脇を歩きながら聞いた。


「持ち直したどころじゃねえ。四百の魔族を三百以上仕留めたとよ」


「……そうか」


「王都の連中が来たんだと。召喚された英雄様がな」


 ガランは唾を吐いた。


「まあ、ありがてえ話だ。北に兵を回した分、南の街道は手薄になったがな」


「あんた、嬉しそうじゃないな」


「嬉しいさ。北が助かれば俺の荷も動く」


 彼は肩をすくめた。


「ただな、俺は商人だ。誰かが得すりゃ、誰かが損する。それを二十年見てきた」


  ※


 旅は、静かだった。


 朝に起きて、荷馬車を進め、昼に休んで、また進む。夜は火を焚いて交代で見張る。俺は護衛の連中と一緒に、馬車の脇を歩いた。


 俺は最初の夜から見張りに入った。護衛の三人は、初日こそ俺を新入り扱いしていたが、二日目に街道の脇から出てきた狼型を俺が一撃で仕留めてから、態度が変わった。


「兄ちゃん、あんた何者だ」


「……通りすがりだ」


「そればっかりだな」


 ルナは、荷馬車の後ろに座らせてもらっていた。


 最初、隊商の連中は彼女を遠巻きにしていた。


 当然だ。黒髪に赤い目の少女なんて、この辺りでは見ない。

 それに、こいつは表情がほとんど動かない。


 だが、三日目に変わった。


 積み荷が崩れかけたとき、ルナがそれを両手で受け止めたのだ。


 ……正直、驚いた。


 こいつは森で、牙猪の後ろ脚を引きずることすらできなかった。それが、崩れかけた麻袋を必死に押し返している。


 火事場の馬鹿力ってやつか。


「うおっ、嬢ちゃん力持ちだな!」


「……」


「助かった!」


 その日から、彼女は「嬢ちゃん」になった。


 もっとも、隊商の連中が最初にルナを遠巻きにしていた理由は、たぶんそれだけじゃなかった。


 ……こいつは、綺麗すぎる。


 旅の埃をかぶって、村で買った古着を着て、髪も碌に梳かしていない。


 それなのに、汚れて見えない。


 焚き火の光が当たると、頬が薄い硝子みたいに透ける。


 髪は、櫛を入れていないのに縺れない。黒くて、重くて、火を映すと底のほうが赤く光る。


 まつげが長い。首筋の線が細い。爪の色まで揃っている。


 中学の教科書に載っていた彫刻を思い出した。


 白くて、静かで、なぜか長く見ていられないやつだ。


 護衛の一人が、初日に一度だけ正面から彼女を見た。


 しばらく固まっていた。


 それ以来、ルナと目が合うたび、見惚れていたのを誤魔化すみたいに視線を逸らす。


「なあ、兄ちゃん」


 その男が、後で俺に聞いてきた。


「あの嬢ちゃん、どこの生まれだ」


「……遠くだ」


「そうか」


 男は、そこで少し笑った。


「……いや、悪い。柄にもねえこと聞いた」


 ……分かる。


 俺だって、いまだに慣れない。


 毎日一緒にいるのに、ふとした拍子に、目が離せなくなる。


  ※


 四日目の昼、街道沿いの町に入った。


 村より大きい。石造りの建物があって、市が立っている。


 補給のために半日止まると聞いて、俺は町を歩いた。


 ルナが、後ろをついてくる。


 ……いや。


 この頃には、横に並ぶようになっていた。


  ※


 広場に、掲示板があった。


 人だかりができている。


「なんだあれ」


「王令の写しだよ」


 ガランが横に来た。


「読んでやろうか」


「……頼む」


 俺は文字が読めない。この六日間で、それがどれだけ不便か身に染みていた。


 ガランは掲示板の前に立って、指でなぞりながら読み上げた。


「えー、なになに。……レスタ砦の防衛について、王国はこれを大勝と認め、参加せし異界の勇士らに感謝を捧げる」


 人だかりから、おお、と声が上がった。


「勇者、神崎蓮司。聖女、白石美咲」


 心臓が、跳ねた。


 名前だ。


 あいつらの、名前だ。


「聖騎士、九条麗華。弓聖、水城葵。賢者、佐伯陽一」


 九条。水城。佐伯。


「拳聖、東雲千尋。魔法剣士、姫川莉奈。重騎士、鬼塚大我」


 ……大我。


 生きてる。


 あいつ、ちゃんと生きてる。


 俺は、自分の手が震えているのに気づいた。


「剣鬼、柊隼人」


 柊。


 ……あいつも、いるのか。


「以上、九名——」


 九名。


「……待て」


 俺は言った。


「今、九名って言ったか」


「言ったな」


「他は」


「他?」


「他の名前は」


 ガランは、掲示板をもう一度見た。


「これで全部だぞ。九人」


 俺は、掲示板の前に立った。


 読めない文字が並んでいる。


 けれど、その中に俺の名前がないことだけは、もう分かっていた。


 いや。


 名前がないのは、当たり前だ。俺は戦っていない。


 問題は、そこじゃない。


「なあ、ガラン」


「おう」


「そこに、召喚された人数は書いてあるか」


「ああ、書いてある。……異界より召き寄せられし九名、とあるな」


 九名。


 俺たちは、三十四人だった。


 勇者も聖女も含めて、三十四人。


 戦えない職業の連中も、みんな一緒に召喚された。


 なのに、公式の記録では九名。


 ……いや。


 違う。


 「戦力になる者だけを数えた」なら、まだ分かる。


 だが、この書き方は違う。


 最初から九人しか呼ばれなかったことになっている。


「どうした、兄ちゃん」


「……なんでもない」


 俺は掲示板から離れた。


 頭の中が、うるさかった。


 三十四人を呼んで、九人だけを英雄にした。


 残りは、どこにいる。


 書かれていないということは、いないことになっているということだ。


 いないことになっている人間は、どうなる。


 ……どうにでもなる。


「レン」


 ルナが、袖を引いた。


「……顔、こわい」


「……そうか」


「……どうしたの」


「……いや」


 俺は言葉を探した。


 うまく説明できる気がしなかった。


「……俺の名前、なかった」


「……」


「まあ、当たり前だけどな。戦ってねえし」


 俺は笑おうとした。


 笑えなかった。


「他の連中の名前も、なかった。三十四人いたはずなのに、九人しか書いてない」


「…………」


「俺たちは、最初からいなかったことになってる」


 言ってから、自分の声が思ったより低いことに気づいた。


「……悪い。関係ない話だな」


「……関係ある」


「あ?」


「……レンのことだから」


 ルナは、俺の袖を掴んだまま言った。


「……私には、関係ある」


  ※


 その夜、俺は見張りの番だった。


 町を出て、街道脇で野営している。


 火の番をしながら、俺はずっと同じことを考えていた。


 名前がない。


 記録にない。


 召喚された人数すら、書き換えられている。


 ……あいつら、最初からそのつもりだったんじゃないか。


 役に立つ九人だけを英雄にして、残りは無かったことにする。


 なら、俺を森に捨てたのも——。


「……レン」


 声で、我に返った。


 ルナが、毛布を持って隣に来ていた。


「起きてたのか」


「……眠れない」


「またそれか」


「……本当に」


 ルナが座る。


 俺は、火に枝を足すふりをして、彼女の顔を見た。


 顔色は、悪くない。目の赤も澄んでいる。


 ……たぶん、まだ平気なんだろう。


「ルナ」


「……なに」


「何日だ」


「……え」


「最後に飲んでから、何日だ」


 ルナの肩が、跳ねた。


「……平気」


「そりゃ見りゃ分かる」


「……え」


「顔色いいしな。前のときとは全然違う」


 俺は火を見たまま言った。


「聞いてんのは日数だ」


「…………二十四日」


「即答じゃねえか」


 ルナが、口を押さえた。


 自分で言ってしまったことに、今気づいた顔だった。


「……数えてんのか」


「…………」


「なんでだよ。平気なんだろ」


「……平気」


「じゃあなんで数えてんだ」


「…………」


 ルナは俯いた。


 髪が顔を隠す。


「……分からない」


「またそれか」


「……ちがう。今度は、本当に分からない」


 彼女は、膝を抱えた。


「……前は、平気だった」


「前?」


「……森にいたとき。何十年も、平気だった。ずっと痛かったけど、それが普通だったから」


「……ああ」


「でも、一回飲んだら」


 ルナは、自分の指を見ていた。


「……身体が、覚えた」


「今は、痛くない。苦しくもない。ぜんぜん平気」


 彼女は、はっきりと言った。


「……でも、ほしい」


 俺は、枝を火に落とした。


 パチ、と音がした。


「……それって」


「……我慢できる」


 ルナは早口になった。


「五十日でも、百日でも、我慢できる。前より全然楽だから。だから——」


「ルナ」


「……」


「言えよ」


 長い沈黙があった。


 火が爆ぜる音だけがした。


 やがて、消え入るような声で。


「……飲みたい」


 俺は、ため息をついた。


 ため息をついてから、自分が少し笑っているのに気づいた。


「最初からそう言え」


「……え」


「言えばやるって」


「……でも、必要ないのに」


「必要ない?」


 俺は聞き返した。


「宿で聞いたよな。腹の足しにならねえのに、なんで食うんだって」


「……うん」


「お前、なんて答えた」


 ルナは、少し考えた。


「……美味しいから」


「そうだ」


 俺は頷いた。


「必要かどうかなんて、聞いてねえよ。ほしいならやる。それだけだ」


 ルナが、顔を上げた。


 目が、丸くなっていた。


「……覚えてるの」


「そりゃ覚えてるだろ」


「……あんな、どうでもいい話」


「どうでもよくねえよ」


 俺は肩をすくめた。


「お前が『美味しいから』って言った話だぞ。忘れるかよ」


 俺は、首を傾けた。


「言っとくけどな。これは、お前のためだけじゃない」


「……え」


「お前がずっと我慢してるのを見てんのが、こっちも落ち着かねえんだよ」


  ※


 ルナが、近づいてくる。


 火のそばで、二人分の影が重なった。


 冷たい手が、俺の肩に置かれる。


 その手が、今日は震えていなかった。


「……ごめんなさい」


「それ、言うのやめろって」


「……言う」


「……そうかよ」


 牙が、沈んだ。


 痛い。


 だが、前より短い。


 彼女はほんの少しだけ飲んで、自分から離れた。


「……終わり」


「早いな」


「……止まれた」


「そりゃそうだろ」


 ルナは口元を拭って、それから——動きを止めた。


「……レン」


「なんだよ」


「……怒ってる」


 俺は目を瞬いた。


「怒ってねえよ」


「……怒ってる」


「いや、だから——」


「私、飲んだから分かる」


 俺は、動きを止めた。


「……待て」


「……なに」


「飲んだから分かるって、何だ」


 ルナは、口元を押さえたまま俺を見た。


 それから、当たり前のことのように言った。


「……血には、味がある」


「そりゃ、あるだろうな」


「……そうじゃなくて」


 彼女は言葉を探した。


「……鉄とか、塩とか、そういうのじゃなくて。……その人が、そのとき思ってたことが、入ってる」


 しばらく、意味が分からなかった。


 分かった瞬間、俺は自分の首を押さえていた。


「……全部か?」


「……全部じゃない」


「じゃあどこまでだ」


「……そのとき、強く思ってることだけ」


 ルナは、少し困ったような顔をした。


「……昔のことは、分からない。名前も、生まれた場所も、分からない」


「……そうか」


「……ただ、その人の中で、強くなってるものが来る」


 俺は、頭を抱えた。


「……おい、それ先に言えよ」


「……前に飲んだときも、そうだった」


「あのときもかよ!」


「……うん」


「……何が来たんだよ、そんとき」


 ルナは、少し黙った。


「……心配」


「……」


「レンの中、私のことでいっぱいだった」


 俺は、盛大に咳き込んだ。


「……なんで教えなかった」


「……言ったら、レン、飲ませてくれなくなると思ったから」


 こいつ。


「あと」


「あと?」


「……嬉しかったから、黙ってた」


 俺は、しばらく火を睨んでいた。


 睨んでも、火は何も答えてくれない。


 ……つまり、あれか。


 これから血を飲ませるたび、こいつに頭の中を覗かれるってことか。


 いや、頭の中じゃない。もっと悪い。


 そのとき強く思っていることだけ。


 ……最悪だ。


「……レン?」


「なんでもねえ」


「……顔、赤い」


「火が近いんだよ」


「……そう」


 ルナは、俺を見た。


「……あなたの中、いっぱいだった」


「……何が」


「……怒りと、それから」


 言葉を探すように、少し黙った。


「……さみしい」


 俺は、何も言えなかった。


「……名前がないって言った」


「……ああ」


「……いないことになってるって」


「……ああ」


 ルナは、俺の顔をじっと見ていた。


 それから、はっきりと言った。


「……私は知ってる」


「……は?」


「私は、レンがいることを知ってる」


 彼女は指を折った。


「私を突き飛ばして、代わりに焼かれそうになったことを知ってる」


「……おい」


 ルナは、やめなかった。


「……誰かが紙に書いたかどうかなんて、知らない」


「でも、私は見てた」


「レンは、いる。ここにいる」


 俺は、顔を覆った。


 情けない話だ。


「……ずるいだろ、それ」


「……ずるくない」


「ずるいんだよ」


 俺は手の隙間から言った。


「そういうこと言われたら、俺、」


 その先は、言わなかった。


 言えなかった。


 胸の奥が、妙に苦しかった。


 痛いわけじゃない。


 息が詰まるような、それでいて、嫌じゃない。


 心臓が、さっきからうるさい。


 こいつが「私は知ってる」と言った。


 それだけだ。


 それだけなのに、どうしてこんなに嬉しいんだ。


 名前がなくても。


 記録に残っていなくても。


 こいつだけは、俺がここにいることを知っている。


 ……それが。


 こんなに嬉しいものなのか。


 俺は、隣にいるルナを見た。


 ……それって。


 俺は、そこで考えるのをやめた。


 顔を覆ったまま、火の音を聞いていた。


 名前をつけたら、何かが変わる気がした。


 まだ、いい。


 まだ、名前はいらない。


  ※


——ルナ Side——


 私は、彼の血を飲んだ。


 温かかった。前と同じように、身体の芯まで届いた。


 でも、今日はそれどころじゃなかった。


 流れ込んできたものは、三つあった。


 一つ目は、怒り。


 黒くて、重くて、行き場のない怒り。


 誰かに向いているようで、どこにも届いていない。殴りたいのに、殴る相手が遠すぎる。叫びたいのに、聞く相手がいない。


 ……こんなものを、この人はずっと抱えていたのか。


 二つ目は、さみしさ。


 怒りの下に、もっと薄くて、もっと冷たいものが沈んでいた。


 名前を書いてもらえなかった子供みたいな、単純な、どうしようもないさみしさ。


 私はそれを飲んだ。


 飲みながら、泣きそうになった。


 そして、三つ目。


 これだけは、名前が分からなかった。


 牙を離す直前、顔が近かった。その瞬間に、一気に膨れ上がったのが分かった。


 怒りは、王国に向いていた。


 さみしさは、どこにも向いていなかった。


 でも、三つ目だけは。


 まっすぐ、私に向いていた。


 私は五百年、誰かの感情を知らなかった。


 娘たちが何を思っているかも、分からなかった。分かろうともしなかった。


 今、私は人の感情を飲める。


 この人のだけ。


 ……なんて、都合のいい力だろう。


 私は、この人の気持ちを知ることができる。


 この人は、私が何者なのか知らない。


 だから、言った。


 私は知ってる、と。


 言った瞬間、それが自分の罪の告白みたいに聞こえた。


 私はこの人を知っている。どこにも書かれていないこの人が、何に傷ついたかを知っている。


 なのに、私は肝心なことを何も言っていない。


 でも、彼は顔を覆って、「ずるい」と言った。


 その手の隙間から見えた耳が、赤かった。


 ——それを見た瞬間。


 私の顔が、熱くなった。


 ……熱く?


 私の身体は、冷たい。


 ずっと冷たい。血を飲めば少しは温度が戻る。


 でも、こんなふうに頬だけが熱くなったことは、一度もない。


 それが真祖の身体だから。私はそういうふうにできている。


 なのに。


 頬が熱い。


 耳も。首も。


 私は両手で顔を押さえた。手のほうが冷たくて、余計にはっきり分かってしまった。


 ……なに、これ。


 私は五百年生きて、一度もこんなふうになったことがない。


 怒ったときも。

 殺されかけたときも。

 娘たちに罵られたときも。

 街が三つ燃えたときも。


 一度も。


 なのに、この人が耳を赤くしただけで。


 私の身体が、勝手に。


 私は膝を抱えて、そこに顔を埋めた。


 息が浅い。心臓が速い。うるさい。


 ……こわい。


 自分の身体が言うことを聞かないのが、こわい。


 でも。


 やめてほしくない。


 もう一回、言ってほしい。


 「ずるい」でもいい。何でもいい。この人が私のことで顔を覆うところを、もう一回見たい。


 ……私、おかしくなってる。


 さっき飲んだ、三つ目のもの。


 あれが私に向いていたことは、もう分かっている。


 でも。


 たぶん、私のほうがずっと大きい。


 彼は、まだ半分も気づいていない。


 私は、もう自分でも抑えられなくなっている。


 私の身体は、彼の耳が赤いだけで壊れる。


 私が名前を呼ぶと、彼の狂った力が止まる。


 彼が隣にいないと、柔らかい寝台でも眠れない。


 ……こんなの、もう。


 私は、それが何なのか知らない。


 名前を知らない。


 でも、一つだけ分かることがある。


 私の中にあるものと、同じ形をしている。


 彼が私の名前を呼ぶとき。


 私の手に布を巻くとき。


 「隠れてろ」と言うとき。


 私の胸のあたりで、同じものが動く。


 温かくて、詰まって、どうしていいか分からなくなる、あれ。


 彼の中にも、同じものがあった。


 ……どうしよう。


 私は、火の前で顔を覆っている彼を見ていた。


 耳が赤かった。


 言ってしまおうか、と思った。


 あなたの中に、私と同じものがある。それが何かは分からないけど、同じ形をしている、と。


 言えなかった。


 言えば、次に来る言葉が分かっていたからだ。


 ——じゃあ、それは何なんだ。


 ——……分からない。でも、同じ。


 ——お前のことをもっと知りたい。


 そうなったら、私は。


 自分が何者か、言わなければならなくなる。


 名前のつかないうちは、まだいい。


 名前がつかなければ、進まない。進まなければ、終わらない。


 だから私は、この気持ちに名前をつけないことにした。


 ……ずるいのは、私だ。


 いつも、私だ。


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