17 それぞれの舞台
やがて世にも恐ろしい事態――“腐れ竜アボラクススの襲来”の時が刻一刻と近づくにつれ、長閑で牧歌的だったオースチラの雰囲気は張り詰めた気泡へ針を刺したかの如く消え失せ、表面に映っていた眩い光景は霧散。一変してまるで“この世の終わり”の様相と化しました。
「あの、もう少し、荷物は減らした方が良いかもしれませんよ」
大事な物を(一見そうでないような物も見受けられはますが)これでもかというほどに荷車へと詰め込んだご老人の、その細腕では車を引けず立ち往生を。その後ろからはあまり穏やかではない声が聞こえてきます。
ふと見れば、その隙に荷台からひとつ果実を拝借した腕白な男児へ、めざとく見つけたレイニール様が頬をつねり上げて泣かせているところでした。分かります。あれはかなり痛いものなのですから――。
「あ、慌てないでください、まだ猶予は、時間は有りますから! どうか落ち着いて、あの、冷静に、助け合って――」
時間はまだ有り、街道へ続く小道は大人が数人並んで歩いても余裕があるというのに皆が我先にと押し合い、混雑しています。あんなに優しそうだったご婦人がこれほど目を釣り上げて、朗らかに笑っていた農夫は怒鳴り声をあげて……元気に走り回っていた腕白な少年が肩を窄めて歩いている。私の声など、届きません。
懸命に拵えたあの薬剤を、腐れ竜が嫌がってくださればいいのですが――。
「レイニール。何とか人々の避難を急がせてくれ。どうも応援には期待できそうもない。上手くいかないもんだな。偉い人間ってのはこれほどまでに他を信じることが出来ないのか……それに……」
人々の間を縫うようにして歩いてきたセベルリオンさまがレイニールさまへと小声で囁く声は、多くの焦燥と少しの諦めの間で冷静になれない民の耳には届かないようでした。
応援――。
どうやらセベルリオンさまは領内への脅威と出兵の依頼についてしたためた書簡をクラーラへとお届けになったようですが……願いは聞き入れられなかった様子です。
腐れ竜アボラクススの毒牙がオースチラの喉元へと届くおおよその日付と時間は、腐食の進度と風向きからレイニールさまが予測されていたというのに、未だ大軍が鳴らす蹄の音が聞こえないということはそういうことなのでしょう。
「(お父様……いいえ、陛下。どうして領内の民を見殺しにするような事を――)」
父、クラーラ王陛下は、腐れ竜の対処は――オースチラの守護を放棄した。
思えば、確かに陛下は仰っていらした。
クラーラの周りにも戦火が燻っているのだと。いつ引火してもおかしくはないと。ともすれば出来の悪い三女の粗相で彼のクレインにまで目をつけられているの状況の今、疑心暗鬼になられていても不思議ではありません。
小さな小さな私の嘆きなど誰にも届く事など勿論あるはずもなく、それどころか私は神に嘲笑われているかのような心境です。
王家に生まれ、自国の領地の地名こそ知ってこそいたものの、ただそれだけの事――いざ自身が足を踏み入れてもそれがオースチラ領だと気付きもしなかった。地図の中でしか知らなかった自国の民を今更――こと城を出てから憂うなど。
いえ、そんなことは今さら考えても仕方のないこと。
国を追われたエミネイラは、『民』ではなく『人』として彼等のことを瞳に映すべきなのです。
きっと私が第三王女のままであったとしても何もできなかったことでしょう。ならば今の方が良かった。お城の中で何も知らずにどこか領地の辺境が腐れ竜の被害を受けた、などと噂を耳にして、きっとまた不吉な自分との間に勝手な親近感などを感じていたのでしょう。
こうして不幸にも逃げる人々のことなど考えることもせずに――。
私一人が悲劇の舞台で佇んでいるのだと――。
皆それぞれがそれぞれの舞台の主役なのだと考えも及ばずに――。
「――それに、何だってんだよ」
ふと、苛立ったような、セベルリオンさまの何か引っかかるような物言いに焦れているような――そんなレイニールさまの声で我に帰りました。
私も彼女のように豪快に生きられたならばいいのに。
「いや――商人の若者……シャッドと言ったな。彼が受けた毒。腐れ竜の瘴気に当てられ変異したと見られる魔物……」
「あぁ。あの童貞野郎が襲われたっていう。それがどうかしたのかよ」
「…………過去にそんな例があったか?」
「そういや、聞いたことねえな。進歩したんじゃねえか? 腐れ野郎も。ほら、一人じゃ寂しいから仲間を増やす、的なさ」
「腐れ竜も友達が欲しい、か? タチの悪い冗談だな。ところでレイニール、アボラクススも友達は一人いれば寂しくないものだろうか」
「はっはっは。何言ってんだセベルリオン。ダチってーのはな。多ければ多いほど賑やかで楽しいに決まってるだろ? それに千年も“ボッチ”だったんなら尚更――」
そういえば、セベルリオンさまとレイニールさま……いえ、他の方々もそうですが、一体どのような間柄なのでしょうか。
逃げるように旅をしている。もしや……いいえ。確かにお二人は互いに信頼しあい、息もぴったり。嗚呼、もはや疑いようもありません。
セベルリオンさまは恐らく異国で名を轟かせる豪商の嫡男。更なる商いの繁盛と発展のためと父に決められた淑やかで絶世の美女と囁かれる取引相手の令嬢と縁談の席を設けられはしたものの――彼には既に意中の女性があったのです。そう、幼少から馴染みであった貧しい農村の娘、レイニールさま。勝ち気で荒っぽくはありましたが時折見せるはにかんだ笑顔と心根の優しさを持つ彼女への気持ちに……何ということでしょう! ずっと、ずっと気付けずにいたのです! 気弱ですが優しく、背の小さかったセベルリオンさまはいつかレイニールさまを守れる存在になるためと、剣の修行と商いの学びに明け暮れる日々。やがて背丈が彼女を追い越し、想いを伝えようとしたその日でした。商会の頭でもある父からの突然の言葉。「更なる商圏拡大のため、お前に花嫁を用意したぞ、ガハハ」どうして運命は二人を遠ざけようとするのか――。悩んだ末、二人が選んだ行動は周囲の反対を押し切り、畑も富も名声さえも捨てての駆け落ち――。ナダさまやイシャーさまやカイレンさまはその道中で何となく同行することになりました。
……何と悲劇の逃避行なのでしょう!
「――なぁ。エミネイラもそう思うだろ」
「え? ええ。ぐすっ。可哀想に……」
「可哀想? それ本気で言ってんのか? って、おいおい、何で泣いてんの?」
思わず溢してしまった涙が信じられないのか、レイニールさまは目を大きく開き、驚いたような顔で、私の顔を覗き込んだのです。
「だって……だって! あんまりではありませんか! 望んだわけではないというのに運命に翻弄され、何もかもを失い、何処に行く宛もないというのに彷徨い続けなければならないなんて……」
それでも、互いに手を取り合って歩めるならば、それで構わない。それだけで構わない。そういうことなのですね?
「莫迦な事言ってんじゃねえぞ、さんざん行く先々で人様に迷惑かけまくって……滅ぼした街も一つや二つじゃない。可哀想もクソもあるかよ」
街を滅ぼ……え? それは少しばかりやり過ぎでは……駆け落ちというのはそういう物なのでしょうか……? そうか、豪商である父が跡取りを取り戻すため富に物を言わせて雇った暗殺者だらけの街、そう考えれば辻褄が合います。
心底、忌々しげに言い捨てて顔を背けるレイニールさま。私なんかでは想像だにできないほど辛い事があったのですね。
「きっと本意ではないはずです。長い時間、辛い時間だったでしょう」
「……お前に何がわかるってんだよ」
「分かりませんが……分かります!」
「チッ……いい加減にしろ! 意思も本意もクソもあってたまるか! バケモノなんだぞッ、怪物だ! みんな迷惑してる、疫病神なんだよ! いいから今はボンクラどもを避難させることだけ――」
そんな言い方……あんまりではありませんか。
二人はただ――。
「疫病神……? 化け物だなんて……ッ、怪物だったら何なんですか! 化け物や怪物に心がないなどと、誰が言ったんです! 望んでそうしているわけじゃないっ、心では泣いているはずですっ、報われて良いはずです!」
きっと私が証明して見せます。
愛し合った二人が幸せになることに、何らおかしなことは無いと――。
微力ですが、大した役には立てないかもしれませんが……。
このエミネイラが何とかして見せます。
そのためにもまずはこの【腐れ竜オボラクスス】にご退場いただきましょう。お二人の舞台から。
秘策があるのです。
そう、【魔術】。
先ほどからジンジンと痛みにも似た熱を持つこの右腕――。
覚醒魔術侍女エミネイラが今宵、閉じかけたお二人の舞台、その緞帳をこじ開けてご覧に入れましょう!
「おい、どこ行くんだッ、おい、エミネイラ!」
「彼女が侍女を解雇になった理由がわかった気がする……俺が連れ戻す。レイニール、村の人を頼む」
「ああ――セベルリオン。あいつ、本気で腐れ竜が救われるべきだと、そう思ってんのかね?」
駆け出した足を止め、セベルリオンは頭を乱暴に掻き乱しながら顔を顰め、腐れ縁であるレイニールの顔を見た。
――まさか。かつて伝承の女が一人、似たような事を言ってしかし叶わなかった。そういう話を聞いた事がある。
その女が、セベルリオンが探し求める武具を所持していたという伝説、御伽話であった。
「……直接聞いてくれ」
そう言って人混みの中、姿を消したエミネイラの後ろ姿を探すセベルリオンの鼓膜を、避難する村人の悲鳴が鳴らした。