18 困ったレイニール
エミネイラが颯爽と――と表現すれば聞こえはいいが、大人が数人、並んで歩けば一杯のほとんど獣道、我先にと群らがる人々の間に偶然できた隙間へと華奢な身体を潜り込ませた瞬間、前方から悲鳴が聞こえた。
「最悪の事態ってのは、全くもって……最悪なタイミングで起きるもんだな」
「何とも語彙が乏しい男だよな。避難はナダが先導してるはずだけど……心配だな。あたしが援護に行く。アンタは――そうだな、鼻でもほじって待ってて」
そういうとレイニールは道をそれ跳躍し、短刀で絡みつく蔦を切り払って足場を確保、レベルリオンさえ舌を巻くほどの身軽さで枝に飛び乗った。
鳥が飛び去ったような音を残して月明かりもまばらな森へと消える。
「お生憎だか、鼻に指を突っ込む、そんな余裕も無さそうだ」
後方、レイニールの向かった方とは真逆から、茂みを掻き分ける気配を感じてセベルリオンは剣を抜いた。
◇
「…………ッ」
ナダは呼気荒く、自身より小さいとはいえ平均的な大人の男とそう変わらない無骨で真っ平、申し訳程度に端を鋭利に研いだ鉄塊を払う。
上と下、切り分けられたそれはあまり心地よいとは言えない水分と肉の音をたてて茂みに落ち、顔を顰めた。
少しばかりに見出した隙に袖で口元を押さえながら束の間、大きく息を吸った。
魔物との戦闘経験は少ない方では無い。人間もそれなりに切ったが――感触の差異を確かめている暇は無い、恐らくは“脳味噌を使うのが役目”である仲間たちが話していた腐れ竜アボラクススの瘴気を受けて変異した動物か、あるいは魔物だろう。
眼前に飛び出てきたそれらは狼、小鬼、兎、蟲に鳥――の形によく似ている。今まで鉄塊で払ってきた魔物や動物とそう変わらないが、鼻をつく嫌な匂いと死骸の損傷部から滲み出る宵よりも暗く黒い瘴気が大気に溶け出す様子を見て、着古した衣服の袖で咄嗟に口と鼻を覆ったのだ。それらは今まで見た魔物よりもずっと【魔物】であった。
弁舌がてんで立たないものだから大声で『東へ逃げろ』とだけ叫ぶ。
突如として視界に飛び込んだ魔物を見て足がすくみかけた村人へ再度、『早く』と声をかけると脱兎の如く、獣でさえ容易に進めないだろう茂みの中へと葉や枝で衣類と肌を裂きながらも悲鳴交じりに逃げていった。
体が重い。
もう数体は斬った死骸から立ち昇る瘴気を少し吸い込んでしまったためだろう。数はそう多くはないがここで立ち回っていればジリ貧だ、やがてあの商人の若者のように動けなくなるのが目に見える様だった。
失策だったろうか?
考えつつ――禍々しい様相を醸し出す魔物たちであったが、どうにも本調子ではないように感じられる。
鳥の魔物であればもっと上空から滑空して襲い手を焼くはずだし、小鬼ならば喧しく耳障りの悪い鳴き声を上げながら棍棒や拾い物で切れ味の悪い古い武具や農具を振り回してくる。
彼らの正気を奪う瘴気が同時に、彼らの能力に枷をつけ、足を引っ張っているのか――。
「いや……違う」
目についたのは獣道の端へ一つ置かれた“樽”――。
「……効いているのだ」
計画ではこの辺りに忌避薬を設置する予定はなかった。誰かが置き忘れたか。
思い切って体を動かすために必要な分の空気を肺一杯に吸い込むと、魔物供との接触も踏み潰した魔物から溢れる瘴気も構わずに駆け抜け――たちまち脳味噌を揺らされるような気分の悪さと吐き気に耐え、たどり着いた先、樽に満ちた鼻も曲がりそうな粘液を乱暴に手で救って口に押し込んだ。
「成程。これは大いに不味い」
まるでそれを飲み込んだナダが、彼らにとってはとんでも無いものを飲み込む化け物にでも見えているのだろう。形相を歪ませてたじろいでいる小鬼の喉元へ鉄塊を見舞うと再度後退、腐れ竜の忌避薬――兼、解毒薬の元へ陣取った。
しかしここで無双を決め込んでいたとして、何の意味もない。やがて、それこそ千年間に渡って天下無双の竜が来るかもしれないからだ。何とか散り散りになった村人を残らず探し出し、無事に避難させなければ――。
それこそがナダの主君の願いなのだから。
「よう、デカケツ……うわ、臭っ!」
功を成すかは知らぬが樽に満ちた薬を掬い、体中に塗りたくっていたナダの頭上、枝が鳴ったかと思うと見知った声がかかる。
「……レイニールか」
「何やってんの、お前。それ皮膚についたらしばらく匂いと黒ずみが取れないってエミネイラがボヤいて――ってそれどころじゃない、残念な知らせだ」
「そうか」
口元を拭いながら辺りを見渡すと魔物供は数を増やしていた。
「瘴気に当てられた小鬼の群れがもうそこまで来ている。大物もね。避難をお勧めするけど?」
「避難? 今から逃げ始め、間に合う距離か?」
「あたしならね」
厳つい甲冑を着込んだナダの、その総重量は並の人間では身動きひとつ取ることが出来ない程のものだ。機動力などドブに捨てたようなもの。
ナダが踏み抜いた宿の床板の弁償に、セベルリオンの一向が今まで一体いくら使ってきたことか――。
とはいえ、レイニールの言葉通りならばナダが退却を選んだところで逃げる隙はない。
「アンタはデカイのをやりな。細かいのはあたしがやる――掃除が済んだら次の仕事だ、エミネイラがどっかに行っちまった。探しに行かないと。セベルリオンに任せておけないからね。ったく、困ったヤツらだよ」
樹上よりレイニールの放った一本の矢はニ体の小鬼を纏めて串刺しにした。矢筒を確かめると、残りは三十、といったところだ。
掃除を終えるには足りそうにない。
「……困った、ヤツらだよ」
風向きが変わる。腐の匂いが濃い。