第五十九話「二冊の帳面と、世界の果て」
一
万延元年、夏の手前。
江戸の夜は、京とは違う匂いがした。
武家屋敷の気配と、海の塩気と、どこか遠くで何かを燃やす煙。それらが混ざり合い、夜風に乗って流れてくる。
一橋上屋敷の奥御殿は、表向きは静かだった。夜露に濡れた庭の松を、ときおり風が揺らす音だけが聞こえる。縁側の先には小さな池があり、月明かりが水面に細長く映っていた。波紋ひとつない、穏やかな水だった。
だが、奥御殿の一室だけは事情が違った。
部屋の中は、嵐が過ぎたあとのようだった。
文机の上には帳面が二冊、重ねて置かれている。そのまわりに書きかけの紙が何枚も広がり、丸めて捨てた紙が部屋の隅に小さな山をつくっていた。墨の香りが濃い。硯の墨は、まだ乾ききっていなかった。行灯の火が揺れるたびに、散らばった紙の影が壁の上で不規則に動いた。
その部屋の真ん中に、近衛糸子が座っていた。
十二歳の姫君が、袖をたくし上げ、文机の前で背筋を伸ばしている。髪は無造作に結い直されていた。何度もほどいては結び直したのだろう。髪飾りが一本、机の端に放り出されていた。
けれど、その顔つきは十二歳の子どものものではなかった。
疲れてはいた。目の下にはうっすらと隈が浮き、頬もいつもより少しこけて見える。それでも目の奥には、じっと燃える火があった。消えそうで消えない、種火のような光だった。
ひと月が経っていた。
ハリスが江戸を去り、万次郎がアメリカへ発った日から、糸子はほとんど誰とも会わなかった。近藤が挨拶に来たときも、堀田の使者が来たときも、葵が食事を運んできたときも、要ることだけを短く返して、すぐに帳面へ向き直った。
考えることが、あまりにも多かったのだ。
ハリスとの交渉の場で感じたものが、まだ糸子の中で渦を巻いていた。
あの会談で、糸子は初めて「世界」というものを肌で感じた。
転生する前の知識として、糸子は幕末の歴史を知っていた。黒船が来ること。薩長が幕府を倒すこと。明治維新が起き、日本が急ぎ足で近代化していくこと。けれど、それはみな頭の中の知識だった。大学院の論文の中の出来事にすぎなかった。
ハリスと向き合ったあの瞬間に、糸子は初めて分かったのだ。これは、知識の話ではない、と。
ハリスの目の奥にあったものは何だったのか。アメリカの国益のために動く一人の外交官、という記号ではなかった。もっと生々しい何かだった。
自分の国が今まさに揺れている、という張りつめた思い。南北の対立がいつ弾けてもおかしくない、という焦り。その焦りの中で、アジアで結果を出さなければならない、という使命感。それらすべてが、ハリスの言葉の端々や表情の動きににじみ出ていた。
そしてその背後に、糸子は世界全体のうねりを感じとっていた。
(清国がやられている)
会談を終えて奥御殿に戻ってから、糸子は帳面を開いて考え続けた。
アロー戦争、いわゆる第二次アヘン戦争は、この年のうちに決着がつく。秋にはイギリスとフランスの連合軍が北京に入り、清は北京条約に署名させられる。港をさらに開かされ、賠償金を取られ、屈辱を重ねる。清は帝国の名を残したまま、実のところは列強の半植民地になりかけていた。
(ロシアが来ている)
その混乱に乗じて、ロシアも清と別に北京条約を結び、沿海州を手に入れることになる。ウラジオストクの建設が始まるのは、まさにこの年だ。日本の北の海に、ロシアの軍港が生まれようとしていた。
(アメリカは、内側から壊れかけている)
この秋の大統領選挙でリンカーンが勝ち、翌年には南北戦争が始まる。南部の州は連邦から抜けようとしていて、アメリカという国は割れる寸前にあった。
だからこそ、ハリスは焦っていたのだ。内戦が始まれば、アメリカはしばらく海の外に目を向ける余裕をなくす。だから今のうちに、日本との条件を固めておかなければならない。それがハリスの焦りの根っこだった。
(ヨーロッパも動いている)
イタリアはまとまりつつある。プロイセンは軍備を広げはじめ、やがてビスマルクのもとでドイツをまとめにかかる。イギリスはインドを直接治めるようになり、日の沈まぬ帝国の頂に立っている。フランスはアジアに手を伸ばそうと狙っている。それらすべてが、同時に動いている。
糸子は帳面を閉じて、天井を見上げた。
(これが、世界の今なのだ)
転生する前に「幕末経済史」として学んだことが、今はすべて現実として目の前にある。どの国も必死だ。生き残るために、覇権を握るために、あるいはただ負けないために、それぞれが動いている。そのとてつもないうねりの中に、日本がある。
(日本は今、大きなチェス盤の上の駒の一つとして、四方から狙われている)
だから、動くのは今だ。糸子はそう思った。
この世界の流れの中で、日本が駒として使われるのではなく、指し手として動けるようになるために。その支度を、今から始めなければならない。
二
ひと月のあいだ、糸子は考え続けた。考えて、書いて、丸めて捨てて、また考えた。
葵は「お顔の色がよくありません」と案じた。小夜は「少しだけでも外の風に当たられてはいかがでしょう」と縁側へ誘った。近藤は障子越しに「姫様、お体だけは大事になさってください」と言った。
糸子はそのたびに、「大丈夫です、もう少しだけ……」と答えた。
そして、ようやく仕上がった。帳面に書きつけた二つの計画が、やっと形になったと思えた朝だった。
「やっとできたー!」
声が出た。誰に向けた言葉でもない。ただ、出た。
「終わったー。こっちに転生してから、いちばん頭を使ったー。もうしばらく頭は使いたくなーい!」
文机の前に座ったまま、糸子は天井を仰いだ。首が痛い。肩も固まっている。目もかすんでいた。
それでも、やり遂げたという手応えが、疲れの底からじわりと広がってきた。
その日の午後、糸子は二冊の帳面を机の上に並べた。
一冊目は、鍵のかからない、ふつうの帳面だった。二冊目は、引き出しの奥にしまってある、小さな鍵のかかる帳面だった。
糸子は一冊目を開いた。そこには、きれいに整えた字で、二つの計画が記されていた。
【計画①】無血近代化計画
目標 内戦なき日本近代国家の建国
期間 約十年
【計画②】帝国主義参戦計画
目標 資源の確保と、経済での巻き返し
期間 約二十年
糸子はその字を見つめたまま、しばらく動かなかった。
自分で書いたものなのに、こうして改めて眺めると、どこか遠くにある言葉のように思えた。無血近代化。帝国主義参戦。大きな言葉だ。重い言葉だ。本当にできるのか、という問いが頭の隅に浮かんだ。
糸子はその問いを、静かに脇へ置いた。そして、帳面を閉じた。
二冊目を取り出した。鍵のかかる引き出しから、慎重に取り出した帳面だ。一冊目より少し小さく、表紙は黒い。糸子はそれを開いた。
そこに書かれた字を読んだ糸子は、しばらく何も言わなかった。
部屋は静かだった。庭の松が風に揺れる音だけがして、遠くで池の水面がかすかに揺れている気配がした。
糸子は二冊目を閉じて鍵をかけ、引き出しに戻した。机の上には、一冊目だけを残した。
「二冊目のほうは……また、あとで……」
誰に言うでもなく、小さくつぶやいた。
それから、窓の外を見た。青い空だった。江戸の空は広い。京より広い、と糸子はいつも思う。家の造りが違うからか、川が多いからか。とにかく、空が広い。
その空を見ながら、糸子は言った。
「十年で日本を変えて……」
少し間を置いた。
「二十年で世界に出て……」
また、少し間を置いた。
「そして…………」
その先は、口に出さなかった。今はまず、一歩目だ。
「どれも、簡単ではありませんね」
糸子はつぶやいた。本当のことだった。計画①ひとつ取っても、実現までに越えなければならない壁が山ほどある。跡目の問題。朝廷の権威を確かなものにすること。諸藩との繋がりを築くこと。商いの土台をさらに固めること。どれか一つでもつまずけば、全部が崩れるかもしれない。
「なれど……」
糸子は少し笑った。穏やかな笑みではなかった。腹の底から湧いてくる、あまり上品とは言えない笑みだった。
「できると思っています。というか、やらなければなりません!」
「うけけけけーーーっ」
声が漏れた。
誰も聞いていなかった。部屋には糸子一人だった。それで十分だった。
三
「失礼いたします」
障子が静かに開いて、葵が入ってきた。盆の上の茶碗から、湯気が細く立ちのぼっている。
部屋に一歩入ったところで、葵は足を止めた。散らばった紙、丸めた紙の山、机の上の一冊の帳面。その有様を見て、少し息を呑んだようだったが、すぐに表情を整えた。葵はいつもそうだ。驚いても、すぐに侍女の顔に戻る。
「姫君様、今日はどのようにお過ごしになりますか?」
「何日かはゆっくり休みます。疲れたー」
葵は少しほっとしたように見えた。
「では、今日はどうぞごゆっくりなさってください。お食事も、きちんと召し上がってくださいませ。このひと月、ほとんどお箸が進んでおりませんでしたから」
「分かっています。食べます。それより葵」
「はい」
「甘いものはありますか」
葵が目を丸くした。
「甘いもの……でございますか?」
「今、頭が無性に糖分を欲しがっているのでございます」
「と、糖分……?」
「大至急、甘いものを持ってきてくださいまし。できれば葛饅頭か羊羹。なければ、砂糖を白湯に溶かしたものでも構いません」
「かしこまりました」
そう言って一歩下がったものの、葵はすぐには出ていかなかった。少しためらってから、口を開いた。
「姫君様」
「なんでしょう」
「何か、新しいことでもお始めになるのですか?」
糸子は葵を見た。葵の目は真剣だった。このひと月で、侍女たちも何かを察していたのだろう。糸子が誰とも会わずに、ひたすら書き続けていたこと。部屋にこもって、食事も忘れるほど考えこんでいたこと。それが何かの前触れだと、葵は感じとっていた。
糸子は少し考えてから、答えた。
「んーー、戦が起きないように……でございますね」
葵は「はあ……」という顔をした。分かるような、分からないような顔だった。
(二つのことを、同時に始めます)
糸子は胸の内でそう思ったが、口には出さなかった。帳面が二冊あることを、葵は知らない。二冊目が引き出しの奥にあることも、その鍵が糸子の懐にあることも。知らなくていいことだ。今は、まだ。
「葵、甘いものを」
「は、はい。ただいま」
葵が下がり、障子が閉まった。
また一人になった糸子は、机の上の帳面に目をやった。そこには一冊だけが置かれている。
「さて」
糸子はつぶやいた。
「始めましょうか」
四
その夜、近藤勇がやってきた。
縁側の外から声をかけ、糸子が「どうぞ」と応じると、静かに入ってきて正座し、一礼した。所作はいつもどおりだが、表情が少し硬い。何か報せがあるときの顔だ、と糸子は思った。
「姫様、一つご報告があります」
「なんでございましょう」
「城内で、跡目の問題がまた動きはじめているとの話が入りました」
糸子の手が止まった。
遠くで蝉が鳴いていた。夏の手前の、まだ声の細い蝉だった。縁側の向こうの池に、月が映っている。波紋ひとつない、静かな水面だった。
「一橋か紀州か、ということですか」
「はい。井伊が消えたあとも、この問題はまだ片づいておりません」
近藤の声は低かった。報告として話してはいるが、その奥に、これはいずれ大きな問題になる、という読みがあることは、糸子にも伝わった。
「城内の動きは?」
「表立った動きは、まだありません。ですが、老中たちのあいだで、静かに話が進んでいるようです。井伊亡きあとの空いた座を誰が埋めるのか。その話と跡目の話が、どこかで結びついているように思えます」
糸子は目を少し細めた。
(そう。史実で慶喜が将軍になるのは、もう少し先だった。けれどこの世界では、いくつかのことが変わっている。井伊が今の形で消えたこと。朝廷の動きが活発になっていること。それが史実とどこで噛み合い、どこでずれているのか。正しく読まなければならない)
「分かりました」
糸子は帳面に書きつけた。
跡目の問題。次の手を考えること。
近藤が下がったあと、糸子は少し考えた。
跡目の問題は、焦ってはいけない。糸子はそう判断していた。力で押しこもうとすれば、必ず反発が来る。正面から動くのではなく、まわりの条件を整えながら、おのずと「一橋しかない」という形をつくっていくことが大事だ。
そのためには、いくつか布石が要る。
一つ目は、一橋慶喜という人物の力と見識を、幕府の内にも外にも知らしめること。二つ目は、跡目の問題は朝廷の意向を抜きにしては決められない、という立場を朝廷が固めること。三つ目は、紀州派の動きを掴み、その急所を押さえること。
(これは、計画①の一部だ)
一橋が将軍になり、そのあとで開けた政が行われる。その道筋が、無血近代化へのいちばん近い道の一つだった。そのためには、今から動かなければならない。
けれど今夜は、まだ疲れている。
(明日から考えよう)
糸子は帳面を閉じた。
五
翌朝。
江戸の夜明けは早かった。
奥御殿の縁側から見える庭に、朝の光が斜めに差しこんでいた。松の葉が光を受けてきらめき、池の水面が少しずつ金色に変わっていく。どこかで鳥が鳴いた。高く、細い声だった。
糸子は白い紙を前に座っていた。
硯で丁寧に墨を磨る。その手の動きが、頭を整える時間になった。磨り上がった墨の深い黒を見て、糸子は筆を取った。
「御門様への御報告を、書かなければ」
つぶやいて紙に向かったが、すぐには書けなかった。
「何から書けばよいか……」
交渉の結果なら書ける。改正条項が入ったこと。金銀比率を見直す条項が入ったこと。日本の領事を置く権利が認められたこと。万次郎がアメリカへ向かったこと。これらは事実として書ける。
問題は、その先だった。
(この先の計画を、御門様にどこまでお伝えするか)
すべては書けない。計画②、帝国主義参戦計画などは、今の段階では決して書けない。御門様が受け取られるには、まだ早すぎる。驚かせるだけでなく、近衛は何を考えているのか、という疑いを生みかねない。
かといって、何も書かなければ、御門様に対して不誠実になる。
御門様は、糸子が誠実であることをご存じだ。その信の上に、今の間柄がある。それを崩すわけにはいかない。
(書くことと、書かないことの、線をどこに引くか決めなければ)
糸子は窓の外を見た。
庭の向こうに、空が見えた。今日も江戸の空は広く、遠くを薄い雲が流れている。その向こうに海があって、海の先にアメリカがある。今ごろ万次郎は船の上にいるのだろう、と糸子は思った。
(万次郎殿、どうかご無事で)
それから、筆を持ち直した。まずは、枠組みから作ろう。
御門様への御報告書 草稿
一、江戸における交渉の結果につきまして
(改正条項・金銀比率・領事設置権・万次郎の渡米)
二、今後お願い申し上げたき事柄につきまして
(朝廷の御権威の確立・跡目の問題への関わり)
三、糸子より御門様への私信につきまして
(じかにお伝えしたき事柄)
「とりあえず、枠組みだけ作りました」
糸子は筆を置いた。
「続きは、明日書きます」
気づけば、日はすっかり傾いていた。そこへ葵が茶を持って入ってきた。
「姫君様、今日はもうお休みくださいませ。お顔の色はずいぶん良くなりましたが、まだお疲れが残っているように見えます」
「そうします」
糸子は素直に答えた。葵が少し驚いた顔をした。いつもの糸子なら「もう少し」と言うところだ。
「お珍しゅうございますね、そんなに素直に」
「疲れているのは、本当のことですから」
「さようでございますか……では今夜は、早めにお休みくださいませ」
葵が下がった。
糸子は机の上を見た。枠組みだけの報告書と、一冊の帳面が並んでいる。引き出しの奥には、鍵のかかった二冊目の帳面がある。
その光景を見て、糸子は小さく笑った。
「やることが、多いですね」
窓の外は、もう夜空だった。江戸の夜空には星が多い。もしかしたら京よりも多いかもしれない。それだけ、この空は広いのだ。
「全部、つながっている」
糸子は小さくつぶやいた。
屋根を直すことから始まった。商いから始まった。英語から始まった。そして交渉から始まった。どれも一本の線の上にある。これからもそうだ。跡目の問題も、朝廷への報告も、計画①も計画②も、みんな一本の線の上にある。
糸子は行灯の火を消した。部屋が暗くなり、窓から差しこむ月明かりだけが、薄く部屋を照らしていた。
六
そのころ、江戸のあちこちで、ひそかに話が広がっていた。
とある藩邸の廊下。
夜の廊下は薄暗く、行灯の光が足もとだけをぼんやりと照らしていた。古い板張りの廊下は、歩くたびにかすかに軋む。その端で、二人の藩士が声を落として話していた。
「聞いたか。ハリスとの細則の交渉に、近衛家が関わっていたそうだ」
「近衛家? あの公家の?」
男の声には、はっきりとした驚きがあった。公家など御所の飾り物だ。武家の多くが、そう思っている時代だった。
「ああ。改正条項が入ったのも、金銀比率の条項が入ったのも、みな近衛家の働きだという話だ」
「……公家が、交渉に?」
「御所御用達の機関が動いたらしい。天朝物産会所とかいう」
「天朝物産会所……」
もう一人の藩士が、その名を繰り返した。聞いたことのない名だった。だが「御所御用達」の冠がつくとなれば、軽くは扱えない。
「近衛様は、何を考えておられるのだ」
廊下に沈黙が落ちた。風もないのに、行灯の火がかすかに揺れた。
薩摩藩邸の一室。
大久保利通が、一人で座っていた。文机の前ではなく、部屋の真ん中に座して、報告を聞いている。報告しているのは若い藩士で、少し緊張していた。
「近衛ん家が、ち言うとか?」
大久保の声は静かだった。気持ちの読めない声だった。
「じゃっ。メリケンとの談判に、朝廷の側が関わっちょられたち。御所御用達の機関、天朝物産会所ちゅうもんがあっっちのこっでございもす」
「天朝物産会所……」
大久保は繰り返した。その目が、少し細くなった。
「前から噂にゃ聞いちょりもしたが、そいが本当に外交の場で動いた、ち……」
「じゃっ。改正条項、金銀比率の見直し、そいに日本がメリケンに領事を置っ権利まで。すべて近衛ん様の働きじゃちゅう話でございもす」
大久保は少し黙った。
この男は、考えるときにほとんど表情を動かさない。怒りも驚きも、いったん内にしまい、整えてから言葉にする。
「朝廷が、商に手を出し始めた、ちゅうこっか」
「そんようでございもす」
「……おもしお、動きじゃな」
そう言ったとき、大久保の目にははっきりとした光があった。面白い、という言葉は、大久保にとって最上に近い評価だ。つまらないことには興味を持たない。だがこれは、興味を持つに値する動きだった。
「近衛ん家について、なおいっそ調べい」
「じゃっ(はっ)」
「朝廷ん公家が商おっ外交で動っちょっなら、薩摩はその動きをどげん見っべきか。急っで判断すっこっはなかどん、目は離すな」
「承知しもした」
藩士が下がると、大久保は一人になって、小さく息を吐いた。
(近衛様、か……)
長州藩邸。
夜の書院は静かだった。
桂小五郎が、行灯の前で書状を読んでいた。その手が止まった。
「近衛様が、外交に関わられた、いうことか?」
「ほうです。条約の中身が変わった、いうことです」
桂の前に座る藩士が、神妙な顔で答えた。
「改正条項が入った、いうのは……」
桂は少し考えた。行灯の光が、その横顔を照らしている。整った顔立ちだが、目はいつも何かを考え続けているような色をしていた。
「先々、日本が条約を変えられる余地ができた、いうことらしいっちゃ」
「そうか……」
桂はゆっくりと書状を置いた。
「これは大きいのう」
「どういう意味な、そりゃあ」
「今の幕府にゃあできんかったことを、朝廷の御使者がやってのけた、いうことっちゃ」
藩士は少し黙った。桂の言葉の意味を呑みこむのに、少し時間がかかったのだろう。やがて口を開いた。
「つまり、幕府じゃのうて朝廷が外交で動ける、と示したいうことですか」
「そういうことっちゃ」
桂は立ち上がり、部屋の中を少し歩いた。書院の窓の外には、暗い庭が広がっていた。
「天朝物産会所……近衛家……」
桂はつぶやいた。
「長州も、動かんにゃいけんかもしれん」
土佐藩の宿。
坂本龍馬は、ごろりと横になって話を聞いていた。
「近衛の家が、メリケンを言い負かしたっちゅうことらしいのう」
一緒にいた中岡慎太郎が言った。
龍馬が、少し体を起こした。
「近衛家……」
龍馬の頭の中で、何かが繋がった。細則の交渉の場に、近衛家の者が同席すると聞いていた。御簾の向こうに、朝廷の者が一人。
「御簾の向こうにおった姫様が、これをやったがやろか?」
龍馬は独り言のように言った。
「姫様?」
中岡が聞き返した。
「なんちゃあない」
龍馬は少し笑った。
(こじゃんと、すごいぜよ)
以前、近藤長次郎に言われたことを思い出した。天朝物産会所の名は、人前では決して出すな。龍馬は、天朝物産会所の後ろに姫様がいることを知っていた。そして今、その姫様が何を成し遂げたのかを知った。
(日本が、まっこと変わるかもしれんぜよ)
龍馬は、また横になって天井を見上げた。
七
夜が更けた。
一橋上屋敷の奥御殿は静かだった。
近藤勇が、廊下の端に立って夜番をしていた。部屋の行灯の火は消えている。姫様も今夜こそ、ゆっくり眠っておられるだろう。
近藤は庭を見た。月が傾いて、池の水面に映る光が細くなっていた。
(姫様は、何を考えておられるのか)
戦が起きないように、という言葉が、頭に残っていた。それだけで終わる話でないことは、近藤にも分かっていた。だが、詳しくは聞かなかった。姫様は、話すときには話す。そのときを待てばいい。
近藤は刀に手を添えたまま、夜の庭を見続けた。どこかで蛙が鳴いた。夏の手前の、まだ声の柔らかい蛙だった。
翌朝。
奥御殿の中庭に、朝の光が満ちていた。
石畳の上に、松の葉の影が細かく落ちている。池では赤い鯉が一匹、水面の近くをゆっくりと泳いでいた。悠々と、何ひとつ急がない動きだった。
縁側に、糸子が出ていた。膝の上に帳面を置き、何も書かずに、ただ庭を見ていた。
葵が茶を運んできて、隣に置いた。
「姫君様、昨夜はよくお休みになれましたか?」
「よく眠れました。葵のおかげです」
「わたくしは、何もしておりませぬ」
葵は少し首をかしげた。
「いいえ。あなたがずっと案じてくれていたから、安心して眠れたのです」
葵は少し黙ってから、「……ありがとうございます」と小さく言った。
糸子は茶を一口飲んだ。少し苦い。いい苦さだった。
塀の向こうから、江戸の朝の音が聞こえてくる。売り声、荷車の音、遠くの鐘の音。それらが混ざり合って、低い音楽のように流れてくる。
(ここが、幕末の江戸だ)
富士山を見た日のことを思い出した。品川から江戸へ向かう途中、高輪の海沿いから見えた富士。電線もビルも標識もない空気の中に、海と松と道があって、その向こうにただ富士があった。あの光景は、今も目の奥に残っている。
この幕末に生きているという実感を、糸子はあのとき初めて、本当の意味で持ったのだった。
(わたくしが変えようとしているのは、この時代の人々の暮らしだ。歴史の流れだ。帳面の中の計画ではない。この江戸の朝の音の向こうにいる、大勢の人の生き方なのだ)
糸子は帳面を開いた。報告書の草稿の続きを書こうと、筆を取った。
少し考えてから、まず一行だけ書いた。
言葉で国を守る日は、今日だけではない。これからも、ずっと続く……
糸子は筆を置いて、その一行を見つめた。
先日、帳面の最後に書いた言葉だった。今日の報告書の書き出しには、ふさわしくないかもしれない。けれど、これがすべての土台だ。
(御門様にお伝えすべきことも、結局はここに戻ってくる)
糸子は空を見上げた。今日も広い空だった。雲が少なく、青が深い。
その青の中を、一羽の鳥が横切っていった。どこへ行くのか、迷いなく、まっすぐに飛んでいく。糸子は、その鳥が見えなくなるまで目で追った。
それから、もう一度帳面に向かった。
「さて」
小さく言った。
「続きを書きましょうか」
筆が、白い紙の上を動きはじめた。
八
その日の夕方、近藤が廊下から声をかけた。
「姫様、よろしいでしょうか」
「なんでございましょう?」
近藤は入ってきて正座し、一礼した。いつも落ち着いた表情に、今日は少し迷いの色が混じっていた。
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんでしょう」
「……姫様は、この先、どこまで動かれるおつもりですか」
糸子は近藤を見た。
近藤の目は真剣だった。責めているのではない。ただ、知りたいという目だった。自分が守るべき人がどこへ向かおうとしているのかを、知りたいという目だった。
糸子は少し考えてから、答えた。
「全部です」
「全部……」
近藤が繰り返した。
「この国が、自分の足で立てるようになるまで。異国の言いなりにならずに済むようになるまで。そして、戦わずに済む国になるまで」
近藤は静かに頷いた。
「それは、遠い道のりですな」
「遠いです」
糸子も頷いた。
「なれど、近藤殿が一緒なら、少しは心強うございましょう」
近藤が目を細めた。笑っていた。ふだんは表情を動かさない近藤が、静かに笑っていた。
「旭狼衛、全員でお供いたします」
「ありがたく、お礼申し上げます」
近藤は一礼して、部屋を出ていった。
糸子は縁側の外の庭を見た。
夕暮れが来ていた。空が橙色に染まり、池の水面が金色に光っている。夕風に揺れる松の葉の影が、静かに揺れていた。
(全部、つながっている)
屋根から始まった。その屋根の下に、人がいる。その人たちの先に、この国がある。この国の先に、百年後がある。
糸子は帳面を閉じた。今夜はここまでにしよう、と思った。
「姫君様、夕餉の支度が整いました」
障子の向こうから、葵の声がした。
「分かりました。持ってきてくださいまし」
糸子は立ち上がり、帳面を机の上に置いた。机の上には一冊だけがある。引き出しの奥の二冊目のことを、ふと思った。
(それは、また、あとで)
小さく笑った。腹黒い笑いではない。今日は、少し柔らかい笑いだった。
「さて、夕餉にしましょうか」
糸子は部屋を出た。廊下には夕暮れの光が長く伸びていて、その光の中を、糸子は歩いていった。
第五十九話 了
新章突入です。たぶんすごい長い道のりになるとおもいます。のんびりと書いていきます。
書ききれるのか?かなり心配ですが…とりあえずなんとか頑張りたいとおもいます。
史実を考えると今までのようにツッコミ処満載になると思いますが、広いお心をもって一読していただければと思います。よろしくお願いします(*`・ω・´*)ゝ☆




