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エピローグ

 セミの鳴く季節になりました。

 陽炎すら見える程熱した公園の空気の中で、わたしは粗末な子供用自転車ですっころび、蝉の鳴き声と小学生たちの好奇の視線に包まれては、こうつぶやきました。

 「……夏ですねぇ」

 「いや……唐突にどうしたの硝子ちゃん」

 そう言ってわたしを見下ろすのは、このクソ熱い日に公園にわたしを呼び出しやがった張本人、葦原アイです。アイはわたしに手を差し伸べ、助け起こしてから困ったような笑顔で言いました。

 「硝子ちゃんって……本当にセンスないんだね。自転車、こんなに転ぶ人始めて見たよ」

 「考えても見てください。あんな薄っぺらく円形をした物体二つで、ものが立つ訳ないでしょう。増してその上に乗っかるのは、いくらスリムだと言っても三十キロの体積を持つわたしなのです」 

 「いや……上に乗ってる硝子ちゃんがバランスを取るものだから。あと硝子ちゃんはスリムじゃなくて、ただ痩せっぱちなだけだからね」

 「だまらっしゃい牛女。もぎますよ」

 夏休みが始まって。日が高くなるまで寝ていようとベッドで幸せな気持ちで横になっていたわたしを、『カムトムシ取りに行こうぜっ!』的な夏休みファッションのアイが叩き起こしに来ました。麦藁帽に白いワンピース。似合いすぎて嫌になりました。

 そして瞼の重いわたしを引き摺ってどこに連れて行くのかと思えば……公園で自転車の練習って。しかも、わたしの体格に合うようにこども用自転車まで用意してきているのだから用意周到です。

 「でも良かったね……こうして一緒に夏休みを迎えられて」

 「……その点には同意しますよ。まさか、朝早く叩き起こされた上、こんな目に合わされるとは思いませんでしたが」

 結論から言うと。わたしは警察署に数日ほど宿泊しただけで済みました。

 警察署から出てきたわたしに、樋口さんがしたり顔でこう請け負ったものです。

 『私が直接証言をしに行って不起訴にさせたの。私んち、お父さんが県会議員でお母さんが弁護士の秘書だから。それで、おじさんが警察署長』

 なんてデウスエクスマキナですか。わたしは思わず突っ込みました。

 「なんだおまえ。身ねぇ顔だけど、どこ小? 何年生?」

 そんなことを思い出しながら自転車を起こすわたしに声を掛けてきたのは、浅黒く日焼けした仏頂面の小学生たちでした。こども用自転車に乗るわたしを、自分達の同類だと勘違いでもしたのでしょうかね。

 「こいつ知ってる?」

 「さあ? 自転車の練習してるってことは、俺たちと一緒の四年生じゃねぇの。背もそんくらいだし……」

 「八年生です。もとい中学二年生。悪かったですね、自転車検定の日は仮病使って欠席しましたよ」

 わたしたちの地域の小学校には自転車検定というものがあり、小学四年生の生徒を集めて自転車に乗れるかどうかを監督するというものです。これに合格するまでは、公園や広場、サイクリングロード、家の周りなどの安全な場所を除いて自転車を使ってはいけない決まりとなっているのでした。もちろん規則というほどのものではなく、得意な子なら一年生でもそこらで乗っていますが。

 「中二ぃ? 嘘吐くなよ。俺より背ぇ低いじゃん」

 「うっさいですね……。あなたに二次方程式が解けますか? ルート2の値を十桁目まで暗唱してみてください、ほら」

 「硝子ちゃん……ちっちゃい子と同レベルで喧嘩しないの」

 アイがなだめるように間に入りました。

 「何この牛みたいなおっぱいのねーちゃん。触っていい?」

 「エロガキさんですね。別にかまいませんよ、なんならもいでやってください。クラスの女子に見せてあげたら、きっと驚かれますよ」

 「何の話をしてるのっ!」

 アイが憤慨して声をあげました。はしたない。

 「おまえが何年生かは知らないけどさぁ……」

 と、浅黒い少年は、背後で自転車に乗っているふとっちょの少年を指差しました。

 「あいつと一緒だよ。あいつも自転車、乗れねぇの。だっせぇの」

 そう言ったとたんに、ふとっちょの少年はばたんと自転車ですっころびます。明らかに体格に合わない自転車をあてがわれ、転んでしまうたびにはやしたてられて笑われています。

 少年の顔は、あからさまにもう帰りたいといった具合に参っていました。しかし、それを他の少年たちが許してくれない様子です。良く見れば顔に喧嘩の痕らしき痣もあります。自転車に乗れない彼を無理矢理に連れ出して、わざと大きな自転車に乗せて転ぶのをはやし立てるといういじめでしょうか。

 「……こら」

 わたしはそう言って、少年たちをにらみつけました。

 「どうしてこんなことをさせるんです?」

 「だってよぉ、こいつ。嘘付くし声小さいしすぐにチクるし……気にいらないんだ」

 「なるほど。良くある理由ではありますが」

 わたしはそう言って、倒れているふとっちょ少年を助け起こしました。

 「大丈夫ですか?」

 「あ……う……」

 「こっちの自転車に乗ってみてください。こども用ですから多分すぐに乗れますよ。後ろ持っててあげますので、やってみてください」

 「……うん」

 少年はそういうと、これまでわたしが乗っていた自転車に跨ります。「どうせ乗れねぇよ」と少年たちはバカにしたような声で言いました。

 「違う違う、もっと身体を真っ直ぐにするの。あと、怖がってこぐのをやめちゃダメ、ずっとこいでる、止まる時は両足も使って……そうそう」

 そこでアイがしゃしゃり出て、ふとっちょ少年に自転車の指導をしてしまいました。おっぱいの大きなお姉さんに手取り足取り、密着練習を施されて少年は俄然、やる気を出しました。然程大きな問題はなかったのでしょう……少年はとりあえず真っ直ぐに走ることができるようになりました。

 「……確か。曲がり方は教えてませんでしたよね」

 と、わたしは少年の耳元でそうつぶやきます。

 「……うん……でも。なんとなくできそう」

 「……自信がついてきたようで……良いことです。しかし、ここはできていないことにしませんか?」

 「……?」

 「連中を見返しましょう。あなたが自転車になんか乗れないと思っていた連中に、自転車で復讐してやるのです」

 少年は最初戸惑ったような顔をしていましたが……わたしの勇気付けるようなしたり顔に納得してか、頷きました。

 わたしは少年の自転車の荷台を持ち、少年を走らせて軽く方向転換の補助をします。それからちょうど進んだ先にいじめっ子少年がいるように位置を調節しました。

 「いいですか。いじめっ子の皆さん」

 わたしは言いました。

 「これから彼が皆さんにいじめられた仕返しをします……ケガをしても知りませんよ」

 そう言ってわたしは少年の自転車を思いっきり突き飛ばし、少年を出発させました。たむろしていたいじめっ子少年たちの真ん中に……少年は全速力で自転車をこいでいます。

 「……え。ちょっとおま、おまえちょっと……曲がれっ! てか止まれっ!」

 「ごめーん、まだ曲がる練習してないのっ! ごめーんっ!」

 嘘吐きと言っていたのは本当みたいですね。これはなかなかガッツがあります。

 「ちょちょちょっと……止めて、止めないと……硝子ちゃん?」

 「わたしはあくまでその気のある少年の手助けをしただけですよ……。覚えて置いてください」

 そう言って、わたしは自転車に突っ込まれ、ボウリングのピンのように弾き飛ばされた少年を眺めて口角を歪めました。それからしたり顔で言います。

 「られっこはね……時にやられっぱなしじゃないんですよ。あなた方はおもしろ半分でやってるのかもしれませんが……やられる側は常に必死です。自分がどれだけ傷ついても……時に命を掛けてでも、逆転と復讐の機会を狙っている……。これに懲りたら、二度といじめなんかしないことですね」

 うひひっ。と雄介に似た笑い方で得意がる少年。逃げていくいじめっ子……ここで喧嘩してくるような根性のある連中じゃないのは、振る舞いを見て分かっていました。

 「硝子ちゃん……いくらなんでも今のは危ないって。子供にケガさせたらどうするの?」

 アイはぶりぶり怒ってそう言いました。

 「ケガの一つや二つ。わたしなんて全身傷塗れですよ。今ここで自転車の傷で済んだのなら、お互いにとって幸福なだけの話じゃないですか……。さて」

 わたしは少年から自転車を返してもらい、自分で乗ってみました。

 最初の一こぎ、力を入れた途端……わたしはこいだ方向に力み過ぎてバランスを失い、そのまま右側にすっころびました。

 「……夏ですねぇ」

 わたしはそうつぶやいて、横向きに転んだまま空を仰ぎ見ました。

 ……こんなに空が青かったのは……いったいどのくらいひさしぶりだったでしょうか。


 それからわたしとアイは図書館に向かいました。わたしが自転車の練習に根を上げたので。

 「もう……夏祭りまでには乗れるようになってもらうからね。お祭り会場、遠いんだから」

 「一緒に行く気ですか……タクシー使いましょうよ、そんなの」

 「どれだけお金かかると思ってるの? 週に二千円もお小遣いもらってるの、硝子ちゃんだけなんだからねっ」

 これでも結構つつましい、中学生的な数字だと思うんですがね。

 図書館には雄介がいて、いつもの狂ったように真剣な表情でノートに英単語を書き写していました。この人の勉強のやり方は、なんというか明らかに勉強の得意じゃない人の、単純極まる作業的なやり方なんですよね。

 「……こんにちは」

 わたしがおずおずと声をかけると、雄介は最初不愉快そうにして、しかしわたしの顔を見たとたんにぱっと笑顔になりました。

 「こんにちは、榊原さん。……その、奇遇だね、嬉しいよ」

 「そうですね……今日も勉強ですか」

 「ああ。こないだの期末テスト、葦原さんどころかキミたちのクラス委員さんにも負けたからね……。やっと学校でいじめられるのが収まったかと思ったら、これだよ。塾は増やされるし日付けが変わる前に寝たら怒られるしもう僕はダメかもしれない」

 「おいたわしい……」

 エックスを本棚の下敷きにした一件で、わたしやアイに対するものだけでなく、雄介に対するいじめも下火になり、そして止みました。樋口さんによる誘導が少なくなったというのも、この少年に対しても言えなくはないのでしょうが……やはり。彼らも気付いたのでしょう。

 いじめられっこはただの被害者でこそありませんが、ずっと敗北者でい続ける訳でもありません。

 その気になって奮起して、何が何でもという気迫で逆襲されると、おもしろ半分のいじめっ子ではとうてい太刀打ちできないのでした。

 だから……雄介も多分、わたしのいない間に、人がんばりしたのでしょう。逆境を翻すには奮起すること、なんだってそうです。そして本気になった人間ならば、どんな状況だって覆すことができます。本当です。

 「今度。両親と真剣にお話をしてみては? いっそのことその辺の相談窓口に駆け込むという手もありますよ」

 「ははは……。試してみようかな。……くたばる時はノートに学歴社会に対する恨み言でも、目一杯書き綴ってやる……」

 「重症ですね……今度一緒に、夏祭りに行きませんか? 塾なんかすっぽかせばいいんです」

 わたしがそういうと……雄介は目を丸くしてわたしを覗き込みました。

 「えっと……それって」

 「もちろん。アイも一緒です」

 雄介は少しだけ肩を落として、しかし納得したような表情で言いました。

 「そうか……そうだね。そうさせてもらうよ、楽しみだ」

 アイと雄介は変に気が合うようですしね。なんというんでしょう、同盟とか、仲間みたいな。変な秘密を共有しているみたいな感じ。しばしばのけ者にされるわたしとしては、気に食わなくもないんですがね……。

 「ちょっとちょっと……あなた。噂のS子さんじゃない?」

 そういう声が聞こえて、わたしが振り向きました。

 そこにはわたしたちの中学の制服を着て、三年生の校章をつけた補修帰りといった女生徒数人が、わたしの方を見ていました。受験生は忙しそうです。おずおずと腫れ物に触るような、しかし興味津々と言った態度で女生徒の一人はわたしに近付き、やや腰の引けた様子で声をかけました。

 「わー。言ってたとおり……小さい子ね。あの二年で調子乗ってた江楠を本棚で殺しかけたんでしょ? その上に本棚の上に乗っかって足であばらをへし折った上に、友達のツテで無罪放免になったとかいう……」

 「ああ……」

 どうしよう客観的に見て事実過ぎる。あばらは勝手に折れたんだけど。

 「記事、読んだよ。昔いじめられてたんだって。それで今度は友達を助けるために……ってことだけど。たかがいじめくらいで、よくそこまでできるよね?」

 「たかが……ですか」

 「ええ。二回も殺しかけたんでしょ? ちょっとおかしくない? 別に、命の取り合いをしてるんじゃないんだから……」

 「虫の死骸。便所の水。動物の糞」

 「……は?」

 「このうちの一つでも、あなたは口にしたことがありますか?」

 「……」

 女生徒は意図が読めません。不気味がるように自分の学友たちと顔を見合わせて、ふるふると首を振りました。

 「ないけど……ふつうに。そんなの」

 「そうですか」

 わたしは微笑みを浮かべました。

 「じゃあ。分からないでしょうね」

 分からないほうが幸せですし……これからもわかる必要はありません。彼女はこの先高校生になっても……当たり前に友達と一緒に楽しい人生を謳歌できるでしょう。

 「硝子ちゃん。こっち来て一緒に勉強しよう」

 アイに呼ばれて、わたしは先輩への挨拶もそこそこに、その場を離れました。

 なんとなく始まったアイとの友情も……夏休みに一緒に出かけるくらいにまで、なりました。まさか、わたしがそんなふつうの中学生みたいなことができるとは思わず……少しだけ感無量という気分がします。

 ……江楠まゆみはどうしているでしょうか?

 今頃は、病院のベッドからも出られている頃でしょう。わたしたちの学校に戻ってきますでしょうか? 分かりません。もしかしたらまた彼女の母親が、わたしに転校しろと求めてくるかもしれませんね。

 「絶対してやるもんですか」

 わたしはつぶやきました。すると、それに反応してか、アイが図書館にもかかわらず小うるさく喋くっていた口を尖らせ、わたしの方を向き直りました。

 「どうしたの? 硝子ちゃん」

 「なんでもありません」

 そう言って、わたしは済ました顔でテキストに戻り……誰にも聞こえないように小さな声でつぶやきました。

 「友達が……いますから」


 読了ありがとうございます。

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