第1話 夜空に海がある街
15話で完結です。
よろしければ、少しの間ぜひお付き合いください。
初日は3話、一気に行きます。
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【主題歌】空の海へ
https://suno.com/s/aZs6Fh3zeIQVR9eT
※別サイトです
※AIによる作曲です。苦手な方はご視聴をお控えください。
夜空には、海があった。
もちろん、水など一滴もない。
頭上に広がっているのは、煤けた高層建築の隙間と、古びた看板と、蜘蛛の巣のように張り巡らされた送電線だけだ。壁から壁へ渡された黒いケーブルは、何十年も前からそこにあるように垂れ下がり、ところどころで青白い火花を散らしている。
それでも、魚たちは悠々と泳いでいた。
小指ほどの小魚の群れが、壊れかけたネオン看板をすり抜ける。
腹の白い大きな魚が、屋根の上をゆっくり横切る。
さらにその奥、ビルとビルのあいだから、クジラのような巨大な影が尾を振って通り過ぎていった。
魚たちは壁を抜け、看板を抜け、電線を抜け、人の体さえ何事もなかったように通り抜けていく。
だが、それを見て驚く者はいなかった。
屋台の親父は、湯気の立つ鍋をかき混ぜている。
酔っ払いは、魂魄ランタンの柱にもたれて悪態をついている。
子供たちは、空を泳ぐ魚ではなく、排水溝のそばに落ちていた錆びた歯車を取り合って喧嘩していた。
魂なんて、そんなものだ。
そこにあるのに、誰も本気では見ようとしない。
少なくとも、この下層街ではそうだった。
「おい、レイ。またパーズの使いか?」
鍋の前に立っていた屋台の親父が声をかけてきた。
レイは肩に担いだ麻袋を軽く持ち上げて見せる。
「ああ。歯車と配線。あと、なんかよく分かんない部品」
「よく分かんねえもんを持って帰って怒られねえのか?」
「パーズさんなら、よく分かんない部品ほど喜ぶよ」
「はっはっは! 違いねえ」
親父は豪快に笑い、鍋の中から肉の欠片らしきものを一つ摘まんだ。
「ほら、食ってけ。売り物にゃならねえ端んとこだ」
「いいの?」
「腹空かせたガキに食わせるくらいで、炉は止まらねえよ」
「サンキュ、オッサン!」
レイは礼を言って、それを受け取った。
「ばっ! ものを貰ってオッサンとはなんだ!」
「じゃーね!」
「熱っ」とつぶやき、ハフハフしながら何とか耐える。
でも、うまい。
肉なのかどうかも怪しい何かを噛みながら、レイは再び歩き出した。
濡れた石畳が、青を反射している。
路地の両側には、古い集合住宅が積み重なるように建っていた。建物の外壁には無数の配管が絡みつき、その隙間に小型の魂魄炉が埋め込まれている。炉の中では、圧縮された魂魄エネルギーが低く唸り、ランタンや暖房管や看板に力を送っていた。
綺麗な光だった。
青く、淡く、どこか夢のようで。
だからこそ、レイは時々、その光がひどく嫌になる。
その灯りが何を燃やしているのか、知っているからだ。
「レイ兄!」
路地の奥から、子供たちが走ってきた。
「なんか部品ちょうだい!」
「だーめ。これは、パーズさんの仕事道具」
「ちっちゃいのでいいから!」
「小さいのもだめ」
「先っちょだけでいいから!」
「なんだそりゃ」
「ケチ!」
「ケチで結構」
レイが笑ってかわすと、子供たちは不満そうに頬を膨らませた。
その頭上を、小さな魚の群れが流れていく。
子供の一人がそれを指差した。
「見ろよ、雑魚魂だ」
「ちっちぇえ」
「あんなのに入られたら終わりだよな」
レイの足が、ほんの少しだけ止まった。
彼らに悪気はない。
大人たちがそう言うから、そう覚えただけだ。
大きな魂は偉くて価値がある。
小さな魂は雑魚。
この街では、みんな知ってる。それが当たり前だった。
レイは何も言わず、子供たちの横を通り過ぎた。
空では、さっきの小魚たちが、ひらひらと尾を振りながら看板の中へ消えていく。看板には、王宮公認の魂魄燃料会社の広告が光っていた。
文字の一部は壊れていて、何度も同じところで明滅している。
「豊かな、ね……」
レイは小さく呟いた。
その時だった。
視界の端で、青い光が揺れた。
レイは足を止める。
路地裏の奥。
壊れた排気管と、積み上げられた廃材の隙間に、小さな魚が一匹、漂っていた。
魚、というより、今にも消えそうな光だった。
体は半透明で、尾びれの先は欠けている。鱗はくすみ、目の光も弱い。泳いでいるというより、空中で沈んでいるように見えた。
近くを通った男が、ちらりとそれを見た。
「なんだ、雑魚か」
それだけ言って、通り過ぎる。
別の作業服の男が、腰に吊るした圧縮瓶を叩いた。
「あの手のは炉にくべても出力にならねえよ。拾うだけ無駄だ」
レイは黙っていた。
魚はふらふらと、路地の壁へ向かって流れていく。
このまま壁を抜けて、暗い建物の奥で消えるのだろう。
誰も気づかない。
誰も困らない。
誰も悲しまない。
それでも、レイは足を動かしていた。
「……俺もたいがい物好きだな」
自分に向けて呟く。
余計なことだとはわかっている。
ただ見なかったことにすればいい。
どうせ小さな魂が一匹消えたところで、この街は何も変わらない。
けれど。
レイは麻袋を地面に下ろし、そっと両手を差し出した。
普通なら、触れることはできない。
そう、魂は物ではない。壁も、人も、鉄も、すべてすり抜ける。
けれど、その小魚は吸い寄せられるように、レイの掌へ降りてきた。
レイは目を閉じる。
「大丈夫。まだ、消えていない」
まだ、帰れる。
掌の中で、小魚がかすかに震えた。
欠けていた尾びれが薄い光で縁取られ、ひび割れたように濁っていた鱗が、一枚ずつ輝きを取り戻していく。
消えかけていた体に、淡い金色が戻った。
小魚は何度も尾を振った。
そして、まるで礼を言うように、レイの顔の前をくるりと回った。
「ははっ、行けよ。もう大丈夫だろ?」
レイが小さく笑う。
小魚は夜空へ昇っていった。
ネオンの青を抜け、電線を抜け、屋根の上へ。
無数の魂が泳ぐ、夜の海へ。
それを見送っていると、背後から声がした。
「あー、またやってる」
レイの肩が跳ねた。
振り返ると、リサが立っていた。
肩まで伸びた髪を雑にまとめ、手には油汚れのついた布を握っている。腰に手を当てて、呆れたようにレイを見ていた。
「パーズさん、怒ってたよ。歯車一箱持ってくるだけで、なんでこんなに時間がかかるんだって」
「道が混んでたんだよ」
「魚で?」
「人で」
「嘘つき。いーけないんだ」
リサは即答した。
レイは観念して肩をすくめる。
「見てたのか?」
「途中からね。もう、あれほど人前でやるなって言われてるのに」
「人前じゃないだろ。誰も見てなかった」
「私は見てた」
「リサは、その……人じゃないだろ」
「あー! ひっどーい!!」
そう言いつつ、リサはニヤリと笑う。
「それともー、もう他人じゃないって言いたかった? 結婚する?」
「ばっ!? ち、ちげーよ! 誰がお前みたいなガサツな女と……」
レイは、言ってからしまったと思った。
リサは近づいてきて、レイの額を指で軽く弾いた。
「いった」
「痛くしたの。ったく、照れちゃって」
「照れてねーよ」
「ばーか。レイのあんぽんたん」
「ひどいな」
スっとリサの顔が真面目に戻る。
「ひどいのはレイだよ。あんた、自分が何やってるか分かってる?」
レイは答えなかった。
リサはため息をつく。
「魂魄回収の連中に見つかったらどうするの。王宮に報告されたら? 珍しい力だって知られたら?」
「別に、珍しくなんかないかもしれないだろ」
「あんた以外に、空の魚を手で掬える人間なんて見たことない」
「……俺もない」
「でしょ」
リサは少しだけ声を落とした。
「だから、心配してるの」
その言い方は、いつもの小言とは少し違っていた。
レイは視線を逸らし、地面に置いた麻袋を担ぎ直す。
「分かってるよ」
「分かってない顔」
「分かってる顔だよ」
「じゃあ、次からやらない?」
「それは……」
「ほら」
リサは勝ち誇ったように言ったが、すぐに困ったような顔になった。
彼女も分かっている。
レイが次も同じことをすることくらい。
消えかけた小さな魂を見つければ、きっと手を伸ばす。
危険だと分かっていても、見捨てられない。
それがレイだった。
二人は並んで歩き出した。
路地を抜けると、少し開けた通りに出る。頭上には無数のケーブルが交差し、その合間を青い魚の群れが泳いでいた。壁に取り付けられた魂魄ランタンが、通りをぼんやり照らしている。
リサがランタンを見上げた。
「あの灯り、綺麗だよね」
「綺麗だけど」
「けど?」
「あれも魚を燃やしてるんだろ」
リサは黙った。
ランタンの中では、小さな魂魄炉が低く唸っている。圧縮された魂の残滓が、青白い炎となって揺れていた。
その光は、確かに美しかった。
そして、なければこの街の機械は止まる。
「……そういうこと言うから、あんたは生きづらいんだよ」
リサがぽつりと言った。
「思ってること言っただけだ」
「思ってることを全部言うと、だいたい生きづらくなるの」
「リサは言うだろ」
「私は言う相手を選んでるの」
「俺には言うんだ」
「うん。あんたには言う」
レイが横を見ると、リサは何でもない顔をしていた。
その何でもない顔が、少しだけ嬉しかった。
通りの端に、古い露店があった。
売っているのは、古本、古布、欠けた食器、用途不明の部品、そして乾いた薬草。店番をしているのは、腰の曲がった老人だった。目は白く濁っているが、二人が近づくと、顔だけは正確にこちらを向いた。
「レイか」
「こんばんは、爺さん」
「リサもいるな」
「はいはい、いますよー」
老人は白い目で空を見上げた。
「今夜は、また痩せたな」
レイもつられて空を見る。
魚はいる。
小魚も、大きな魚も、遠くには大きな影も。
けれど、老人の声は冗談ではなかった。
「昔はな、もっといた。夜空が流れるほど魚で満ちておった。小魚の群れは星の川みたいで、大きな魚も今より穏やかに泳いでいた」
「また昔話?」
リサが軽く言った。
老人は笑わなかった。
「炉が食いすぎている」
その言葉に、レイは眉を寄せる。
「炉って、街の?」
「街の炉など腹の足しにもならん。問題は上だ」
老人の白い目が、上層街の方角へ向いた。
「王宮の大魂魄炉だ。あれは底の底まで吸っている」
大魂魄炉。
その言葉を聞くと、リサの表情も少し硬くなった。
「そんな大げさな」
リサは言ったが、声はあまり軽くなかった。
老人はかすかに笑った。
「若い者は、空が痩せていることに気づかん。魚が減っても、灯りがついていれば安心する。だがな、海が痩せれば、やがて陸も干上がる」
「空なのに海で、陸なのに干上がるの?」
「うるさい小娘だ」
「元気そうで何より」
リサはわざと明るく言った。
その時、通りの向こうから歓声が上がった。
「見ろ!」
「でけえ!」
「あれ、王宮の上まで行くぞ!」
レイたちも空を見上げる。
巨大な魚の影が、頭上を横切っていた。
クジラ。
だが、ただのクジラではない。体は夜そのもののように黒く、輪郭だけが青い光で縁取られている。尾を振るたび、空の小魚たちがその流れに巻き込まれて散っていく。
人々は歓声を上げた。
「あんな魂が宿れば、将来は英雄だな!」
「王家にふさわしい格だ」
「雑魚とは違うぜ」
レイは、その巨大な影を見上げた。
確かに、圧倒されるほど大きい。
美しいと言ってもいいのかもしれない。
けれど、レイはなぜか胸の奥がざわついた。
「……大きければ偉いと思う者ほど、海の声を聞かん」
老人が小さく呟いた。
だがその言葉は、歓声にかき消された。
パーズ工房へ戻る途中、二人は魂魄回収業者の作業現場に出くわした。
通りの一角に、簡易式の回収装置が置かれている。傘を逆さにしたような金属の枠に、細い光の糸が張られ、小さな魚の魂を絡め取っていた。
捕まった小魚たちは、苦しそうに尾を震わせている。
作業員たちは慣れた手つきでそれらを圧縮瓶へ吸い込ませていた。瓶の中に入った魚は、ぎゅっと縮み、青白い粒のような光になる。
レイの足が止まる。
リサがすぐに腕を掴んだ。
「だめ」
「まだ何も言ってない」
「顔に出てる」
「……でも」
「認可業者だよ。逆らったら、こっちが捕まる」
レイは唇を噛んだ。
作業員の一人がこちらに気づく。
「なんだ、見世物じゃねえぞ」
レイは視線を逸らさなかった。
作業員は鼻で笑う。
「雑魚魂の味方か? やめとけやめとけ。こんな小せえのは、まとめて燃やしてもランタン一晩分にしかならねえ」
圧縮瓶の中で、小魚が震えていた。
レイの手が、無意識に動きかける。
リサの手に力がこもった。
「レイ」
その瞬間だった。
圧縮装置の一部が、嫌な音を立てた。
金属枠に張られた光の糸が赤く変色する。作業員が振り返るより早く、圧縮瓶の一本に亀裂が入った。
「おい、止めろ!」
「逆流してる!」
瓶の中の魂魄エネルギーが膨れ上がった。
近くで部品遊びをしていた子供が、何も知らずにその装置のそばへ近づいている。
リサが息を呑む。
レイは考えるより先に走っていた。
「おい、近づくな!」
作業員の怒鳴り声が飛ぶ。
レイは子供の襟を掴んで後ろへ投げるように引き寄せ、そのまま亀裂の入った瓶へ手を伸ばした。
熱い。
いや、熱ではない。
魂が砕ける寸前の、鋭い悲鳴のようなものが指先へ突き刺さる。
瓶の中で乱れていた小さな光たちが、レイの掌に反応した。
暴れていた流れが、少しずつ整っていく。
赤く濁った光が青へ戻る。
破裂しようとしていた魂魄の圧が、静かにほどけていく。
亀裂の広がりが止まった。
作業員たちは、ぽかんとレイを見ていた。
まずい。
レイがそう思うより早く、リサが彼の腕を掴んだ。
「走るよ!」
「え、ちょっ」
「いいから!」
二人は路地へ駆け込んだ。
背後で作業員の怒鳴り声が聞こえる。
「おい! 今の何だ!」
「待て!」
リサは振り返らない。
レイも麻袋を抱え直し、必死に走った。
狭い路地を抜け、階段を下り、壊れた配管の下をくぐる。二人は何度も曲がり、追っ手の声が聞こえなくなるまで走り続けた。
やがて、リサが壁に手をついて息を吐く。
「はあ……ほんと、あんたって……」
「子供がいたから」
「分かってる!」
リサは怒鳴った。
そして、すぐに声を落とした。
「分かってるから、困るんだよ」
レイは何も言えなかった。
リサは額の汗を拭い、空を見上げた。
「王宮に知られたら、あんた、本当に危ないんだからね」
「……うん」
「うん、じゃない」
「ごめん」
リサはしばらくレイを睨んでいたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「行こ。今度こそパーズさんに怒鳴られる」
「もう怒鳴られるのは決定なんだ」
「当然」
パーズ工房は、下層街の奥まった一角にあった。
看板は傾き、入口の扉は歪み、窓には古い機械部品が積み上げられている。初めて来た人間なら、廃屋か粗大ごみ置き場だと思うだろう。
だが、中に入ると違う。
壁一面に工具が並び、天井からは部品の束が吊るされ、床には魔導機械の残骸が規則正しく積まれている。無秩序に見えるのは素人だけで、パーズにとってはすべてがあるべき場所にある。
「おっせぇぞ!」
扉を開けた瞬間、怒号が飛んできた。
油まみれの作業台の向こうから、白髪混じりの大男が顔を出す。太い腕に、古い火傷の跡。片目には拡大レンズ。口には火のついていない煙草。
パーズだった。
「歯車一箱取りに行くのに、なんで夜が更けるんだ!」
「ごめん、ちょっと色々あって」
「色々で機械が直るか!」
「直らないです」
「なら色々すんじゃねーよ!」
レイは素直に麻袋を差し出した。
パーズは中身を確認しながら、ぶつぶつ文句を言う。
「三番歯車、六番配線、古型の同期弁……おい、この用途不明の部品は何だ」
「よく分からない部品」
「よし、あとで見る」
リサが小さく笑った。
パーズはそれを横目で見て、鼻を鳴らす。
「リサ。こいつ、また何かやったな」
「やったよ」
「即答するなよ」
「だってやったし」
パーズの目が細くなる。
レイは視線を逸らした。
「魂か」
その一言で、工房の空気が少し重くなった。
レイは小さく頷く。
「消えかけてたから」
「それだけか」
「途中で、回収装置が暴走しかけて」
「止めたのか」
「子供が近くにいたから」
パーズは深いため息をついた。
怒鳴られると思った。
けれど、パーズは怒鳴らなかった。
代わりに、低い声で言った。
「いいか、レイ。空の魚に手を出すなとは言わん」
レイは顔を上げる。
「だが、人前でやるな」
工房の奥で、魂魄ランタンが小さく揺れた。
「王宮はな、珍しいもんを見つけたら保護なんぞしねえ。分解して測る。使えるなら縛る」
「……俺は機械じゃない」
「王宮にとっては、使えるものは全部部品だ」
パーズの声には、冗談がなかった。
かつて王宮にいたという噂を、レイは何度か聞いたことがある。本人は詳しく語らない。だが、王宮の魔導機械について語る時だけ、パーズの顔には古い傷のようなものが浮かぶ。
「覚えとけ。お前のその手は、誰かを助ける。だが、誰かに見られれば、お前自身を縛る理由になっからな」
レイは自分の手を見た。
小魚を掬った手。
暴走しかけた魂魄を整えた手。
「分かった」
「本当に分かったか?」
「……たぶん」
「たぶんじゃねえ!」
結局、怒鳴られた。
工房での仕事を終えた頃には、夜はさらに深くなっていた。
リサは先に帰り、レイは一人で家へ向かった。
下層街の夜は暗いが、完全な闇ではない。
魂魄ランタンが淡く青く、屋台の火は赤く、そして、遠く上層街の明るさがわずかに届いていた。
レイの家は、細い階段を上った先にある小さな部屋だった。
扉を開けると、薄いスープの匂いがした。
「おかえり、レイ」
マルシアが振り返る。
痩せた体に、古いエプロン。髪には白いものが混じり始めている。けれど、レイを見る目はいつも柔らかかった。
「ただいま、母さん」
「遅かったのね」
「パーズさんに怒られてた」
「また?」
「また」
「あらあら」
マルシアは困ったように笑い、器にスープをよそった。
夕食は質素だった。
硬いパンに薄いスープ、それに少しの野菜。
だがスラムじゃ贅沢な方だ。
温かい食事がある。それだけで十分だった。
レイは椅子に座り、パンをスープに浸して食べた。
マルシアは向かいに座って、しばらく黙ってレイを見ていた。
「また、助けたの?」
レイの手が止まる。
「何を?」
「消えそうな子」
魚、とは言わなかった。
レイはごまかせないと悟り、小さく頷く。
「小さいのがいたから」
「そう」
「怒る?」
「怒らないわ」
マルシアは静かに言った。
「あなたは昔から、消えそうなものを放っておけないのね」
その声は、優しかった。
でも、どこか悲しそうでもあった。
レイは顔を上げる。
「昔からって、赤ん坊の頃から?」
マルシアの指が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれどすぐに、いつもの表情に戻る。
「そうね。赤ん坊の頃から」
「赤ん坊が何を助けるんだよ」
「私を」
レイは瞬きをした。
マルシアは、まるで何でもないことのように微笑んだ。
「あなたは、私を助けてくれたの」
「……覚えてない」
「赤ちゃんだもの。覚えてるはずないわ。それに、覚えていなくていいの」
それ以上、マルシアは何も言わなかった。
レイも聞けなかった。
母には、時々こういう顔をする瞬間がある。
遠い昔のどこかへ、心だけ戻ってしまったような顔。
悲しみと愛しさが、同じ場所にあるような顔。
レイは、その顔を見るたびに胸が落ち着かなくなる。
食事を終えたあと、レイは屋根に上がった。
古い梯子を登ると、下層街の夜景が広がる。
青白いネオンにつながった、赤く点滅する魂魄管。
濡れた屋根に、壁の隙間から立ち上る湯気。
その上を、中を、魚たちが気ままに泳いでいる。
レイは屋根の端に座り、膝を抱えた。
しばらくすると、隣の建物の屋根からリサが顔を出した。
「やっぱりここにいた」
「なんで来るんだよ」
「暇だったから」
「暇で屋根を渡るな」
「だって近道だし」
リサは慣れた足取りで屋根を渡り、レイの隣に座った。
二人で空を見上げる。
遠くの上層街は、下層街とは違う光を放っていた。
金色で、整っていて、冷たい光。
そのさらに奥に、王宮の塔が見える。
リサがぽつりと言った。
「ねえ、レイ」
「ん?」
「あの魚たちって、どこへ行くんだろうね」
レイは空を見た。
小魚たちは流れ、大きな魚はゆっくりと旋回し、時々、光の群れが高い空へ昇っていく。
「さあ」
「さあって」
「知らないものは知らない」
「夢がないなあ」
「リサは知ってるのか?」
「知らない」
「同じじゃん」
「でもさ、私とレイが赤ちゃん作ったら、一匹は入ってくるんだよね?」
「なッ!?」
「あー、また照れてる。想像しちゃった?」
リサはニヤリと笑った。
「ったく、バカなこと言ってんなよ」
その笑顔を見て、レイも少しだけ笑う。
しばらく沈黙が落ちた。
屋根の下から、誰かの笑い声が聞こえる。
遠くで金属を叩く音がする。
魂魄炉の低い唸りが、街全体の底に流れている。
「でもさ」
リサは空を見上げたまま言った。
「もし、いつか私が魚になったらさ」
「縁起でもないこと言うなよ」
「いいじゃん、話くらい」
「よくない」
「私は、ちゃんと空に帰りたいな」
レイは黙った。
リサは膝を抱え、足先を揺らす。そして目の前の魚をつついて見せる。
「こんな風に、空を泳ぐ方がいい。自由にさ」
「……当たり前だろ」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも、この街では当たり前じゃないよ」
レイは答えられなかった。
リサは笑う。
いつものように。
でも、その横顔は少しだけ大人びて見えた。
「だからさ、レイ。もし私が迷ってたら、ちゃんと空に帰してね」
「嫌だ」
「なんで」
「そういう約束はしない」
「頑固」
「そっちこそ」
リサは頬を膨らませたが、すぐに笑った。
「じゃあ、今のなし」
「なし」
「でも、覚えてて」
「なしなんじゃないのかよ」
「なしだけど、覚えてて」
「無茶苦茶だ」
二人は笑った。
その時だった。
遠く、上層街の方角で、巨大な光が立ち上がった。
王宮の塔の奥。
夜空を貫くように、青白い柱が伸びる。
レイは立ち上がった。
「何だ、あれ」
リサも表情を変える。
「王宮……?」
光の柱が脈打つ。
次の瞬間、空を泳いでいた小さな魚たちの動きが変わった。
自然な泳ぎではない。
引っ張られている。
無数の小魚が、上層街の方角へ流され始めた。大きな魚たちも身をよじり、逆らうように尾を振っている。だが、小さな魂ほど、その流れに抗えない。
一匹の小魚が、レイのすぐ近くを通った。
苦しそうに震えている。
光が乱れている。
レイは手を伸ばした。
だが、届かなかった。
小魚は見えない力に掴まれたように、上層街へ吸い込まれていく。
遠くから、低い唸りが聞こえた。
街の底を震わせるような音。
炉の音だった。
ただの小型炉ではない。
もっと大きく、もっと深く、もっと飢えた音。
リサが小さく呟いた。
「なに、あれ……」
レイは空を睨んだ。
光の柱の向こうで、王宮の影が夜に浮かんでいる。
その夜、レイはまだ知らなかった。
遠く離れた王宮の奥で、漆黒のクジラの魂を宿した少年が、同じ空を見上げていたことを。
評価やご意見いただけますとありがたいです。
次は12時に公開予定です。




