第34話 白亜の迷宮
アウグスティアを望む丘陵に、統合軍の野戦司令部が設営された。
賢は望遠鏡越しに、白い石造りの都市を見た。
大聖堂を中心に、同心円状に広がる街並み。
石畳の路地が幾重にも入り組み、三階建て以上の建物が密集していた。
人口、推定40万。
この大陸最大級の宗教都市が、目の前に横たわっていた。
「フィリップ殿からの情報を整理しました」
ハンスが報告した。
「シーヴィル連合王国軍の残存兵力、ほぼ全てがアウグスティアに集結しています。推定7万から8万。加えて」
「加えて」
「大司教庁が死守命令を出しています」
ハンスは続けた。
「敵前逃亡、命令違反者は、聖騎士団と魔法兵によってその場で処刑される。加えて、市民の一部が民兵として緊急徴兵されています」
「民兵の規模は」
「不明です。数千から、場合によっては万単位の可能性があります」
賢は望遠鏡を下ろした。
「市街地の構造は」
「フィリップ殿の情報では、外周区画から中央の大聖堂に向かって、防御が段階的に強化されています」
ハンスは地図を広げた。
「一部の区画では、既に焦土戦術が行われているとの報告があります。橋を落とし、家屋を焼き、進撃路を塞ぐ」
「民間人の避難は」
「進んでいません。むしろ大司教庁は、民の存在そのものを盾として利用しているように見えます」
グスタフが地図を睨んだ。
「40万人の街だ」
グスタフは低く言った。
「民兵と市民の区別がつかない。これまでの戦争とは、根本的に違う」
「分かっています」
賢は言った。
「だからこそ、慎重に進めます。民間人への被害を最小限に抑える。それを今回の作戦の第一原則とします」
夜明けとともに、統合軍が動いた。
皇国軍12個師団、デシャント・ロンテール・グリランジュの三国軍2万1千、そして賢の特殊部隊、1個旅団の全戦力。
総勢15万を超える大軍が、アウグスティアの外周に向かって前進した。
まず特殊航空隊のF-22とF/A-18が、上空の制圧を確認した。
シーヴィル側に有効な対空戦力はなく、制空権は即座に確立された。
続いて皇国空軍が偵察を行い、外周区画の防御陣地の位置を特定した。
砲兵が支援射撃を開始した。
しかし今回の砲撃は、これまでの野戦とは規模が違った。
「市街地への無差別な砲撃はしません」
賢は砲兵指揮官に命じた。
「確認された軍事目標のみを狙います。密集した住宅地区への面制圧射撃は行わない」
「それでは、進撃速度が落ちます」
指揮官が言った。
「それでも構いません」
地上部隊が外周区画に突入した。
最初の抵抗は、想定より激しかった。
石造りの建物の窓という窓から、弓矢と魔法が飛んできた。
狭い路地は戦車の展開を阻み、機関銃の射線も限られていた。
これまでの野戦で圧倒的な優位を築いてきた技術差が、市街地という迷路の中では、その効力を大きく削がれていた。
ルーカスの分隊は、外周区画の一角で立ち往生していた。
三階建ての建物が両側に迫る狭い路地で、前方の建物から矢が飛んできていた。
「二階の窓、右から二番目!」
仲間が叫んだ。
ルーカスは銃口を向けた。
しかし引き金にかけた指が、一瞬止まった。
窓の奥に、動く影があった。
武器を持っているのか、それとも子供を抱えた住民が逃げ惑っているのか、判別できなかった。
「撃てないのか!」
「分からない、民間人かもしれない」
その躊躇いの間に、別の窓から矢が飛んできた。
隣の兵士の肩を貫いた。
「くそっ!」
分隊長が叫んだ。
「威嚇射撃! 建物内の全員に退避を呼びかけろ!」
拡声の魔道具で警告が流された。
しかし路地の喧騒の中、どれだけの人間に届いたか分からなかった。
結局、建物の中から複数の弓兵が飛び出してきた。
粗末な鎧を着た、明らかに正規兵ではない者たちだった。
「民兵だ!」
短い銃撃戦の末、制圧した。
しかし建物の中を確認すると、弓を構えていなかった老人と子供が、部屋の隅で震えていた。
ルーカスはその光景を見て、しばらく動けなかった。
「……今の判断、間違ってなかったよな」
隣の兵士が呟いた。
ルーカスは答えられなかった。
肩を撃たれた仲間が、担架で運ばれていった。
シーヴィル軍の若い兵士、ロランは、16歳だった。
徴募されて三ヶ月。
剣も満足に振れないまま、外周区画の防衛陣地に配置されていた。
皇国軍の砲撃が始まった時、ロランは恐怖で動けなくなった。
仲間が次々と倒れていく中、気づけば陣地を離れて路地の奥へと走っていた。
「逃げるな!」
背後から声がした。
振り返ると、聖騎士の紋章をつけた男が、剣を抜いて立っていた。
「陛下の名において、死守命令が出ている」
聖騎士は言った。
「持ち場を離れた者は、敵に通じたと見なす」
「ち、違います、私は」
ロランは震えながら言った。
「ただ、怖くて」
「恐怖は言い訳にならない」
聖騎士が剣を振り下ろした。
ロランは何かを言おうとしたが、言葉にする前に血が吹き出した。
路地に、静寂が戻った。
聖騎士は剣を鞘に収め、他の兵士たちに向かって言った。
「持ち場に戻れ。逃げる者は、これと同じ末路を辿る」
残された兵士たちは、震えながら頷いた。
誰も、それ以上何も言わなかった。
その様子を、離れた場所から皇国軍の斥候が確認していた。
報告が、賢の元に上がった。
「自軍による処刑が、複数の場所で確認されています」
ハンスが言った。
「敵前逃亡者、命令違反者への見せしめのようです」
賢はその報告を聞いた。
「……向こうは、退路を自ら断っている」
賢は静かに言った。
「投降する選択肢を、大司教庁が奪っている」
「対応は」
「投降勧告を、より積極的に行います。逃げ場を作れば、それだけ抵抗が減ります」
特殊部隊は、市街地戦の訓練を積んでいたとはいえ、想定を超える困難に直面していた。
ヴォルクとエルナの班は、中央区画に向かって進んでいた。
「妙な匂いがする」
ヴォルクが立ち止まった。
「金属と、油。罠の匂いだ」
「どこに」
「あの瓦礫の下」
班長が慎重に接近を命じた。
爆発物処理班が確認すると、崩れた家屋の瓦礫に、魔力を仕込んだ爆裂符が隠されていた。踏めば爆発する仕掛けだった。
「解除完了」
「先に進もう。だが警戒を緩めるな」
ヴォルクが言った。
「この街全体が、罠かもしれない」
実際、その懸念は的中していた。
路地の随所に、簡易な仕掛けが施されていた。
矢を放つ機構、崩落する建物、隠れた狙撃点。
正規軍の戦術ではなく、市民や民兵が思いつくような、ゲリラ的な抵抗だった。
エルナが屋根の上から狙撃位置を探していた時、隣の建物の屋根から矢が飛んできた。
「エルナ!」
ヴォルクが引き倒すように伏せさせた。
矢が頭上を掠めた。
撃ち返した先で倒れたのは、正規の兵士ではなく、粗末な服を着た若い男だった。
「……民間人か」
エルナが呟いた。
「弓を持っていた」
ヴォルクは言った。
「持てば、戦う者になる。だが」
ヴォルクは言葉を止めた。
どちらも、正解のない問いだった。
午後、南区画から黒煙が上がった。
シーヴィル軍が、自ら区画に火を放っていた。
皇国軍の進撃を遅らせるための焦土戦術だった。
ヴォルクは遠くからその匂いを嗅ぎ取った。
「木材と、布と……」
ヴォルクの表情が変わった。
「人がいる」
「まだ避難していない住民が」
班長が言った。
「急ごう」
特殊部隊が炎の中に突入した。
崩れかけた家屋の中から、老人と子供を救出した。
しかし全ての建物を確認する時間はなかった。
炎が完全に消えた後、瓦礫の中から、
逃げ遅れた住民の遺体がいくつも見つかった。
誰が火をつけたのか。
シーヴィル軍だった。
しかし、そこに火をつけさせたのは誰なのか。
その問いに、簡単な答えはなかった。
特殊航空隊のF/A-18とA-10が、市街地上空で近接航空支援を行っていた。
しかし密集した都市部での運用は、野戦とは全く異なる制約を伴った。
「目標確認できず」
パイロットが無線で報告した。
「建物内に敵兵力の可能性があるが、民間人との混在が疑われる。攻撃許可を求めます」
地上の観測班が答えた。
「確認が取れるまで待機」
「敵の攻撃を受けています、地上部隊が」
「もう少し待て」
その数十秒の間に、地上では兵士が二名、負傷した。
賢はその報告を受けながら、拳を握った。
もし躊躇なく空爆していれば、地上の犠牲は防げたかもしれない。
しかし建物の中に民間人がいれば、別の犠牲が生まれる。
どちらを選んでも、誰かが失われた。
A-10のパイロットが、別の目標について報告した。
「路地に武装した集団を確認。しかし服装が民兵と住民の中間のようで、判別が困難です」
「攻撃は保留」
観測班が答えた。
「地上部隊による確認を優先」
地上部隊がその集団に接近した時、既に集団は民家に紛れて消えていた。
颯人は中央区画の手前で、誠司と涼介とともに戦っていた。
路地を進む中で、颯人は何度も、判断を迫られた。
ある建物から、武器を持った人影が飛び出してきた瞬間、颯人は反射的に剣を構えた。
しかしその人影は、鍋を振り上げた中年の女性だった。
颯人は寸前で剣を止めた。
「……危なかった」
颯人は息を吐いた。
女性は恐怖で泣きながら、鍋を落として逃げていった。
誠司が颯人の隣に来た。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃない」
颯人は正直に言った。
「今、もう少しで、丸腰の女性を斬るところだった」
「俺も同じような場面が何度もあった」
誠司は言った。
「《魔眼》で見ても、恐怖と敵意の区別が難しい時がある」
涼介が《鉄壁》で仲間を守りながら言った。
「これが、賢の言っていた市街地戦か」
「野戦とは違う」
颯人は言った。
「これは、敵と味方の線引きが、最初から曖昧なんだ」
路地の先から、また矢が飛んできた。
涼介が前に出て受け止めた。
「今の一発、あの建物の三階からだ」
誠司が言った。
「魔力の反応がある。正規の魔導兵かもしれない」
颯人が突入した。
三階の部屋には、確かに魔導兵の装束を着た男がいた。
しかしその足元には、盾になるように、子供が立たされていた。
颯人は動きを止めた。
魔導兵が颯人に向かって術式を放とうとした瞬間、涼介が颯人の前に割り込み、《鉄壁》で受け止めた。
その隙に、誠司が魔導兵の術式を《魔眼》で無効化した。
颯人が踏み込み、魔導兵だけを正確に無力化した。
子供は無事だった。
しかし颯人の手は、震えていた。
「……子供を、盾にした」
颯人は低く言った。
「あの魔導兵は、子供を盾にしたんだ」
「向こうも、追い詰められてる」
誠司は静かに言った。
「それでも」
颯人は言った。
「こんな戦争、俺は」
言葉が続かなかった。
日が落ちる頃、初日の戦況報告が賢の元に集まった。
「皇国軍の死傷者、850名」
ハンスが読み上げた。
「三国軍の死傷者、361名。特殊部隊、負傷41名」
賢はその数字を見た。
これまでの野戦とは、桁が違った。
モンデブーレとの野戦で二日間の損害が200人台だったことを思えば、市街地戦一日でその4倍以上の損害が出ていた。
「占領できた区画は」
「外周の三割程度です」
ハンスは言った。
「進撃は、想定より大幅に遅れています」
「原因は」
「三つあります」
ハンスは言った。
「一つ、市街地の構造そのものが防御に適しており、技術差の優位が発揮しにくい。二つ、民兵と民間人の区別がつかず、部隊が慎重にならざるを得ない。その慎重さが、判断の遅れとなって損害につながっている。三つ、シーヴィル側の死守命令と処刑による締め付けで、抵抗が想定以上に苛烈です」
グスタフが低く言った。
「このままの速度では、占領完了まで1ヵ月以上はかかる。その間、我が方の損害は増え続ける」
賢は地図を見た。
外周のわずか三割。
中央の大聖堂まで、まだ遠かった。
「民間人への被害を最小限に抑える」
賢は静かに繰り返した。
「その原則を守りながら、この速度で進めば」
「進めば」
オットーが無線越しに言った。
「皇国兵の犠牲が、際限なく増えます」
その夜、賢は野戦司令部で一人、地図を見つめていた。
初日の死傷者数を、何度も見返した。
850名。
これまでの戦争で、皇国側の一日の損害としては最大だった。
そして、まだ外周区画すら制圧しきれていない。
このままの方法を続ければ、40万人の街を落とすまでに、どれだけの皇国兵が死ぬのか。
賢は計算した。
答えは、これまでの想定を大きく上回っていた。
颯人が、天幕の入り口に立っていた。
いつから来ていたのか、賢は気づいていなかった。
「今日、何人死んだ」
颯人が言った。
「皇国兵だけで、850名も死んだ」
颯人は黙って、その数字を受け止めた。
「俺も今日、何度も判断を迫られた」
颯人は言った。
「丸腰の女性を斬りそうになった。子供を盾にされた。誰が敵で、誰が違うのか、最後まで分からないまま剣を振るった」
「そうか」
「明日も、同じことが続くのか」
賢は答えなかった。
颯人が賢を見た。
「賢、お前は今、何を考えている」
賢はしばらく黙っていた。
地図の上、外周のわずかな青い部分と、まだ広く残る赤い部分を見た。
「……明日からは、違う方法を検討する」
賢は静かに言った。
「違う方法、とは」
「まだ、決めていない」
賢は言った。
「ただ、今日と同じやり方を続ければ、皇国兵の犠牲は止まらない。民間人への被害を最小限にする原則と、兵の命を守るという原則が、今、正面から衝突している」
颯人の表情が、強張った。
「まさか」
「まだ、何も決めていない」
賢は繰り返した。
「ただ、考える必要がある」
颯人は長い間、賢を見ていた。
「……その考えの先に、俺がついていけないものがあるなら」
颯人は静かに言った。
「先に言ってくれ。この前みたいに、後から知るのは嫌だ」
「約束する」
颯人が天幕を出ていった。
賢は一人、地図に向き直った。
850人という数字が、頭から離れなかった。
明日も、同じ速度で進めば、同じだけの犠牲が出る。
賢は珍しく頭を抱えた。
次は何をするべきか、まだ答えは出ていなかった。
ただ、今日の方法では、この街を落とせないことだけは、はっきりしていた。




