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第2話 すり替えられた命

初日3話更新の2話目です。

次は20時10分公開予定です。


 ───十五年前。



 ヴィザリウス王宮の夜は、下層街とは違う色をしていた。


 磨き上げられた白い石壁に、魂魄灯の光が淡く反射している。窓の外では魚たちが静かに泳いでいたが、王宮の厚い硝子越しに見るそれは、下層街の空ほど近くはない。遠く、整えられ、飾られた絵画のようだった。


 王妃ルナリアスは、広い寝室の窓辺に立っていた。


 夜着の上から腹に手を当てる。まだ何も宿っていない体に、期待だけが先に満ちていた。


 背後で侍女が静かに言う。



「お体に障ります。そろそろお休みくださいませ」


「もう少しだけ」



 ルナリアスは空を見上げたまま答えた。



 王宮の空には、大きな魚がよく集まる。王家の血に引かれているのだと、宮廷魔導師たちは誇らしげに語っていた。民も同じように信じている。王には大きな魂が宿る。大きな魂を持つ者こそ、人の上に立つ。


 ルナリアスも、幼い頃からそう教えられてきた。


 けれど彼女は、空の端を泳ぐ小さな魚たちを見るたび、胸の奥が温かくなる。大きな魚の悠然とした影よりも、寄り添うように群れて流れる小魚の方が、なぜか命に近いものに思えた。


 寝室の扉が開いた。


 国王ダウジル・ヴァス・ヴィザリウスが、数名の重臣を連れて入ってくる。



「まだ起きていたのか」


「陛下」



 ルナリアスは膝を折ろうとしたが、ダウジルが手で制した。



「よい。今夜は宮廷魔導師どもが騒がしい。空の流れが良いらしい」



 ダウジルは窓の外を見た。


 その横顔に、夫としての柔らかさはない。王として何かを待つ男の目だった。


 ルナリアスは口元に小さく笑みを浮かべる。



「良い流れなら、きっと良い子が来てくれますね」


「当然だ。王家には、王家にふさわしい魂が宿る」


「お名前はどうなさいますか?」


「名などどうでもよい。そなたが考えよ」


「では、以前から考えていた名がありますの」


「言ってみよ」


「レイスティン」


「……ふむ。悪くはない」



 その言葉を聞いた瞬間、ルナリアスの腹の奥で、小さな熱が灯った。


 痛みではない。


 呼吸が一拍遅れ、指先が震える。窓の外を泳いでいた魚たちが、不意に流れを変えた。


 侍女が息を呑む。


 天井を、何かがすり抜けてきた。

 それは爪の先ほどの魚だった。


 小さい。

 だが、ただ小さいだけではなかった。


 白金色の光を帯びたその魚は、部屋に満ちていた魂魄灯の青を押しのけるように輝いていた。鱗の一枚一枚が朝露のようにきらめき、尾びれが動くたび、空気が澄んでいく。


 魚はルナリアスの前で一度だけ円を描き、彼女の腹へ吸い込まれた。


 ルナリアスは両手で腹を包んだ。



「来てくれた……」



 目から涙が零れた。


 あまりにも小さな魂だった。けれど、彼女には分かった。あの子は弱くない。あの光は、王宮のどんな宝石よりも清らかだった。


 しかし、部屋の空気は祝福に染まらなかった。


 ダウジルの眉が、ゆっくりと寄る。



「今のは何だ」



 宮廷魔導師の一人が震える声で答える。



「魂の定着でございます。王妃殿下に、御子が……」


「そんなことは見れば分かる。余が聞いているのは、なぜあのような小魚だったのかということだ」



 誰も答えなかった。


 ルナリアスは腹を抱いたまま、夫を見上げる。



「陛下、とても美しい魂でした」


「美しい? 美しいだと!?」



 ダウジルの声が冷える。



「王家の第一子だぞ。国中が待っている王位継承者だ。そこに、あのような雑魚が宿った」


「雑魚などではありません」



 言った瞬間、侍女たちが顔色を変えた。


 ダウジルはルナリアスへ向き直る。



「ルナリアス。そなたは、あの小ささが何を意味するか分かっていない」


「命の大きさを、魂の大きさだけで決めるのですか」


「民はそう見る。貴族もそう見る。諸国もそう見る。王家の魂が小さいとなれば、ヴィザリウスの威信は落ちる」


「でも、この子は……」


「その腹の子は、国のものだ」



 ルナリアスは言葉を失った。


 ダウジルはもう彼女を見ていなかった。窓の外の夜空を睨み、重臣たちに短く命じる。



「他に大きな魂の定着がなかったか調べろ。今夜の流れなら、どこかに現れているはずだ」



 重臣たちは頭を下げ、部屋を出ていった。


 ルナリアスは腹に手を当てた。内側から返事があるはずもないのに、彼女は何度も撫でた。



「大丈夫よ」



 誰にも聞こえない声で囁く。



「あなたは、私の子よ」



 窓の外で、小さな魚の群れが散っていった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 同じ夜。


 下層街では、雨漏りの跡が残る天井の下で、ランドが古い鍋を磨いていた。


 磨いたところで、穴が塞がるわけではない。それでも何かしていないと落ち着かなかった。



「ランド、うるさい」



 寝台代わりの板の上で、マルシアが笑った。



「ごめん。けどよ、明日の朝までに直さねえと、またスープが漏れる」


「昨日も同じこと言ってたわ」


「昨日よりは塞がってる」


「どこが?」


「気持ちが」



 マルシアは呆れたように笑い、腹に手を当てた。


 貧しい家だった。


 壁の板は歪み、隙間から冷たい風が入る。窓は割れた部分を布で塞いであり、床板の何枚かは踏むと嫌な音を立てた。だが、部屋には妙な温かさがあった。鍋の煤も、壁に吊るされた古い上着も、二人が一緒に暮らしてきた時間の一部だった。



「はぁ…本当に生まれるかしら?」



 マルシアが言った。



「何言ってんだ。腹もおっきくなってるじゃねぇか」


「ふ、太ってるだけよ! 昨日今日でお腹が大きくなるわけないでしょうが! そうじゃなくて、ちゃんと宿って、ちゃんと生まれて、ちゃんと育つかなって言ってんのよ!」



 ランドは鍋を置き、彼女のそばへ座った。



「育つさ。俺が働く」


「今も働いてるじゃない」


「もっと働く」


「壊れるわよ」


「そしたら、お前が直してくれ」


「あんたは鍋じゃないのよ」



 二人は小さく笑った。


 その時、家の外が騒がしくなった。


 電線の間を泳いでいた小魚たちが、いっせいに散る。窓を塞いでいた布が、内側から押されたように膨らんだ。


 ランドは立ち上がる。



「なんだ?」



 天井を、大きな影が通った。


 部屋が暗くなる。


 マルシアは息を止めた。


 夜空を覆うほどの漆黒の魚が、下層街の上を泳いでいた。魚というより、クジラに近い。あまりにも巨大で、屋根も煙突も電線も、その影の中に呑まれている。


 近所の誰かが叫んだ。



「クジラだ!」



 別の声が続く。



「魂の定着だ! どこの家だ!」



 漆黒のクジラは、尾をゆっくり振った。周囲の小魚たちが波に巻かれるように散る。


 そして、その巨体はランドたちの家へ降りてきた。


 壁も屋根も関係なく、黒い魂が部屋を満たす。ランドはその場に尻餅をついた。マルシアは腹を押さえ、声にならない声を漏らした。


 クジラは、ゆっくりと彼女の腹へ吸い込まれていった。


 静寂が落ちる。


 ランドはしばらく口を開けたまま動けなかった。


 やがて、乾いた笑いが喉から漏れる。



「おい、マルシア」


「なに」


「今の、うちの子に入ったのか」


「たぶん……」


「でかかったな」


「怖かった」


「でも、すげえ……すげぇぞ!」



 ランドは窓の外を見た。


 近所の人間たちが、家の方を見てざわついている。



「あんな魂、見たことねえぞ」


「王家にでも宿るような格だ」


「あの家の子は、化けるぞ」



 ランドの顔に、今まで見せたことのない笑みが浮かんだ。



「なあ、マルシア。聞いたか。王家にでも、だってよ!」


「声を落として」


「だって、すげえじゃねえか! 俺たちの子だぞ!」



 マルシアは腹を抱きしめた。


 喜びより先に、不安が胸を締めつけていた。下層街で目立つことは、ろくな結果を生まない。まして王家にふさわしいなどと騒がれれば、誰の耳に届くか分からない。




 遠くの屋根の上で、盲目の老婆が空を向いていた。


 リンキンは見えない目を細める。


 彼女には、巨大な魂の形は見えない。だが、空の流れが大きく裂けたことは分かった。強すぎる魂が、一つの命へ落ちた。



「厄介なものを呼んだねえ」



 リンキンは杖を握り直し、ランドたちの家へ向かった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 王宮に報告が届いたのは、その夜のうちだった。


 下層街の一軒家に、漆黒の巨大なクジラが宿った。


 宮廷魔導師の報告を聞いたダウジルは、玉座の肘掛けを指で叩いた。怒りはすでに過ぎている。彼の中には、もっと冷たい計算が生まれていた。



「下層街の子に、漆黒のクジラか」



 重臣の一人が頭を下げる。



「目撃者は多く、噂はすでに広がり始めております」


「消せるか」


「今から全てを消すのは難しいかと。下層街とはいえ、あれほどの魂となれば……」



 ダウジルは低く笑った。



「ならば、消さずに使えばよい」



 部屋にいた者たちが顔を上げる。



「陛下」


「王家には爪の先ほどの雑魚が宿った。下層街には漆黒のクジラが宿った。民が知れば何と言う?」



 誰も答えられない。


 ダウジルは玉座から立った。



「王家にふさわしい魂が、下賤の家に落ちた。ただそれだけのことだ。本来あるべき場所へ戻す」



 言葉の意味を理解した重臣たちは、互いに視線を交わした。



「すり替えるのですか」


「言い方を選べ。王家に必要なものを迎えるだけだ」


「王妃殿下は……」


「知らせる必要はない」



 ダウジルの声に迷いはなかった。



「出産の時期を合わせろ。王宮の子は、下層街へ渡す。下層街の子は、王宮へ迎える」


「下層街の夫婦はどう処理を」


「金を渡せ」



 重臣の一人が顔を上げる。



「金、でございますか」


「やつらには十分すぎるほどの金貨をくれてやる。手向けだ。家に撒け。近所の連中にも、あの家に金があると流しておけ」



 部屋の空気が重く沈んだ。


 ダウジルは淡々と続ける。



「下層街の人間が金に群がる。それでどうなるかも知らんし、王宮は関係ない。赤子を奪われたなどと叫ぶ者がいても、金に目がくらんだ貧民の妄言で済む」



 宮廷魔導師は唇を震わせたが、何も言わなかった。



「大きな魂は王家にあるべきだ」



 ダウジルは窓の外を見た。


 その先に広がる王都も、下層街の暮らしも、彼の目には映っていない。



「ヴィザリウスの威信を、雑魚の魂で汚すわけにはいかん」





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 あれから十ヶ月と少し。


 マルシアの出産は、雨の夜に始まった。


 部屋には湯気が満ちている。古い鍋で湯を沸かし、布を煮て、窓の隙間に余った布切れを詰める。リンキンは寝台のそばに座り、マルシアの手を握っていた。



「息を止めるんじゃないよ。吸って、吸って、吐く。痛みに呑まれるな」


「無理……無理よ、リンキン……」


「無理でもやるんだ。出すのはあんただろ」


「ああ、あ゛あ゛!! 痛いぃぃぃぃ!!!」


「ほれ、しっかりいきむんだよ!」




 ランドは部屋の隅でおろおろしていた。




「水、もっといるか? 布は? 鍋は?」


「邪魔だねえ。外で火が消えてないか見てきな」


「でもよ」


「男がうろつくと床が抜ける」


「俺はそんなに重くねえだろ!」


「声が重いんだよ」



 近所の女が小さく笑い、すぐにマルシアの汗を拭った。


 リンキンは盲目だったが、手つきに迷いはない。呼吸の乱れ、指の力、体の震え。目で見えない分、彼女は音と触れた感覚で状況を知っていた。


 やがて、マルシアが声を張り上げた。


 赤子の産声が、狭い部屋に響いた。


 ランドは固まった。


 リンキンが赤子を受け取り、濡れたタオルで拭いた後、布で包む。



「男の子だよ」



 マルシアは涙で濡れた顔を上げた。



「見せて……」



 リンキンが赤子を差し出す。マルシアは震える腕で我が子を抱いた。


 赤子は大きな声で泣いている。小さな拳を握りしめ、顔を真っ赤にして、生きていることを全身で訴えていた。


 ランドは膝から崩れるように近づいた。



「俺の……俺たちの子か」


「そうよ」



 マルシアは泣きながら笑った。



「あなたの子よ」



 ランドは手を伸ばしかけ、途中で止めた。



「触ってもいいのか」


「父親でしょ」


「壊しそうで怖え」



 リンキンが鼻を鳴らした。



「ふん。そんな柔な魂じゃないさ」



 その時、外の雨音に別の音が混じった。


 足音。


 ひとつではない。


 リンキンの顔が動いた。



「ランド、扉から離れな」


「え?」



 返事を待たず、扉が蹴破られた。


 黒い外套をまとった男たちがなだれ込んでくる。顔は布で覆われているが、動きは下層街のならず者ではない。訓練された兵の足運びだった。


 ランドが叫んで立ち上がる。



「なんだ、お前ら!」



 男の一人が彼を殴り飛ばした。


 マルシアは赤子を抱きしめる。



「やめて! この子に触らないで!」



 男たちは答えない。


 リンキンが杖を振るった。先端が一人の膝を打ち、男が低く呻く。だが次の瞬間、別の男がリンキンを突き飛ばした。



「婆さん!」



 ランドが起き上がろうとする。


 その隙に、赤子がマルシアの腕から奪われた。


 マルシアの叫びが部屋を裂いた。



「返して! お願い、返して!」



 男は布に包んだ別の赤子を彼女の腕へ押し付ける。


 その赤子は、静かに眠っていた。胸の奥から、淡い白金色の気配が漏れている。


 マルシアは意味が分からず、腕の中の赤子と、奪われた我が子を見比べた。



「違う……この子じゃない……この子じゃないのッ!」



 男たちは袋を投げた。


 袋の口が裂け、床に金貨が散らばる。魂魄ランタンの青い光を受けて、金貨は濡れたように輝いた。


 ひと袋ではない。


 二つ、三つ、さらにもう一つ。床板の隙間へ転がり、鍋の足に当たって跳ね、ランドの膝の前で止まった。


 黒外套の男たちは、奪った赤子を抱えて去っていく。


 マルシアは追おうとして、産後の体がついていかずに崩れた。



「待って……待ってよ……!」



 ランドは扉へ向かいかけた。


 しかし、足元の金貨が目に入った。


 彼の動きが止まる。


 金貨。


 本物の金貨だった。


 ランドは震える手で一枚拾い上げた。歯を立てる。偽物ではない。彼が一生働いても手にできないほどの金が、床に散らばっている。



「ランド……?」



 マルシアの声がかすれる。


 ランドは金貨を見つめていた。



「これだけあれば」



 口から言葉が漏れた。



「これだけあれば、出られる」



 マルシアは彼を見た。



「何を言ってるの」


「下層街から出られる。借金も返せる。いや、返さなくてもいい。どこか遠くへ行ける。飯だって毎日食える。お前に薬だって……」


「私たちの子が奪われたのよ!?」



 マルシアの叫びに、ランドの肩が跳ねた。


 それでも彼の目は金貨へ戻った。そして歪んだ笑みを浮かべる。



「でも、これだけあれば……」



 リンキンが床を叩いた。



「馬鹿者!」



 杖がランドの手を打つ。金貨が跳ねて床を転がった。



「痛えなババア!」


「外の音を聞け!」



 ランドは怒鳴り返そうとして、口を閉じた。


 雨音の向こうに、人の声がある。低い笑い声、足音、金属を引きずる音。窓の布越しに、いくつもの影が揺れていた。


 近所の女が青ざめる。



「囲まれてる……」



 リンキンは息を荒くしながら言った。



「その金は報酬じゃない。餌だよ。お前らを殺すための餌だ」



 ランドは窓へ駆け寄った。


 布の隙間から外を見る。


 ならず者たちがいた。武器を持ち、家の中を覗き込んでいる。彼らの目は床の金貨へ吸いついていた。



「おい、聞いた通りだぞ」


「あの家、金だらけだ」


「王宮も見逃すって話だ。早い者勝ちだろ」



 ランドの顔から血の気が引いた。


 背後では、マルシアが腕の中の赤子を見下ろしている。自分の子ではない赤子。王宮が置いていった赤子。その小さな口が、かすかに動いた。


 ランドは床の金貨を見た。


 さっきまで未来に見えていた。今は、血で濡れた罠にしか見えない。


 彼は乾いた笑いを漏らした。



「俺は……ほんと、どうしようもねえな」



 扉の外から声が飛ぶ。



「叩き割れ!」



 板が叩かれ、壁が揺れた。


 ランドは金貨を両手で掴み、窓から外へ向かって投げた。



「ほらよ!」



 窓の外で金貨が雨に散る。


 ならず者たちの動きが乱れた。



「金だ!」


「拾え!」



 ランドは残りの袋を蹴り飛ばした。金貨が床を転がり、入口へ向かって広がっていく。



「欲しいんだろ! 全部くれてやる!」



 彼はマルシアへ振り返った。


 彼女は動けずにいた。


 産んだばかりの我が子は奪われ、腕の中には見知らぬ赤子がいる。夫が金に目を奪われたことも、外のならず者の声も、すべてが彼女をその場に縫いつけていた。



「マルシア、逃げろ」


「嫌……あの子が……」


「分かってる!」



 ランドは叫んだ。


 自分に向けた怒鳴り声でもあった。



「分かってる。でも今ここにいたら、お前まで死ぬ。行け!」


「でも、この子は、私の子じゃない!」



 マルシアの声は冷たかった。


 ランドは赤子を見た。


 憎くないと言えば嘘になる。あの子が置かれたから、自分たちの子が奪われたように思えた。けれど、床に転がる赤子を想像した瞬間、彼の喉が詰まった。



「置いていけねえだろ」


「どうして」


「俺たちの子を奪った連中と、同じになっちまう」



 マルシアの目が揺れた。


 ランドは古い工具を掴んだ。武器と呼ぶには頼りない鉄の塊だった。



「裏から出ろ。あの板、外れるだろ」


「ランドは」


「俺はこっちを塞ぐ」



 彼の足は震えていた。


 死にたくない顔だった。逃げられるものなら逃げたいと、目が訴えている。


 それでも彼は、扉の前へ立った。



「マルシア」


「何よ」


「すまねえ」



 その一言で、マルシアの顔が歪んだ。


 怒りか、悲しみか、失望か。ランドには分からなかった。


 扉が軋む。


 リンキンが倒れたまま叫んだ。



「行きな! 泣くのは後だよ!」



 マルシアは赤子を抱きしめた。抱きしめたくて抱いたのではない。落とせないから腕に力が入っただけだった。


 裏の壁板を押し外し、雨の中へ転がり出る。


 背後で、扉が破られた。


 金貨が跳ねる音。男たちの怒声。ランドの叫び。



「こっちだ! 金はここだ!」



 マルシアは振り返りかけた。


 その時、ランドの声が一度だけはっきり届いた。



「走れ!」



 次の瞬間、声は怒号に呑まれた。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 雨は冷たかった。


 マルシアは裸足同然で路地を走った。産後の体は悲鳴を上げ、視界は何度も滲む。腕の中の赤子が泣いている。その泣き声が、奪われた我が子の声と重なり、胸の奥を掻きむしった。


 泥に足を取られ、膝をつく。


 それでも。


 腕に抱いた赤子を庇ったせいで、肘が石に擦れた。痛みで息が詰まる。頬にも細い傷が走り、雨水と血が唇へ流れた。


 背後の家が遠くなる。


 火の手が上がっているのが分かった。


 マルシアは狭い路地の奥に身を隠した。壊れた水槽の陰で、赤子を膝の上に置く。


 その子は泣いていた。


 白金色の小さな気配が、胸元で震えている。



「どうして!」



 マルシアの声は、雨に溶けた。



「どうして、あなたなの!?」



 手が赤子の首へ伸びる。


 まだ座ってもいない、生まれたばかりの細い首だった。あまりにも頼りなく、指を少し強く曲げれば壊れてしまいそうだった。


 王宮の子。


 自分の子を奪った者たちの子。


 この子がいなければ、と思った。理屈ではない。心の奥から噴き出した黒いものが、そう叫んでいた。


 赤子が泣きながら、マルシアの指を掴んだ。


 マルシアの手が止まる。


 小さな指だった。


 何も知らない指だった。


 彼女は歯を食いしばり、喉の奥で声を殺した。殺したいと思った。けれど、できなかった。涙が出た。怒りの涙なのか、情けなさの涙なのか、もう分からなかった。


 そのまま、どれくらい座り込んでいたのか。


 杖が石を叩く音が聞こえた。


 マルシアは顔を上げる。


 雨の向こうから、リンキンが来た。足元は泥にまみれ、肩で息をしている。盲目の目は濁っていたが、顔はまっすぐにマルシアの方を向いていた。



「よく……ここまで……」



 リンキンは息を整える。



「その子の魂は暗がりでもよく分かる。小さいくせに、魂は妙に澄んでるからね」



 マルシアは赤子を見下ろした。


 そして、声を震わせる。



「あの人は?」



 リンキンは黙った。


 雨が屋根を叩く音だけが続く。


 マルシアの目がリンキンへ向く。



「ランドは?」



 リンキンは、静かに首を横に振った。


 マルシアの顔から表情が消えた。


 次の瞬間、彼女は赤子を両手で持ち上げた。


 抱くためではなかった。


 泥と石が混じった地面が、赤子の下にある。叩きつければ助からない。マルシアはそれを分かっていた。


 リンキンが一歩踏み出す。



「マルシア」


「来ないで!」



 マルシアの叫びに、リンキンの足が止まった。



「ランドが殺されたのよ!?」


「……」


「家も燃やされた!」



 マルシアは赤子を見上げる。



「それに、私の子を奪われたのよ?」



 雨に濡れた髪が頬に張りつき、唇が震えている。



「なのに、どうしてこの子だけ生きてるの!!」



 腕が震えた。



「この子は、あいつらの子なのに!」



 赤子は泣き止んだ。


 大きな目が、マルシアを見ている。



「ダァ」



 小さな声だった。


 その声と同時に、赤子の体から淡い光が溢れた。


 王宮の魂魄灯の青ではない。炉で燃える魂の色とも違う。雨に煙る路地の中で、その光だけが柔らかく広がっていく。


 光はマルシアの腕を包んだ。


 擦りむいた肘の痛みが消える。破れた爪の血が止まり、石で切った膝の傷が塞がっていく。頬を伝っていた血の筋も、雨に洗われる前に薄れていった。


 マルシアは息を呑んだ。


 赤子は笑っていた。


 何も知らない顔で。


 目の前の女が自分を殺そうとしたことも、その女が自分を憎んでいることも、何ひとつ知らないまま、にっこりと笑っていた。


 マルシアの腕から力が抜けた。


 赤子を落とすのではなく、胸へ引き寄せる。


 膝が泥に沈んだ。



「あはっ…えぐっ…あああああああああ!」


「マルシア…」


「なんで……」



 声が崩れた。



「なんで、私を治すの……」



 赤子は答えない。小さな手で、マルシアの濡れた服を掴んでいる。


 マルシアは泣き崩れた。



「これじゃ殺せないじゃない! 殺したいのに!!」



 雨は静かに降り続いていた。



「殺せない……殺せないよ、ランド……」



 リンキンは何も言わなかった。


 マルシアは赤子を抱きしめる。さっきまで憎しみで持ち上げていた小さな体を、今度は雨から守るように包み込んだ。



「この子に罪はない……」



 言葉にした途端、胸の奥が壊れた。



「何も知らない。この子は、何も……」



 赤子がまた小さく笑った。


 マルシアは額を赤子に寄せた。



「私が……」



 言葉が詰まる。


 喉の奥で何度も引っかかり、それでも彼女は絞り出した。



「私が、あなたの母親になってあげるから……!」



 リンキンは空を向いた。


 盲目の目には、雨雲も魚も映らない。だが、彼女には分かった。泥濘の底で、白金色の小さな魂がたしかに輝いていた。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 同じ頃、王宮では別の赤子が絹の寝台に寝かされていた。


 産湯を使わせ、香を焚き、宮廷魔導師たちがその魂を調べている。漆黒のクジラの気配は、赤子の小さな体には不釣り合いなほど濃く、部屋の空気を重く沈めていた。


 ダウジルは満足げに見下ろした。



「見よ。これこそ、王家の魂だ」



 重臣たちは頭を垂れる。



「御名を」



 ダウジルは少し考えた。



「アビサリウス」



 赤子が短く泣いた。



「アビサリウス・ヴァス・ヴィザリウス。第一王子として育てる」



 その場に、実母の姿はなかった。


 ルナリアスは地下へ連れていかれていた。


 石の階段を下り、湿った牢へ押し込まれる。産後の体に冷気が刺さる。彼女は抵抗する力もなく、ただ腕を抱いた。



「私の子を返して」



 看守は答えない。



「お願い……あの子を……」



 扉が閉ざされた。


 鉄の音が、地下の壁に反響する。


 ルナリアスは冷たい床に座り込んだ。胸が痛む。抱くはずだった赤子の重みが、腕に残っている気がした。


 小さな窓が、壁の高いところにある。


 そこから、ほんの少しだけ空が見えた。


 夜の端を、小さな光が流れていく。


 ルナリアスは手を伸ばした。届くはずのない窓へ、震える指を向ける。



「生きていて」



 声は石壁に吸われた。



「どうか、生きていて」



 その夜、二つの産声は、生まれた場所とは別の場所で夜明けを迎えた。


 ひとりは、泥濘の腕の中で。


 ひとりは、王宮の絹の上で。


 空には魚たちが泳いでいた。誰かが歪めた流れは、まだ小さな波紋でしかなかった。


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