第一章 家賃0円、ただしステータスは担保です
僕の名前はネイル。十二歳。この見渡す限り木々が鬱蒼と生い茂る深緑の森の中で、僕は静かに受付カウンターの木肌を撫でていた。この世界に転生して丸三年。ようやく、僕の悲願であった店をオープンすることができた。店の名は「転生者専門不動産トリス」。 看板は、森の入り口と店舗の前に簡素な木板を一枚掲げているだけだ。「店長ー、看板の墨汁、乾きましたよー。でも本当にこんな森の中に店を構えて、お客さん来るんですかー?ギルドの前の通りとか、王都の大通りに借りた方が良かったんじゃないですか?」パタパタと赤い毛並みの尻尾を揺らしながら、バイトのミアが雑巾を手に首を傾げた。十六歳の猫の獣人族である彼女は、僕がこの店を立ち上げるにあたって雇った唯一の従業員だ。ピンと立った猫耳が、僕の返答を待つようにぴくぴくと動いている。「ミア、何度も説明したでしょう。この立地には明確な理由があるんです」僕はずり落ちそうになった書類の山を整えながら、淡々とした口調で応じた。「まず第一に、王都の一等地はテナント料が高すぎます。創業期の固定費は極限まで抑えるのが鉄則です。そして第二に……僕たちの主要ターゲット層は、異世界にやってきたばかりの『転生者』だからです」「てんせいしゃ……? 女神様の気まぐれで、異世界から落ちてくるっていうあの怪しい人たちのことですか?」「怪しくはありません、貴重なお客様です」僕は小さな手帳を開き、ペン先を叩いた。「想像してみてください。ある日突然、見知らぬ世界に身一つで放り出された人間が、最初に直面する問題は何でしょうか? チート能力? 魔王討伐? 違います。『今日の宿』です。身分証もなく、この世界の通貨も持たない彼らが野宿を余儀なくされ、路頭に迷う。そこに『初期費用ゼロ、三ヶ月家賃無料』の看板があったらどう思うでしょう?」「うーん……飛びつく、かもです」「そうです。絶対飛びつきます。そして、王都の衛兵に捕まる前に吸い寄せられる場所として、この森の入り口という立地が完璧なのです。ついでに言えば……人間以外の、人目を忍びたいお客様も呼び込めますからね」「最後の一言、なんか黒い意図を感じますけど……」ミアがジト目で僕を見つめてきたその時だった。
チャリーン。
ドアに取り付けた銅製の鈴が、清涼な音色を響かせた。ミアが「ひゃい!?」と跳ね上がり、僕とミアの視線が同時に店舗の入り口へと向かった。そこに立っていたのは、ボロボロの布切れのような服を着た一人の男だった。髪はボサボサで、顔には煤と泥がべったりとついている。目は落ち窪み、足元は生まれたままの素足だ。典型的な『異世界転生直後』の姿である。「た……助けてくれ……!ここは……ここはどこだ……?俺は……俺はただ、会社で三日連続の徹夜をして……コンビニで栄養ドリンクを買って帰る途中で……気がついたら草原に倒れていて……!」男はガクガクと膝を震わせ、今にも倒れそうな足取りでカウンターへと歩み寄ってきた。「魔物には追いかけられるし、お腹はすくし……街に行こうとしたら言葉は通じるのに『身分証を見せろ』って追い出されて……野宿しようにも夜の森は怖すぎるし……もうダメだ……俺の人生、社畜のまま死んで、異世界でも野宿で凍死するのか……っ!」絶望に打ちひしがれ、涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにする男。僕は表情ひとつ変えず、椅子から立ち上がると、一礼した。「いらっしゃいませ。転生者専門不動産トリスへようこそ。店長のネイルと申します」「え……子ども……?不動産屋……?」「はい。お客様、まずはそちらの椅子へどうぞ。ミア、温かいお茶と干し肉を」「あ、はいっ!」ミアが慌てて奥の給湯室へ走り、お茶と干し肉を持ってくる。男は差し出されたお茶をむさぼるように飲み干し、硬い干し肉を涙目で噛みしめた。「う、うめぇ……生き返る……。なあ、君……ここは何なんだ?俺は……俺はどうなるんだ?」「ご安心ください。当店は、あなたのような『異世界に転生されてすぐに行き場を失った方』を専門に扱う不動産店舗です。お話を聞く限り、知識もお金も身分証もお持ちでないようですね」「うぐっ……全部その通りだ……。俺のスキルは『雑用処理・極』とかいう地味極まりないやつで、戦闘なんてとてもじゃないが無理なんだよ……!」「素晴らしいではありませんか」僕は微笑んだ。「それでは、本日のご提案に移らせていただきます。当店では現在、オープン記念キャンペーンといたしまして、新規転生者様限定で『初期費用ゼロ・三ヶ月間家賃無料』の特別物件をご案内しております」「な……なんだって……!?」男の目がカッと見開かれた。「初期費用なし……?三ヶ月無料……!?嘘だろ!?そんなうまい話があるわけない!詐欺か!?異世界に来てまで不動産詐欺に遭うのか俺は!?」「詐欺ではありません。れっきとした契約です」僕はカウンターの下から、一枚の羊皮紙と黒い羽ペンを取り出した。「三ヶ月の無料期間中に、この世界での生活基盤を整えていただくのが狙いです。ギルドに登録して薬草採取をするも良し、街で職を探すも良し。三ヶ月あれば、月々の家賃を払えるだけの収入を得ることは十分に可能です」「そ、それなら……俺でも住める場所があるのか……!?雨風を凌げて、鍵がかかって、安心して眠れる場所が……!?」「もちろんでございます。では、本日ご紹介するお勧め物件はこちらになります」僕は羊皮紙の間取り図を男の前に提示した。
【物件名】旧ゴブリン洞窟 二百三号室 【構造】天然岩盤造り 単身用 【間取り】三畳(岩肌露出)【設備】共同風呂・共同水洗(魔法式)トイレあり【交通】王都徒歩六十分(徒歩圏内に危険魔物生息地域あり)【インフラ】電気・ガスなし(魔石ランプ・薪は自己負担)【家賃】月額一万コイント(※最初の三ヶ月間ゼロコイント)
「……ゴブリンの洞窟?」
男が引きつった声を上げた。「ええ。元々は小規模なゴブリンの群れが拠点としていた洞窟ですが、先日、冒険者ギルドの手によって討伐が完了いたしました。その後、我がトリスが土地ごと買い取り、内部をリノベーション……壁面を削って仕切りを設け、完全個室化を施した最新の集合賃貸物件です」「三畳……電気もガスもないのか……?」「異世界ですので、現代日本のインフラを期待されては困ります。光が欲しければ魔石を購入いただくか、松明を焚いていただくことになります。なお、室内での過度な火気使用は火災保険の対象外となりますのでご注意ください」「いや、でも徒歩六十分って……途中に危険な魔物がいるって書いてあるぞ!?」「はい。ですので夜間の外出はお勧めいたしません。ですが、鍵はしっかりとした鉄製のものを取り付けてあります。外部からの魔物の侵入率は〇・五パーセント以下に抑えられておりますので、野宿に比べれば生存率は飛躍的に向上いたします」「生存率で部屋を選ぶのかよ……!」男は頭を抱えた。しかし、自分の着ているボロ布と、外から聞こえる夜の森の不気味な羽音に身震いすると、ぎゅっと唇をかみしめた。「……分かった。背に腹は代えられない。そこを借りるよ。三ヶ月無料で住めるなら、文句は言えない……!」「賢明なご判断です。では、こちらの『賃貸借契約書』にご署名をお願いいたします」僕は羊皮紙を男の前に滑らせた。「契約期間は二年。最初の三ヶ月間は家賃ゼロコイント。四ヶ月目からは毎月一万コイントを、毎月一日までに当店へ直接お支払いいただきます。なお、途中解約には違約金が発生いたしますのでご了承ください」「ああ、分かった。サインすればいいんだな?」「はい。お客様のお名前を、こちらに」男は羽ペンを取り、羊皮紙の署名欄に「佐藤一郎」と走り書きした。その瞬間。羊皮紙から淡い青色の光が放たれ、佐藤さんの手首へと吸い込まれていった。「うわっ!?な、なんだこれ!?光ったぞ!?」「契約の成立です。……さて、ミア。契約完了通知の確認を」「はいっ、店長!」ミアが水晶玉のような魔導端末を操作すると、僕の視界の隅に透明なウィンドウが浮かび上がった。
【トリス不動産・管理者ステータス通知】・新規契約完了:サトウ・イチロウ(転生者)・入居物件:旧ゴブリン洞窟 二百三号室 ・契約期間:二年(自動更新あり)・免除期間:残り九十日 ・家賃担保設定:【所有ステータスおよび魂の軌跡】・夜逃げ防止魔法:【発動中(境界線越境時に麻痺・強制送還)】
「ひ……ひえっ!?」
佐藤さんが自分のステータス画面を開いたらしく、絶望的な悲鳴を上げた。「な、なんだこれ!?俺のステータス欄の『称号』のところに『トリス不動産・家賃債務者(二年契約)』ってついてる!?それに、スキル欄に『家賃滞納時・全ステータス五十パーセント減少』って書いてあるぞ!?どういうことだコレーーー!?」僕は温かいお茶を一口すすると、ふうと息を吐いて淡々と説明を始めた。「言ったでしょう。『家賃0円、ただしステータスは担保です』と」「聞いてねえよ!担保ってそういう意味かよ!?」「サトウ様。我が社としても、身分証も身寄りもない転生者様に、無償で物件を提供するリスクを負っているのです。もしあなたが三ヶ月後に夜逃げをしたり、家賃を滞納された場合、我が社の事業は成り立ちません」「だからってステータスを担保にする奴があるか!人権侵害だ!」「この世界にまだ人権概念は確立されておりません。また、契約書第十七条に小さく明記してございます。『借主は契約履行の担保として、自身のステータス管理権限の一部を貸主に委託するものとする』と」「虫眼鏡で見なきゃ読めないサイズの文字で書くなーーー!」「契約ですので」僕はきっぱりと言い放った。「ですが、サトウ様。真面目に働いて毎月一万コイントの家賃を収めていただければ、このペナルティが発動することは一切ございません。むしろ、当店の管理物件に入居している間は、我が社の『管理者ステータス』により、お部屋の耐久度や魔物侵入アラートがリアルタイムで保護されます。安全と引き換えの担保とお考えください」「くっ……うう……! 罠だ……まんまとハメられた……!」「罠ではありません、相互信頼に基づくビジネスです」僕は笑顔で鍵を取り出し、カウンター越しに渡した。「こちらが『旧ゴブリン洞窟 二百三号室』の鍵になります。洞窟へは森の東側の小道を直進し、徒歩十五分ほどです。共同エリアの清掃は週に一度、ミアが行いますので、ゴミの分別ルールはお守りくださいね。燃えるゴミは火曜と金曜です」「異世界でゴミの分別まで指示されると思わなかったよ……」佐藤さんはガックリと肩を落とし、力なく鍵を受け取った。「……はぁ。でもまあ、雨露が凌げる場所があるだけ、マシか……。三ヶ月の間に、なんとか薬草採取で稼げるようになるよ……」「ええ、陰ながら応援しております。新しい人生のスタート、おめでとうございます」「……ありがとうよ、ちびっ子店長」佐藤さんはボロボロの体を引きずるようにして、店を出て行った。 カランコロンと鈴の音が鳴り、静寂が店内に戻ってくる。
「ふう……店長、なんだかかわいそうでしたね、あの人……」ミアが少し同情するような目でドアを見つめていた。「同情は不要です、ミア。彼には今、人生で最も必要な『住所』と『拠点』が手に入ったのですから。人は住む場所があって初めて、健全な思考と労働意欲を取り戻せるのです」「それはそうですけど……あのステータス担保の契約、やっぱりえげつないですよ〜」「えげつなくありません、合理的なリスクヘッジです」僕は管理台帳を開き、羽ペンで「サトウ・イチロウ 入居完了」と丁寧に記した。「さて、ミア。開店初日に一室埋まりました。空室率は現在八十七パーセント。まだまだ営業をかけなければなりませんね」「へ?八十七パーセント?そんなに物件持ってるんですか?」「ええ。旧ゴブリン洞窟全体で二十室、それから先日買い取った『旧三十六代目魔王城の離れ』が十室、さらには——」その時だった。
ズシン。
地響きのような重厚な足音が、森の奥から近づいてきた。 鳥たちが一斉に飛び立ち、店の木造建築が小刻みに揺れる。「ひやあぁぁ!?じ、地震!?」「落ち着きなさい、ミア。地震ではありません。……来ましたね」
チャリーン。
ドア枠を大きく超える巨躯が、頭を低くしながら店内に滑り込んできた。 身につけているのは、黒光りする禍々しい鎧。頭部からは巨大な二本の角が生え、鋭い眼光が店内を射抜いている。「いらっしゃいませ。あ、ソリッド様ご無沙汰しています」僕はいつものように、淡々と一礼した。「ぬう……ネイルか。久しぶりだな」重低音の声が店内に響く。ミアは恐怖のあまりカウンターの下に隠れ、ガタガタと震えている。「ソリッド様、本日はどのようなご用件でしょうか?現在、定期修繕の時期ではございませんが」「ふん……以前借りた『旧三十六代目魔王城』だがな……」魔族の高位将校であるソリッド様は、腕組みをして不機嫌そうに鼻を鳴らした。「あそこも少々飽きてきた!間取りは広いが、地下の拷問部屋からの湿気が酷くてな。鎧が錆びるのだ!もっと陽当たりの良い、日当たりのいい高層物件はないか!?」「なるほど、日当たり重視の住み替えご希望ですね。かしこまりました」僕は一切ひるむことなく、新しい間取り図の束をめくり始めた。「現在、王都郊外の丘の上に建つ『旧・聖騎士駐屯所跡地』のリノベーション物件がお勧めです。南向きで日当たり抜群、魔素の循環も良好ですよ」「ぬ……聖騎士の跡地だと!?我ら魔族にそのような場所を貸すというのか!?」「お客様の種族で差別はいたしません。家賃さえ期日通りにお支払いくだされば、魔族様も勇者様も等しく大切なお客様です」「ハッ!相変わらず商魂たくましいガキだ……良かろう、見せてもらおうではないか!」恐ろしい魔族の将校相手にも、僕は一切の躊躇なく営業トークを展開する。転生者には最低限の生きる拠点を。 魔族や魔王には快適な住み替えと投資機会を。異世界転生者が最初に必要なのは、チート能力でも伝説の剣でもない。『住所』と『契約書』だ。こうして、僕の「転生者専門不動産トリス」の長い営業の日々が、静かに幕を開けたのだった。




