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夜と食楽

(※ ノイン視点のお話となります)




それはとても暗い夜の底で、夜だけを使って織り上げられた魔術の底には星々の系譜の輝きなどは届かなかった。



ぎいっと音を立てて軋んだのは、開け放たれたままの扉が風に動いたのかもしれない。

誰かが横着をして開けっ放しにしたのではなく、この場所がかつて在ったものを映す影絵だからこそ、その在りし日のままに開いている扉だ。




祝祭の夜に相応しくはない廃墟となった王宮で、大きな夜結晶の円卓を集まった三人の男が囲んでいる。

円卓の中央にはふんだんに花を生けた大きな花瓶があったが、商談の邪魔になるからと今は端に押しやられていた。



どこかでゴーンゴーンと鐘の音が鳴り響いていたが、それはいつの時代の残響か。



ここは遥か昔に失われたとある王国で、中立を保つのに良い魔術が展開し易い事が好まれ、今でも、多くの人外者達の会談の場に使われている。


夜の光を映し鮮やかな色を投げるのは、戦乱で失われた筈の大きなステンドグラスの天窓で、そこから落ちる光の筋に宿るのは、ただの色硝子の影ではなくステンドグラスで現わされた魔術の叡智である。


あの天窓は、こうして光を通して投げかける影の文様で、どれか一つの系譜が突出して有利にならないようにする精緻な魔術を結ぶのだった。



つまりここは、どれだけ潤沢な夜の中にあっても、決してノインにとって有利な場所ではない。

だからこそ、昨晩からずっとこの場に足止めされているのだ。





「では、この誓約の魔術の下に、正式な契約をいたしましょう」



テーブルの上に広げられた魔術契約書に、やっとここまで漕ぎ着けたかと溜め息を吐く。


この契約書は、雪陽炎と冬楓から紡いだ糸を織り上げたものを結晶化させて薄く削ぎ、それを紙として星と犠牲の魔術を宿した宝石インクで文字を記す。


古来からある、魔物と精霊の商談向けの契約書にはいつもこの組み合わせが使われてきた。

各種属ごとに、契約に向いた素材というものがあるのもこの世界の複雑さである。



「……………やれやれだな。商会の取り分が多過ぎやしないか?ファーシタルの酒は、俺たち真夜中の精霊にとっても必要なものなんだぞ」

「おや、そうなりますと、お隣の方への補償が大きくなりますよ?我々の仲介料も含まれておりますからね」

「……………くそ、完全に足元を見られたな。………このままで構わない」

「では、継続いたしましょう」




ノインの向かいに座るのは、アストレ商会という、世界規模の商会の一つを治める黒髪の男だ。



これは売買と契約を司る魔物で、真っ直ぐな肩までの髪に漆黒のスリーピース姿で、細身の煙草から紫煙を立ち昇らせている。


高位の者の全てはその力を美醜に反映させるのだが、この男の場合は、銀縁の眼鏡の奥に見える黒い瞳は暗く酷薄で、その美しさよりも得体の知れなさこそが印象の軸ともいえるだろう。


名前は知っているが、ノインは精霊なのであまりその名前を呼ばないようにしている。

魔物と精霊とでそれぞれの領域が違うので、名前に宿る魔術までをも頻繁に繋ぐのは避けておきたい。



そんな黒髪の魔物は今、夜の領域の上得意から持ち掛けられた商談の為にこの場所を訪れている。

彼の商売にも無関係ではない、幾つかの契約を持ちかけられたのだ。




(……………だが、よりにもよってここまで手間取るとはな……………)




苦々しくそう思い、ノインは、あの部屋でリベルフィリアの夜を過ごしているであろう一人の人間を思う。


祝祭の夜なのだ。

今夜は側にいてやり、色々とあたたかいものを作って食べさせてやるつもりだったのに、昨晩からこちらにかかりきりではないか。



だが、この交渉ばかりは、必ず本日までに済ませておかなければいけないものである。

一つの契約とそこに繋がる大きな魔術が結実を迎える明日の舞踏会までに、ノインには済ませておかなければならない事が幾つもあった。




(ディルヴィエを付けてあるから、問題はないだろうが、……………)



だがそれでも、この手の内に置いている状態ではやはり充足感がまるで違う。

ディアは今、ノインと明日の夜迄の契約を交わした契約者でもあり、そこに付随する魔術も疼くのだ。




(ディア……………)




それは、かつての約束の顛末を示す名前であり、思い通りにならないのなら殺してしまおうと思いながらもそうは出来なかった子供で、結局愛しながらもその最後の選択を見据え、だらだらと半端な守護を与え続けてきた人間の名前であった。



誓約文を書く売買と契約の魔物の手元を何ともなしに眺めながら、明細書に値段を付けて書き込まれてゆく項目の一つに指先でテーブルを叩く。

これだけのものが、たった一人の人間の為に支払う対価なのだと考えれば、やはりあの人間は特別なものなのだろう。



いや、そのような存在になったのだ。





ディアは、十三年前の真夜中の座の舞踏会に参じた、人間の従者の一族の子供である。



彼女が子供用のドレスに身を包み、夜を育む全ての者達の故郷でもある真夜中の王宮の舞踏会を訪れたのは、それはそれは美しい夜のことだった。


誰にも見られていないのだと信じ、小さな体で狡猾にも精霊の食べ物を奪おうとしたジラスフィ公爵家の子供は、青い瞳に溢れんばかりの歓喜を浮かべて美しい夜を楽しんでいて、その無邪気な歓喜の姿に目を止め、ノインは立ち止まる。



そして、ああ、この子供がそうなのだと知らされた。




夜には幾つもの資質がある。


それは、美貌であったり孤独であったり、思索であり充足である。

破壊であり恐怖であり、歓喜であり芸術である。


夜の最高位である真夜中の精霊達は、王が夜のそのものを司ると、それ以下の者達で夜の他の資質を分け合い治めていた。

そしてその子供は、ノインが治めるものにこそ、己の喜びを見出したのだ。



だからこそ、ノインはその人間の子供を選んだのかもしれない。



だが多分、本当は理由などはないものなのだ。

ただ、たった一つのそれを見付け、心から欲しいと願うばかり。

理由などはないのだと知らずにいたその時のノインは未だ、いずれ己の高慢さの対価を支払う羽目になるとも知らずに上機嫌でいた。





(………その子供の命をかけた願いを、俺は無残にも打ち砕いた……………)




あの嵐の夜に、ノインは、声にもならない囁きが幾重にも重なって震え、誰かがずっと自分を呼ぼうとしていることには気付いていた。


名前も知らずにこの身を望むのかと愉快に思い、同じだけ不愉快になって応えずにいたその時間の中で、あの人間は愛した家族のその全てを喪ったのだ。



これはあの子供の声だと気付いたのは、どれくらい経ってからだったろう。

ぞっとして慌てて駆け付けたその先で、子供は頭から血を流して死にかけていた。


怒りのままに屋敷を荒らしまわる人間達を壊してしまうことも考えたが、魔術に免疫のないファーシタルの人間は酷く脆い。

ここで力を振るい、この子供にとって必要な者を死なせてしまう訳にもいかないだろう。


腕を振るい、真夜中の領域という時間の座の魔術を切り出すと、騎士達の動きを止め眠らせた。



このような事は初めてで、指先で、ぶるぶると震えているディアの頬を撫でる。

彼女は、ノインが伴侶にと望んだ、大事な大事な子供なのだ。



子供は、泣きじゃくりながら何かを言おうとしていたが、ノインが魔術で眠らせておいた屋敷の中を見回し、青い瞳を静かに揺らがせ瞬きをした。



その瞬間の感情の欠落を、忘れる事はないだろう。



かつては弾むように輝いていた心から何かが剥がれ落ち、青い瞳には耐え難い程の失望と絶望が満ちる。

それは、慈しむ筈だった者の希望が、この腕の中で死んでゆくのを見た夜でもあった。




『ディアは王子様と結婚するの。……………する筈だったのに』




何とかしてその心の傷を癒そうとしたところで悲し気にそう呟いた子供に虚を突かれ、言葉の意味を知って呆れ果てる。

おまけに、その男はお前を殺すぞと教えてやったが、彼女はそれでもいいと言うではないか。


こちらの求婚に応じておきながら他の者を心に住まわせたのかという怒りもあったが、ノインは、精霊の中でも最も古くから人間達と関わってきた一人だった。


ディアの眼差しに違和感を覚え、ふと、精霊の求婚が人間という種族からは理解され難いものであることを思い出した。



恐らくこの子供は、あれが精霊の王の一人の求婚だったのだとは思いもしなかったのだろう。

そして、ノインが目を離していた僅かな隙に、人間の王子に恋をしてしまったのだ。


そう言えばディルヴィエから、彼女がファーシタル王家の舞踏会に招かれていたと聞いていた事を思い出し小さな子供を抱えたまま低く呻くと、ディアは、途方に暮れたように涙に濡れた目を瞠る。




(あの舞踏会の夜に、彼女を家に帰したのは寛容さを示す為だった)



その人間はまだ小さな子供で、人間の子供は親から引き離されると弱ってしまうという。

多くの精霊達はそんな種族性を顧みないが、その結果、愛する者の心を壊してしまうことも多いのだった。



だからこそ、自分は利口に立ち回り、寛容さを以てこの子供を幸せにしてやろうと思ったのだ。

人間をよく知る自分であるからこそ、人間であることを尊重し、彼女の願う幸せを全て与えてやろうと。


そうすればきっと、彼女はこれからもあの輝くような微笑みを失わずにいるに違いない。

そう願った浅はかさこそが、長い長い時間の先に漸く選びとるべき者を見付けたノインの驕りであった。



また、その理由とは別に、ディアの魔術の所有値が低過ぎたという事情もある。


ゆっくりとこの手で作った食事を与えてゆき、時間をかけてその体を作り替えてやらなければ、この子供が精霊の国に留まれるのはせいぜいひと月くらいのものだ。


精霊の指輪を贈るのは、そこから更に時間を経て、彼女が大人になってからでいい。

まずは人間の国に返してやり、家族の庇護下でもう少し体が育つのを待ち、ゆっくりと作り替えてゆけばいいと考えあの手を離したのだ。




(だが、それがどうだろう)



誰かが自分を呼んでいる事には気付いていたのに、自分はどれだけの間、その切なる呼び声に背を向けていたことか。


あの小さな子供に名前を知らせていないことに気付き、だからこそ彼女は愛する者達を喪ったのだと理解することは、王の一人であるノインにとっては耐え難い屈辱と後悔でもあった。


所有値の低い体に負担をかけないように薄く薄く与えておいた守護がなければ、この子供は最初の一撃で死んでいただろう。




(……………俺は、守護を与えた人間が殺されかけていても、気付かずにいたのか)




そんな有様だからこそ、ちっぽけな人間一人の心すら失うのだろうか。





「……………知った事か」



それでも尚、我欲を捨てられずにそう呟き、泣いている小さな子供を見ている。


この年代の人間の子供のそれとは違う、ひび割れるような啜り泣きは、本人にも気付かせずに心が壊れてゆく音そのものだろう。

愛した者の健やかさが壊れて崩れ落ち、取り返しがつかなくなってゆくその姿に、胸が潰れるような思いがした。



(……………ああ、この人間は死ぬのだろう)




夜は多くの人間達が死ぬ場所でもあったので、ノインがそう理解するのは早かった。


ここにファーシタルという哀れな国が出来たその時にも、多くの者達が同じような目をして疲弊してゆき、ばたばたと死んでいった。


やっと見付けた唯一無二のものがそうして死んでゆく様を、自分は成す術もなく見守ってゆくしかないのだろうか。

死ぬ迄はせめてと手元に置こうとしても、この子供の所有値の低さでは、時間をかけなければそれすら叶わない。



であればどうするのか。




(であれば俺は、彼女に何をしてやれるのか)




最愛の者の命を繋ぐには、どうすればいいのだろう。

その可能性と方策を幾つも考えたが、残されたのは最も不愉快な可能性だけであった。




「……………本当にそれがお前の望みならば、王宮に行くといい」

「おうきゅう………?」

「……………俺が場を整えていておいてやる。王宮に行って、……………せいぜい殺されてこい」




まずは浸食魔術の得意なディルヴィエを呼び、騎士達の意識や記憶の一部を書き換えさせる。

その場の責任者であった騎士団長に眠らせたディアを預けて国宝のように大事に運べと命じると、眠っている小さな子供にせいぜい足掻いてみろと心の中で呟き、触れていた手を離した。




ディアが王宮で目を覚ます頃には、妖精たちの囁きを受けた国王と王妃や王子達が、彼女をこの国の王子の婚約者にしておくべきだと考えているだろう。


彼女が望んだ王子を与えるようにと魔術を敷いておいたので、ディアは、望んだものをすぐにその手にする筈だった。




(……………そうだ。生き延びてみせろ)




どれだけ高位の精霊にも、この世界を治める者達ですら、死んでしまった人間を生き返らせることは出来ない。

また、教会の祝福を受けた騎士達に殺された者達が、死者の日に亡霊として地上に戻ることもないだろう。



この子供が願ったことはもう何一つ叶えてやれはしないのだと思えば、その残された最後の願いを叶えてやることくらいしか、ノインには出来なかった。




精霊は、己を裏切るものを愛さず、己を選ばないものも愛さない。


それは、ノイン個人がという事ではなく、精霊そのものの変えようもない資質であった。

だからこそ、彼女を人間の王子にくれてやるとなれば、自分は漸く得られたこの心をいつか無くすだろう。


高位の精霊が伴侶を得られる事は少なく、一度見付けた相手を失った精霊が、相手を殺さずに正気のまま生き延びる事もあまりないと聞く。


贖罪代わりにこの子供を手放してやるという事はつまり、やっと見付けた唯一の者を永劫に手放し、それ故に生じる己の不利益を受け止めるという事も意味していた。




「御身の花嫁を、人間の王子に譲ってやるなど………。ましてやこの子供は、あなたとの約束を交わしておきながら、ほんの数ヶ月で破ったのでしょう。泣き叫んで嫌がろうと、囲い込んでしまえば宜しいのに。もし、御身にご不調が出たらどうなされるのですか」

「完全にくれてやる訳ではないさ。心を生かし、……この子供が生き延びる事が出来れば、……………そうだな。またいつか、あの夜の約束を果たしに来よう」




言いながら、もう二度と会う事はないと考えていた。



人間の命というものは、精霊にとっては瞬き程の時間である。

こう言っておけばディルヴィエは暫く誤魔化せるだろうし、ほんの少しだけ目を背けておけば、こんな人間の一生など簡単に通り過ぎて行ってしまうだろう。




その願いを無残に潰えさせた対価として、掛けたこの執着を引き剥がし、逃してやる事こそが最後の餞別であった。




だからどうか、生き延びてくれ。

その為に必要なものなら、何でも与えてやるから。

だからどうか、心から腐り落ちるようにその絶望に食い荒らされず、生きることの喜びを取り戻してくれ。




そうしてノインはあの日、唯一の愛する筈だった者への想いを切り捨て、やがては彼女を殺すであろう、彼女が求めた者の腕に手渡したのだった。






「ではここに、アストレ商会による仲介承認の下で契約が締結されましたので、今後のファーシタルは、そこに暮らす人間も含め、真夜中の王弟殿下の統括地となります」

「ああ。……………おい、この税金は何だ」

「こちらは、酒類の品質管理業務にかかる雑費になります」

「単価の設定がかなり高いが、ファーシタルであることが要因なのか?」

「ええ。通常の道具は使えませんので、魔術を多用しない道具を使用いたします。なお、御身の統括地に移行後、土地の魔術が回復する場所があれば、また運用の変更を提案させていただきましょう」

「では、十年ごとに見直し作業を設定してくれ。それから、こちらの作業料は俺への見積りに計上するな。この国の人間どもを殲滅するのは俺じゃない。そちらの扱いに紐づく補填金だろうが」



そう言って隣に座っている死の精霊に視線を向ければ、ツエヌは僅かに眉を顰めてはいたものの小さく頷いた。


銀混じりの灰色の髪に灰緑の瞳をしたこの死の精霊は、森の外周を数百年も歩き回っていたくらいなのだから、ファーシタルの人間を、一度とは言え全員殺せるだけで充分なのだろう。



「そのくらいの支払いであれば問題ない。王宮の人間達も私に委ねるのであれば、こちらの使用料も引き取って構わないのだが……………」

「そりゃ、あの魔術師の直系に近しいのは王家の方だからな」

「あの男の子孫達は、ジラスフィの者達をも殺す愚昧さだ。私が唯一許したのは、ジラスフィの娘の子孫だけだったのだが、それも、もう一人を残すばかりか………」

「過去の戒めが引き継がれず途切れることで、多くを失うのは人間の世の常ですね。今回の契約にあたり、調査員を派遣し色々と調べさせていただきましたが、夜の王へ対価を支払い国を作ることを許されたのは、あの魔術師の手柄になっているようですよ」



その言葉に、思わず隣に座ったツエヌと顔を見合わせてしまう。



「……………ほお、それは妙な話だな。俺は、あの人間との交渉に応じてやったつもりはないぞ」

「当然だ。あなたが許したのがあの男であれば、私は、ここに人間どもが国を作る事を許しはしなかった」

「そもそもあの男は、この土地を踏む迄もなく、お前がばらばらに引き裂いて殺しただろうが」

「ああ。妻子を得ながらもぬけぬけと私の愛する者に求婚したあの男を、この手で殺さずに許すことなど出来ようか」



よりにもよって、妻帯者でありながら死の精霊の想い人に求婚した愚かな魔術師は、その日の内に呪いをかけられずたずたに引き裂かれた。


このツエヌが、死の国迄の案内人である死の精霊であった事が災いし、その魂は死の国にも行けず、今も尚終わらない責苦の中にある。


愛する者を侮辱された死の精霊は、それを成した相手を生きて逃す程に寛容ではないし、である以上は、ファーシタルに繋がる物語に登場する余地もない。

この土地に追いやられて国を興したのは、その魔術師の残された親族達だった筈なのだ。




このツエヌは、魔術師本人を殺すだけでは収まりがつかず、その人間の一族の全てをこの土地に追いやった。


巻き込まれたノインとしてはいい迷惑であったし、自分の統括地に入り込んだ人間達は早々に排除してしまいたかったのだが、そうは出来なかった理由が一つだけある。


ファーシタルに追いやられた一族は、今はもう滅びたマリアダという人間の国で、飲めば昏倒するのが一般的という、味はいいものの強烈に強い酒を造る権利を得ていた。

だが、コルグレムという名前のその酒には各種属に熱烈な愛好家も意外に多く、それを作る事を許された人間は一氏族しかいない。 



(コルグレムを作れるのはファーシタルの民だけではないのだが、流通させる為だけの量を確保するには、やはり人間の作り手を失うのは手痛かった…………)




夜の系譜には、夜を彩るものとして美食の嗜好が強い。


その中でもノインは、食楽を司る者だ。

あれだけ銘の知られた酒を育む一つの血統を失わせるのは、自身の在り方にも関わる不利益であった。



(コルグレムは酒精の祝福が強過ぎる。ファーシタルのものも、その源流となる蔵元のものも、どちらにせよ俺自身は飲まないのだがな……………)



そう考えかけたところで、そんな食楽の王でも倦厭する強い酒に香辛料を混ぜ、よりにもよって顔面に投げつけた人間と再会した日のことを思い出した。


未だにあの瞬間の記憶に触れるとあまりの凄惨さに指先が震えるが、下位の者であれば命を落としてもおかしくないような酷いものを顔面で受け止めたのだから、そうなるのも仕方あるまい。



(だが、殺される訳にはいかなかったからという理由で、よくも人外者にあんなものをかけようと思ったな…………)




それは、何の為にかと問えば、ディアは復讐の為だと言う。


けれども、今も昔もノインを選ばなかった薄情な人間の、あの溌剌さが失われ、磨き抜かれた薄いナイフのように青白く煌めく魂の輝きに魅入られた。




誰かがあの子供の命を脅かしたと知ったのは、あの嵐の夜の十年後の事だ。



おかしな事に、瞬き程に流れてゆくはずの時間が異様に長く、ノインはその十年を指折り数えていたらしい。

異変を察して漸く、自分が彼女にかけた守護を取り戻しておらず、それどころか耳を澄ませて目を凝らし、変化はないかと常に振り返り続けていたことを思い知らされた。


魔術の希薄なファーシタルからでは異変をすぐに察する程のものは繋げていなかったが、時間を置いて、ディアの身にかけた守護がその弱変を知らせたのだ。



そうして訪れたファーシタルの王宮では、いっそうに魔術から遠ざかる心が、付与された妖精の呪いすら剥がしたものか、人間達が夢から覚めたかのようにディアを軽視し始めていた。


万が一彼女が異変を察し部屋から出るような事があれば、逃げ出さぬように足を潰せと命じられていた騎士を壊しながら、さて自分はどうするのだろうと考えていたあの日。



己の執着を断ち切れていなかった事に呆れて、ひとまずは手元に置こうかと思案する。

精霊の食事を与えて最初の侵食を始めれば、初めて食べ物を与えられたかのようにそれを貪り食うディアの姿に、なぜだか胸が苦しくなった。



(精霊との約束を反故にして、殺されずに済む人間は殆どいない。それが例え愛した女だろうと、自らの手で育てた子供であろうと、精霊はそうなれば相手を殺すものだ)



それでも見逃してやったというのに、どうしてこの子供は幸せになれないのだろう。

そしてなぜ、復讐の障害になるのであればこちらを殺してでも逃げ延びようという意思も見せながら、強欲にも契約ばかりは取り付けようと画策するものか。


恐ろしいなら、逃げればいいのだ。



「人間は、したたかで強欲な生き物ですからね」

「……………そうだろうな。この国の連中は、何の縁もない俺に救いを求めながら、対価として取り交わした約定の殆どを忘れるくらいだ」

「あの魔術師の縁者らしい傲慢さではないか。そもそも、人間達は我々を何だと思っているものか。交わした約定には魔術が伴い、それを破棄すれば対価を取られるのは必定であろう。そんな事も理解出来ないから、人間はすぐに死ぬのだ」

「おや、死を齎す終焉の系譜の方が仰られますと、説得力がありますね」




ファーシタルという人間の国で、最後まで約定の対価を支払い続けていたのは、本来ならこの土地に留まる必要のなかったジラスフィだけだった。



ノインが課した試練と呼ばれている約定は、年に一度の夜の精霊の夜会に参じる事と、酒の品質を安定させる事、そして森の管理である。


ジラスフィの一族の者達には、欠かさずに約定が果たされる限りは、年に一度のその夜だけ、本来の魔術所有値を取り戻せるという祝福を授けてあり、彼らはその祝福を使って真夜中の王宮を訪れていた。



(誓約が破られた時には、コルグレムのレシピは一度こちらが差し押さえる事が出来た。この国の人間達など、早々に殺して追い出してしまえたのだがな…………)



しかしノインは、ジラスフィを粛清されてその約定が断たれた後は、敢えてこの土地に近付かないようにしていたので、こうして対処が後手になってしまった。



とは言え、だからこそ最も必要な時に、このカードが切れたのだろう。

あの人間達がディアを殺そうとしたその時こそ、ファーシタルと夜の国を繋ぐ最後の約定の糸が絶たれる時。



溜め込まれた負債の支払いとして人間達から国を取り上げると言えば、ここにいる商会の代表も、死の精霊も、己の取り分を主張はしてもそれを止める事は出来ない。




「思えば、一族の長の無謀な求婚に眉を顰め、それを止めようとして頬を打たれたのが、分家の娘であるジラスフィであった。……………その血を引く娘であれば、あなたの伴侶であっても致し方あるまい」

「ファーシタルの人間は一人も許さないと、俺があいつを伴侶にすると告げた途端に狂乱しかけたのはお前だぞ。腕を引き千切られたのは数百年ぶりだ……………」

「仕方あるまい。その時の詫びも兼ねて、ジラスフィの娘であれば、成婚の際に祝福の一つも贈ってやろう」

「いいか、絶対にやめろ。そもそも、俺がわざわざお前にその報告をしに行ったのは、ファーシタル全域にかけられた死の呪いが、地味にいい仕事をするからだ」




そう。


死の系譜の齎す縁は、それが祝福であれ呪いであれ、終わりに紐づいてしまう。

彼等は自分達が愛するものさえ殺してしまう生き物で、それは、何とも思わない程度の者達にすら容易く影響した。



ファーシタルの中で唯一の恩赦を与えられていたジラスフィですら、因果の顛末としては皆殺しにされる末路を辿った。

それ程までに、この系譜の持つ魔術は厄介なのだ。



だからこそノインは、明日に迫る舞踏会の夜の前まで、何としてでもディアを死の精霊の呪いの因果から引き上げておく必要があった。



だが、それはつまり、彼等がディアを殺さなければ、ノインはこのような形での対価の取り立てを許されないということでもある。


禁忌に触れた災いとして国を滅ぼすだけであれば誰も何も言わないだろうが、生かして残す以上は得られる利益を厳しく監視される。

あの国の人間達が、祭祀の一族の最後の一人を殺すという行為は、その分かりやすい顛末として必要なのだ。



(だからこそ、結果として死なずに済むという筋書きをつけておいた。………死の精霊の因果に引き寄せられては堪らないからな)



魔術は残忍な程に繊細で気難しく、それはノインであれ、夜を治める真夜中の精霊王であれ、その理に逆らう事は出来ない。



ツエヌが望まずとも、その身に宿る死の道行きの資質が、声なき声として死を命じるような事もあり得るのだ。



(そうだ。だからこそ俺達は、魔術の約定を尊び、自らの立場でもそれを損なわぬように振る舞う。…………魔術というものの理は、誰一人として指先一つ動かさぬ時にすら、その帳尻を合わせてくるからだ)



魔術を知る長命高位の人外者達ほどに用心深くそれを順守し、無知な人間達程にそれを軽視する。


例えば、ツエヌが伴侶に求婚した人間の魔術師を赦さないのは精霊の種属性でもあるが、報復を成さずに見過ごせば、魔術の理が、ツエヌはそれを許容したと判断しかねないからこそ許す訳にはいかないのだ。




“………いいですか、誤解だったんですよ!あの子供は、あなたをずっと望んでいた。けれども、あなたも、あなた以外の者達も、彼女が慕っているのはあの無能な王子だと信じてしまった。それは、あの日にジラスフィの屋敷にいた私にも咎がありますが、………我々は誰一人として、あの小さな人間の想いに気付いてやれていなかったんです…………”




切羽詰まった表情でそう伝えに来た、ディルヴィエの姿を思い出し、椅子の背に体を預けてこの閉ざされた空間の天窓を仰ぎ、深く深く息を吐く。



(ひと柱の夜を司る夜の王の一人でありながら、俺はやはり、人間一人の心すら掴めない、……………か)



何とも愚かで惨めで、ああ、だからこそやはり面白い。



たった一人の人間にこの全てをくれてやると決めたのは、半端な守護を切り上げ、本気で全てを明け渡してもいいと思ったのは、やはりあの人間こそが唯一と決めたつい最近のこと。



再会して契約を交わして暫くの間はまだ、手を伸ばすのは伴侶として見定めた人間を手放せないからでしかなく、執愛を認めはしても、どこか執着に近しいものの嵩の方が高かった。



ノインとて、精霊である。



やはり精霊は自分に応えない者は本来許さない種族であるし、自分を望まない者に与えられるとすれば、そのくらいが上限だった。




(……………その手を伸ばして望まなければ、それだけの覚悟を示さなければ、もう一度この身をくれてやるべきか、躊躇いもしたが………)


 


それでもと望んだ先で、ディアがあの嵐の夜にもまだこの身を望んでいたと知り、膝を折ってこの身を捧げてやると決められた事はこの上ない幸運でもあった。




「それにしても、夜の食楽の王も豪勢なことだ。花嫁への贈り物に、この国を買い取られるとは」

「これは俺なりのあいつへの慰謝料だな。それと、国などという曖昧なものに、心を残されるのもうんざりだからな。人間は強欲だが、同時に繊細な生き物だ。あいつは国を滅ぼしても後悔はしないだろうが、もしもという余地を残しておくつもりはない」



そう呟き、立ち上がろうとした時の事だった。

不意に、温度のない風が揺れ、隣の死の精霊が眉を寄せて不機嫌そうな面持ちになる。



「……………やはり、ファーシタルの王族は私が殺したい。契約内容を見直そう」

「ああくそっ、お前は何なんだ?!五回目にして、やっと契約書を取り交わしたところだろうが!これ以上の交渉の余地はない。いいか、あの王族どもは俺の獲物だからな!」

「見逃すと話していた、第二王子とその妻子がいるだろう。そう言えば第二王女もそちら側だったな」

「それは国の管理用に残す駒だと話が付いただろうが。どうしてもと言うのなら、第三王子をくれてやる。後はアストレ商会と話をしろ」

「おや、困りましたね。あちらの王子は、商会との交渉の要として存分に働いていただくつもりなのですが。……とは言え、仕事が出来れば構いませんのである程度は譲歩して差し上げられますよ。その代わり、使用料をいただきましょう」

「魔物は強欲だな…………」

「おや、より多くの取り分をと望まれたのはどちらでしょう?」




このままこの場にいてもいい事などないので、ノインはテーブルの上の自分の分の契約書を掴むと、素早く立ち上がり転移を踏んだ。



辛うじてまだ、リベルフィリアの時間の中で収拾がついたようで、ふうっと重たい息を一つ吐く。

まだアストレ商会とツエヌの契約が完了していないようだが、この契約があれば、出来る事はより多くなったと言えよう。



あの部屋に帰ったら大事な子供に夜食でも作ってやろうかと考え、夜の食楽を司る王は唇の端を持ち上げた。




それでも彼女は、明日の復讐こそをと優先し、最後の夜だと考えながらもこの手を振り払うかもしれない。

だが、人間が身勝手な生き物であるように、精霊も身勝手だ。



心置きなくそれを唯一と決めた以上はもう、好きなようにさせて貰うばかりである。







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