第五十八話「葵と小夜の糸子と江戸の見聞録」
一 江戸行きの話が来た日
姫君様が江戸へ行くと聞いたのは、ある朝のことだった。
朝の身支度の最中だった。漆塗りの鏡台の前に姫君様が座り、葵がその垂髪を梳いていた。櫛が通るたびに、艶やかな黒髪がさらさらと流れる。行灯の光が、その黒に深い艶を与えていた。
「葵、小夜。お梅から聞いているとは思いますが、一緒に江戸へ行ってもらえましょうや?」
櫛の音の合間に、姫君様が言った。
葵は櫛を持ったまま、すぐに頷いた。
「はい。姫君様のお供をいたします」
「ありがとう、葵」
小夜は、少し固まった。
江戸。
京から、はるか東の都だ。小夜はこれまで、それほど遠くへ出たことがなかった。鴨川の向こう。嵐山の奥。それが小夜にとっての「遠い場所」の果てだった。
「……い、行きます」
小夜は、声を絞り出した。
「ありがとう、小夜」
姫君様が言った。形ばかりの礼ではない。本当に、ありがとうという気持ちのこもった声だった。
その夜、葵と小夜は長局の一室で荷造りをしていた。
行灯がひとつ灯る薄明かりの中で、二人は着替えや小物を丁寧に包んでいった。板張りの床が、少し冷たい。庭の向こうから、夜の虫の声が聞こえていた。
「葵さん、江戸は怖いところですか」
荷物を包みながら、小夜が言った。
「……旭狼衛の皆さんが守ってくださいますから、大丈夫です」
「そうですか」
「小夜さんは、不安ですか」
「……はい」
「正直ですね」
「……すみません」
「正直なのは、良いことです」
葵は荷物を丁寧に積み重ねながら言った。
「不安な気持ちをちゃんと感じていれば、いざというときに動けます。感じていないほうが怖い、というお話を伺ったことがあります」
「……そうなんですか?」
「姫君様が、いちばん怖がっていないように見えるでしょう?」
「はい」
「でも姫君様も、怖いということは、ちゃんとご存じだと思います。ただ、それを超えるものをお持ちなんです。わたしも、そのとおりだと思っています」
「何ですか、それを超えるものって」
「……目指しているものが大きいから、だと思いますよ」
葵は少し微笑んだ。確かな思いから出てくる微笑みだった。
その夜、小夜は布団の中で少し泣いた。怖かった。それでも朝になると、ふつうに起き上がれた。姫君様がいるから大丈夫だろう、という気がした。
その「大丈夫だろう」が、やがて激しく揺さぶられることになるとは、このときの小夜は知らなかった。
二 二人のこれまで
葵が近衛家の奥向きに本格的に仕えるようになったのは、姫君様がまだ七歳のころだった。
葵は十三を過ぎたばかりだった。近衛家の奥向きに長く仕えてきた家の出で、礼法も所作もひととおり身につけている。京の公家の屋敷がどういうところかを、幼いころから見て育ってきた。
姫君様付きになると決まったとき、葵の耳には、さまざまな噂が届いていた。たいへん聡明なお方だという噂。少し変わったお方だという噂。異国の書物を読まれるという噂には、葵は思わず笑ってしまった。異国の書物? 七つの姫君が? そう思ったからだ。
けれど、実際に仕えはじめて、葵は思い知った。噂は全部、本当だった。
初めてお目にかかったときのことは、今もはっきり覚えている。小さな姫君様だった。白い肌に、艶やかな黒髪。公家の装束が、その小さな体によく似合っていた。かわいらしいと思った。そして、少し変わっている、とも思った。
最初に気づいたのは、書物だった。七歳の姫君が読むはずのない書物を、姫君様は読んでいた。算術の本。経済の書物。そして、異国の言葉の書物。
「これは、どういう意味だと思いまする?」
蘭語で書かれた書物を手に、姫君様がそう尋ねてきたのは、八歳のときだった。
葵は恐る恐る書物をのぞいた。まったく読めなかった。
「申し訳ございません、姫君様。わたしには……」
「そうですか。では、一人で調べまする」
姫君様は別の書物を持ってきた。蘭語と日本語の対訳の表だった。そのまま夕方まで、一人でずっと調べ続けていた。
そういう姫君様だった。
だから、江戸への供として姫様の侍女を選ぶという話が出たとき、葵は迷わず手を挙げた。五年おそばで見てきたこのお方が、この先どこへ向かうのかを、見届けたかったのだ。
小夜は葵より六つ年下の十七歳で、気持ちがすぐ顔に出る娘だった。葵と同じ家の出で、子どものころからの顔なじみだったから、互いの気性はよく分かっていた。
小夜が姫君様に仕えるようになったのは、去年のことだ。初めてお目にかかったときの印象は、正直に言えば「なんて綺麗な姫様だろう」だった。白い肌。黒く長い髪。品のある身のこなし。かわいらしい顔立ち。
けれど三日もしないうちに、その印象は変わりはじめた。
姫君様が書斎で何かを書いていた。帳面だった。小夜が掃除のために入っていくと、姫君様が振り返った。
「あ、少しこちらをご覧になってくださいまし。算術の問いがあって……」
小夜は恐る恐る帳面をのぞいた。数字が並んでいる。脇に添えられた字を読むと、「金銀比率の差によって発生する流出量の試算」と書いてあった。
「これは……」
「開港してからの金の流出の量を、見積もったものでございます。横浜の商館の記録から集めてみたのですけれど、数字の確かめをしてほしいのでございます」
「……すみませぬ、姫君様。小夜には、難しくて」
「そうですか。どうか、お気になさらないでくださいまし」
姫君様はそれ以上何も言わず、また帳面に向かった。小夜はそっと部屋を出た。廊下に出てから、思った。
(……この姫様は、いったい?)
三 船旅――葵の見たもの
江戸へ向かう船旅が始まった。南海路を行く、長い旅だった。
艫矢倉の窓から見える海は広かった。空との境が、どこまでも続いている。京では見たことのない景色だった。その広さを眺めながら、葵は、この旅が自分の生涯を変えるかもしれないと感じていた。
船旅のあいだ、姫君様のそばに仕えながら、葵はさまざまなことを改めて見ていた。
まず気づいたのは、やはりこのお方はふつうの公家の姫君ではない、ということだった。公家の姫君は、大事に大事に守られている。食事も、移動も、身のまわりのことは何もかも人が世話をする。外の世界に触れる折は、ほとんどない。
けれど姫君様は、帳面を開いて、自分で何かを書いていた。それも、びっしりと。
「何をお書きでございますか」
葵が尋ねると、姫君様は少し笑って、「お仕事のことです」と答えた。
公家の姫君が、お仕事? しかも、このお歳で?
不思議に思いながら、帳面の中を少しだけのぞいたとき、葵は目が離せなくなった。数字が並んでいた。商いの記録のようなものがあった。異国の言葉らしきものがあった。そして、何かの計画のようなものがあった。
葵には、意味のすべては分からなかった。それでも、これほどの中身をこの歳でこれほど緻密に書いている人がいることに、ただただ驚いた。
小夜は遠くからその帳面を眺めて、葵に小声で言った。
「葵さん……姫君様って、いったい何者なんですか?」
「姫君様は、姫君様ですよ」
「でも、あれ……」
「あれ、なんて言ったら失礼ですよ! 近衛様は、聡明なお方なのです」
「……聡明を、超えてませんか?」
葵は少し考えてから答えた。
「……わたしには、よく分かりません」
その夜、葵は一人で考えた。
(このお方は、何かとてつもない目標に向かって、全力で駆けておられるのではないかしら)
(ふつうの人は、今日のことを考える。賢い人は、来月のことを考える。このお方は、どれほど先のことまで考えておられるのだろう)
(その遠さの違いが、変わっている、と見える理由なのかもしれない)
そう思い至ったとき、葵は少しほっとした。変わっているのではなく、遠くを見ておられる。ふつうのお方ではない、という意味では同じでも、その向きはまるで違っていた。
四 船旅――小夜の疑問
ある夜、姫君様が艫矢倉の窓から海を眺めながら、何かつぶやいていた。
「……インフレ率を考えると、金銀比率の問題は三段に分けて……」
小夜が葵の袖を引いた。
「葵さん……姫様が、何か言っています」
「聞こえています」
「あれは……日本語ですか?」
「日本語だと思いますけれど……」
「意味は分かりますか」
「……ところどころは」
「わたしには、ぜんぜん……」
小夜は心配そうに姫君様を見た。
「もしかして……姫様のおつむは、大丈夫なのでしょうか?」
「小夜さん」
「はい」
「そういうことを言ってはいけません」
「はい。すみません……でも」
小夜は声をひそめた。
「葵さん、姫様のおつむの中に、何か別のものが入っていると思いませんか」
「……思いません」
「本当ですか」
「……思わないようにしています」
葵は、それ以上答えなかった。
海風が艫矢倉の窓を吹き抜け、姫君様の垂髪を揺らした。その横顔は穏やかだった。何かを考えながら、それでいて穏やかに、海を見ていた。
(インフレという、わたしにも分からない言葉を、姫君様は小さなころから使っておられた)
葵は思い出していた。
(何年も、ずっと学んでこられた。英語も、蘭語も、ほかの学問も。それが全部、今、頭の中で動いているのだろう)
(得体が知れないのではない。ただ、わたしには追いつけないほど速く、遠くを駆けておられるだけなのだ)
五 品川の朝――江戸に着く
船が品川に近づいた朝、姫君様は艫矢倉の窓から江戸のほうを見ていた。
晩秋の朝霧の向こうに、江戸の町の輪郭が見えていた。霞の中に、松の緑が点々と浮かんでいる。水鳥が一羽、海面すれすれを飛んでいった。
葵は少し離れたところから、姫君様の後ろ姿を見ていた。小柄な後ろ姿だった。垂らした黒髪が、海風に少し揺れている。
それなのに、その背中が大きく見えた。体は小さい。けれど、その在り方が大きかった。朝霧の中に、小さな後ろ姿がくっきりと立っていた。
(このお方について江戸まで来て、良かった)
葵はそう思った。
小夜が隣に来た。
「葵さん……江戸、怖いです」
「大丈夫ですよ」
「旭狼衛の方々が守ってくださると言っても……やっぱり怖いです」
「小夜さん、姫君様を見てください」
「はい」
「姫君様は、怖そうに見えますか」
小夜は、姫君様の後ろ姿を見た。
「……怖そうには……見えません」
「怯えていらっしゃいますか」
「……いいえ」
「では、わたしたちも怯えている場合ではありませんね」
小夜は少し考えた。
「……でも葵さん、姫君様は怖くないのではなくて、怖くても、それを超えるものをお持ちなんですよね?」
「……そうですね」
「葵さんが前におっしゃっていた、目指しているものが大きいから、ですよね」
「……そうです。小夜さん、よく覚えていますね」
「葵さんの言葉は、大事ですから」
葵は少し照れた。
船が岸に近づいていた。霧の向こうに、江戸の町が広がっていた。
六 品川宿から江戸へ――小夜の記憶
品川に上がってしばらくして、一行は江戸へ向かう道を進んでいた。
旭狼衛が前後を固め、上駕籠には姫君様が乗っている。葵と小夜は、列の中ほどを歩いていた。晩秋の道の両脇に町家が並び、人々が一日の仕事を始めている。どこかから、飯を炊く匂いがした。
あの日は、空が少し曇っていた。何ひとつ変わったところのない、ふつうの道中に見えた。
けれど。
「止まれ!」
近藤殿の声が飛んだ。
小夜の足が、思わず止まった。
その瞬間、人が湧いて出た。
四方から。
辻の陰から。
路地の奥から。
町家の中から。
刀を抜いた男、槍を持った男。武装した男たちが、次々と現れた。
小夜の頭の中が、真っ白になった。
(死ぬ)
(死んでしまう)
(こんなところで死ぬのは嫌)
それだけが、頭に浮かんだ。
二十六人の武装した男に囲まれていたのだと、後で聞いた。けれどそのときは、数えるどころではなかった。ただ、たくさん、たくさん、いた。刃が光っていた。
「上駕籠を降ろせ!」
近藤殿が命じた。庄吉さんが素早く上駕籠を地面に降ろし、その瞬間、何もかもが一斉に動きだした。
旭狼衛の皆さんが、一斉に刀を抜いた。金物が空気を裂く音が、そろって鳴った。その音が稲妻のように小夜の全身を打ち、足が動かなくなった。
(どうしよう。逃げる? 逃げられない。隠れる? どこに?)
気づいたときには、地面に座りこんで、自分の体を両腕で抱えて震えていた。いつそうなったのかも分からなかった。
恥ずかしかった。葵はそばに立っていた。震えてはいなかった。それがまた、恥ずかしかった。それでも、足は動かなかった。
そのときだった。
「助さん! 角さん! やっておしまいなさい!!」
大声が聞こえた。姫君様の声だった。
小夜は思わず顔を上げた。
姫君様が上駕籠のそばに立っていた。まっすぐ前を、刺客たちのほうを見ていた。怖がってもいなかった。
(な、なんでこんなときに、そんな大声を? この人、頭がおかしい……)
小夜は、その瞬間、本気でそう思った。自分たちが死にかけているのに。大勢の武装した男に囲まれているのに。大声で「やっておしまいなさい!!」と叫んでいる。
しかも、叫んだのが「助さん! 角さん!」だ。
助さん? 角さん? 誰ですか、それは。
この状況で、いもしない人間に呼びかけている。刺客たちまで、一瞬動きを止めていた。
(あの人たちも、戸惑っていた。そうですよね。あんな声を聞いたら、誰だって戸惑う)
(やっぱり、頭がおかしい……)
小夜は、そう確信した。
けれど、その「頭がおかしい声」のおかげで旭狼衛の方々が隙をつけたのだということを、小夜は後で知った。
(……つまり、姫君様はわざと?)
それが、小夜にはいちばん分からなかった。
七 品川宿から江戸へ――葵の記憶
近藤殿の「止まれ!」を聞いた瞬間、葵は何が起きているのかを悟った。
旭狼衛が動いた。刀を抜き、取り囲む輪と向き合った。葵はすぐに姫君様のそばへ行こうとした。
だが、姫君様はもう上駕籠のそばに立っていた。
落ち着いていた。二十六人の刺客に囲まれ、旭狼衛と刺客のあいだに立っているのに。その姿は、葵が不思議に思うほど揺らいでいなかった。
(姫君様は……怖くないのですか)
そう思ってから、すぐに思い直した。
(怖くないのではない。怖さを超えるものが、今このお方の中で動いているのだ)
(旭狼衛を信じておられる。今、自分が何をすべきかを考えておられる。だから、揺らいでいない)
そして。
「助さん! 角さん! やっておしまいなさい!!」
姫君様が叫んだ。
その声が響いた瞬間、刺客たちが一瞬止まるのを、葵は見た。何の声か分からなかったのだろう。取り囲んだ輪の中で、いきなり女の高い声が響いたのだから。しかもその言葉の意味が、誰にも分からない。
助さん。角さん。誰? それ?
その一瞬の戸惑いの隙に、沖田殿が飛び出した。
(姫君様は、わざと、あの声を……?)
そうとしか思えなかった。刺客の目を逸らすために。旭狼衛に、一瞬の隙をつくるために。自分の身を、その声を、囮にしたのだ。
(まさか……)
斬り合いの最中なのに、葵の目が少し潤んだ。素晴らしいと思った。怖いはずなのに。二十六人の刃が向けられているのに。姫君様は声を上げた。自分の体を使って、この場を動かした。
(わ、わたしも、姫君様を見習わなければ……)
葵は目を逸らさなかった。姫君様が逸らさないから。
旭狼衛の皆さんが動いていた。真っ先に飛び出した沖田殿が、もう二人目に向かっている。永倉殿が力で相手を崩し、原田殿が槍の使い手と渡り合い、斎藤殿が音もなく動いていた。
血が飛んだ。悲鳴が上がった。そこで葵は、とうとう両手で目を覆ってしまった。
八 決着と「助さん角さん」の謎
五分と経たずに決着がついた。
倒れた者が十数人。逃げた者が十人ほど。息のある者は縛り上げられた。
「姫様、大丈夫でしたか?」
近藤殿が姫君様に向き直った。
「大丈夫でございます」
姫君様の答える声は、穏やかだった。
沖田殿が姫君様に近づいてきた。
「姫様が大きな声を出してくれたおかげで、刺客どもの気が一瞬そっちに向いたから、隙をつけましたよ」
「それは良かった……」
「ところで姫様、助さん、角さんって誰ですか?」
沖田殿が不思議そうに尋ねた。心の底から謎だという顔だった。
「えっ、えーと……」
姫君様は目を泳がせて、必死に考えていた。
「……夢です! 夢なのです!! 夢に出てきた人なのでございます!!!」
少し赤い顔で、姫君様はもじもじしていた。沖田殿が「はあ……」という顔をした。
その姫君様を見て、葵は初めて、このお方も人なのだと思った。堂々としているばかりではない。ときどき、こんな顔もなさる。それが葵には、とても微笑ましかった。
小夜が、葵の横に来た。
「葵さん」
「はい」
「今の……夢、ですか」
「……そうおっしゃっていました」
「どう考えても、夢じゃないですよね」
「……小夜さん」
「はい」
「そういうことは聞かないのが、侍女の心得です」
「……はい」
小夜は少し考えてから、また小声で言った。
「でも葵さん……あの声に、助けられましたよね」
「そ、そうですね」
「あの声がなかったら……」
「考えないことにしましょう」
「……はい」
二人はそれ以上話さなかった。けれど、胸の中では同じことを思っていた。
(姫様が声を上げてくれたから、今ここに、わたしたちがいる)
九 江戸に着いてから――小夜の胸の内
その夜、小夜は葵に、正直に打ち明けた。
「葵さん。今日のことで、わたし、確信しました」
「何を?」
「姫様は、ふつうの人ではありません」
「小夜さん……」
「いえ、悪い意味じゃないです、たぶん。ただ……取り囲まれて、命がかかっているときに、あんなことができる人は……ふつうではないと思って」
「それは……そうかもしれません」
「葵さんは、怖くなかったんですか」
「怖かったです」
「わたしは、足が震えました。叫ぶことも、動くこともできませんでした」
「わたしもです」
「でも姫君様は、ぜんぜん平気そうで」
「信じておられたのだと思います」
「信じて?」
「旭狼衛を、信じておられた。だから、次に何をすべきかを考えていられた。そして、声を上げられた」
小夜は、その言葉を噛みしめた。
「……あんなときに、そんなことを考えられるものなんですか?」
「姫君様は、そういうお方です」
小夜は少し黙った。
「……葵さん」
「はい」
「やっぱり、ふつうじゃないと思います。やっぱり、おかしいです」
「……そういうことは、思っても口にしないように」
二人はしばらく黙っていた。一橋上屋敷の庭を、晩秋の夜風が吹き抜けていく。石灯籠の灯りが、庭の苔を照らしていた。
「小夜さん」
「はい」
「わたしは、このお勤めを選んで良かったと思います」
「………」
「はじめは怖かったけれど……今は、誇りに思っています」
「わたしは……ほんの少しだけ、そう思えた気がします。たぶん」
「たぶん?」
「まだ、怖いのも残っていますから……」
葵は少し笑った。
「それでいいのだと思います」
「葵さんは、強いですね」
「そんなことはありません。ただ、強いお方の隣にいると、少しだけ強くなれる気がするんです」
「それは、姫君様のことですか」
「はい」
小夜は窓の向こうを見た。
「……わたしは、まだ、そう思えません」
十 一橋上屋敷――日々の始まり
一橋上屋敷に入ってから、葵と小夜はそれぞれの役目に戻った。
葵は素早く動いた。どの部屋を使うか。いつ何が要るか。外からの客をどう迎えるか。慣れない江戸の、慣れない屋敷で、姫君様が動きやすいように、一日でも早く整えた。
上段の間の付書院の障子に朝の光が差しこみ、金箔の格天井がほのかに輝いていた。庭の石灯籠も光を受け、小庭の楓が赤く色づいていた。
葵は毎朝、姫君様の身支度を手伝った。
それ自体は、ふつうの侍女の勤めだ。けれど姫君様の身支度には、ふつうではないところがいくつかあった。
まず、白粉を使わない。
「姫君様、今日の白粉は」
「いりません」
「ですが、御公務の折には……」
「いりません。葵、あれには毒が入っておりますから」
「……毒?」
「鉛でできているのです。長く使うと、体を損ないまする」
初めてその話を聞いたとき、葵は少し戸惑った。白粉に鉛が入っていることは知っていた。けれど、それを毒と呼んで使わない姫君は、初めてだった。
「……かしこまりました」
次に、眉を剃らない。
「眉は、整えるだけでよろしいのですか」
「はい。剃ることだけは、ご勘弁くださいまし」
「ですが、礼法では……」
「葵、そこだけはどうしても譲れませぬ。どうしても無理なのでございます」
姫君様の顔は、珍しく真剣だった。葵はそれ以上、何も言わなかった。
小夜が、葵に小声で言った。
「葵さん、眉を剃るのをあんなに嫌がる姫君様って……」
「姫君様には、お考えがあるのです!」
「でも……なんだか……」
「小夜さん」
「はい」
「余計なことは考えないようにしましょうね」
「……はい」
小夜は毎朝、そこで話を打ち切ることにした。
江戸の暮らしは、少しずつ二人の日々になっていった。万次郎殿の笑い顔。村田殿の落ち着いた顔つき。松屋善兵衛殿の、商人らしい愛想の良さ。近藤殿の真剣な眼差し。土方殿の鋭い目。沖田殿の、どこかのんびりとした空気。
それぞれの人が、姫君様のまわりに集まっていた。そしてその誰もが、姫君様を中心に動いていた。
十一 糸子の帳面――葵だけが見たもの
ある夜、葵は姫君様の帳面の一部を、たまたま見てしまった。
姫君様が席を外したほんの一瞬、開いたままの帳面が目に入ったのだ。行灯の光に照らされて、字がはっきりと見えた。見てはいけないと思った。けれど、目が動かなかった。
そこには、込み入った計算が書かれていた。数字と、何かの記号と、日本語と英語が入り混じっている。葵には、全部は読めなかった。けれど一文だけ、はっきり読める日本語があった。
対等な条約を結ぶこと。それが、百年後のこの国への贈り物となる。
葵はその一文を読み、その意味を呑みこんだ。
(このお方は、百年後のことを考えておられる……?)
葵の胸の中に、何かが生まれた。言葉にしにくい気持ちだった。尊敬とも、畏れとも違った。
(わたしは今、とんでもないお方のおそばにいるのかもしれない)
その帳面には、もう一文、目に入ったものがあった。
この仕事は、誰かがやらなければならない。だから、私がやるほかない。
その一行を読んで、葵は目の奥が熱くなった。
(誰かがやらなければならない。だから、わたしがやる……)
このお方は、大きな使命に燃えて動いているのではなかった。やらなければならないことがあって、自分はそれをやれる立場にいる。だから、やる。その単純で、けれど深い理由で、すべてを背負おうとしていた。
姫君様が戻ってきた。葵は素早く目を逸らした。
「葵、何かありましたか」
「いいえ、何も」
「そうでございますか」
姫君様は、それ以上何も言わなかった。けれど、葵が見たことを、姫君様は気づいていたのかもしれない。
それから葵は、姫君様を少し違う目で見るようになった。
(わたしには、あの帳面の全部は分からなかった)
(でも、このお方がやろうとしていることが大切なことだというのは、分かった)
(だから、このお方のおそばにいよう)
それが、葵の心に決めたことになった。その決意は、それから先もずっと変わらなかった。
十二 小夜の怖れ――「この人は、ぜったいおかしい」
一橋上屋敷での暮らしが始まって一週間ほど経ったころ、小夜は葵に打ち明けた。
「葵さん、正直に言ってもいいですか」
「何でしょう」
「やっぱり……姫君様のことが、少し怖いんです」
「どんなふうに怖いのですか」
「……見た目はとてもお綺麗で、お優しくて、おかわいらしい方です。でも……中身が、その、な、なんだか、得体の知れない感じがするんです」
「それが、姫君様の聡明さなのだと思いますけれど」
「その聡明さを、超えていると思うんです、わたし」
葵は少し黙った。
「……小夜さん、正直に言いますと」
「はい」
「わたしも、ときどき、同じ感じになります」
「やっぱり!」
「ただ、わたしは悪いお方だとは思いません。姫君様は、この国のことを本気で考えておられます。その目的のために、持てるものを全部使っておられる」
「でも葵さん、それにしたって……あの独り言とか、あの帳面とか……」
「……そこは、気にしないことにしましょう」
「……えぇ……」
小夜は少し考えてから、また口を開いた。
「葵さん、一つだけ聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「帳面に、百年後のこの国のために、みたいなことが書いてあったんですけど……葵さんも見ましたか」
葵の動きが止まった。
「……見ました」
「葵さんも……!」
「小夜さんも、見ていたんですね」
「ちょっとだけ……。ふつうの姫君が、あんなことをお書きになるんですか?」
「だから、それが姫君様なのです!」
二人は少し笑い合った。廊下を、晩秋の夜風が吹き抜けた。
「……葵さんは、あれを見て、どう思いましたか」
「このお方の隣にいることには、意味があると思いました」
「わたしは……正直に言うと、よく分からないです」
十三 ハリスとの会談――二人が見たもの
ハリスとの会談の日、葵と小夜は御簾の両脇に控えていた。
会見の間は、張りつめた空気に満ちていた。日本側の役人たちも、ふだんとは違う顔つきをしていた。
会談のあいだじゅう、葵は姫君様の様子をうかがっていた。
姫君様は、はじめの長いあいだ、一言も発しなかった。ただ、聞いていた。
外からは分からない。けれど葵には、御簾の向こうで姫君様がすべてを掴みながら、じっと見ているのが感じとれた。
(ハリスという人を見ておられる。今日の会談の流れを掴んでおられる。そして、いつ動くかを見定めておられる)
その見定めている気配が、葵には分かった。品川の辻で感じた、次に何をすべきかを考えている気配と、同じだった。
小夜は、隣に控えながら、少し身を硬くしていた。
「Mr. Harris.」
姫君様の一声が響いた瞬間、小夜がびくりとした。
葵は、その声の質を感じとった。
(落ち着いている。すっかり落ち着いておられる)
あれだけの場で、あの声が出せるのだ。
会談は進んだ。英語が飛び交った。葵には英語は分からない。けれど、姫君様が話すときの声の調子や間の取り方、そして座の空気の変わり方は分かった。
ハリスという人が、少しずつ追い詰められていく。それが、空気で分かった。
小夜が、葵の袖をそっと引いた。
「葵さん……姫君様、今、何をなさっているんですか」
「交渉です」
「ものすごく難しそうな」
「そうです」
「姫君様は……大丈夫なんですか」
「大丈夫だと思います。姫君様は今日のために、長い年月をかけて支度をしてこられました。それが分かるから、大丈夫だと言えます」
小夜は、その言葉を聞いていた。
「……葵さんは、本当に姫君様を信じているんですね」
「はい」
「わたしも……信じたいんですけど……」
「そこは、自分の歩みでいいと思いますよ」
「はい……」
小夜は、少し背筋を伸ばした。
十四 「おほほほほーーー」
会談が終わったあと、幕府の役人が姫君様に何かを確かめていた。
「イギリスは、本当にそのようなことを……」
「わたくしが『お聞きした』話では、そのようなことでしたけれど。もしかしたら、間違っているかもしれませんわね」
そして。
「おほほほほほほーーーーーーーー」
姫君様が笑った。
役人が固まった。葵も、少し固まった。
(えーと、今の笑い声は……)
葵には、その笑いの意味が分かった。
(姫君様のイギリスのお話は、嘘……?)
葵は、なんとなくそう思った。けれど、何も言わなかった。言う立場でもなかったし、言う必要もなかった。結果として、あの会談は上手くいったのだ。それで十分だった。
小夜が、葵に小声で言った。
「葵さん……今の笑い声は」
「笑い声ですよ」
「なんだか……ものすごく怖かったです」
「……少し、凍りつきました」
「やっぱり!」
「でも、姫君様はこのために戦っておられるのです。何もかも、この国のために。その手立てに、わたしたちが口を挟むことではありません」
「……はい」
小夜は少し考えてから、言った。
「葵さん」
「はい」
「やっぱり姫様は、得体の知れないお方ですよ」
「……そうかもしれません」
「でも、今日、すごいお方だと思いました!」
「……そうですね」
十五 会談のあと――小夜の変化
姫君様が戻ってきたとき、小夜はお茶を用意して待っていた。
「お帰りなさいませ、姫君様」
「ただいま」
茶を受け取った姫君様の顔は、少し疲れていた。小夜が初めて見る顔だった。
「……お疲れでしたか、姫君様」
「少し」
「……会談は、上手くいきましたか」
「んー、少しだけ、上手くいったかと思いまする」
「……姫君様、お一人で?」
「まさか。いろんな方に助けてもらいながらでしたよ。でも、主には……そうかもしれない?」
小夜は、少し固まった。
「……すごいですね、姫君様。何年もかかったのかもしれないですけれど、それでも今日、日本が少しでも良いほうに変わったんですよね」
「そうだと、良いのですが……」
「はい。小夜にはよく分からないことですけど、姫君様はやってのけた! って、少し思いました」
小夜の目が、少し潤んだ。
「……なんだか、すごく遠い人みたいで」
「遠い?」
「でも、遠くて、すごくて……それでも、姫君様のおそばに少しでもいたいと、思えるようになった気がします」
姫君様は、少し笑った。
「……それは、どういう理屈でありましょうや?」
「理屈じゃないです。感覚です。たぶん……」
「小夜は、感覚で生きているのでございますね。わたくしには、それがなかなかできませぬ」
「……姫君様にも、できないことがあるんですか」
「たくさんありまする。わたくしは、感覚では動けませぬ。頭で考えてばかりでございます。ときどき、疲れます」
「……姫君様でも、疲れるんですか?」
「疲れまする。今日のような日は、とくに……」
小夜は姫君様を見た。本当に疲れている顔だった。
「……あの」
「何でございますか?」
「甘いものを、お持ちしましょうか。葵さんと一緒に、もしものときのために用意してございます」
「……あるのでございますか?」
「はい」
「小夜。ぜひ、持ってきてくださいまし」
小夜が、用意しておいた甘いものを運んできた。姫君様はそれを口にして、その顔が少しだけ緩んだ。
「……おいしい」
「よかったです」
「本当においしい。おおきに、小夜」
小夜は深く頭を下げた。
「……これからも、おそばにいていいですか」
「あなたは、わたくしの侍女でございましょう? どうして急に、そのようなことを?」
「……姫君様に甘いものを食べてもらえたのが、嬉しかったんです」
「……そうでございますか」
「はい」
「これからも、励んでくださいまし」
「はい、姫君様……」
小夜の目が、また少し潤んだ。
十六 ハリスが去る日――葵の胸の内
ハリスが帰国する日、葵と小夜は姫君様の身支度を手伝っていた。
いつもどおりの身支度だった。白粉は使わない。眉は整えるだけ。椿油で垂髪を整える。
けれど、その日の姫君様は少し違っていた。
「葵」
「はい、姫君様」
「疲れましたよ」
葵の手が止まった。姫君様が自分に「疲れた」と言うのを、葵は初めて聞いた。
「お休みになりますか?」
「少し……そうします」
葵は茶を用意し、漆塗りの盆に白磁の茶碗をのせて差し出した。姫君様は両手で受け取り、一口飲んだ。
その横顔が、今日は少し違って見えた。いつもは前を向いている目が、今日は少しだけ遠くを見ていた。
(お疲れなのだ)
葵は思った。
(当然だ。今日まで、どれほどのものを背負ってこられたか)
(船旅のあいだも、ずっと帳面を書いておられた。江戸に着いてからも、ずっと動いておられた。刺客に襲われても、揺らがなかった。メリケンの総領事を相手に、全力で戦われた)
(そしてようやく、少しだけ「疲れた」とおっしゃれたのですね)
葵は静かに頭を下げた。
「ゆっくりお休みくださいませ、姫君様」
「葵、小夜」
「はい」
「二人がいてくれて、良かった。かたじけのう存じます」
その言葉が、葵の胸に届いた。小夜の目が潤んだ。
「はい、姫様……わたしこそ……。こ、これからも、よろしくお願いします」
小夜が、少し勢いこんで言った。
葵も、深く頭を下げた。
「はい。姫様がいらっしゃる限り、わたしはずっとおそばにおります」
姫君様が、少し笑った。「おほほほほ」ではなかった。静かで穏やかな、本物の笑みだった。
その笑みを見て、葵の胸が温かくなった。
十七 二人の決意
その夜、葵と小夜は廊下で話していた。
庭に面した廊下だった。春の夜の庭が、静かに広がっている。石灯籠の灯りが苔の上に落ち、遠くで鐘が鳴った。松の影が、庭に長く伸びていた。
「小夜さん」
「はい」
「姫君様のこと、正直に聞かせてください」
「はい」
「怖いと思っていますか」
小夜は少し考えた。
「……はい。正直、まだ少し」
「何が怖いのですか」
「……得体の知れなさです。あの帳面とか、あの独り言とか、あの『やっておしまいなさい』とか、あの笑い声とか……」
「はい」
「あと……姫君様が、ときどき遠くを見るときの目が。あの目の奥に、わたしには見えない何かが見えているんじゃないかと思うと……」
「それでも、ついていきたいと思いますか」
小夜は少し間を置いた。
「……はい。できるだけ」
「どうしてですか」
「……怖いけれど、悪いお方じゃないのかな、というのが一つ。それと、姫君様が目指しているものが、この国のためになることだと……少しだけですけど、分かった気がしました。わたしには全部は分からないけれど、姫君様の進む方向は正しいのかな、ということだけは……」
葵は頷いた。
「わたしも、同じです」
「葵さんは、怖くないんですか」
「わたしは、姫君様のことを怖いとは思いません」
「本当に?」
「あの『おほほほほ……』を、除いては……」
「そうですよね!! やっぱり!!」
二人は少し笑った。廊下を、春の夜風が吹き抜けた。
「でも」
葵が言った。
「姫君様のおそばにいることで、わたしたちは、とんでもないお方の隣に立てているんだな、とは思います」
「百年後のこの国のために、というお言葉……忘れられませんね」
「わたしもです」
「あの言葉を書いたお方のおそばにいるって、すごくないでしょうか」
「そうですね」
「だから、これからも、あのお方のお世話をしていきたいと思っています。できる限り……」
葵は頷いた。
「わたしも、あのお方のおそばを離れたくはありません。いつまでも……」
二人の目が、上段の間のほうへ向いた。行灯の光が、障子越しに漏れていた。
その向こうで、姫君様は今夜だけは何も考えずに眠っているのかもしれない。あるいは、また帳面を開いているのかもしれない。
葵には、どちらでもよかった。そこに姫君様がいる。それで十分だった。
「葵さん」
「はい」
「姫君様って、幸せなんでしょうか?」
葵は少し驚いた。
「それは……どういう意味ですか」
「ずっと難しいことを考えて、戦って、疲れておられる。まわりの人は姫君様に感謝しているけれど、姫君様ご自身は幸せなのかな、と思って」
葵はその問いを受けとめて、しばらく考えた。
「……わたしには、分かりません」
「そうですか」
「でも、帳面を書いているときの姫君様は、楽しそうに見えます。思案しているときも、何かを企てているときも。会談で言葉を戦わせているときも、生き生きとしておられました」
「そうですね」
「だから、姫君様がなさっていることは、姫君様ご自身にとっても、意味のあることなのだと思います」
「意味のあることは、幸せなんでしょうか?」
「……少なくとも、不満がおありだとは思えません」
小夜は少し考えた。
「……葵さん」
「はい」
「姫君様のこと、もっと知りたいです。怖いけれど、得体が知れないと思ったけれど、今はこのお方のことをもっと分かりたいと、少しだけ思います」
「そうですね。ずっとおそばにいれば、少しずつ分かるかもしれません」
葵は頷いた。
「だから、あのお方のおそばにいましょう。これからも……」
「はい」
「でも葵さん、最後に一つだけ聞かせてください」
「何でしょう」
「助さん角さんって、結局、誰なんでしょう?」
「……小夜さん」
「はい」
「そういうことは聞かないのが、侍女の心得です!」
「……はい、反省します」
小夜は少し考えてから、言った。
「葵さん、これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
廊下を、春の夜風が吹いた。行灯の光が、障子越しに漏れ続けていた。
その向こうで、姫君様は今夜も何かを書いているのかもしれなかった。
二人はその光を見つめながら、静かに微笑んだ。
第五十八話 了
この後、陸奥騒動京編と江戸編をかいたのですが、余りにもつまらなかったのでボツにしました。
機会があれば、また再チャレンジして執筆したいとおもいます(^^;
1日休んで…多分再開は月曜日から?になる???と、多分おもいます………( ̄  ̄;) うーん




