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第1話 夜空に海がある街

15話で完結です。

よろしければ、少しの間ぜひお付き合いください。

初日は3話、一気に行きます。

(1/3)

【主題歌】空の海へ

https://suno.com/s/aZs6Fh3zeIQVR9eT

※別サイトです

※AIによる作曲です。苦手な方はご視聴をお控えください。


挿絵(By みてみん)


 夜空には、海があった。


 もちろん、水など一滴もない。


 頭上に広がっているのは、(すす)けた高層建築の隙間と、古びた看板と、蜘蛛の巣のように張り巡らされた送電線だけだ。壁から壁へ渡された黒いケーブルは、何十年も前からそこにあるように垂れ下がり、ところどころで青白い火花を散らしている。


 それでも、魚たちは悠々と泳いでいた。


 小指ほどの小魚の群れが、壊れかけたネオン看板をすり抜ける。

 腹の白い大きな魚が、屋根の上をゆっくり横切る。

 さらにその奥、ビルとビルのあいだから、クジラのような巨大な影が尾を振って通り過ぎていった。


 魚たちは壁を抜け、看板を抜け、電線を抜け、人の体さえ何事もなかったように通り抜けていく。


 だが、それを見て驚く者はいなかった。


 屋台の親父は、湯気の立つ鍋をかき混ぜている。

 酔っ払いは、魂魄ランタンの柱にもたれて悪態をついている。

 子供たちは、空を泳ぐ魚ではなく、排水溝のそばに落ちていた錆びた歯車を取り合って喧嘩していた。


 魂なんて、そんなものだ。


 そこにあるのに、誰も本気では見ようとしない。


 少なくとも、この下層街ではそうだった。



「おい、レイ。またパーズの使いか?」



 鍋の前に立っていた屋台の親父が声をかけてきた。


 レイは肩に担いだ麻袋を軽く持ち上げて見せる。



「ああ。歯車と配線。あと、なんかよく分かんない部品」


「よく分かんねえもんを持って帰って怒られねえのか?」


「パーズさんなら、よく分かんない部品ほど喜ぶよ」


「はっはっは! 違いねえ」



 親父は豪快に笑い、鍋の中から肉の欠片らしきものを一つ摘まんだ。



「ほら、食ってけ。売り物にゃならねえ端んとこだ」


「いいの?」


「腹空かせたガキに食わせるくらいで、炉は止まらねえよ」


「サンキュ、オッサン!」



 レイは礼を言って、それを受け取った。



「ばっ! ものを貰ってオッサンとはなんだ!」


「じゃーね!」



 「熱っ」とつぶやき、ハフハフしながら何とか耐える。

 でも、うまい。


 肉なのかどうかも怪しい何かを噛みながら、レイは再び歩き出した。


 濡れた石畳が、青を反射している。


 路地の両側には、古い集合住宅が積み重なるように建っていた。建物の外壁には無数の配管が絡みつき、その隙間に小型の魂魄炉(こんぱく)が埋め込まれている。炉の中では、圧縮された魂魄(こんぱく)エネルギーが低く唸り、ランタンや暖房管や看板に力を送っていた。


 綺麗な光だった。


 青く、淡く、どこか夢のようで。


 だからこそ、レイは時々、その光がひどく嫌になる。


 その灯りが何を燃やしているのか、知っているからだ。



「レイ兄!」



 路地の奥から、子供たちが走ってきた。



「なんか部品ちょうだい!」


「だーめ。これは、パーズさんの仕事道具」


「ちっちゃいのでいいから!」


「小さいのもだめ」


「先っちょだけでいいから!」


「なんだそりゃ」


「ケチ!」


「ケチで結構」



 レイが笑ってかわすと、子供たちは不満そうに頬を膨らませた。


 その頭上を、小さな魚の群れが流れていく。


 子供の一人がそれを指差した。



「見ろよ、雑魚魂だ」


「ちっちぇえ」


「あんなのに入られたら終わりだよな」



 レイの足が、ほんの少しだけ止まった。


 彼らに悪気はない。

 大人たちがそう言うから、そう覚えただけだ。


 大きな魂は偉くて価値がある。

 小さな魂は雑魚。


 この街では、みんな知ってる。それが当たり前だった。


 レイは何も言わず、子供たちの横を通り過ぎた。


 空では、さっきの小魚たちが、ひらひらと尾を振りながら看板の中へ消えていく。看板には、王宮公認の魂魄燃料会社の広告が光っていた。


 文字の一部は壊れていて、何度も同じところで明滅している。



「豊かな、ね……」



 レイは小さく呟いた。


 その時だった。


 視界の端で、青い光が揺れた。


 レイは足を止める。


 路地裏の奥。

 壊れた排気管と、積み上げられた廃材の隙間に、小さな魚が一匹、漂っていた。


 魚、というより、今にも消えそうな光だった。


 体は半透明で、尾びれの先は欠けている。鱗はくすみ、目の光も弱い。泳いでいるというより、空中で沈んでいるように見えた。


 近くを通った男が、ちらりとそれを見た。



「なんだ、雑魚か」



 それだけ言って、通り過ぎる。


 別の作業服の男が、腰に吊るした圧縮瓶を叩いた。



「あの手のは炉にくべても出力にならねえよ。拾うだけ無駄だ」



 レイは黙っていた。


 魚はふらふらと、路地の壁へ向かって流れていく。

 このまま壁を抜けて、暗い建物の奥で消えるのだろう。


 誰も気づかない。

 誰も困らない。

 誰も悲しまない。


 それでも、レイは足を動かしていた。



「……俺もたいがい物好きだな」



 自分に向けて呟く。


 余計なことだとはわかっている。

 ただ見なかったことにすればいい。

 どうせ小さな魂が一匹消えたところで、この街は何も変わらない。


 けれど。


 レイは麻袋を地面に下ろし、そっと両手を差し出した。


 普通なら、触れることはできない。

 そう、魂は物ではない。壁も、人も、鉄も、すべてすり抜ける。


 けれど、その小魚は吸い寄せられるように、レイの掌へ降りてきた。


 レイは目を閉じる。



「大丈夫。まだ、消えていない」



 まだ、帰れる。


 掌の中で、小魚がかすかに震えた。


 欠けていた尾びれが薄い光で縁取られ、ひび割れたように濁っていた鱗が、一枚ずつ輝きを取り戻していく。

 消えかけていた体に、淡い金色が戻った。


 小魚は何度も尾を振った。

 そして、まるで礼を言うように、レイの顔の前をくるりと回った。



「ははっ、行けよ。もう大丈夫だろ?」



 レイが小さく笑う。


 小魚は夜空へ昇っていった。


 ネオンの青を抜け、電線を抜け、屋根の上へ。

 無数の魂が泳ぐ、夜の海へ。


 それを見送っていると、背後から声がした。



「あー、またやってる」



 レイの肩が跳ねた。


 振り返ると、リサが立っていた。


 肩まで伸びた髪を雑にまとめ、手には油汚れのついた布を握っている。腰に手を当てて、呆れたようにレイを見ていた。



「パーズさん、怒ってたよ。歯車一箱持ってくるだけで、なんでこんなに時間がかかるんだって」


「道が混んでたんだよ」


「魚で?」


「人で」


「嘘つき。いーけないんだ」



 リサは即答した。


 レイは観念して肩をすくめる。



「見てたのか?」


「途中からね。もう、あれほど人前でやるなって言われてるのに」


「人前じゃないだろ。誰も見てなかった」


「私は見てた」


「リサは、その……人じゃないだろ」


「あー! ひっどーい!!」



 そう言いつつ、リサはニヤリと笑う。


「それともー、もう他人じゃないって言いたかった? 結婚する?」


「ばっ!? ち、ちげーよ! 誰がお前みたいなガサツな女と……」



 レイは、言ってからしまったと思った。


 リサは近づいてきて、レイの額を指で軽く弾いた。



「いった」


「痛くしたの。ったく、照れちゃって」


「照れてねーよ」


「ばーか。レイのあんぽんたん」


「ひどいな」



 スっとリサの顔が真面目に戻る。



「ひどいのはレイだよ。あんた、自分が何やってるか分かってる?」



 レイは答えなかった。

 リサはため息をつく。



「魂魄回収の連中に見つかったらどうするの。王宮に報告されたら? 珍しい力だって知られたら?」


「別に、珍しくなんかないかもしれないだろ」


「あんた以外に、空の魚を手で掬える人間なんて見たことない」


「……俺もない」


「でしょ」



 リサは少しだけ声を落とした。



「だから、心配してるの」



 その言い方は、いつもの小言とは少し違っていた。


 レイは視線を逸らし、地面に置いた麻袋を担ぎ直す。



「分かってるよ」


「分かってない顔」


「分かってる顔だよ」


「じゃあ、次からやらない?」


「それは……」


「ほら」



 リサは勝ち誇ったように言ったが、すぐに困ったような顔になった。


 彼女も分かっている。

 レイが次も同じことをすることくらい。


 消えかけた小さな魂を見つければ、きっと手を伸ばす。

 危険だと分かっていても、見捨てられない。


 それがレイだった。


 二人は並んで歩き出した。


 路地を抜けると、少し開けた通りに出る。頭上には無数のケーブルが交差し、その合間を青い魚の群れが泳いでいた。壁に取り付けられた魂魄ランタンが、通りをぼんやり照らしている。


 リサがランタンを見上げた。



「あの灯り、綺麗だよね」


「綺麗だけど」


「けど?」


「あれも魚を燃やしてるんだろ」



 リサは黙った。


 ランタンの中では、小さな魂魄炉が低く唸っている。圧縮された魂の残滓が、青白い炎となって揺れていた。


 その光は、確かに美しかった。

 そして、なければこの街の機械は止まる。



「……そういうこと言うから、あんたは生きづらいんだよ」



 リサがぽつりと言った。



「思ってること言っただけだ」


「思ってることを全部言うと、だいたい生きづらくなるの」


「リサは言うだろ」


「私は言う相手を選んでるの」


「俺には言うんだ」


「うん。あんたには言う」



 レイが横を見ると、リサは何でもない顔をしていた。


 その何でもない顔が、少しだけ嬉しかった。


 通りの端に、古い露店があった。


 売っているのは、古本、古布、欠けた食器、用途不明の部品、そして乾いた薬草。店番をしているのは、腰の曲がった老人だった。目は白く濁っているが、二人が近づくと、顔だけは正確にこちらを向いた。



「レイか」


「こんばんは、爺さん」


「リサもいるな」


「はいはい、いますよー」



 老人は白い目で空を見上げた。



「今夜は、また痩せたな」



 レイもつられて空を見る。


 魚はいる。

 小魚も、大きな魚も、遠くには大きな影も。


 けれど、老人の声は冗談ではなかった。



「昔はな、もっといた。夜空が流れるほど魚で満ちておった。小魚の群れは星の川みたいで、大きな魚も今より穏やかに泳いでいた」


「また昔話?」



 リサが軽く言った。


 老人は笑わなかった。



「炉が食いすぎている」



 その言葉に、レイは眉を寄せる。



「炉って、街の?」


「街の炉など腹の足しにもならん。問題は上だ」



 老人の白い目が、上層街の方角へ向いた。



「王宮の大魂魄炉だ。あれは底の底まで吸っている」



 大魂魄炉。

 その言葉を聞くと、リサの表情も少し硬くなった。



「そんな大げさな」



 リサは言ったが、声はあまり軽くなかった。


 老人はかすかに笑った。



「若い者は、空が痩せていることに気づかん。魚が減っても、灯りがついていれば安心する。だがな、海が痩せれば、やがて陸も干上がる」


「空なのに海で、陸なのに干上がるの?」


「うるさい小娘だ」


「元気そうで何より」



 リサはわざと明るく言った。


 その時、通りの向こうから歓声が上がった。



「見ろ!」


「でけえ!」


「あれ、王宮の上まで行くぞ!」



 レイたちも空を見上げる。


 巨大な魚の影が、頭上を横切っていた。


 クジラ。

 だが、ただのクジラではない。体は夜そのもののように黒く、輪郭だけが青い光で縁取られている。尾を振るたび、空の小魚たちがその流れに巻き込まれて散っていく。


 人々は歓声を上げた。



「あんな魂が宿れば、将来は英雄だな!」


「王家にふさわしい格だ」


「雑魚とは違うぜ」



 レイは、その巨大な影を見上げた。


 確かに、圧倒されるほど大きい。

 美しいと言ってもいいのかもしれない。


 けれど、レイはなぜか胸の奥がざわついた。




「……大きければ偉いと思う者ほど、海の声を聞かん」



 老人が小さく呟いた。

 だがその言葉は、歓声にかき消された。


 パーズ工房へ戻る途中、二人は魂魄回収業者の作業現場に出くわした。


 通りの一角に、簡易式の回収装置が置かれている。傘を逆さにしたような金属の枠に、細い光の糸が張られ、小さな魚の魂を絡め取っていた。


 捕まった小魚たちは、苦しそうに尾を震わせている。


 作業員たちは慣れた手つきでそれらを圧縮瓶へ吸い込ませていた。瓶の中に入った魚は、ぎゅっと縮み、青白い粒のような光になる。


 レイの足が止まる。


 リサがすぐに腕を掴んだ。



「だめ」


「まだ何も言ってない」


「顔に出てる」


「……でも」


「認可業者だよ。逆らったら、こっちが捕まる」



 レイは唇を噛んだ。


 作業員の一人がこちらに気づく。



「なんだ、見世物じゃねえぞ」



 レイは視線を逸らさなかった。


 作業員は鼻で笑う。



「雑魚魂の味方か? やめとけやめとけ。こんな小せえのは、まとめて燃やしてもランタン一晩分にしかならねえ」



 圧縮瓶の中で、小魚が震えていた。


 レイの手が、無意識に動きかける。


 リサの手に力がこもった。



「レイ」



 その瞬間だった。


 圧縮装置の一部が、嫌な音を立てた。


 金属枠に張られた光の糸が赤く変色する。作業員が振り返るより早く、圧縮瓶の一本に亀裂が入った。



「おい、止めろ!」


「逆流してる!」



 瓶の中の魂魄エネルギーが膨れ上がった。


 近くで部品遊びをしていた子供が、何も知らずにその装置のそばへ近づいている。


 リサが息を呑む。


 レイは考えるより先に走っていた。



「おい、近づくな!」



 作業員の怒鳴り声が飛ぶ。


 レイは子供の襟を掴んで後ろへ投げるように引き寄せ、そのまま亀裂の入った瓶へ手を伸ばした。


 熱い。


 いや、熱ではない。

 魂が砕ける寸前の、鋭い悲鳴のようなものが指先へ突き刺さる。


 瓶の中で乱れていた小さな光たちが、レイの掌に反応した。


 暴れていた流れが、少しずつ整っていく。

 赤く濁った光が青へ戻る。

 破裂しようとしていた魂魄の圧が、静かにほどけていく。


 亀裂の広がりが止まった。


 作業員たちは、ぽかんとレイを見ていた。


 まずい。


 レイがそう思うより早く、リサが彼の腕を掴んだ。



「走るよ!」


「え、ちょっ」


「いいから!」



 二人は路地へ駆け込んだ。


 背後で作業員の怒鳴り声が聞こえる。



「おい! 今の何だ!」


「待て!」



 リサは振り返らない。

 レイも麻袋を抱え直し、必死に走った。


 狭い路地を抜け、階段を下り、壊れた配管の下をくぐる。二人は何度も曲がり、追っ手の声が聞こえなくなるまで走り続けた。


 やがて、リサが壁に手をついて息を吐く。



「はあ……ほんと、あんたって……」


「子供がいたから」


「分かってる!」



 リサは怒鳴った。


 そして、すぐに声を落とした。



「分かってるから、困るんだよ」



 レイは何も言えなかった。


 リサは額の汗を拭い、空を見上げた。



「王宮に知られたら、あんた、本当に危ないんだからね」


「……うん」


「うん、じゃない」


「ごめん」



 リサはしばらくレイを睨んでいたが、やがて諦めたようにため息をついた。



「行こ。今度こそパーズさんに怒鳴られる」


「もう怒鳴られるのは決定なんだ」


「当然」



 パーズ工房は、下層街の奥まった一角にあった。


 看板は傾き、入口の扉は歪み、窓には古い機械部品が積み上げられている。初めて来た人間なら、廃屋か粗大ごみ置き場だと思うだろう。


 だが、中に入ると違う。


 壁一面に工具が並び、天井からは部品の束が吊るされ、床には魔導機械の残骸が規則正しく積まれている。無秩序に見えるのは素人だけで、パーズにとってはすべてがあるべき場所にある。



「おっせぇぞ!」



 扉を開けた瞬間、怒号が飛んできた。


 油まみれの作業台の向こうから、白髪混じりの大男が顔を出す。太い腕に、古い火傷の跡。片目には拡大レンズ。口には火のついていない煙草。


 パーズだった。



「歯車一箱取りに行くのに、なんで夜が更けるんだ!」


「ごめん、ちょっと色々あって」


「色々で機械が直るか!」


「直らないです」


「なら色々すんじゃねーよ!」



 レイは素直に麻袋を差し出した。


 パーズは中身を確認しながら、ぶつぶつ文句を言う。



「三番歯車、六番配線、古型の同期弁……おい、この用途不明の部品は何だ」


「よく分からない部品」


「よし、あとで見る」



 リサが小さく笑った。


 パーズはそれを横目で見て、鼻を鳴らす。



「リサ。こいつ、また何かやったな」


「やったよ」


「即答するなよ」


「だってやったし」



 パーズの目が細くなる。


 レイは視線を逸らした。



「魂か」



 その一言で、工房の空気が少し重くなった。


 レイは小さく頷く。



「消えかけてたから」


「それだけか」


「途中で、回収装置が暴走しかけて」


「止めたのか」


「子供が近くにいたから」



 パーズは深いため息をついた。


 怒鳴られると思った。


 けれど、パーズは怒鳴らなかった。


 代わりに、低い声で言った。



「いいか、レイ。空の魚に手を出すなとは言わん」



 レイは顔を上げる。



「だが、人前でやるな」



 工房の奥で、魂魄ランタンが小さく揺れた。



「王宮はな、珍しいもんを見つけたら保護なんぞしねえ。分解して測る。使えるなら縛る」


「……俺は機械じゃない」


「王宮にとっては、使えるものは全部部品だ」



 パーズの声には、冗談がなかった。


 かつて王宮にいたという噂を、レイは何度か聞いたことがある。本人は詳しく語らない。だが、王宮の魔導機械について語る時だけ、パーズの顔には古い傷のようなものが浮かぶ。



「覚えとけ。お前のその手は、誰かを助ける。だが、誰かに見られれば、お前自身を縛る理由になっからな」



 レイは自分の手を見た。


 小魚を掬った手。

 暴走しかけた魂魄を整えた手。



「分かった」


「本当に分かったか?」


「……たぶん」


「たぶんじゃねえ!」



 結局、怒鳴られた。






 工房での仕事を終えた頃には、夜はさらに深くなっていた。


 リサは先に帰り、レイは一人で家へ向かった。


 下層街の夜は暗いが、完全な闇ではない。

 魂魄ランタンが淡く青く、屋台の火は赤く、そして、遠く上層街の明るさがわずかに届いていた。


 レイの家は、細い階段を上った先にある小さな部屋だった。


 扉を開けると、薄いスープの匂いがした。



「おかえり、レイ」



 マルシアが振り返る。


 痩せた体に、古いエプロン。髪には白いものが混じり始めている。けれど、レイを見る目はいつも柔らかかった。



「ただいま、母さん」


「遅かったのね」


「パーズさんに怒られてた」


「また?」


「また」


「あらあら」



 マルシアは困ったように笑い、器にスープをよそった。


 夕食は質素だった。


 硬いパンに薄いスープ、それに少しの野菜。

 だがスラムじゃ贅沢な方だ。

 温かい食事がある。それだけで十分だった。


 レイは椅子に座り、パンをスープに浸して食べた。


 マルシアは向かいに座って、しばらく黙ってレイを見ていた。



「また、助けたの?」



 レイの手が止まる。



「何を?」


「消えそうな子」



 魚、とは言わなかった。


 レイはごまかせないと悟り、小さく頷く。



「小さいのがいたから」


「そう」


「怒る?」


「怒らないわ」



 マルシアは静かに言った。



「あなたは昔から、消えそうなものを放っておけないのね」



 その声は、優しかった。


 でも、どこか悲しそうでもあった。


 レイは顔を上げる。



「昔からって、赤ん坊の頃から?」



 マルシアの指が、ほんの一瞬だけ止まった。


 けれどすぐに、いつもの表情に戻る。



「そうね。赤ん坊の頃から」


「赤ん坊が何を助けるんだよ」


「私を」



 レイは瞬きをした。


 マルシアは、まるで何でもないことのように微笑んだ。



「あなたは、私を助けてくれたの」


「……覚えてない」


「赤ちゃんだもの。覚えてるはずないわ。それに、覚えていなくていいの」



 それ以上、マルシアは何も言わなかった。


 レイも聞けなかった。


 母には、時々こういう顔をする瞬間がある。


 遠い昔のどこかへ、心だけ戻ってしまったような顔。

 悲しみと愛しさが、同じ場所にあるような顔。


 レイは、その顔を見るたびに胸が落ち着かなくなる。


 食事を終えたあと、レイは屋根に上がった。


 古い梯子を登ると、下層街の夜景が広がる。


 青白いネオンにつながった、赤く点滅する魂魄管。

 濡れた屋根に、壁の隙間から立ち上る湯気。

 その上を、中を、魚たちが気ままに泳いでいる。


 レイは屋根の端に座り、膝を抱えた。


 しばらくすると、隣の建物の屋根からリサが顔を出した。



「やっぱりここにいた」


「なんで来るんだよ」


「暇だったから」


「暇で屋根を渡るな」


「だって近道だし」



 リサは慣れた足取りで屋根を渡り、レイの隣に座った。


 二人で空を見上げる。


 遠くの上層街は、下層街とは違う光を放っていた。

 金色で、整っていて、冷たい光。


 そのさらに奥に、王宮の塔が見える。


 リサがぽつりと言った。



「ねえ、レイ」


「ん?」


「あの魚たちって、どこへ行くんだろうね」



 レイは空を見た。


 小魚たちは流れ、大きな魚はゆっくりと旋回し、時々、光の群れが高い空へ昇っていく。



「さあ」


「さあって」


「知らないものは知らない」


「夢がないなあ」


「リサは知ってるのか?」


「知らない」


「同じじゃん」


「でもさ、私とレイが赤ちゃん作ったら、一匹は入ってくるんだよね?」


「なッ!?」


「あー、また照れてる。想像しちゃった?」



 リサはニヤリと笑った。



「ったく、バカなこと言ってんなよ」



 その笑顔を見て、レイも少しだけ笑う。


 しばらく沈黙が落ちた。


 屋根の下から、誰かの笑い声が聞こえる。

 遠くで金属を叩く音がする。

 魂魄炉の低い唸りが、街全体の底に流れている。



「でもさ」



 リサは空を見上げたまま言った。



「もし、いつか私が魚になったらさ」


「縁起でもないこと言うなよ」


「いいじゃん、話くらい」


「よくない」


「私は、ちゃんと空に帰りたいな」



 レイは黙った。


 リサは膝を抱え、足先を揺らす。そして目の前の魚をつついて見せる。



「こんな風に、空を泳ぐ方がいい。自由にさ」


「……当たり前だろ」


「そうかな」


「そうだよ」


「でも、この街では当たり前じゃないよ」



 レイは答えられなかった。


 リサは笑う。

 いつものように。

 でも、その横顔は少しだけ大人びて見えた。



「だからさ、レイ。もし私が迷ってたら、ちゃんと空に帰してね」


「嫌だ」


「なんで」


「そういう約束はしない」


「頑固」


「そっちこそ」



 リサは頬を膨らませたが、すぐに笑った。



「じゃあ、今のなし」


「なし」


「でも、覚えてて」


「なしなんじゃないのかよ」


「なしだけど、覚えてて」


「無茶苦茶だ」



 二人は笑った。


 その時だった。


 遠く、上層街の方角で、巨大な光が立ち上がった。


 王宮の塔の奥。

 夜空を貫くように、青白い柱が伸びる。


 レイは立ち上がった。



「何だ、あれ」



 リサも表情を変える。



「王宮……?」


 光の柱が脈打つ。


 次の瞬間、空を泳いでいた小さな魚たちの動きが変わった。


 自然な泳ぎではない。


 引っ張られている。


 無数の小魚が、上層街の方角へ流され始めた。大きな魚たちも身をよじり、逆らうように尾を振っている。だが、小さな魂ほど、その流れに抗えない。


 一匹の小魚が、レイのすぐ近くを通った。


 苦しそうに震えている。

 光が乱れている。


 レイは手を伸ばした。


 だが、届かなかった。


 小魚は見えない力に掴まれたように、上層街へ吸い込まれていく。


 遠くから、低い唸りが聞こえた。


 街の底を震わせるような音。


 炉の音だった。


 ただの小型炉ではない。

 もっと大きく、もっと深く、もっと飢えた音。


 リサが小さく呟いた。



「なに、あれ……」



 レイは空を睨んだ。


 光の柱の向こうで、王宮の影が夜に浮かんでいる。


 その夜、レイはまだ知らなかった。


 遠く離れた王宮の奥で、漆黒のクジラの魂を宿した少年が、同じ空を見上げていたことを。


評価やご意見いただけますとありがたいです。

次は12時に公開予定です。

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