第10話 記憶の混線
世界が、白く弾けた。
音はなかった。
ただ、光だけがあった。
瓦礫の広場も、血の匂いも、壊れた魂魄管の火花も、遠くで泣く声も、全部が白い光に呑まれていく。
レイはリサを抱いたまま、その光の中へ落ちた。
いや、落ちたのか、浮いたのかも分からない。
足元が消え、腕の中の重みも消えた。
けれど、リサの魂だけは見えていた。
爪の先ほどの、小さな魚。
淡く、やわらかく、今にも消えそうで、それでも確かにそこにある光。
「リサ!」
叫んだつもりだった。
声は水の中へ落ちたように、遠くへ広がっていった。
次の瞬間、レイは海の中にいた。
いや、空と海、どちらでもあった。
上も下も分からない。暗くもない。明るくもない。無数の魚が、音もなく流れている。青白い小魚。透き通った細長い魚。大きな影。遠くを泳ぐ、山のような巨大魚。
そのすべてが魂だった。
生まれる前の魂。
還ってきた魂。
まだ名前のないもの。
かつて名前を持っていたもの。
それらが、ただ、流れている。
レイは息を吸おうとして、息をしていないことに気づいた。
体があるのかも分からない。
手を見ようとしても、そこにあるのは自分の輪郭のような白い光だけだった。
「……ここは」
「分からない」
声がした。
振り向くと、そこにアビスがいた。
いや、アビスに見える何かだった。
黒い外套も、王宮の服も、魔導機もない。ただ、漆黒の輪郭をまとった少年が、そこに立っている。彼の背後には、巨大なクジラの影がゆっくり尾を振っていた。
レイは自分の背後を見た。
小さな白い魚がいた。
爪の先ほどに小さい。
けれど、どこか強い輝きを秘め、どこまでも澄んでいる。
その魚はレイのそばを一周し、また背後へ戻った。
「リサは」
レイが言う。
「さっき、確かに」
アビスも周囲を見回した。
無数の魂の中に、淡い光がひとつ泳いでいる。
リサだった。
レイは走ろうとした。
だが、足がない。
手を伸ばそうとしても、距離が分からない。
リサの魂は、二人から少し離れた場所で、ゆっくり空の海へ向かっていた。
帰ろうとしている。
そう見えた。
レイは息を吐く。
吐けないはずなのに、胸の奥が少しだけ緩んだ。
せめて、帰れるのなら。
そう思った。
その瞬間、海が歪んだ。
リサの魂が、かすかに揺れる。
上へ向かっていたはずの小さな魚が、横へ流された。
いや。
流されたのではない。
引かれている。
「……リサ?」
レイが呟く。
小さな魚は、抵抗するように尾を振った。
だが、流れがある。
見えない大きな流れが、リサの魂をどこかへ引っ張っている。
アビスがその先を見た。
遠く。
海の底とも空の奥とも分からない場所に、巨大な光があった。
青白い。
けれど、濁っている。
無数の魂がそこへ引き寄せられ、吸い込まれ、砕かれている。
大魂魄炉。
王都の心臓。
魂を燃料に変える巨大な炉。
レイは手を伸ばした。
「やめろ」
届かない。
リサの魂は、すぐには吸い込まれない。
だが、少しずつ引かれている。
ゆっくり。
確実に。
帰るはずの海から、引き剥がされるように。
「やめろ!」
レイの声に、海が震えた。
その震えが、別の記憶を呼び起こした。
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「でもさ」
誰かの声がした。
リサの声だった。
海の中に、別の夜が開く。
レイは見覚えのある場所に立っていた。いや、立っているように感じていた。
下層街の片隅。古い魂魄ランタンの青い灯り。濡れた石畳。頭上を流れる魚たち。
リサは空を見上げたまま言った。
「もし、いつか私が魚になったらさ」
「縁起でもないこと言うなよ」
「いいじゃん、話くらい」
「よくない」
「私は、ちゃんと空に帰りたいな」
レイは黙った。
リサは膝を抱え、足先を揺らしている。そして、目の前を泳いでいた魚をつつくような仕草をした。
「こんな風に、空を泳ぐ方がいい。自由にさ」
「……当たり前だろ」
「そうかな」
「そうだよ」
「でも、この街では当たり前じゃないよ」
レイは答えられなかった。
記憶の中のリサは笑っていた。
いつものように。
けれど、その横顔だけは、少し大人びて見えた。
「だからさ、レイ。もし私が迷ってたら、ちゃんと空に帰してね」
「嫌だ」
「なんで」
「そういう約束はしない」
「頑固」
「そっちこそ」
リサは頬を膨らませたが、すぐに笑った。
「じゃあ、今のなし」
「なし」
「でも、覚えてて」
「なしなんじゃないのかよ」
「なしだけど、覚えてて」
「無茶苦茶だ」
二人は笑った。
笑い声が、海の中で遠く伸びていく。
その時、記憶の夜に青白い柱が立ち上がった。
王宮の塔の奥。
夜空を貫くような光。
「何だ、あれ」
「王宮……?」
光の柱が脈打つ。
空を泳いでいた小さな魚たちの動きが変わった。自然な泳ぎではない。上層街の方角へ、見えない手で掴まれたように流されていく。
一匹の小魚が、レイのすぐ近くを通った。
苦しそうに震えている。
光が乱れている。
レイは手を伸ばした。
だが、届かなかった。
小魚は上層街へ吸い込まれていく。
低い唸りが、街の底から響いた。
炉の音だった。
「なに、あれ……」
リサの声が震える。
レイは空を睨んだ。
その記憶を、アビスも見ていた。
知らないはずの夜。
知らないはずの会話。
けれど、リサの「覚えてて」という声だけは、彼の胸にも落ちた。
レイは、ようやく約束の意味を知った。
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記憶が割れた。
海が黒く揺れる。
次に流れ込んできたのは、もっと古い夜だった。
まだアビスが、アビスという名前を持っていなかった頃。
雨漏りの跡が残る天井。
古い鍋を磨く音。
寝台代わりの板の上で笑う、若いマルシア。ランドの声が、壁の向こうで何か言っている。マルシアが笑う。
その時、家の外が騒がしくなった。
電線の間を泳いでいた小魚たちが、いっせいに散る。布で塞いだ窓が内側から押されたように膨らむ。
「なんだ?」
天井を、大きな影が通った。
夜空を覆うほどの漆黒の魚。
魚というより、クジラに近い。屋根も煙突も電線も、その影に呑まれていた。
「クジラだ!」
「魂の定着だ! どこの家だ!」
漆黒のクジラは、ゆっくりとランドたちの家へ降りてきた。
壁も屋根も関係なく、黒い魂が部屋を満たす。ランドは尻餅をつき、マルシアは腹を押さえた。
クジラは、彼女の腹へ吸い込まれていった。
アビスは、その光景を外から見ていた。
同時に、内側からも見ていた。
名もない命の奥へ、漆黒が沈んでくる。
「おい、マルシア」
「なに」
「今の、うちの子に入ったのか」
「たぶん……」
「でかかったな」
「怖かった」
「でも、すげえ……すげぇぞ!」
ランドの声には、どうしようもないほどの興奮が混じっていた。
近所の声が漏れてくる。
「なあ、マルシア。聞いたか。王家にでも、だってよ!」
「声を落として」
「だって、すげえじゃねえか! 俺たちの子だぞ!」
マルシアは腹を抱きしめていた。
その手の温かさが、アビスの魂の奥へ届く。
まだ生まれていない。
まだ顔もない。
まだ名前もない。
それでも、あの手は自分へ向けられていた。
場面が飛ぶ。
雨の夜。
湯気の満ちる狭い部屋。
リンキンがマルシアの手を握っている。
ランドは部屋の隅でおろおろしていた。
赤子の産声が響いた。
リンキンが赤子を受け取り、布で包む。
「男の子だよ」
「見せて……」
マルシアは震える腕で我が子を抱いた。
ランドは膝から崩れるように近づく。
「俺の……俺たちの子か」
「そうよ」
マルシアは泣きながら笑った。
「あなたの子よ」
「触ってもいいのか」
「父親でしょ」
「壊しそうで怖え」
リンキンが鼻を鳴らした。
「ふん。そんな柔な魂じゃないさ」
そこまでだった。
雨音の向こうに、足音が混じる。
「ランド、扉から離れな」
扉が蹴破られた。
黒い外套の男たちがなだれ込んでくる。下層街のならず者ではない。訓練された兵の足運びだった。
「なんだ、お前ら!」
ランドが殴り飛ばされる。
「やめて! この子に触らないで!」
マルシアが赤子を抱きしめる。
リンキンの杖が男の膝を打つ。だが、別の男に突き飛ばされる。
「婆さん!」
ランドが起き上がろうとした隙に、赤子は奪われた。
「返して! お願い、返して!」
アビスは、その声の中にいた。
布越しの冷たさ。
母の腕から離れる寒さ。
遠ざかっていく体温。
男は別の赤子をマルシアの腕へ押し付けた。
「違う……この子じゃない……この子じゃないのッ!」
床に金貨が散らばる。
魂魄ランタンの青い光を受けて、金貨は濡れたように光った。
ランドの足が止まる。
「これだけあれば」
声が漏れた。
「これだけあれば、出られる」
「何を言ってるの」
「下層街から出られる。借金も返せる。いや、返さなくてもいい。どこか遠くへ行ける。飯だって毎日食える。お前に薬だって……」
「私たちの子が奪われたのよ!?」
リンキンの杖が床を叩く。
「馬鹿者!」
「痛えなババア!」
「外の音を聞け!」
雨の向こうから、低い笑い声と金属を引きずる音がした。
「その金は報酬じゃない。餌だよ。お前らを殺すための餌だ」
窓の外には、武器を持ったならず者たちがいた。
「あの家、金だらけだ」
「王宮も見逃すって話だ。早い者勝ちだろ」
ランドの顔から血の気が引いていく。
さっきまで未来に見えていた金貨が、罠に変わる。
「俺は……ほんと、どうしようもねえな」
板が叩かれ、壁が揺れた。
ランドは金貨を両手で掴み、窓から外へ投げる。
「ほらよ!」
金貨が雨に散る。
「金だ!」
「拾え!」
「欲しいんだろ! 全部くれてやる!」
ランドはマルシアへ振り返った。
「マルシア、逃げろ」
「嫌……あの子が……」
「分かってる!」
その声は、マルシアだけではなく、自分自身へも向けられていた。
「分かってる。でも今ここにいたら、お前まで死ぬ。行け!」
「でも、この子は、私の子じゃない!」
ランドは、マルシアの腕の中の赤子を見た。
憎くないはずがない。
だが、床へ転がされる赤子を想像した瞬間、彼の喉が詰まった。
「置いていけねえだろ」
「どうして」
「俺たちの子を奪った連中と、同じになっちまう」
ランドは古い工具を掴んだ。
足は震えていた。
死にたくない顔だった。
それでも、扉の前へ立った。
「マルシア」
「何よ」
「すまねえ」
扉が破られる。
金貨の音。
男たちの怒声。
ランドの叫び。
「こっちだ! 金はここだ!」
マルシアが雨の中へ転がり出る。
ランドの声が、一度だけ届いた。
「走れ!」
そこで、アビスの喉が詰まった。
見ていたのではない。
奪われていた。
自分は、あの家から奪われた赤子だった。
ランドとマルシアの子。
まだ名前を付けられる前に、王宮へ連れていかれた子。
アビサリウスではなかった。
だが、その名で生きてきた。
それが嘘だと言われても、十六年を消せるわけではない。
リサが呼んだ名も。
自分がそれに振り向いてきた時間も。
「……俺、なのか」
声が震えた。
「これは、俺の……」
膝が折れる。
海の中に床などない。それでも、アビスはそうするしかなかった。
「母、さん……」
言葉は、雨の記憶の中へ落ちていった。
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次に開いたのは、王宮の夜だった。
磨き上げられた白い石壁。
魂魄灯の淡い光。
厚い硝子越しに見る魚たちは、下層街より遠く、整えられた絵画のようだった。
若いルナリアスが、広い寝室の窓辺に立っている。
「お体に障ります。そろそろお休みくださいませ」
「もう少しだけ」
寝室の扉が開いた。
ダウジルが、数名の重臣を連れて入ってくる。
「まだ起きていたのか」
「陛下」
「よい。今夜は宮廷魔導師どもが騒がしい。空の流れが良いらしい」
ルナリアスは、腹に手を当てた。
「良い流れなら、きっと良い子が来てくれますね」
「当然だ。王家には、王家にふさわしい魂が宿る」
「お名前はどうなさいますか?」
「名などどうでもよい。そなたが考えよ」
「では、以前から考えていた名がありますの」
「言ってみよ」
「レイスティン」
「……ふむ。悪くはない」
その言葉の直後、彼女の腹の奥に小さな熱が灯った。
天井を、何かがすり抜けてくる。
爪の先ほどの魚。
小さい。
だが、白金色の光を帯びたその魚は、部屋に満ちる魂魄灯の青を押しのけるように輝いていた。
魚はルナリアスの前で一度だけ円を描き、彼女の腹へ吸い込まれる。
「来てくれた……」
目から涙が零れた。
レイは、その光を知っていた。
掌で消えかけの魚を掬った時に見える光。
傷ついたものが、もう一度形を取り戻す時の光。
それは弱さではなかった。
だが、ダウジルの眉は寄っていた。
「今のは何だ」
「魂の定着でございます。王妃殿下に、御子が……」
「そんなことは見れば分かる。余が聞いているのは、なぜあのような小魚だったのかということだ」
「陛下、とても美しい魂でした」
「美しい? 美しいだと!?」
ダウジルの声が冷える。
「王家の第一子だぞ。国中が待っている王位継承者だ。そこに、あのような雑魚が宿った」
「雑魚などではありません」
ルナリアスの声は震えていたが、退かなかった。
「命の大きさを、魂の大きさだけで決めるのですか」
「民はそう見る。貴族もそう見る。諸国もそう見る。王家の魂が小さいとなれば、ヴィザリウスの威信は落ちる」
「でも、この子は……」
「その腹の子は、国のものだ」
ルナリアスは言葉を失った。
ダウジルは重臣たちへ命じる。
「他に大きな魂の定着がなかったか調べろ。今夜の流れなら、どこかに現れているはずだ」
重臣たちが去ったあと、ルナリアスは腹を撫でた。
「大丈夫よ」
誰にも聞こえない声で囁く。
「あなたは、私の子よ」
その声を聞いた瞬間、レイの奥で何かが震えた。
まだ名前はない。
けれど、確かに自分へ向けられた声だった。
場面が砕ける。
王宮の密談。
「王家には爪の先ほどの雑魚が宿った。下層街には漆黒のクジラが宿った。民が知れば何と言う?」
「王家にふさわしい魂が、下賤の家に落ちた。ただそれだけのことだ。本来あるべき場所へ戻す」
「すり替えるのですか」
「言い方を選べ。王家に必要なものを迎えるだけだ」
「王妃殿下は……」
「知らせる必要はない」
そして、雨の夜の終わり。
王宮の絹の上に、漆黒の気配を宿した赤子が寝かされる。
ダウジルは満足げに見下ろした。
「見よ。これこそ、王家の魂だ」
「御名を」
少しの沈黙。
「アビサリウス」
赤子が短く泣いた。
「アビサリウス・ヴァス・ヴィザリウス。第一王子として育てる」
その場に、実母はいなかった。
ルナリアスは地下へ連れていかれていた。
湿った牢へ押し込まれ、冷たい床に座り込む。産後の体を抱えたまま、彼女は扉の向こうへ声を投げた。
「私の子を返して」
看守は答えない。
「お願い……あの子を……」
鉄の扉が閉ざされる。
小さな窓から、ほんの少しだけ空が見えた。
ルナリアスは震える指を伸ばす。
「生きていて」
声は石壁に吸われた。
「どうか、生きていて」
場面が、十六年分の暗闇を落とす。
地下の部屋。
ルナリアスは痩せていた。
髪は乱れ、手首には拘束の痕がある。
それでも、目は狂っていない。
ただ、同じ言葉を抱えているだけだった。
「返して」
かすれた声。
「私の子を返して」
レイは声を出せなかった。
王子だったからではない。
血筋を知ったからでもない。
自分を産んだ母が、ずっとこの闇の中で泣いていた。
それを知ってしまったから。
アビスも、何も言えなかった。
自分に与えられた地位、名、服、魔導機、そして第一王子という呼び名。
その全部が、二人の母の叫びの上に作られていた。
「……知らなかった」
アビスが呟いた。
レイは答えなかった。
知らなかった。
その言葉で許されるものではない。
けれど、アビスだけを責める言葉も出なかった。
彼もまた、奪われた赤子だった。
名前を付けられる前に、母から引き剥がされた子供だった。
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海がさらに深くなる。
二人は、記憶ではない場所へ流された。
そこには無数の魂があった。
生まれる前の魂。
死んで還る魂。
本来なら、ゆっくりと巡り、また新しい命へ向かうはずの流れ。
だが、その流れの一部が、歪んでいた。
大きな渦。
王都の中心から伸びる、巨大な引力。
大魂魄炉。
魂たちがそこへ吸い込まれていく。
小さな魚たちは抵抗もできず、流れを曲げられる。死者の魂も、生まれる前の魂も、区別なく引かれていく。
炉の中へ入った魂は、砕かれる。
圧縮され、燃やされる。
やがて光になり、王宮の灯りになる。
上層街の噴水に、貴族区の空中庭園に、劇場街のネオンになる。
防壁、浄水、コンロの火に、やがて都市そのものになる。
そのたびに、魂の海は削られていく。
徐々に流れが細くなる。
還るべきものが還れない。
生まれるべきものが生まれられない。
そして、溜まり続けた怒りが赤く濁る。
『赤潮』。
それはただの災害ではなかった。
奪われた魂の怒り。
帰れなかった魂の悲鳴。
世界が、歪んだ流れを押し戻そうとする反動。
無差別で、残酷で、救いようがない。
けれど、そこにあったのは悪意ではなかった。
痛みと飢え。
戻せ。
戻せ。
戻せ!
レイの掌が痛んだ。
アビスの胸の奥で、漆黒のクジラが唸った。
その時、リサの魂が見えた。
小さな魚。
白く、淡く、やわらかい光。
それが、ゆっくりと渦へ引かれている。
完全に吸い込まれてはいない。
まだ、海へ帰ろうとしている。
けれど、流れが強すぎる。
リサの小さな尾びれが震える。
レイは叫んだ。
「リサ!」
手を伸ばす。
届かない。
アビスも手を伸ばす。
「戻れ!」
届かない。
リサの魂は、少しずつ、少しずつ、大魂魄炉へ引かれていく。
レイは歯を食いしばった。
助けられなかった。
救えなかった。
それだけでも足りないのか。
まだ奪うのか。
二度も。
二度も、リサを殺すのか。
海の奥で、白い魚が光った。
レイのそばにいた小さな白い魚ではない。
もっと深いところから現れた、巨大な白い光。
小さい。
だが、すべてを照らす。
その光が、壊れた魂に触れる。
裂かれた流れが繋がる。
欠けた魚が形を取り戻す。
濁った水が澄む。
レイは理解した。
言葉ではない。
魂が知っていた。
自分に宿ったものの意味。
レイスティン。
同時に、海の奥から漆黒のクジラが現れた。
アビスの背後にいた影とは比べ物にならないほど大きい。
空の海そのものを裂くような黒。
それが尾を振ると、魂を縛る鎖が砕ける。
流れを塞ぐ壁が壊れる。
奪うもの、閉じ込めるもの、魂を道具に変えるもの。
それらを破壊する。
アビスも理解した。
自分の力は、ただ壊すためのものではなかった。
アビサリウス。
その名が王家に与えられたものだとしても。
その力は、王家のものではない。
世界の流れを取り戻すためにある。
破壊だけでは足りない。
修復だけでも届かない。
壊さなければ、束縛は解けない。
治さなければ、流れは戻らない。
二人で一対。
比翼。
片翼だけでは、空の海へ届かない。
レイとアビスは、同時にリサの魂を見た。
まだ、間に合う。
まだ、消えていない。
「あんなもんが」
声が震える。
だが、もう折れてはいなかった。
「あっちゃいけないだろ」
アビスは静かに頷いた。
「ああ」
漆黒の瞳が、大魂魄炉の渦を見据える。
「あってはならない」
リサの魂が、また少し引かれる。
レイは叫びそうになる。
だが、今この場所では届かない。
分かってしまった。
だから戻るしかない。
現実へ。
大魂魄炉のある場所へ。
リサの魂を、空へ帰すために。
「リサを」
レイは言った。
「二度は殺させない」
アビスが答えた。
「当然だ」
白い魚が光る。
漆黒のクジラが尾を振る。
海が割れた。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
レイは瓦礫の広場で目を開けた。
現実の空は、もう青白く戻っていた。
赤潮は消えている。
だが、街は壊れていた。
壁は崩れ、魂魄管は裂け、どこかでまだ火が燻っている。遠くから、泣き声と助けを求める声が聞こえた。
腕の中には、リサの体があった。
冷たくなり始めている。
レイは一度、きつく目を閉じた。
泣き声は出なかった。
泣く時間は、もう後でいい。
今は、まだ終わっていない。
リサはまだ空へ帰れていない。
レイはそっとリサを地面に横たえた。
乱れた髪を整える。
「待ってろ」
小さく言う。
「絶対に帰すから」
アビスも目を開けていた。
彼は黙って自分の両手を見ていた。
王宮の手袋は破れ、指先には血と煤がついている。
その手は、王子のものではなかった。
兵器のものでもなかった。
ただ、何かを失った少年の手だった。
「……見たか」
レイが言った。
「ああ」
アビスは頷く。
「全てではない。だが、十分に」
「俺もだ」
沈黙。
互いに知ってしまった。
レイは立ち上がった。
膝が震えた。
それでも立った。
アビスも立ち上がる。
黒い魔導機は少し離れた場所で煙を上げていたが、まだ動く。
王宮は遠い。
だが、行かなければならない。
レイはリサをもう一度だけ見た。
それから、アビスを見た。
「リサを、空に返す」
声は低かった。
アビスは頷いた。
レイは一歩踏み出す。
「行くぞ、アビサリウス」
アビスの目がわずかに揺れた。
アビサリウス。
王家が与えた名。
本来の血筋ではない名。
けれど、十六年生きてきた名。
リサが呼んだ名。
レイが今、真実を知った上で呼んだ名。
アビスはその名を否定しなかった。
「ああ」
彼はレイの隣に並んだ。
「行こう、レイスティン」
レイスティン。
ルナリアスが与えた名。
本来の第一王子の名。
けれど、レイはその名を聞いても、王宮の人間になった気はしなかった。
自分はレイだ。
パーズに怒鳴られ、リサに袖を掴まれ、マルシアに育てられた下層街の少年だ。
それでも、レイスティンという名を否定しない。
二人は並んで歩き出した。
瓦礫の向こう。
王宮へ。
大魂魄炉へ。
リサを空へ帰すために。
壊された世界の流れを、取り戻すために。
評価やご意見いただけますとありがたいです。




