脱走
キリマさんに閉じ込められて一日目。閉じ込めている割に凄く優しく接してくれる。料理は美味いし、部屋は綺麗だし。閉じ込められていた場所は地下室らしく、少し薄暗かった。今は足枷を外してもらえないものの、食事等の時は普通の部屋に居る。窓から射し込む日光も浴びられる。
「クレア、朝ごはんですよ」
カチャカチャと音を立てて皿が並べられる。そこには美味そうな料理ごいくつか並べられていた。俺は大人しく椅子に座る。無言で食べようとすると彼女に怒られる。
「…いただきますは?」
厳しい目付きで言うキリマさんは少し怖かった。
「い…いただきます…」
ぱんと両手を合わせ呟きちらりと彼女を見てみる。
「はい、どうぞ召し上がれ」
小さく笑み彼女は向かい側の椅子に座る。
俺が食べているとキリマさんは何だか嬉しそうに笑みを零しながら食べていた。人が食べるのを見て楽しいのだろうか。
「な…何だよ」
食べるのを中断してキリマさんを睨む。
「他人が自分の家でものを食べているって、幸せなんですね。ふふ」
クスクスと嬉しそうに笑いながら言う彼女は獰猛な狼には見えなかった。不意にそんなことを言うものだから、ドキリと心臓が跳ねた。
狼なのに優しくて なのに少し怖くて。いつ食われるか分からないのに油断してしまっている気がする。油断してはいけない。相手は狼だ。雌だとバレてしまっているが、狼は雄雌関係なく食すのだろうか?
まだ死にたくない。迷子になった挙げ句、狼に監禁されて。
キリマさんは毎日どこかへ必ず出掛ける。その隙に足枷をどうにか外して逃げてしまおう。そうすれば食われずに済む。
「では、行って来ますね」
キリマさんは俺の頭をくしゃっと撫で回し家を出て行った。
俺は彼女が出て行くと急いで足枷を外すことに勤しんだ。案外簡単に外れて、窓の隙間から外に出た。
裸足な為、足の裏を擦りむいてしまった。草木を掻き分けながら一生懸命走る。腕や足は傷だらけだ。痛いのを我慢しながら走るも、草木の中から出られない。
逃げながらキリマさんの顔が浮かぶ。
“皆私の周りからいなくなってしまう”
彼女のその言葉が脳裏を過った。思わず俺は足を止めた。何をしているんだ。早く逃げないと。そう思いながら足を動かした。
草木を掻き分けやっと外に出た。朝なのに薄暗い路地裏。何でこんな場所に出たのか。キリマさんが着ろと言った服がボロボロだ。薄いピンクの服。俺が普段着ないような服だ。こんなレースがフリフリの服、着たことがない。
身体が軋む。全身が痛む。傷だらけだ。
「おっ、可愛い兎 発見ー♪」
ばっと声の主を見る。ハイエナだ。
「え、何ー?めっちゃ可愛いじゃん」
数匹のハイエナ。皆雄のハイエナだ。いかにも柄が悪そうな奴等。
「何だお前たち」
キッと睨み付け威嚇する。
「威嚇してるのかなぁ?そんな顔も可愛いねー」
へらへらと笑うハイエナの一匹。
「群れることしか出来ない奴等と口を聞く義理はない。失せろ」
ふっと鼻で笑い言ってみる。
「いい加減にしといた方がいいよ、兎ちゃん」
ぐいっと腕を引っ張られ勢い良く壁に押し付けられる。囲まれてしまった。
腕に力が入らない。身体が痛い。怖い。
ああ、こんなことならあの場所から逃げなければ良かった。キリマさんに捕らわれている方が良かった。
ズダンッ…
思いを巡らせていると物音が聞こえた。何かが叩き付けられるような音。音の方を見てみるとフードを被った人が立っていた。顔が見えないから誰か分からない。黒っぽい茶髪が見えている。
「その子から手を離しなさい」
低めの女の人の声。何だか知っている声だ。
「はあ?何だよお前……」
言った瞬間、俺の腕を掴んでいる手が離された。
急いで逃げようとするハイエナたちを素早く叩きのめして行くその人。残るは俺の腕を掴んでいたハイエナのみ。
「俺は何もしてねぇっ」
焦りながら苦笑いをするハイエナ。
「許せませんね」
チラリと髪から覗く銀色の瞳は憎しみに満ちている。その人はこちらに近付きハイエナの顔面を掴み壁に叩き付けた。
頭が壁にめり込んでハイエナは気を失ったようだ。そして尚も殴り続ける。殴る度に血が飛び散る。
「キリマ、さん…やめて…」
ふらふらしながらその人に近付く。痛む身体を引きずり歩いた。
「クレア!」
ハイエナから離れ俺に走り寄って来る彼女。
温かい身体に包まれる。何でそんな優しくするんだ。俺は逃げたんだぞ。優しさが苦しくて 痛い。
「クレア…」
ぎゅっとキツく抱き締められる。それはもう、痛いくらいに。押し殺したような声で名を呼ばれる。
「キリマさん、ごめんなさい」
薄れる意識の中、彼女に謝った。
「いいんです…貴方が無事なら」
逃げようとした俺を責めもせずに安否を確認する。
身体中が痛くて、傷だらけで血が出てて。
「キリマさ…っん」
上を向いた瞬間、柔らかいものが唇に触れた。キリマさんの唇が重なっていた。触れるだけの 優しいキス。
見上げると泣きそうな顔の彼女は俺の頬を撫でた。
「可愛い顔に傷が付いてしまいましたね。身体もこんな傷だらけで…」
腕や脚を見据えながらキリマさんは言い俺を抱き上げた。そのまま裏道のような場所へ入って行く。
暫くしてキリマさんの家に着いた。降ろせと行っても降ろしてくれずそのまま家のベッドへ降ろされた。消毒をして包帯を巻いてくれる。服も着替えさせられた。黒いフリフリの洋服。キリマさんはこういう服が好きなのだろうか。
「…で、どうして逃げたんです?」
包帯でぐるぐる巻きの腕を軽く握り尋ねるキリマさん。
「食われたくなかったから」
ふいと目を反らし言う。でも 事実だ。
「食べませんよ。言ったでしょう?こんな可愛い兎は食べないと。…食べることなんて出来ませんよ」
切なげな声色で彼女は言った。
「…うん、ごめんなさい…」
握られた手を握り返す。
「もう逃げないで下さい。失いたくないんです」
突然 抱き締められ、彼女の身体は震えていた。
「逃げないから」
抱き締め返してボサボサの髪を撫でる。
「クレア…好きです」
身体を離し真っ直ぐな目が向けられた。思わず恥ずかしくなって顔を背ける。
顔が火照る。キリマさんが余りに真っ直ぐだから。どこを見ていいのか分からない。心臓が煩いくらいに鳴り響いている。
「その反応はクレアも私を好きと解釈して良いのでしょうか?」
手の甲にキスをし首を傾げるキリマさん。
「嫌いじゃないけど…そういうんじゃない」
多分 恋愛対象として好きな訳じゃない、はず。ドキドキしたりはするけど。
「…そうですか。まあ、いいです」
悲しげに小さく笑みつつ彼女は俺の身体を抱き寄せた。煩い心臓の音が聞こえないか心配だ。
「逃げないけど、地下室に閉じ込めるのはやめて。せめて家中歩き回りたい」
ぐいっと身体を引き離し要求を突き付けた。
「分かりました。長い鎖にしますね」
にこにことそう言うキリマさん。いや、そういうことでなく…となかなか言い出せない。
早速どこからともなく足枷を出して来たキリマさん。凄く長い鎖で、これなら家中歩き回れるだろう。一体どこに繋がっているのやら。
「なあ、何で繋いでおく必要があるんだよ」
足枷に視線を落とし尋ねてみる。
「貴方が逃げてしまうからですよ」
立ち上がった彼女は俺を見据え言う。さすがに言い返せない。
「俺はっ…」
彼女に喋りかけようとして唇にトンと指が置かれる。
「ほら、俺なんて言わずせめて私と言いなさい。さしずめ、雌だとバレると襲われる危険が増すからでしょう?」
不意に図星を突かれてしまう。確かに俺は男らしく振る舞えと言われて育ってきた。
「わ、たし…」
今更そんな風に言うのは何だか少し恥ずかしい。
「うん、やっぱりその方が可愛いです」
言われてぼっと火が付いたかのように顔が熱くなる。
「あ、でも外では俺か僕と言って下さいね。輩が寄って来ますから」
優しい手つきで頬が撫でられる。優しい手。
そういえば今思い出したが、何故さっきキスをされたんだろう。嫌、じゃなかったけど 何でだ?
「キリマさん、何でさっきキスしたの?」
…なんて聞けない。恥ずかしくて。理由なんて必要ないのかな。でも理由なくキスなんてしないよな。
「クレア、クレアは私が好きですか?」
悶々と考えていると顔を覗き込まれた。彼女の髪がさらりと揺れる。
「嫌いじゃ…ない」
目を反らしつつ答えた。
「どうしても好きだとは言ってくれませんね」
少し寂しそうに笑っても彼女は言う。
好きと答えたらどうなるんだろう。食われる心配はないようだが、どうやらキリマさんは私を恋愛対象として見ているようだ。同姓同士なのに。いや、変じゃないとは思うが私はそういうことに関しては疎い。実際、好きと言われてもどう対応していいのか分からない。
ただ一つ分かること。それはキリマさんが私に惚れているということだ。さっきも私が襲われそうになっている時、ハイエナを殺さんばかりの勢いで倒していた。殺気立って私も彼女を怖いと思った。
狼は基本 他の動物たちに恐れられている。血気盛んで見境なく襲う。弱肉強食の世界には仕方ないことなのだ。狼は捕らえてすぐ食らう。そんなものだと教えられていたから、キリマさんのことが怖かった。今もまだ少し怖いけど。
捕らえられたものの、まだ食われていない。食べる気はないと彼女は言うが本当はどうなんだろう。やっぱり獲物でしかないのかな。そう考えると胸が痛んだ。
「クレア、どうかしましたか?」
どこかまだ痛みますか?とキリマさん。
「なっ、何でもない」
ばっと顔を背け立ち上がった。
どこへ行くでもなく窓の傍に寄りかかり外を眺めた。ぼんやりと空を見上げる。ふわっと身体が温かいものに包まれる。キリマさんの匂い。温かい身体。どうやら後ろから抱き締められているみたいだ。キリマさんの体温は心地良い。
少しこの人を信用してみることにした。キリマさんは私を食わない。大丈夫。
「もう逃げないから」
そう言って彼女の手に触れた。