閑話 : 皇帝陛下の憂い事Ⅱ
※ライオネル帝視点です。
――危なかった。
執務室のソファに身を投げ出すなり、思わず俺はそう呟いていた。
窓の外に見える世界はまだ白く、陽は少し自分の存在を主張し始めた程度だ。
きっと肌に感じる空気は冷たいに違いないのに、今の俺の身体は可笑しいくらいに火照っている。
あのまま、突き進んでしまいそうになった。
合わせた唇は甘く、触れた肌は柔らかく。
もはや踏み止まることも出来ないほど深く、彼女の中に入り込んでいた。
彼女の涙が唇に触れて初めて、普段辛うじて理性を取り戻していた段階すら、踏み越えてしまっていたのだと気付くほど。
何が俺を踏み越えさせたのだろうか。
それとも、抑え押さえ付けてきた欲望が、もう決壊を迎えているんだろうか。
どちらだと、そんなことを考えながら、必死にさっき見た、彼女の悩ましい姿を頭の片隅に追いやる。
いつの間にか、甘えるように首に回っていた細い腕。
指を這わせれば、容易くその感覚を受け容れる柔らかな身体。
快楽の入り口しか知らないくせに、誘うように濡れている瞳も、唇も。
もう他の女など抱けるものか。
梳いた髪から漂った甘い香しか、俺を惑わすことなど出来ないだろう。
陰鬱とした空間は、けれど確実に時を刻み。
「あら、どうしたの珍しい。早いね」という、今この瞬間には世界一間抜けな声が聞こえて、俺は我に返るのだった。
◇◇
「なに、結局失敗したの」
あれほどけしかけたのに、と明け透けな物言いはやはりクリスである。
事の顛末をすべて言い終え(というか無理矢理言わされ)、とりあえず突っ込まれた。
「なんでそこで止めちゃうわけ?
涙なんて別に悲しいからってだけで出るもんじゃないでしょ」
「いや……」
「別に相手の気持ちを慮るのはいいことだけどさー宰相としてはお世継の心配もしなきゃいけないわけ。
分かる?
まだ焦れるようなら、本気で側妃のことも考えなきゃいけないよ」
「無理だ!」
思わずソファから立ち上がって大声を上げた俺に、奴は冷たい目を向けた。
――一応言っておくが、主従関係で言うなら俺の方が上…のはず。
けれどクリスはお構いなしに、こちらに体勢さえ立て直させず更に斬り込んできた。
「無理とか出来ないとか言える立場にないからね、あんた。
本気の女を嫁にしてるくせに子供つくれないっていうなら、義務って割り切った別の女と子づくりしてもらうしか選択肢ないよ。
国家存亡の危機には瀕したくないからね、僕」
「……だから、無理だと言ってるだろう」
すると、まるで駄々をこねる子供のような俺に、深く溜め息を吐いた奴は、心底疲れたという口調で余命宣告をした。
「とりあえず1週間後、君の側妃選びのための夜会開催決定したから」
「誰が!いつ!
俺は許可してないだろ!」
「僕が、今。
じゃあ例の老人会に話通しておくね。彼らは自分の血を皇族に入れたくてしょうがないみたいだから」
「おい、待て……」
「老人会に意見出来るものならしてみな。
少なくとも、外務大臣と工務大臣は譲らないだろうねぇ。養女まで迎えちゃう人たちだもん」
「クリス……」
苦々しい呟きと同時に、奴は皇帝とその宰相のみが入室を許される執務室から、悠々と出ていった。
確かに、いつも奴の即断即決の行動力には助けてもらっている。
彼女を正妃として迎えることが出来たのも、奴の尽力のおかげだといっても過言ではない。
俺に否が応でも自分の血縁の娘を娶らせようとする、老人会(と勝手に俺たちが呼んでいる)の議員連中を黙らせ、そいつらを大臣に指名して手の平で転がそうという大胆な発想をしたのは奴だ。
ミスティアナ帝が出し惜しみをするだろう彼女を、どうやってもこちらに嫁に出さなければいけない状況を作り上げたのも奴だ(奴はミスティアナの皇族女性の婚姻を、次々にバックアップしていった)。
だからといって、その状況を今度は盾にとられようとは……
奴には本当に頭が上がらなくなる。
と、思ってはっとした。
――だから、主従関係では俺の方が上なんだって。




