一話「噂」
「トーマは、異世界に帰ったのか」
「うん」
「言いたいことは、伝えられたか」
「うん」
「一個、貸しだからな」
「ありがとう」
◆
授業の合間の10分休憩に読み始めたライトノベルがあり得ないほど面白くて、放課後になった後も読みふけってしまった。物音がしたので、その本から視線を外すと、いつのまにか教室に夕陽が差していた。顔を向けると、クラスメイトの佐藤廻が教室の扉を開けて入ってきたところだった。
「こんばんは」と、あまり教室では耳にしない挨拶。
彼女は、透き通るような長髪をサラリと靡かせながら、背筋を伸ばして教室に入って来る。
「きみのちょ?」
まさに、僕が読んでいた青春ラブコメ系のライトノベル「君のチョコを食べたい」の略称を、佐藤は言い当てる。
「よく、わかったね」
表紙を広げていたのならともかく、僕は本を開いたままだ。佐藤のいる位置から、「きみのちょ」に関する情報が目に入るとは思えない。
「ほら、この台詞」
本文を覗き込みながら、佐藤は言う。
「『なにそれ、ウケる』……ここの台詞、すごく印象的だったから」
「そんな訳ないだろ」
流石に、ギャルが息をするように吐くような台詞が印象に残る訳がなかったので、思わず強めに突っ込んでしまう。佐藤とはそんなに喋ったことがないのに。
「ふふ、嘘だよ。ほら、楠見くん、10分休憩の時にも読んでいたでしょ。その時にチラッと、表紙が見えたの」
「あぁ、なるほど」
「その本、面白い?」
「お、おう」
「そっか。機会があったら、読んでみるね」
佐藤のあからさまな社交辞令に対しても、一度突っ込んでしまったノリでつっかかりたくなったが、やめておこう。ちょっと厄介なオタクになってしまいそうだ。
本から視線を逸らさないフリをして、チラと佐藤の方を見る。机の上や中にあるものを片付けている。今日は、いつも引き連れているクラスメイトとは一緒じゃないらしい。
誰ともつるんでいない佐藤を見るのは、結構珍しい気がする。
佐藤廻。
僕が所属するクラスのカーストのトップに君臨する、優等生。優等生キャラは普段、運動部系(一部を除く)のグループの一つ下あたりに位置していることが多い。
でも、佐藤はそんじょそこらの優等生とは一線を画している。あり得ないレベルの人当たりの良さで、いつもキラキラしている人たちの輪の中にいる。
そんな特異なキャラを獲得しているなぁと、僕はなんとなく感じている。だからこそ、そんな佐藤が一人でいることが不思議――悪く言えば、不自然だったのだ。
「ねぇ、楠見くん」
そのまま帰ってしまうのかな、と思っていた僕に、佐藤は話しかける。
「楠見くんって、こんな噂を聞いたことある?」
「噂?」
「そう、噂。学校の七不思議的な、怪談」
「怪談」
「別館三階の踊り場に、名前と願い事を記した紙を閉じて置いておくとね」
「うん」
「その人の願い事が叶うんだって。知ってた?」
「うーん」
「じゃあ、こういう都市伝説的なものって、信じる?」
「うーーーん」
正直、荒唐無稽な話だとは思うけど。
佐藤が、意外とそういうのを信じるタイプだったらまずいから、強いコメントは控えておこうか。
「よく、分からないかな」
「そっか」佐藤は苦笑する。「そうだよね」
読書の途中にごめんね。と佐藤は最後に付け加えて、教室を出て行ってしまった。
本に視線を戻すと、太陽が別館に重なって、暗くなってよく字が読めない。
少しだけ悩んでから、本を鞄にしまって、僕も教室を出ることにした。




