第2話 すり替えられた命
初日3話更新の2話目です。
次は20時10分公開予定です。
───十五年前。
ヴィザリウス王宮の夜は、下層街とは違う色をしていた。
磨き上げられた白い石壁に、魂魄灯の光が淡く反射している。窓の外では魚たちが静かに泳いでいたが、王宮の厚い硝子越しに見るそれは、下層街の空ほど近くはない。遠く、整えられ、飾られた絵画のようだった。
王妃ルナリアスは、広い寝室の窓辺に立っていた。
夜着の上から腹に手を当てる。まだ何も宿っていない体に、期待だけが先に満ちていた。
背後で侍女が静かに言う。
「お体に障ります。そろそろお休みくださいませ」
「もう少しだけ」
ルナリアスは空を見上げたまま答えた。
王宮の空には、大きな魚がよく集まる。王家の血に引かれているのだと、宮廷魔導師たちは誇らしげに語っていた。民も同じように信じている。王には大きな魂が宿る。大きな魂を持つ者こそ、人の上に立つ。
ルナリアスも、幼い頃からそう教えられてきた。
けれど彼女は、空の端を泳ぐ小さな魚たちを見るたび、胸の奥が温かくなる。大きな魚の悠然とした影よりも、寄り添うように群れて流れる小魚の方が、なぜか命に近いものに思えた。
寝室の扉が開いた。
国王ダウジル・ヴァス・ヴィザリウスが、数名の重臣を連れて入ってくる。
「まだ起きていたのか」
「陛下」
ルナリアスは膝を折ろうとしたが、ダウジルが手で制した。
「よい。今夜は宮廷魔導師どもが騒がしい。空の流れが良いらしい」
ダウジルは窓の外を見た。
その横顔に、夫としての柔らかさはない。王として何かを待つ男の目だった。
ルナリアスは口元に小さく笑みを浮かべる。
「良い流れなら、きっと良い子が来てくれますね」
「当然だ。王家には、王家にふさわしい魂が宿る」
「お名前はどうなさいますか?」
「名などどうでもよい。そなたが考えよ」
「では、以前から考えていた名がありますの」
「言ってみよ」
「レイスティン」
「……ふむ。悪くはない」
その言葉を聞いた瞬間、ルナリアスの腹の奥で、小さな熱が灯った。
痛みではない。
呼吸が一拍遅れ、指先が震える。窓の外を泳いでいた魚たちが、不意に流れを変えた。
侍女が息を呑む。
天井を、何かがすり抜けてきた。
それは爪の先ほどの魚だった。
小さい。
だが、ただ小さいだけではなかった。
白金色の光を帯びたその魚は、部屋に満ちていた魂魄灯の青を押しのけるように輝いていた。鱗の一枚一枚が朝露のようにきらめき、尾びれが動くたび、空気が澄んでいく。
魚はルナリアスの前で一度だけ円を描き、彼女の腹へ吸い込まれた。
ルナリアスは両手で腹を包んだ。
「来てくれた……」
目から涙が零れた。
あまりにも小さな魂だった。けれど、彼女には分かった。あの子は弱くない。あの光は、王宮のどんな宝石よりも清らかだった。
しかし、部屋の空気は祝福に染まらなかった。
ダウジルの眉が、ゆっくりと寄る。
「今のは何だ」
宮廷魔導師の一人が震える声で答える。
「魂の定着でございます。王妃殿下に、御子が……」
「そんなことは見れば分かる。余が聞いているのは、なぜあのような小魚だったのかということだ」
誰も答えなかった。
ルナリアスは腹を抱いたまま、夫を見上げる。
「陛下、とても美しい魂でした」
「美しい? 美しいだと!?」
ダウジルの声が冷える。
「王家の第一子だぞ。国中が待っている王位継承者だ。そこに、あのような雑魚が宿った」
「雑魚などではありません」
言った瞬間、侍女たちが顔色を変えた。
ダウジルはルナリアスへ向き直る。
「ルナリアス。そなたは、あの小ささが何を意味するか分かっていない」
「命の大きさを、魂の大きさだけで決めるのですか」
「民はそう見る。貴族もそう見る。諸国もそう見る。王家の魂が小さいとなれば、ヴィザリウスの威信は落ちる」
「でも、この子は……」
「その腹の子は、国のものだ」
ルナリアスは言葉を失った。
ダウジルはもう彼女を見ていなかった。窓の外の夜空を睨み、重臣たちに短く命じる。
「他に大きな魂の定着がなかったか調べろ。今夜の流れなら、どこかに現れているはずだ」
重臣たちは頭を下げ、部屋を出ていった。
ルナリアスは腹に手を当てた。内側から返事があるはずもないのに、彼女は何度も撫でた。
「大丈夫よ」
誰にも聞こえない声で囁く。
「あなたは、私の子よ」
窓の外で、小さな魚の群れが散っていった。
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同じ夜。
下層街では、雨漏りの跡が残る天井の下で、ランドが古い鍋を磨いていた。
磨いたところで、穴が塞がるわけではない。それでも何かしていないと落ち着かなかった。
「ランド、うるさい」
寝台代わりの板の上で、マルシアが笑った。
「ごめん。けどよ、明日の朝までに直さねえと、またスープが漏れる」
「昨日も同じこと言ってたわ」
「昨日よりは塞がってる」
「どこが?」
「気持ちが」
マルシアは呆れたように笑い、腹に手を当てた。
貧しい家だった。
壁の板は歪み、隙間から冷たい風が入る。窓は割れた部分を布で塞いであり、床板の何枚かは踏むと嫌な音を立てた。だが、部屋には妙な温かさがあった。鍋の煤も、壁に吊るされた古い上着も、二人が一緒に暮らしてきた時間の一部だった。
「はぁ…本当に生まれるかしら?」
マルシアが言った。
「何言ってんだ。腹もおっきくなってるじゃねぇか」
「ふ、太ってるだけよ! 昨日今日でお腹が大きくなるわけないでしょうが! そうじゃなくて、ちゃんと宿って、ちゃんと生まれて、ちゃんと育つかなって言ってんのよ!」
ランドは鍋を置き、彼女のそばへ座った。
「育つさ。俺が働く」
「今も働いてるじゃない」
「もっと働く」
「壊れるわよ」
「そしたら、お前が直してくれ」
「あんたは鍋じゃないのよ」
二人は小さく笑った。
その時、家の外が騒がしくなった。
電線の間を泳いでいた小魚たちが、いっせいに散る。窓を塞いでいた布が、内側から押されたように膨らんだ。
ランドは立ち上がる。
「なんだ?」
天井を、大きな影が通った。
部屋が暗くなる。
マルシアは息を止めた。
夜空を覆うほどの漆黒の魚が、下層街の上を泳いでいた。魚というより、クジラに近い。あまりにも巨大で、屋根も煙突も電線も、その影の中に呑まれている。
近所の誰かが叫んだ。
「クジラだ!」
別の声が続く。
「魂の定着だ! どこの家だ!」
漆黒のクジラは、尾をゆっくり振った。周囲の小魚たちが波に巻かれるように散る。
そして、その巨体はランドたちの家へ降りてきた。
壁も屋根も関係なく、黒い魂が部屋を満たす。ランドはその場に尻餅をついた。マルシアは腹を押さえ、声にならない声を漏らした。
クジラは、ゆっくりと彼女の腹へ吸い込まれていった。
静寂が落ちる。
ランドはしばらく口を開けたまま動けなかった。
やがて、乾いた笑いが喉から漏れる。
「おい、マルシア」
「なに」
「今の、うちの子に入ったのか」
「たぶん……」
「でかかったな」
「怖かった」
「でも、すげえ……すげぇぞ!」
ランドは窓の外を見た。
近所の人間たちが、家の方を見てざわついている。
「あんな魂、見たことねえぞ」
「王家にでも宿るような格だ」
「あの家の子は、化けるぞ」
ランドの顔に、今まで見せたことのない笑みが浮かんだ。
「なあ、マルシア。聞いたか。王家にでも、だってよ!」
「声を落として」
「だって、すげえじゃねえか! 俺たちの子だぞ!」
マルシアは腹を抱きしめた。
喜びより先に、不安が胸を締めつけていた。下層街で目立つことは、ろくな結果を生まない。まして王家にふさわしいなどと騒がれれば、誰の耳に届くか分からない。
遠くの屋根の上で、盲目の老婆が空を向いていた。
リンキンは見えない目を細める。
彼女には、巨大な魂の形は見えない。だが、空の流れが大きく裂けたことは分かった。強すぎる魂が、一つの命へ落ちた。
「厄介なものを呼んだねえ」
リンキンは杖を握り直し、ランドたちの家へ向かった。
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王宮に報告が届いたのは、その夜のうちだった。
下層街の一軒家に、漆黒の巨大なクジラが宿った。
宮廷魔導師の報告を聞いたダウジルは、玉座の肘掛けを指で叩いた。怒りはすでに過ぎている。彼の中には、もっと冷たい計算が生まれていた。
「下層街の子に、漆黒のクジラか」
重臣の一人が頭を下げる。
「目撃者は多く、噂はすでに広がり始めております」
「消せるか」
「今から全てを消すのは難しいかと。下層街とはいえ、あれほどの魂となれば……」
ダウジルは低く笑った。
「ならば、消さずに使えばよい」
部屋にいた者たちが顔を上げる。
「陛下」
「王家には爪の先ほどの雑魚が宿った。下層街には漆黒のクジラが宿った。民が知れば何と言う?」
誰も答えられない。
ダウジルは玉座から立った。
「王家にふさわしい魂が、下賤の家に落ちた。ただそれだけのことだ。本来あるべき場所へ戻す」
言葉の意味を理解した重臣たちは、互いに視線を交わした。
「すり替えるのですか」
「言い方を選べ。王家に必要なものを迎えるだけだ」
「王妃殿下は……」
「知らせる必要はない」
ダウジルの声に迷いはなかった。
「出産の時期を合わせろ。王宮の子は、下層街へ渡す。下層街の子は、王宮へ迎える」
「下層街の夫婦はどう処理を」
「金を渡せ」
重臣の一人が顔を上げる。
「金、でございますか」
「やつらには十分すぎるほどの金貨をくれてやる。手向けだ。家に撒け。近所の連中にも、あの家に金があると流しておけ」
部屋の空気が重く沈んだ。
ダウジルは淡々と続ける。
「下層街の人間が金に群がる。それでどうなるかも知らんし、王宮は関係ない。赤子を奪われたなどと叫ぶ者がいても、金に目がくらんだ貧民の妄言で済む」
宮廷魔導師は唇を震わせたが、何も言わなかった。
「大きな魂は王家にあるべきだ」
ダウジルは窓の外を見た。
その先に広がる王都も、下層街の暮らしも、彼の目には映っていない。
「ヴィザリウスの威信を、雑魚の魂で汚すわけにはいかん」
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あれから十ヶ月と少し。
マルシアの出産は、雨の夜に始まった。
部屋には湯気が満ちている。古い鍋で湯を沸かし、布を煮て、窓の隙間に余った布切れを詰める。リンキンは寝台のそばに座り、マルシアの手を握っていた。
「息を止めるんじゃないよ。吸って、吸って、吐く。痛みに呑まれるな」
「無理……無理よ、リンキン……」
「無理でもやるんだ。出すのはあんただろ」
「ああ、あ゛あ゛!! 痛いぃぃぃぃ!!!」
「ほれ、しっかりいきむんだよ!」
ランドは部屋の隅でおろおろしていた。
「水、もっといるか? 布は? 鍋は?」
「邪魔だねえ。外で火が消えてないか見てきな」
「でもよ」
「男がうろつくと床が抜ける」
「俺はそんなに重くねえだろ!」
「声が重いんだよ」
近所の女が小さく笑い、すぐにマルシアの汗を拭った。
リンキンは盲目だったが、手つきに迷いはない。呼吸の乱れ、指の力、体の震え。目で見えない分、彼女は音と触れた感覚で状況を知っていた。
やがて、マルシアが声を張り上げた。
赤子の産声が、狭い部屋に響いた。
ランドは固まった。
リンキンが赤子を受け取り、濡れたタオルで拭いた後、布で包む。
「男の子だよ」
マルシアは涙で濡れた顔を上げた。
「見せて……」
リンキンが赤子を差し出す。マルシアは震える腕で我が子を抱いた。
赤子は大きな声で泣いている。小さな拳を握りしめ、顔を真っ赤にして、生きていることを全身で訴えていた。
ランドは膝から崩れるように近づいた。
「俺の……俺たちの子か」
「そうよ」
マルシアは泣きながら笑った。
「あなたの子よ」
ランドは手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「触ってもいいのか」
「父親でしょ」
「壊しそうで怖え」
リンキンが鼻を鳴らした。
「ふん。そんな柔な魂じゃないさ」
その時、外の雨音に別の音が混じった。
足音。
ひとつではない。
リンキンの顔が動いた。
「ランド、扉から離れな」
「え?」
返事を待たず、扉が蹴破られた。
黒い外套をまとった男たちがなだれ込んでくる。顔は布で覆われているが、動きは下層街のならず者ではない。訓練された兵の足運びだった。
ランドが叫んで立ち上がる。
「なんだ、お前ら!」
男の一人が彼を殴り飛ばした。
マルシアは赤子を抱きしめる。
「やめて! この子に触らないで!」
男たちは答えない。
リンキンが杖を振るった。先端が一人の膝を打ち、男が低く呻く。だが次の瞬間、別の男がリンキンを突き飛ばした。
「婆さん!」
ランドが起き上がろうとする。
その隙に、赤子がマルシアの腕から奪われた。
マルシアの叫びが部屋を裂いた。
「返して! お願い、返して!」
男は布に包んだ別の赤子を彼女の腕へ押し付ける。
その赤子は、静かに眠っていた。胸の奥から、淡い白金色の気配が漏れている。
マルシアは意味が分からず、腕の中の赤子と、奪われた我が子を見比べた。
「違う……この子じゃない……この子じゃないのッ!」
男たちは袋を投げた。
袋の口が裂け、床に金貨が散らばる。魂魄ランタンの青い光を受けて、金貨は濡れたように輝いた。
ひと袋ではない。
二つ、三つ、さらにもう一つ。床板の隙間へ転がり、鍋の足に当たって跳ね、ランドの膝の前で止まった。
黒外套の男たちは、奪った赤子を抱えて去っていく。
マルシアは追おうとして、産後の体がついていかずに崩れた。
「待って……待ってよ……!」
ランドは扉へ向かいかけた。
しかし、足元の金貨が目に入った。
彼の動きが止まる。
金貨。
本物の金貨だった。
ランドは震える手で一枚拾い上げた。歯を立てる。偽物ではない。彼が一生働いても手にできないほどの金が、床に散らばっている。
「ランド……?」
マルシアの声がかすれる。
ランドは金貨を見つめていた。
「これだけあれば」
口から言葉が漏れた。
「これだけあれば、出られる」
マルシアは彼を見た。
「何を言ってるの」
「下層街から出られる。借金も返せる。いや、返さなくてもいい。どこか遠くへ行ける。飯だって毎日食える。お前に薬だって……」
「私たちの子が奪われたのよ!?」
マルシアの叫びに、ランドの肩が跳ねた。
それでも彼の目は金貨へ戻った。そして歪んだ笑みを浮かべる。
「でも、これだけあれば……」
リンキンが床を叩いた。
「馬鹿者!」
杖がランドの手を打つ。金貨が跳ねて床を転がった。
「痛えなババア!」
「外の音を聞け!」
ランドは怒鳴り返そうとして、口を閉じた。
雨音の向こうに、人の声がある。低い笑い声、足音、金属を引きずる音。窓の布越しに、いくつもの影が揺れていた。
近所の女が青ざめる。
「囲まれてる……」
リンキンは息を荒くしながら言った。
「その金は報酬じゃない。餌だよ。お前らを殺すための餌だ」
ランドは窓へ駆け寄った。
布の隙間から外を見る。
ならず者たちがいた。武器を持ち、家の中を覗き込んでいる。彼らの目は床の金貨へ吸いついていた。
「おい、聞いた通りだぞ」
「あの家、金だらけだ」
「王宮も見逃すって話だ。早い者勝ちだろ」
ランドの顔から血の気が引いた。
背後では、マルシアが腕の中の赤子を見下ろしている。自分の子ではない赤子。王宮が置いていった赤子。その小さな口が、かすかに動いた。
ランドは床の金貨を見た。
さっきまで未来に見えていた。今は、血で濡れた罠にしか見えない。
彼は乾いた笑いを漏らした。
「俺は……ほんと、どうしようもねえな」
扉の外から声が飛ぶ。
「叩き割れ!」
板が叩かれ、壁が揺れた。
ランドは金貨を両手で掴み、窓から外へ向かって投げた。
「ほらよ!」
窓の外で金貨が雨に散る。
ならず者たちの動きが乱れた。
「金だ!」
「拾え!」
ランドは残りの袋を蹴り飛ばした。金貨が床を転がり、入口へ向かって広がっていく。
「欲しいんだろ! 全部くれてやる!」
彼はマルシアへ振り返った。
彼女は動けずにいた。
産んだばかりの我が子は奪われ、腕の中には見知らぬ赤子がいる。夫が金に目を奪われたことも、外のならず者の声も、すべてが彼女をその場に縫いつけていた。
「マルシア、逃げろ」
「嫌……あの子が……」
「分かってる!」
ランドは叫んだ。
自分に向けた怒鳴り声でもあった。
「分かってる。でも今ここにいたら、お前まで死ぬ。行け!」
「でも、この子は、私の子じゃない!」
マルシアの声は冷たかった。
ランドは赤子を見た。
憎くないと言えば嘘になる。あの子が置かれたから、自分たちの子が奪われたように思えた。けれど、床に転がる赤子を想像した瞬間、彼の喉が詰まった。
「置いていけねえだろ」
「どうして」
「俺たちの子を奪った連中と、同じになっちまう」
マルシアの目が揺れた。
ランドは古い工具を掴んだ。武器と呼ぶには頼りない鉄の塊だった。
「裏から出ろ。あの板、外れるだろ」
「ランドは」
「俺はこっちを塞ぐ」
彼の足は震えていた。
死にたくない顔だった。逃げられるものなら逃げたいと、目が訴えている。
それでも彼は、扉の前へ立った。
「マルシア」
「何よ」
「すまねえ」
その一言で、マルシアの顔が歪んだ。
怒りか、悲しみか、失望か。ランドには分からなかった。
扉が軋む。
リンキンが倒れたまま叫んだ。
「行きな! 泣くのは後だよ!」
マルシアは赤子を抱きしめた。抱きしめたくて抱いたのではない。落とせないから腕に力が入っただけだった。
裏の壁板を押し外し、雨の中へ転がり出る。
背後で、扉が破られた。
金貨が跳ねる音。男たちの怒声。ランドの叫び。
「こっちだ! 金はここだ!」
マルシアは振り返りかけた。
その時、ランドの声が一度だけはっきり届いた。
「走れ!」
次の瞬間、声は怒号に呑まれた。
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雨は冷たかった。
マルシアは裸足同然で路地を走った。産後の体は悲鳴を上げ、視界は何度も滲む。腕の中の赤子が泣いている。その泣き声が、奪われた我が子の声と重なり、胸の奥を掻きむしった。
泥に足を取られ、膝をつく。
それでも。
腕に抱いた赤子を庇ったせいで、肘が石に擦れた。痛みで息が詰まる。頬にも細い傷が走り、雨水と血が唇へ流れた。
背後の家が遠くなる。
火の手が上がっているのが分かった。
マルシアは狭い路地の奥に身を隠した。壊れた水槽の陰で、赤子を膝の上に置く。
その子は泣いていた。
白金色の小さな気配が、胸元で震えている。
「どうして!」
マルシアの声は、雨に溶けた。
「どうして、あなたなの!?」
手が赤子の首へ伸びる。
まだ座ってもいない、生まれたばかりの細い首だった。あまりにも頼りなく、指を少し強く曲げれば壊れてしまいそうだった。
王宮の子。
自分の子を奪った者たちの子。
この子がいなければ、と思った。理屈ではない。心の奥から噴き出した黒いものが、そう叫んでいた。
赤子が泣きながら、マルシアの指を掴んだ。
マルシアの手が止まる。
小さな指だった。
何も知らない指だった。
彼女は歯を食いしばり、喉の奥で声を殺した。殺したいと思った。けれど、できなかった。涙が出た。怒りの涙なのか、情けなさの涙なのか、もう分からなかった。
そのまま、どれくらい座り込んでいたのか。
杖が石を叩く音が聞こえた。
マルシアは顔を上げる。
雨の向こうから、リンキンが来た。足元は泥にまみれ、肩で息をしている。盲目の目は濁っていたが、顔はまっすぐにマルシアの方を向いていた。
「よく……ここまで……」
リンキンは息を整える。
「その子の魂は暗がりでもよく分かる。小さいくせに、魂は妙に澄んでるからね」
マルシアは赤子を見下ろした。
そして、声を震わせる。
「あの人は?」
リンキンは黙った。
雨が屋根を叩く音だけが続く。
マルシアの目がリンキンへ向く。
「ランドは?」
リンキンは、静かに首を横に振った。
マルシアの顔から表情が消えた。
次の瞬間、彼女は赤子を両手で持ち上げた。
抱くためではなかった。
泥と石が混じった地面が、赤子の下にある。叩きつければ助からない。マルシアはそれを分かっていた。
リンキンが一歩踏み出す。
「マルシア」
「来ないで!」
マルシアの叫びに、リンキンの足が止まった。
「ランドが殺されたのよ!?」
「……」
「家も燃やされた!」
マルシアは赤子を見上げる。
「それに、私の子を奪われたのよ?」
雨に濡れた髪が頬に張りつき、唇が震えている。
「なのに、どうしてこの子だけ生きてるの!!」
腕が震えた。
「この子は、あいつらの子なのに!」
赤子は泣き止んだ。
大きな目が、マルシアを見ている。
「ダァ」
小さな声だった。
その声と同時に、赤子の体から淡い光が溢れた。
王宮の魂魄灯の青ではない。炉で燃える魂の色とも違う。雨に煙る路地の中で、その光だけが柔らかく広がっていく。
光はマルシアの腕を包んだ。
擦りむいた肘の痛みが消える。破れた爪の血が止まり、石で切った膝の傷が塞がっていく。頬を伝っていた血の筋も、雨に洗われる前に薄れていった。
マルシアは息を呑んだ。
赤子は笑っていた。
何も知らない顔で。
目の前の女が自分を殺そうとしたことも、その女が自分を憎んでいることも、何ひとつ知らないまま、にっこりと笑っていた。
マルシアの腕から力が抜けた。
赤子を落とすのではなく、胸へ引き寄せる。
膝が泥に沈んだ。
「あはっ…えぐっ…あああああああああ!」
「マルシア…」
「なんで……」
声が崩れた。
「なんで、私を治すの……」
赤子は答えない。小さな手で、マルシアの濡れた服を掴んでいる。
マルシアは泣き崩れた。
「これじゃ殺せないじゃない! 殺したいのに!!」
雨は静かに降り続いていた。
「殺せない……殺せないよ、ランド……」
リンキンは何も言わなかった。
マルシアは赤子を抱きしめる。さっきまで憎しみで持ち上げていた小さな体を、今度は雨から守るように包み込んだ。
「この子に罪はない……」
言葉にした途端、胸の奥が壊れた。
「何も知らない。この子は、何も……」
赤子がまた小さく笑った。
マルシアは額を赤子に寄せた。
「私が……」
言葉が詰まる。
喉の奥で何度も引っかかり、それでも彼女は絞り出した。
「私が、あなたの母親になってあげるから……!」
リンキンは空を向いた。
盲目の目には、雨雲も魚も映らない。だが、彼女には分かった。泥濘の底で、白金色の小さな魂がたしかに輝いていた。
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同じ頃、王宮では別の赤子が絹の寝台に寝かされていた。
産湯を使わせ、香を焚き、宮廷魔導師たちがその魂を調べている。漆黒のクジラの気配は、赤子の小さな体には不釣り合いなほど濃く、部屋の空気を重く沈めていた。
ダウジルは満足げに見下ろした。
「見よ。これこそ、王家の魂だ」
重臣たちは頭を垂れる。
「御名を」
ダウジルは少し考えた。
「アビサリウス」
赤子が短く泣いた。
「アビサリウス・ヴァス・ヴィザリウス。第一王子として育てる」
その場に、実母の姿はなかった。
ルナリアスは地下へ連れていかれていた。
石の階段を下り、湿った牢へ押し込まれる。産後の体に冷気が刺さる。彼女は抵抗する力もなく、ただ腕を抱いた。
「私の子を返して」
看守は答えない。
「お願い……あの子を……」
扉が閉ざされた。
鉄の音が、地下の壁に反響する。
ルナリアスは冷たい床に座り込んだ。胸が痛む。抱くはずだった赤子の重みが、腕に残っている気がした。
小さな窓が、壁の高いところにある。
そこから、ほんの少しだけ空が見えた。
夜の端を、小さな光が流れていく。
ルナリアスは手を伸ばした。届くはずのない窓へ、震える指を向ける。
「生きていて」
声は石壁に吸われた。
「どうか、生きていて」
その夜、二つの産声は、生まれた場所とは別の場所で夜明けを迎えた。
ひとりは、泥濘の腕の中で。
ひとりは、王宮の絹の上で。
空には魚たちが泳いでいた。誰かが歪めた流れは、まだ小さな波紋でしかなかった。
厳しい評価もあると思いますが、評価やご意見いただけますとありがたいです。




