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15 腐の足跡

 お馬を駆って野を行くけばそう時間もかからずに、私達の周囲に異変が現れ始めたのでした――。


「平気か、エミネイラ」


 手綱を握っているのですから当然ではありますが、視線は前方へ向けたままに、レイニールさまは私へ声をかけてくれます。

 先程から空気が纏う色は灰。そこへ薄らと苔を散らしたような陰鬱なそれは少なからず私達の肺を汚していくかの様――不快な腐臭が次第に濃く、強くなっていく様を肌で感じるのです。少しばかりとはいえ物事が順調に進みつつある私の足取りへと絡みつく様に――。


「ええ。ありがとうございます」

「……進路はおおかた予想通りだ。今晩には湿地帯を抜けて東へ――オースチラの村がある方角だ。草原に上がれば恐らく足取りは早まる。水源の近くを通らないのが幸いだな」


 不安が鎌首をもたげていく。

 やはりレイニールさまには腐臭が強すぎるのか、手綱を器用に捌きながら胸元から布を取り出して口元を覆いました。

 ですが、大気の澱みに、まるで小さな雨雲がかかる様に揺蕩う黒い(もや)は、彼女にさえ見えてはいない様です。

 

 怖い。


「戻るか、エミネイラ。震えてんぞ」

「いえ、問題ありません、レイニールさま」


 お馬がこれほど密に生い茂る樹々の隙間を掻い潜って駆けて行けるのはレイニール様の腕前が成す業なのでしょう。しかし、


「あの辺を抜けりゃから腐れ野郎の這いずった跡が見渡せる。だけど悪ぃな、()()()はこれ以上進みたくねぇらしい」


 どうやら立ち止まったお馬はレイニール様の指示などではなく、自らの意思――あるいは本能で足を止めてしまった様でした。

 ゆっくりとお馬の背から降りれば、数年も自らの足を地に着けなかったかの様に、頼りなく膝が嗤う――。


「……無理すんな。正直言うとあたしもここら辺に偵察に来っといつも(うなじ)がビリビリしてが胃がムカムカすんだよ。ナダのデカケツを蹴っ飛ばしてもスカッとしなくて――おい、マジ大丈夫かよ?」


 怖いのです。

 本来ならばこの時間、きっと樹々の隙間からは優しく木漏れ日が差し、人が近づきでもすれば飛び立つ鳥達の影が落ちる事でしょう。

 なのに向こう側は真っ暗。鼻をつくこれは腐臭などという俗物的なものではありません。

 死が、空気に成りすまし私の体へと入り込もうとしているのです。

 肺を、血管を死が満たす。

 死が、私に成り代わろうとしている。


「い……嫌です、行きたくありません」

「――おい、エミネイラ!」


 なのにどうしてでしょう。足が向かう。何かが誘う。

 耳に死が詰まり、私と世界の音を隔てようとしている。身体など無くなってしまえばいいのに。そうすればどこへでも行けるし、どこへ行かなくても関係ない。


 ああ、レイニールさまが遠くで私を呼んでいらっしゃるのに。


 行かなければ。

 レイニールさま、私、行かなければ――。


 ――エ   ラ


 さようなら。

 わずかな時間でしたが、とても楽しかったです。


 ――エ ネイラ


 死が、私に――


「――エミネイラッ!」


 血潮が、一瞬で左の頬へと集結する。

 熱い……熱くて、痛――。


ひやい(痛い)! ひやい(痛い)でふぅぅぅぅっ! らいいーるはあ(レイニールさま)! ひやい(痛い)ぃー!」


 顔の皮が伸びきってしまいます!

 いつのまにか、私はこれ以上伸びないというほどにレイニールさまの剛腕で頬をつねられ涙を流して立ちすくんでいたのでした。


「正気に戻ったか! 悪い事をした。ビンタと迷ったんだが、跡が残ったら可哀想だと思ってな」

「あ、安心なさってください。どちらにしてもくっきりと跡が残ったに違いないでしょうし」


 なんだかとてもふわふわと気持ちのいい夢を見ていた様でした。

 樹々から差し込む午後の木漏れ日に、いつしか微睡んでいた様です。連日の疲れが溜まっていたのでしょうか? 腐れ竜の襲来が差し迫っているというのに、面目のない事です。


「……ったく。一体どうしちまったんだ?」

「いえ――この樹々の向こう、崖の向こうが」


 ゆっくりと頼りない脚を繰り、樹々の向こう――暖かな日差しの中へと歩み出せば。


「そうだよ。腐れ野郎、アボラクススの足跡だ」


 足、跡。


「なんて、酷い……」


 いいえ、これはその様に可愛げのあるものではありませんでした。

 見下ろした湿原の中央、紫色の花の咲く一帯の中に一本の筋が――大きな身体を引きずった様に見えるその跡では立ち枯れた草木と濁った水だけが揺らめき、近寄ってしまった鳥は羽ばたきを諦め地に落ちる。

 それどころか今を持ってなお、花は色を失い茎を倒していく。腐食が拡大しているのです。


「レイニールさま――そこ、あそこに……なんて酷い」

「酷ぇもんだろ。いくら肥沃な土地だろうが、目ん玉ブッ飛び出るほど大金持ちな貴族の領地だろうが、アレにかかりゃあこの有様だ……エミネイラ、やれる事はやったろ? 村を出よう。村の奴らだって避難する。“仕方がない事”だって理解しているよ。お前に感謝してる、誰もがさ」


 レイニールさまはいつもの溌剌とした表情を曇らせながら、優しく言含めてくれました。

 ですが、どこへ行くというのでしょう。

 民はどこへ行くというのでしょう。


「――ミスタル族の言い伝えによれば、アボラクススには夜しか訪れない。夜が明けるかと思うと次の世界の夜が訪れ、そうして三つの世界の夜をかわるがわる彷徨うんだとさ……しょうもない言い伝えさ! 誰も竜の姿なんて見た事もねぇってのに!」


 自分の土地や畑も、自分の家もない何処かへ辿り着き、今とは違う生活を余儀なくされ――お仕事は? 大事な人はそこにもいらっしゃるのでしょうか。心の中で重ねで見たところで、そこはオースチラの村ではありません。

 民が逃げおおせたとして、また違うどこかへと腐れ竜が現れ、そこではまた別の民が故郷を失くす。あんまりではありませんか。


「どうだい、エミネイラ。悔しいけど人間如きにどうにかなる相手じゃない。無茶はするなって」


 耳にした伝承を笑い飛ばした後に、真面目な顔で――しかし微笑みを浮かべながら私の肩へそっと触れてくださる。

 跳ねる鼓動を両手で押さえつけ、きゅっと乾いていく口を何とか動かすのです。

 

「……本当に、どうにもならないのでしょうか?」

「少なくとも約一千年の間は、そうだったらしいな」

「レイニールさま、あちらに――」

「あぁ、これが特級瘴害、腐れ竜アボラクススの足跡だよ」


 足跡、なのですね。レイニールさまに見えていらっしゃるのは。

 そしてレイニールさまには見えていない様です。


 やがて太陽が休息を取ろうと沈み始める時刻、橙色と藍色が混じり始める今、そこにいるのは夜に目覚めた死神――四肢を地に着け歩み始める、形は竜の、腐そのもの。


 なればこそ、このエミネイラに何か出来ることがあるのではないかと、そう思わずにはいられなかったのです。

 あれが私だけに見ることができるのならば、手を打つことができるのもまた、私だけなのではないかと――。

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