最終章
何処か爽やかで、それでいて悲しくて仕方ない、そんな不思議な気持ちだった。僕は、たった今までアイカと手を繋ぎながら並んで歩いた道を、一人きりで歩く。
左手を握った。そこにアイカの手があるはずもないのに。さっきまでそこにあった感触を、思い出してみる。
彼女は絶対に幸せになると言ってくれた。いつかまた彼女に会えたとき、本当に彼女が幸せでいてくれたなら、僕はどんなに幸せだろうか。来る未来が、そうであることを僕は祈らずにはいられない。
家に帰ってきて何気なく携帯を見ると、サヨからのメールが届いていた。歩いている時に届いたのだろう。全く気付かなかった。
まだ後ろめたさが残っていた。しかし、ずっと連絡しないわけにもいかない。
アイカに会ったことを、サヨに話すべきだろうか。サヨに何と言うべきか分からない。でもやはり、今は話したくない。もう少し気持ちが落ち着いたら、サヨにも話そう。
メールの内容は、今日の夜に会いたいというものだった。こういうことは特に珍しくはない。突然こんな風に会おうということも、よくある。サヨの奔放な性格故だろう。会うとなると、おそらく僕の家にサヨが訪ねてくることになるだろう。
僕は、自分の部屋を見渡した。昨夜、アイカと過ごした部屋。いつもここにいるのは、サヨだ。昨日の出来事が夢で、今の状態が現実なのだ。
サヨに返事をした。分かったと一言だけしか、今は言えなかった。
案の定、サヨは僕の家に来ることになった。夜に来るというので、それまで家の掃除をして、適当に買い物をして、ぼーっとして過ごすことにするか。
今日は何もやる気がでない。やはり、心に受けたダメージは自分が思っているよりも大きいらしい。
一通り掃除を済ませて、用事を終わらせて、僕はベッドの上に横たわった。ほのかに、アイカの匂いがする気がした。アイカの身体を思い出しながら、瞳を閉じた。
インターホンの音で、僕は目を覚ました。サヨが来たのだろう。サヨが来たということは、もう夜になったのか。随分長い昼寝をしてしまっていたようだ。ここ数日の睡眠不足のせいだろう。だが、妙な時間に寝てしまったせいか、やけに頭が重く感じる。ゆっくり時間をかけて起き上がっていると、インターホンをもう一度鳴らされた。自分の声が相手には聞こえないことは分かっているが、思わずはいはい、と返事をしてしまう。
ドアを開けると、そこにはやはりサヨが立っていた。
「こんばんは。もう、どうしたの? 眠そうな顔しちゃって」
くすくすと笑いながら、サヨが言った。僕が大好きな、サヨの無邪気な笑顔だ。何だかすごく久しぶりに彼女の笑顔を見た気がして、懐かしいような気持ちになった。いつも以上に、安心させられた。
「たった今まで寝てたんだよ。最近寝不足だったんだ……」
大きなあくびが出た。ここまでだらしないところをさらけ出せるのは、相手がサヨであるが故だ。相手がアイカだったら、こうはいかないに決まっている。
部屋に入り、サヨも僕も、いつも通りにリラックスしてクッションの上に座っていた。特に何を話すわけでもなく、のんびりと過ごしていた。別に心配することはないのだが、アイカのことを悟られないかと、僕は心なしか緊張していた。
「ねえ、ジュン」
サヨが突然話しかけてきた。僕は気のない返事で応えた。
「アイカさんと会って、どうだった?」
心臓が止まりそうになった。どうして、僕がアイカと会っていたことを、サヨが知ってるんだ? 声が出ないほどに驚いた。背中に、嫌な汗が流れていくのを感じた。
けれど、サヨの表情からは決して嫉妬のために言っているとは思えないほど、穏やかなものだった。妙な違和感を感じる。サヨがこんなことを言うのは、きっと理由があるのだろう。いつもは何かと考えていることが分かりやすいサヨだが、今回は何を考えているのか分からない。自分自身、動揺していることもあってだろうけれど。
今更しらばっくれるのは、逆効果のような気がしたので、ここは素直に言って、サヨの話を聞くことにしよう。
「確かにアイカには昨日会ったけど……どうだったって……」
「アイカさん、綺麗だったでしょ?」
「うん、まあ……」
何を考えているんだろう。サヨが意味深な笑みで僕を見つめる。その視線のせいで、僕は凍りついてしまう。
「な、何だよ」
精一杯の強がりを見せる。
「何で私がジュンとアイカさんが会ってたの、知ってると思う?」
相変わらず、サヨは意味深なことを言う。正直、怖い。
アイカを失うのは、仕方がないと思っていた。でも、サヨまでもを失ってしまうのは耐えられない。僕はやはり間違った選択をしてしまったんだ。後悔先にたたずとは、まさにこのことだ。心を深い闇が襲おうとしている。
「私がセッティングしたんだ」
「え?」
思わず聞き返した。頭が真っ白で、全く意味が分からない。
「ジュンを試したの」
サヨが、いたずらな笑みを浮かべてそう言った。
僕を、試した?
サヨが言うには、アイカが僕に会いたいんだと言ってきたらしい。あの、サヨと僕が映った写真を渡したあとに。アイカに、話がしたいと言われ、サヨは呼び出された。そこでサヨは、僕とアイカにまつわる色々なことを聞いたのだという。
小さい頃、毎年夏休みに田舎に帰っては、僕と遊んでいたこと。アイカが僕に想いを寄せていたのに、何も言わずに会えなくなってしまったこと。それが心残りで、今も僕のことを忘れられないということ。でも、自分はもうすぐ結婚してしまう。だからその前に、一目だけでいいから僕に会って、気持ちを整理したい。アイカは切迫した表情で、サヨにそう言ったのだという。
「正直、どうしようか迷った。アイカさんの話を聞いて、ジュンの忘れられない人が、アイカさんなんだって分かったもの。もし、二人が再会して、想いが通じ合えば、私はきっとジュンに捨てられるんだろうって思ったから」
何処か切なげな顔で、サヨは言った。
「サヨを捨てるなんて、そんな……」
僕は思わず胸が一杯になって、話に割り込んで言った。サヨが不機嫌そうに、いいから聞いて、と僕に釘を刺した。ここはやはり、サヨの話を黙って聞いているべきのようだ。サヨは一つ小さくため息を吐いて、話を続けた。
「でも、私それでもいいやって思った。ジュンが今までずっと、アイカさんのことを想って苦しんでたの知ってたから。だから、今までの想いが通じてジュンが本当に幸せになれるなら、それが私の幸せだって、そう思ったの」
驚かずにいれるはずがなかった。サヨは、僕と同じように考えていたのだ。自分の愛する人が、本当に幸せでいてくれるなら。それが自分の幸せ。例え、自分が隣にいなくても。自分が苦しみを負うことになっても。サヨの言葉を聞いた途端、目頭が熱くなった。
「だから、ジュンを試そうと思ったの。アイカさんと私、ジュンはどっちを選ぶんだろうって。半分は期待して。でももう半分は不安で仕方なかった。それで、毎朝ジュンが出勤前に行く、公園の場所を教えたの」
アイカは、とても柔らかい表情で僕を見ていた。サヨと向かい合って、こんな何もかも見透かされているような気持ちになるのは、初めてだった。
「それで?」
僕は、サヨに続きを促した。
「それで、今日の朝、アイカさんからメールが届いたの。ジュンちゃんと幸せになって下さいってね」
何ということだろう。
アイカと、サヨ。僕の愛した二人の女性は、本当に僕の幸せを願ってくれていたのだ。こんなにも、恵まれていたなんて。何よりも、サヨがそんなにも僕を思ってくれていたなんて。決して、知らないわけではなかった想いだった。
けれど、それをこんな形で思い知らされるとは。
涙が溢れた。知らず知らずに。本当に、過去のしがらみから、解放されたんだ。そして、僕が今愛しているサヨが、それを助けてくれて、本当に受け止めてくれた。今までに流したことのない、喜びの涙だった。今日だけで、僕はどれだけの涙を流しただろう。けれど、どの涙もこの涙とは違う。サヨを愛して、本当に良かったと心から思った。
涙を流す僕を、サヨは優しく抱き締めてくれた。
「ジュン、ありがとう。愛してる」
耳元で、サヨが囁いた。なんて優しい響きだろう。僕には、やっぱりサヨしかいないんだ。彼女を、僕の一生をかけて幸せにしよう。絶対に。アイカに恥じないように。アイカに負けないように。絶対、二人で幸せになろう。
「サヨ、愛してる」
サヨに、指輪を送ろう。
おもちゃなんかじゃない、本物の結婚指輪を。
二人の幸せの誓いと、その証を刻み込んだ、指輪を。
最後までお付き合いしてくださって、ありがとうございました。
この作品は、私の長編小説処女作なのですが、いかがだったでしょうか?
まだまだ大人ぶった子供である私が、精一杯背伸びして大人の恋愛を描きました。
恋愛には様々なドラマがあり、愛情の形もまた、様々な形があります。
本当の愛とは一体何なのか。愛情なんて所詮、欲望の塊であり、自己の感情を相手に押し付けるだけのものでしかない。
そう思う自分もいます。
でも、本当に人を愛したとき、愛情というものをそれだけで終わらせたくない。そんな気持ちが芽生えました。
本当の愛情は、相手の幸せを願うこと。これに尽きるのではないかと、私は思います。
自分といることで相手が幸せになれるのならば、それは本当に幸せなことでしょう。しかし、そうでないなら……
実際、恋愛というのはなかなかそううまくはいかないものですよね。
アイカとジュンのような悲しい恋愛は、世の中のそこらじゅうに転がっているでしょう。
けれど、そんな悲しい恋愛の結末から学ぶものは、本当にたくさんあるはずです。
人の幸せを思う気持ちの尊さと、そうすることの難しさを、この作品から感じてくれれば嬉しいです。
うっ、臭ッッ!コノ文章、臭ウヨ!!
……と、申し訳ありません。あまりの臭さに少し取り乱してしまいました。真面目になりきるのは苦手な私でございます。
最後になりますが、この作品を読んでくださった全ての方に心からの感謝を申し上げたいと思います。
本当にありがとうございました。
図々しいとは思いますが、感想等、是非お聞かせください。
江室美佳でした。