狂騒曲の終演
その日も、いつも通りケイの姿は陽の光が届くテラスの端にあった。
おやつのミルクをお腹一杯に飲み終わり、目を細めて満足げに微睡む至福の時間。
「ケイを捨てる?!」
いつも優しく穏やかなご主人様らしくない、ヒステリックな声がいきなり飛び込んできて、ケイの両の耳がピンと立った。
開いた窓から室内に目をやると、ご主人様と、きっちりとした身なりの若い男が言い争っていた。
「分かってくれ。僕は猫が嫌いなんだ!」
「で……でも、ケイはずっと一緒だったのよ!」
ケイは身を起こしたものの、その場から動けず二人のやりとりをただ聞いていた。
緑の瞳には動揺の色が隠せない。
「君は、猫と婚約者の僕と、どちらが大切なんだ?!」
議論に業を煮やしたのか、男が最後の選択を迫った。
ケイもご主人様に必死の眼差しを向けたが、彼女は向かい合う男の顔しか見ていない。
重い沈黙の後、
「……分かったわ」
ご主人様の顔が俯いた。
「ケイは明日、森に置いてくる」
ケイの背中が、まるで氷の固まりが滑り落ちたように冷え切った。
その後の二人の甘い会話は、もうケイの耳には入らない。
最後の言葉だけが、頭の中をいつまでも早鐘のように鳴っていた。
満天の星空と満月が、互いに競い合うように光り輝いていた。
その光を背中に受けながら、ケイは顔を俯けて森へ向かってとぼとぼ歩いていた。
普段の軽やかな足取りは影もなく、鉛でも背負うかの様にその歩みは重たかった。
そしてその姿も、今は無力な猫のまま。
村から姿が見えなくなるところまで歩き続けた、臥せたままのケイの目に、磨き込まれた黒い靴が映った。
「どうした?ケイ。今日は猫のままで」
靴の持ち主はいつもの通り夜色のコートをまとい、ケイを見下ろしていた。
その顔は、不敵な笑いと微かな戸惑いを含んでいた。
夜に会う時に、猫の姿のままのケイは初めて見たからだ。
そして、いつもの様な弾ける元気が感じられなかったから。
ケイはちょっとだけ顔を上げてカイルを見たが、すぐに目を伏せ、その脇をすり抜けて行ってしまった。
「……?」
さすがのカイルも、そんな様子に不安を抱いた。
のろのろと歩み去ろうとするケイの背に、すいと指先を向ける。
「フギャアアアアアっ!!」
蒼白い炎がケイの小さな体を包み込んだ。
魔法で創り出されたその炎は一瞬で消えたが、それでもノーダメージとはいかない。熱さは本物だ。
「何すんのよ!!」
激怒して振り向いたケイの姿は瞬く間にいつものキャットウーマンへと変わり、カイルに飛びかかってきた。
「――で、結局どうしたんだよ」
いつもの通り全身に引っ掻き傷のオンパレードを受けた後、カイルは気になっていた疑問を投げかけた。
まだ怒りの残滓で興奮していたケイの瞳が、さっと暗い色に染められる。
元気に輝いていた顔には似合わない憂いの表情を浮かべ、またもカイルに背を向けた。
「お……おい、ケイ?」
無言で歩み去ろうとするケイの背中にカイルの慌てた声が当たったが、ケイの歩みは止まらない。
「お前の主人が襲われてもいいのか?!」
その言葉に、ぴくんとケイの肩が揺れた。
歩みは止まったものの、彫像のように動かなくなってしまった。
そして、ぽつりと一言。
「いいよ…。もう、どうだって……」
流石に鈍いカイルでもケイに何かあったことくらいは確信できた。
「ケイ!?」
黒い腕を伸ばして細い肩を掴んだ。
「離せ!」
振り払おうにも、男の、しかも吸血鬼の力には敵わない。
強引に振り向かせたケイの大きな瞳からは、きらきらした涙が零れ落ちた。
それは滑らかな頬を伝って、カイルの手に弾けた。
「嫌いだ……。人間なんて」
顔を俯けたまま、喉の奥から絞り出す別人のようなケイの声。
「昔――雨が冷たくて、野良猫だったあたしはお腹も減って、寒くて……死にかけてた。そんなあたしを拾ってくれた」
カイルに掴まれたままの肩が微かに震えているのは、寒さのせいじゃない。
「人間なんて嫌いだったけど、ご主人様だけは別だと思ってた…」
暖かい部屋 暖かい食事 暖かい言葉 暖かい温もり
全てはまやかし。
全ては人間が与える一時の気まぐれに過ぎなかった。
「人間なんてみんな同じね。どんなに可愛がったって、要らなくなれば簡単に捨てる……」
それっきり、二人は長い間同じ姿勢のまま動かなかった。
「カイルぅ。お茶入れたよ~♪」
明るい声と共に、レースいっぱいの可愛いエプロンを付けたケイがいそいそと居間にやってきた。
手には、ティーカップが二つ乗ったお盆。
凝った装飾のカップからは、湯気と共に異様な臭気が漂っていた。
「……もしかして、これ、マタタビ入り?」
受け取ったカイルの引きつった笑いに気付かないのか、ケイは無邪気にコクコクと頷いた。
顔をしかめつつ一口すすったラルクが即行でコメントした。
「不味い」
その言葉で、ケイはカイルの胸で泣き出した。
「え~ん。お義兄様が苛める~」
「はいはい。よしよし」
猫じゃらしで慰めるカイルの方をもはや呆れて見ようともせず、ラルクはソファの背に寄りかかりながら伸びをした。
(猫と吸血鬼がこうなるとは…ねぇ)
双方とも夜行性だから生活の問題はないのだろうが。
ラルクは胸に手を当てた。
もう傷の痛みも消えた。いつまでもここでこの二人と遊んでいるのも馬鹿らしくなってきた事だし、そろそろ潮時だろう。
「これにて今宵の狂騒曲も終演なり……と」
最後に、ラルクには一つだけ気になることがあった。
(…猫と吸血鬼か。子供が楽しみだな)
扉の前で振り返り、まだじゃれあっている二人を眺めやる。
(猫にコウモリの翼が生えたようなのが生まれるのかも、な)
そして、ドアは音もなく静かに閉じた。
ペン入れ・トーンまでやった完成漫画原稿がある作品。
最初に漫画で描いて、それを小説化してみました。
どうして吸血鬼と猫娘を結びつけたかは忘れましたが、このタイトル通り、夜に生きる魔物同士の男女のドタバタ喜劇を作りたかったのです。
カイルを創った後、同じ吸血鬼物と言うことでラルクをゲスト出演させたくなり、しかも彼にお笑いをさせられるのはこんな時しかない!とばかりに「それなら彼の兄と言うことにしてしまえ」ってことで、吸血鬼兄弟の絆が生まれました。
ただ、ラルクの素性は謎めいた存在にしておきたかったので、異母兄弟という、半分だけの血の繋がりにしましたけどね。
当時の落描きを見てみると、突然弟を持たされ、しかもギャグキャラに貶められて非常に嫌そうなラルクのイラストがいっぱいありますw
キャラクターの設定が定まっていない初期作品のため、ラルクの言動が一部変です。
自分のことを「俺」と言ったり、「…でさ~」などなど、本編からは考えられないようなおちゃらけた話し方が、今見るとものすごく違和感。
でもまぁ当時はそんなノリだったのだろうと言う事でそこのところは敢えて今回も訂正しませんでした。
本編とはあまりにキャラ違うので、自サイトでこの話を公開した時は外伝という形で、パラレルワールドみたいなもんと開き直ってましたw
カイルもケイも、この話のみの登場の予定でした。
後は二人仲むつまじく、ひっそりと暮らしていく…筈だったのですが、
そうはいかない様ですw
また次回作でお会い出来ると嬉しいです。
それでは。